2011年6月26日日曜日

第35回現代俳句講座(講演:川名 大)前編


戦後俳壇史と俳句史との架橋、そして切断
川名 大
(日時:平成23年6月11日、場所:東京都中小企業会館/文責:大畑 等)

川名 大 氏



 





大畑注 ※は既成の概念が先行している句として、川名氏が俳句史上評価しない句。※※は季題趣味の句として、川名氏が評価しない句。

ご紹介に預かりました川名でございます、よろしくお願い致します。長々しい題を付けましたが、端的に言いますと、俳壇史は俳句史とは違う、最終的には俳句の表現史へ収斂されていかねばならない、というのが私の考えでございます。
 
俳壇史は様々なものが絡まった複合体でありまして、時代や思潮、流派・派閥、俳句運動、人物交流などで書かれています。一方俳句史とは三好行雄の文学史の概念に沿うものであります。すなわち「文学研究は文学史の大系によって完結する認識の純粋運動である(略)文学史という歴史学の一つの系としてのみ、文学研究ははじめて成立する。」

今までの俳句史を振り返りますと、松井利彦、楠本憲吉、山本健吉、村山古郷などの立派な方々の御著書がありますが、多くは純粋な俳句史を辿ったというものではなく、俳壇史と俳句史とが絡まって書かれていると思います。
 
どのような分野でも同質化と差別化がありまして、覇権を握ったあるグループ(流派)が同調しない異質なものを排除していく、そのような傾向があります。俳句もまた同じでして、覇権を握ったもの(勝ち組)の視点でもって俳壇史が時系列で書かれている、通俗的な俳句史もまた、同じです。俳句史の概念を言いますと、類型的な俳句に対して、差異化の著しい俳句、一人一人の自立した俳句作品(別の言葉で言えば新風になりますが)を時系列で把握して記述していく、そういうことになると思います。

それでは自立した作品とは何かということになりますが、それは「本質的な作品は作者自身にも捉えにくいものを書こうとする。既成の言語の用法による既成の思想、観念ではない語りえぬもの」(湯浅博雄)を捉えていこうとする、そういう作品ということになります。

作品というのは、本来、表現(シニフィアン)と内容(シニフィエ)が一体化していているものなのですが、それが往々にして既成の内容(概念)が先にあって、表現の役割が果たしていないような作品があるわけです。昭和21年に山本健吉の「挨拶と滑稽」、昭和39年の飴山實の「戦後俳句批判」は、ともに作品というものは表現と内容が一致していないといけないということに触れています。特に飴山實さんはそういう視点を中心にして、戦後の革新的な俳句、社会性俳句を批判していったわけです。


【昭和20年代】

その視点から、では昭和20年代というのは、どういう時代だったのかということを見てみます(私はそのころ小中学生でして、この頃のことは追体験ということになります)。
GHQによる民主化政策と政策転換(右傾化、レッド・パージ)がありました。したがって政治的に激しい時代だったわけです。民主化・革新勢力と保守勢力の間で覇権争いがありました。そういう政治の動きを反映して、昭和20年代の終わり近くに、楠本憲吉たちの「揺れる日本」という社会的な素材だけを集めた俳句特集や、大野林火の社会性俳句の特集が組まれ、社会性俳句が運動として盛り上がったわけです。この人たちは戦後俳人と言われまして、大正後期生まれの俳人達、当時の30代作家の人たちが中心となりました。

しかし急速に金子さんたちの運動が盛り上がったわけではありません。中村草田男が「芸と文学」を「万緑」の創刊号に書き、句集『銀河依然』が出されます。この句集は五七五の定型を破った散文的な傾向の多い作品集です。たとえば「浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」」があります。跋文には、表現と内容が一体化しなければいけない、と書かれているにもかかわらず、内容が強く出ている作品が多いのです。これに対して30代作家の沢木欣一さんや金子兜太さんたちが、割合甘い評価をしています。草田男のやっていることは果敢な俳句作りで良い、俳句の可能性をはらんでいる、と肯定的な評価をしています。

社会情勢や俳壇情勢と絡んで、社会性俳句が生まれてきました。良い評価を与えられ、その代表句とされている句を見てみます。

白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ  古沢太穂 ※

最初から意味内容・概念が明確に用意されていて、それを後から言葉が追いかけているように思います。「内灘」は米軍基地反対闘争の石川県内灘村のことです。「白蓮白シャツ」は闘争の団結や純粋性を最初から想定して作っていると思うのです。


 戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ  原子公平 ※

この句は金子兜太さんに「川名の読みは意地悪な読みで、違うじゃないか」と言われたのですが、私の読みを紹介します。戦争によって瓦礫と化したなか、戦後の空に向かって力強く伸びていく青蔦を詠んでいますが、戦後復興を最初から既成の概念として頭の中に入れておいて作っていこうとするように思えます。

今、社会性俳句を取り上げましたが、社会性俳句運動のなかで作られた作品も、運動から切り離して、直接作品に向き合って、一句として言葉の力が十分に発揮されている新風の句なのかどうか見分けながら、作品史を組み立てていかなければならないのです。

三橋敏雄さんの

いつせいに柱の燃ゆる都かな  三橋敏雄

この句は、三橋さんの社会性俳句の大きな功績の一つと思います。三橋さんは戦争中、「戦火想望俳句」という日中戦争に取材した作品を作って、山口誓子に非常に誉められました。しかし三橋さんは、その作品は一過性のものであって、日中戦争に限られた作品に終わっていると思ったのです。この句は、ある特定の時空間に縛られない、普遍性のある句を目指したもので、東京大空襲を見せない、隠した作り方です。

多くの俳人、特に伝統的な俳人は視覚で捉えたもの、写実句が多いのですが、富澤赤黄男という人は、戦前からあった隠喩を使って象徴的に詠みました。

 軍艦が沈んだ海の 老いたる鴎     富澤赤黄男
  切り株はじいんじいんと ひびくなり  富澤赤黄男

 「老いたる鴎」に戦後まで生きのびて年老いた赤黄男自身を重ね合わされています。
また戦没者への鎮魂の句となっています。

  
霜の墓抱き起されしとき見たり  石田波郷

この頃肺結核で亡くなる方が多かったのですが、境涯俳句で言いますと、波郷は草田男、楸邨などの人間探究派の作り方-季語の象徴化-を踏襲しています。「霜の墓」は単なる季語ではなく、死を象徴化しているわけです。


 暗闇の眼玉濡さず泳ぐなり  鈴木六林男

これは高野さんが解説してくれましたので省きます。


炎天の遠き帆やわがこころの帆  山口誓子
猟夫と逢ひわれも蝙蝠傘肩に   山口誓子 ※

炎天の句は宜しいとして、「猟夫と逢ひ」の傾向の句は誓子のウイークポイントになっていると思います。「土手を外れ枯野犬となりゆけり」の句も同じですが、読者に心理的な屈折の面白さを読みとらせようとしています。猟師の鉄砲を見て蝙蝠傘を肩にする、最初から落としどころというか屈折、心理的なメカニズムを用意しています。それは鷹羽狩行さんのお得意の「見立て」の句につながっていくのだろうと思います。つまり「見立て」の句も最初から詠もうとするものを、いかに「見立て」て作っていこうとする技術が目的化していると思います。


壮行や深雪に犬のみ腰をおとし  中村草田男

「草田男の犬論争」がありました。芝子丁種が傍観していると難癖をつけたものです。
単なる傍観というよりは、壮行に同調できない批判的な眼があると読んだほうがよい、と私は思います。


天つつぬけに木犀と豚にほふ  飯田龍太

龍太が田舎に住んでいて、自分の嗅覚によって木犀の香り高い匂いと卑俗な豚の匂いを捉えたもので俳諧味を出そうとしたものではありません。

しぐるるや駅に西口東口    安住 敦 ※※

この句は名句とされていますが、季題趣味的な傾向と私は思います。龍太の句のほうが新風と思います。季題趣味については山本健吉さんが「挨拶と滑稽」のなかで厳しく言っています。「時雨」という言葉は平安朝時代以来の手垢のついた言葉、概念が規定されている言葉であって、それ(季題の情趣)にふさわしいに内容を取り合わせて作っていく、これは技術主義であって新風にはならないのだ、と山本健吉さんが言っていますが、平成俳句につながっていくものです。


山国の蝶を荒しと思わずや  高濱虚子

虚子の蝶は山国に行ってはじめて自分の目と感性で、荒々しい蝶を捉えた、蝶を洗い直して捉えていると思います。


 桔梗や男も汚れてはならず  石田波郷  ※※

桔梗の純血、純粋につながる情趣をなぞるもので安住敦と同じ季題趣味の作り方と思います。(後編へ続く