松澤 龍一
LADY IN SATIN(Columbia CS8048) |
これはジャズでは無い。ジャズでは無くても優良なボーカルのアルバムかと言うと、そうでも無い。ビリー・ホリデイが世に残した傑作の一つでも無い。LADY IN SATIN 、ビリー・ホリデイの最後のレコードとされているものである。これをレコードとして記録し、世に出す必要があったのか疑う。それほどまでに、このビリー・ホリデイはひどい。Ray Ellis と言う人の編曲で、弦楽器を中心としたバンドをバックにバラードを唄っているが、声はしゃがれ、元々無かった声量もさらに衰え、声が最後まで伸び切らず、彼女独特のビブラートも掠れてしまっている。曲はほとんどが、どこか演歌風だ。最初の曲 I'm a Fool to Want You など直訳すれば「あなたを求める愚かな私」である。
これは単独で聴いてはいけないレコードだと思う。ベニー・グッドマンの専属歌手としてデビューし、テディ・ウィルソンや彼女自身のバンドで、レスター・ヤングのテナーをバックに唄い、デッカでの数々の名演の録音を経て、コモドアの「奇妙な果実」に到る、この彼女の歩みを聴いたたことのない人は、聴いてはいけないレコードである。彼女が最初に録音したのは1933年にベニー・グッドマン楽団で唄った Your Mother's Son-in-Law と言う曲。これに溢れる躍動感、若々しさは感動的だ。ビリー・ホリデイ、18歳の時である。この LADY IN SATIN の録音は1958年。最初の録音からたかだか25年が経ったに過ぎない。最初の録音の Your Mother's Son-in-Law と聴き比べると、この25年間に彼女の身に起こったことすべてが、この LADY IN SATIN の歌のひとつひとつに刻み込まれていることが分かる。背筋がぞっとしてくる。LP両面を聴き通すのが辛い。彼女の悲惨な生涯を映画とか他の媒体で演じられることがある。私はそれらの一つも見たり聴いたりしたことは無い。残された彼女の歌が、彼女の声が、彼女の息づかいが彼女の44年の生涯のすべて語ってくれている。(正確に言うと LADY IN SATIN は彼女の最後のレコードでは無い。その後で、Billy Holiday とだけ題されたレコードがあった。ただし、これは非売品だったと思う。)
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追加掲載(120104)
ビリー・ホリデイの最後の録音とされているもの。声の衰えが痛々しい。