2011年2月27日日曜日

楽屋口から(1)

土屋 秀夫


イッセー尾形さんの一人芝居


アメリカ映画を見ているとタイトルロールにストーリー誰々とあった後、ダイアローグ誰々などと出てくる。映画ではストーリーとそれを台詞に落とし込む脚本家が分業体制で作っている場合が多い。脚本は小説のような内面描写がない代わりに会話が台詞として書かれている。結局映画や演劇は台詞のやり取りを通して人間関係を軸に進んでいく。イッセー尾形さんの一人芝居では当然ながら相手役は見えないが、イッセ―さんの台詞とアクションで相手の姿が浮かび上がってくる。イッセーさんに脚本はあるのか聞いたことは無いが、まずはストーリーを組み立てた上で、少なくとも自分の台詞を書いた脚本はあると思われる。その上でイッセーさんの頭の中には相手役の台詞が明確にイメージできているのだろう。一人で話しているのに観客には会話が聞こえてくるのはそういう訳だ。イッセーさんは最大で原作、脚本、相手役を含む二役をこなしているのだ。これは一種の天分なので、簡単にまねのできることではない。弱さ恥ずかしさ、しぶとさといったペーソスを内に秘めたイッセーさんが描くのはどこか世間から疎外されている愛すべき隣人だ。<異動を内示されたサラリーマンが帰宅し、妻に打ち明ける話>、<施主が言いたいこともいえないで大工の棟梁の言いなりになる話>、<半分ハンガーという商品を売り込むセールス術を指南する男>、<ストリップの幕間に出てくる老芸人>、<文化サロンの胡散臭いベレー帽の理論家>。
テーマは人間関係だ。優越感、劣等感、あるいはその裏返し。組織人たらんとして出来ない人。家族の絆を何とか保とうとして体裁を取り繕う人。他者との関係の中で生きていかざるを得ない現代人。職場、学校、サークル、あらゆるところで生まれる人間関係は絡み合い決裂し、よじれながらも再生していく。そんな姿を典型的に浮き彫りにしていく。それがイッセー尾形の一人芝居の魅力になっている。