2011年2月20日日曜日

季語の背景 (1・人日)-超弩級季語探究

小林夏冬


人日   

一月七日を人日という。そんなことは改めていうまでもなく、大概の人はご承知だが、なぜ一月七日を人日というのか、それを調べようと思うと案外大変だ。私の手元にある『荊楚歳時記』は、金渓熊の校注になるものと、元文二年巳首夏刊、大阪心斎橋筋唐物町、北田清左衛門版の二種類で、いずれも国会図書館所蔵のものを複写した。ただ、北田版は金渓熊校注のものと同一で、王謨の後書きが欠けているところだけ違う。『漢籍解題』で調べたところ、日本に渡来した『荊楚歳時記』は金渓熊の校注になるもので、それを元文二年に大阪で和刻したものだということが分かった。だからこの二冊が同じで当然ということになる。しかし、いろいろな文献に目を通すという意味からいえば、異本がよいことはいうまでもない。『荊楚歳時記』なら、『宝顔堂秘笈』所収のものがいちばんよいのだそうで、そちらもコピーしてもらおうかと思ったが、『荊楚歳時記』だけ何種類もコピーしても仕方ないから、宝顔堂秘笈本の閲覧、複写はいまだに見送っている。

その人日の項には「正月七日為人日」【一月七日を人の日とする】として以下に、「以七種菜為羹翦綵為人或鏤金簿為人以貼屏風亦戴之頭鬢又造華勝以相遺登高賦詩」【七草で羹を作り、綾絹を切って人の形を作り、金箔を貼って飾る。また髪飾りを作って互いに贈答し合ったり、高いところに登って詩を詠んだりする】とある。登高といえば九月を考えるが、同じ登高でも春は家族や気の合う友人が、高いところに集って清遊を楽しむという、いわば踏青とかピクニックのようなもので、秋の登高とは起源や意義を異にする。

『荊楚歳時記』はさらに菫勛の『問礼俗』を引用し、「正月一日為鶏二日為狗三日為羊四日為猪五日為牛六日為馬七日為人」【正月一日は鶏の日、二日は狗の日、三日は羊の日、四日は猪の日、五日は牛の日、六日は馬の日、七日は人の日】とするのだという。これが『五雑組』になると、「一鶏二狗三羊四猪五牛六馬七人」と続いて、最後に「八穀」となっているから、八日は「穀の日」ということになる。正月八日の「穀の日」は『五雑組』『事物紀原』にも載っているが、もともと穀の日以後は後世に追加されたもので、『荊楚歳時記』には記載されていない。

ちょっと脇道に逸れる。後に補筆された八日以後については江蘇古籍出版『清嘉録』によると、「七人八穀」まではよいとして、次に「九日為天日十地為地日」【九日を天の日とし、十日を地の日とする】と続き、七日の人日以後、八穀から十日の地の日までの四日間のお天気について「人視此四日之陰晴占終歳之災祥」【人々はこの四日間、晴れか曇りかによって一年の吉凶を占う】といい、これを天気占いというが、別な説もあって「九日豆十日麦」というものもある。その校注には、「有七人八穀之説遂以九天十地付会之」【七日を人の日、八日を穀の日というのはまだ許せるとしても、遂には九日を天の日、十日を地の日などとこじつけた】とある。天の日(または豆の日)や、地の日(または麦の日)として占うのは、東方朔『占書』の流れによるもので、人日を例にとれば「七日占人」【七日は人を占う】ということになる。

『清嘉録』は蘇州の年中行事を記したもので、いうならば蘇州の歳事記というべきものだろう。歳時記、あるいは歳事記という意味からいえば、場所こそ違うものの『夢粱録』『帝京歳時紀勝』『燕京歳時記』『人海記』『京都風俗誌』などと軌を一にするもので、このうち何々の日が掲載してあるのは、北京の歳時を記した『燕京歳時記』で、人日のところは「初七日謂之人日是日天気清明者則人生繁衍」【年の初めの七日を人日という。この日、天気が清明なら人も草木もすくすく育つ】とあり、曇ったり雨が降ったりするとよろしくないということになる。

ほかに北京古籍出版の『帝京歳時記』は「天誕」のタイトルで、「初九日為天誕」【九日を天の誕生日とする】とあり、道教では北極星の誕生日として盛大に祝う。後から加えられたと考えられる八日以後はこの際考えないことにして、この七種類の動物がどうしてこの七種類なのか、どうしてこの順番に並ぶのか、ということは一切書かれていない。これは『荊楚歳時記』に限らず、どの文献もその内訳を明かしていない。もっとも、それをいうならば十干十二支を始め、それに類するものが、すべて理由があって選ばれ、選ばれたものが、選ばれた順序で配合してあると思うのだが、そのへんになると、どうしてそうなのかという理由はどれも分からない。

話を戻すと、一日から七日までの前項を受けて『荊楚歳時記』は次のように続ける。「正旦画鶏於門七日帖人於帳」【元旦に鶏の画を門に貼り、七日には人の形のものを貼る】といい、「今一日不殺鶏二日不殺狗三日不殺羊四日不殺猪五日不殺牛六日不殺馬七日不行刑亦此義也」【いま一日は鶏を殺さない。二日は犬を殺さない。三日は羊を殺さない。四日は猪を殺さない。五日は牛を殺さない。六日は馬を殺さない。そして七日に人を死刑にしないのはここから来ているのだ】といい、「古乃磔鶏今則不殺」【昔は鶏を磔にしたが、いまは殺さない】という。

古代は殺した鶏そのものを門に下げたわけで、それではあまりにも殺伐たるものになるから、画鶏にしたというわけだろう。画鶏というのは画に描いた鶏で、それを門に貼った。もとは鶏に似て非なる鳥なのだがここでは一応、鶏ということにしておく。その鶏を殺して門に下げ、おまえもこのようにしてやるぞと、不幸を齎す鬼を威嚇し、撃退したが、時代が下がるに従って絵に描いた鶏で代用させるようになった。それが『玉燭宝典』の「帖画鶏(中略)及土鶏於戸上」【鶏の画を貼り(中略)鶏を門に掲げる】または「割鶏於戸」【鶏を割いて門に置く】ということになる。そして荊の人は「此日向辰門前呼牛馬鶏畜令来乃置粟豆灰散之宅内云以招牛馬」【七日の夜明け、門前に牛や馬、鶏などの家畜を集め、粟や豆を撒いてこれらの動物を宅地内に招き寄せる】ということをする。

そうするのは「未知所出」【その起源は分からない】が、家畜にも元日のめでたさをお裾分けし、人間と正月を楽しむということなのか、あるいは家畜の種類と、その数の多さで富の象徴とする考えなのかも知れない。日本でも農村では牛や馬は家族の一員だったから、農耕に不可欠だった家畜に感謝するというと大袈裟になるが、動物を労わる気持ちの表れでもあり、富を誇示する気持ちの表れであっても不思議ではない。

続いて華勝についての記述に移る。この華勝、あるいは花勝は、もともと髪に花を挿したのが始まりだとする。女が髪に花を挿すのは髪飾りの起源として自然だから、その説に間違いないだろう。それが装身具一般を指すようになって櫛、簪、笄など、頭に使うものばかりでなく首飾りや腕飾り、指輪なども「華勝、花勝」に含まれるが、それは晋の御代に始まったとして、西王母の話を引いている。この西王母はいまではすっかり美化され、天女のように描かれることが多いが、もともとは『山海経』に出てくるもので異類に近い。日本でいえば足達ケ原の鬼婆ふうに髪を振り乱し、皺だらけの顔と、胸にはあばら骨が浮き出ており、裸足でいる挿絵が山海経に載っている。この西王母が盛装して周の武王を引見する話があり、この場合は当然ながら観音さまのように描かれており、それが一月七日だったところから、この日を人日というようになったという。

この人日の起源については、手元の『荊楚歳時記』のどちらにも書かれていない。しかし、華勝についてはその起源として二説を挙げている。それは「華勝起於晋代見賈充夫人典戒云像瑞図金勝之形又西王母戴勝也」【晋の宰相夫人、李氏の『典戒』に金勝の図を象ったものだといい、西王母の戴勝の像に象ったものだともいう】とする。戴勝とは華勝を戴いた図、つまり各種の装身具できらびやかに飾った形をいう。そして七日は鶏を避け、菜食するとある。そのほかには正月七日に泥で人形を作り、南に向けて立て、春を迎える宴会をする風習が楚地方にあった。これは『呂氏春秋』『淮南子』『礼記』そのほかにも立春に、天子は東の郊外に出て春を迎える行事があり、その流れが楚の国の、そのような行事になったのだろう。ただ、これは単なる推測で、文献の裏付けは確かめていない。いずれにしても天子のみならず、各地の首長が春を迎える行事を催し、儀式を終えてから宴会をすることは各種の文献にあるが、宮中行事が地方に移行する過程は、長い時代の深い霧の中に隠れてしまう。

ちょっと前のところで春の登高は踏青、あるいはピクニックのようなものだと書いた。『荊楚歳時記』「人日」の項は、終わりのほうで『述征記』『老子』を引用し、それを解説している。いわく「寿張県安仁山宋東平王鑿山頂為会人日望処刻銘於壁文字猶在」【寿張県安仁山の山頂を宋の東平王が、正月七日に人々が集まれるような場所として拓き、銘文を岩に刻んだ。その文字はまだ消えずに残っている】といい、そのことが『老子』に書かれているという。「衆人熙熙如登春台楚詞云目極千里傷春心則春日登臨自古為適但不知七日竟起何代」【人々は嬉々として春台に登った。『楚詞』には千里の先まで見渡すことが出来たので、人々は春の一日を心ゆくまで楽しんだ。春の日に高いところに登り、遥か彼方まで見渡すのは昔も今もよいもので、この楽しみをいつから七日にやるようになったのか分からない】と記されている。そして「晋代桓温参軍張望亦有正月七日登高詩」【晋の代の桓温、征西将軍だった張望という者に『正月七日、登高する』という詩がある】としているから、晋の時代にはそういう行事めいたことがあったことになる。

それに対して秋の登高は汝南に住む費長房という道士が、弟子の桓景一家に降りかかる災難を予知し、茱萸を入れた袋を肘に掛けて山に登り、菊酒を飲めば災を免れることが出来ると教えた。『五雑組』はその一節を次のように記している。「佩茱萸登高飲菊花酒相伝以為費長房教桓景避災之術」【茱萸を身につけて高い所に登り、菊の花を入れた酒を飲む。いい伝えでは費長房が桓景に災難を免れる方法として教えた】とある。桓景は自分や家族に降りかかる災難を避けるためだから、お呪いの品を身につけて山に登り、菊酒を飲んで戦々兢々として過ごす。夕方になって一家が山を下りてみると、家畜が身代わりとなって死んでおり、人間のほうは災厄を免れたという。だから春と同じように高いところに登る行為で、その名も同じ登高というが、春と秋ではその起源も性質も、まったく別な意味を持つ。

世間ではこのことがあってから、魔除けのお呪いとして茱萸を入れた袋を携帯したが、その後、この風習は長く続いた。ここに出てくる費長房は『神仙伝』『訓蒙天地弁』などにも登場する汝南に住む仙人で、『訓蒙天地弁』には「費長房ハ仙術を以て衆病を療じ、また百鬼妖怪を使ふ。後に神符失ふて鬼魅の為に殺さる」とあり、鶴に乗って飛行する挿絵がある。費長房は弟子の一家に降りかかった災難を助けることは出来たが、常に身に帯びていたご神札をなくしたため、自分が使役していた鬼に憑り殺されてしまった。

なんとなく変に思われるのは、九月に茱萸があるのかという疑問で、陰暦の九月は陽暦でいうと、十一月ころになるからだ。ところがこの茱萸は日本ふうに読むと「グミ」だが、実は「シュユ」と読むのが正しいとある。「シュユ」というのは「ハジカミ」山椒のことで、この誤読の張本人は貝原益軒だという。天下の貝原益軒も、こんなところで文句をつけられるとは夢にも思わなかったろう。そのハジカミは九月、陽暦の晩秋から初冬になると、赤く熟して香気が強くなり、その香りに悪鬼を避ける力があるとされている。

鬼の類いは五色の美しさやよい香り、強い香りを恐れるから、これを袋に入れて肘にかけていると災難や鬼を防ぐ、というのは中国のいろいろな文献に出てくる。これは肘にかけるのが正しい用法で、のちになって門にかけたり、若者は肩にかけたりして誤用するようになった。また、重陽に飲む菊花酒も同じことで、菊の花の美しさとよい香りに不幸や、病気を退ける魔除けの力があるのだという。人に災を齎すものは数々あるが、その代表的なものが鬼で、いろいろなものの形をとって現れる。

そのなかに鬼車鳥がいて、これは鬼鳥ともいい、他の文献には梟の一種だという記述もあり、中国ではいかに梟が嫌われているか窺い知れる。『荊楚歳時記』は「正月夜多鬼鳥度家家槌牀打戸捩狗耳滅燈燭以禳之」【正月の夜は鬼鳥がたくさん飛ぶ。あちこちの家でベッドや戸を打ち鳴らし、犬の耳を捩って鳴かせる。また灯を消してお祓いをする】とある。この鳥が飛ぶ夜は床や戸を打ち叩き、大騒ぎして妖鳥を寄せつけないようにするが、どうして犬の耳を捻って鳴かせるのかというと、鬼鳥とは日本で七草粥のとき「唐土の鳥が渡らぬ先に」と歌う鳥のことで、十の頭を持つ梟の仲間とされている。

日本では梟はそれほど嫌われず、むしろ哲学者のように見られて愛される鳥だが、中国では母親を食い殺す鳥として忌み嫌われる。この鬼鳥は九首の鳥ともいわれ、人智を超越した存在で、その鳥がいつも血を滴らせているわけは、犬が鬼鳥にある十の首のうち一つをかみ切ったからで、犬だけがその妖鳥に対抗する力があると信じられていた。だから犬の耳を捩って鳴かせ、犬の存在を鬼鳥に知らしめて出鼻を挫き、邪悪なものを追い払うことになる。

『荊楚歳時記』はさらに続けて『玄中記』を引用し、「此鳥名姑獲一名天地女(異本)一名隠飛鳥一名夜行遊女好取人女子養之」【この鳥を姑獲といい、またの名を天帝女、隠飛鳥、夜行遊女ともいう。好んで人の子をとる】というから中国版鬼子母神である。そして「有小児之家即以血点其衣以為誌故世人名為鬼鳥」【こどもがいる家を狙い、外に干してある着物に血を垂らせ、印をつけるところから鬼鳥と名づけられた】とあって一種の怪異談である。そんな民話があるくらいだから、夜中まで洗濯物を干しっぱなしにしておくと、鬼鳥に血の印をつけられ、襲われることになるから、夜になるまえに洗濯物をとりこまないといけないという。これは鬼鳥の名を借りた家庭教育の一環かと思われるが、その鬼鳥については「荊州弥多」【荊の国はこの鳥が多い】といってこの項を閉じている。

先にちょっと触れた高承の『事物紀原』にも人日が記載されている。「東方朔占書曰歳正月一日占鶏二日占狗三日占羊四日占猪五日占牛六日占馬七日占人八日占穀」【東方朔の『占書』には正月一日は鶏を占い、二日は犬を占い、三日は羊を占い、四日は猪を占い、五日は牛を占い、六日は馬を占い、七日は人を占い、八日は穀物を占う】とあり、この項では八日の穀の日まである。「推此当由漢世始有其義」【これを考えてみると漢の御代に始まったらしい】とあるが、一説にはこれによって人日の起源が、漢の御代に始まったとは決められないという。また前記の通り故意か過失かは分からないが、八日の穀の日は『荊楚歳時記』にはなく、人日はいつから始まったのか、はっきりとは分からないということになる。    

仮に周の時代に始まったものならば、いかに記事の性質が違うといっても『呂氏春秋』その他に、その痕跡くらいは記してあってもよさそうなものだが、そのような記事は一切ない。また、漢の時代に起源するとしても、歳時や農事を記録した崔寔の『四民月令』に載っていないのは不自然な気がする。崔寔は桓帝のときの人だから、時代としては後漢の中期で、歳時を含んだ農事暦という性質上、これには載っていてもよさそうなもので、普通なら当然、記録されるべきものだと思うのだが、この『四民月令』も一月七日の記事としては、人日に関して何もいっていない。『事物紀原』も東方朔の『占書』を引き、八日の穀の日まで記しているが、人日の起源に関しては明確な文献に拠って書いたのではなく、漢の時代に始まったというのは、単なる「推此当」【推定ですよ】というだけだから、その起源を漢の時代と断定することは出来ない。

『事物紀原』はほかに人日関連として、幾つかの記事があるが、同じ本でありながらこちらでは八日の穀の日がない。まず「畫鶏」の項で七日までを挙げている。「鶏とは似て非なる鳥だが一応、鶏としておく」と前記した鳥で、この鳥は堯帝の七年に献上され、鶏に似ており、年に一度、あるいは数年に一度渡ってくる。この鳥の画を門や戸に掛けるのは「則鬼類自伏」【鬼の類は恐れて近づかない】からだという。そこで人々は門前を清掃し、この鳥を迎えるが、この鳥はまことに気紛れで、一年に何回も来ることもあれば、二年も三年も渡ってこないときがある。人々はそこで仕方なく「云今人毎歳元日刻画為鶏於戸上蓋其遺像也」【毎年元日にこの鳥の画を戸に貼るのはその名残なのだ】としている。つまり、その鳥が来ない年もあるため、絵に画いたものを門に貼って代用したわけだ。

いずれにしても正月七日に綾絹を切り抜いて人の形を作り、それに金箔などを貼って飾った。次に「綵勝」として『荊楚歳時記』を引用している。この綵勝と華勝は実質的には同じもので「人日翦綵為勝起於晋代賈充夫人所作」【人日の綵勝、すなわち綾絹で作る飾りの起源は、晋の宰相であった賈充の夫人がしたことからだ】とし、「西王母戴勝之義也」【西王母の戴勝と同じである】といっている。この西王母は前記の通り『山海経』に登場してくるもので、もともとは妖怪に近い醜悪な存在である。それに続く「登高詩賦」の登高は秋の登高と間違いやすいが、春と秋ではその意味も起源もまったく違い、「詩賦」の場合は春、山や岡など高いところに一族が登って会し、飲食したり詩を吟じたりして楽しんだもので、災難を免れる目的で高いところに登る秋の登高と根本的に異なるのは、これまで再三に亙って述べた通りである。

これが段成式著『酉陽雑俎』になると、鬼鳥について二項目を挙げている。まず夜行遊女として「夜行遊女一曰天帝女一名釣星夜飛昼隠如鬼神衣毛為飛鳥脱毛為婦人無子喜取人子胸前有乳」【夜行遊女は天帝女、釣星ともいう。夜になると飛び回り、昼は隠れる鬼神のような存在で、羽を着ると鳥となり、羽を脱ぐと女になる。こどもはいないので人の子をとるが、女だから胸に乳房がある】という。蝙蝠のように昼は隠れ、夜になると飛ぶから夜行性の鳥、梟の類ということになるのだろう。

そして「凡人飴小児不可露処小児衣亦不可露」【表でこどもに飴を舐めさせてはいけない。また、こどもの着物を夜になってもとりこまないで、夜露に当ててはいけない】という。そのわけは「麗毛落衣中当為鳥祟或以血点其衣為誌」【鬼鳥の毛がこどもの着物に落ちると祟る。この鳥がこどもの着物に血を垂らせ、目印にするからだ】としているが、なぜ表でこどもに飴を舐めさせてはいけないのか、その理由については何もいっていない。もしかしたらこれも「お行儀が悪い」という家庭教育の一環なのかも知れない。さらには「或云産死者所化」【いい伝えではお産で死んだ女がこの鳥になった】とある。

次に鬼車鳥として別項を立て「鬼車鳥相伝此鳥昔有十首能収人魂一首為犬噛秦中天陰有時有声力車鳴或云是水鶏過也」【鬼車鳥はいい伝えによるともともと頭が十あって、人の魂を吸いとっていたが、頭の一つを犬にかみ切られてしまった。秦では曇ると力車の鳴る音がする。ある人がいうには水鶏の通り過ぎる音だという】ということで、その肉はおいしいから焼き肉にするとよいといっている。また、水鶏というのは蛙の俗称だという説もある。この鳥はそのほかにもいろいろな名で、いろいろな本に登場する。

『玉燭宝典』の著者、杜台卿は、宗懍が著した『荊楚歳時記』を注釈した杜公瞻の叔父に当たる人で、その『玉燭宝典』は『呂氏春秋』『淮南子』『礼記』と同じ系統の本ではあるけれども、内容に少し違うところがあって正統な記事というか、由緒正しい月令の記述に続いて『荊楚歳時記』にあるような民間伝説も記載されており、『荊楚歳時記』と双璧をなすものだが、こちらは「月令」が加わっているだけに、その質量は『荊楚歳時記』の比ではない。一月の項で「七日名為人日」【七日を人日とする】として、これまでに述べた記事のうち、鬼鳥を除いた項目が載っている。乱暴ないい方をすれば『呂氏春秋』と『荊楚歳時記』をミックスしたような内容といえば分かり易い。

この『玉燭宝典』は『古逸叢書』に収められたもので、タイトルは巻子本、巻物の本となっている。しかし『古逸叢書』では普通の本と同じ体裁となっており、中国では長い時代の闇に散逸したと信じられていた。それが日本で発見され、新聞でも報道された。遣唐使一行の誰かが持ち帰ったのかも知れない。いずれにしても日本に渡ってきたからこそ散逸を免れたもので、日本で発見されたあと、中国に里帰りしてセンセーションを巻き起こした。『荊楚歳時記』と双璧をなすといわれる本である。問題は九月分が欠落していることで、この部分はどの段階で失われたものか分からない。その一月の項に「七日名為人日」【七日を人日という】とあり、以下にいろいろな記事がある。

『荊楚歳時記』と重複しないところを拾ってみると、華勝について『釈名』を引用している。話があっちへ飛び、こっちへ飛びで収拾がつかなくなりそうだが、行きがかり上、仕方ない。そこでその部分を『釈名』「釈首飾第十五」で見ると、「華象草木華也勝言人形容正当一人著之則勝」【華とは草木の花を象ったもので、勝とは服装や容貌など、条件の同じ女が何人かいたとして、なかの一人が髪に花を挿したら、その女が勝れる】から花勝、華勝というのだとある。その論は確かに装身具の持つ本質をいい当てているから、なるほどと素直に納得できる。「花象草木花也」【花象とは草木の花をいう】とあるが、それは「蔽髪前為飾也漢代謂之華勝」【女の髪を覆って飾るから、漢の御代ではこれを華勝といった】といい、「勝新婦首飾也」【勝とは新婦のネックレス】であるという。

話の流れでつい『釈名』に脱線してしまった。ふたたび『玉燭宝典』に戻る。宰相さまだった賈充の奥さん、李夫人の書いた『典誡』を引用して、「毎見時人正旦問信至戸至花勝交遺」【年始の客がくると、互いに髪飾りを贈答し合う】が、「与為之煩心労倦者」【互いにやったりとったりして面倒臭く、嫌になる】という。それはそうだろう。みんなで手作りのものを交換し合うのだから、同じようなものばかり溜って始末に困ることになる。お焼香のお返しのハンカチみたいなもので、捨てるに捨てられず、さりとて使いようもないというわけで、溜った華勝を横目に見ながら、眉間に縦皺を寄せ、溜息をつく娘や奥さんたちが目に見えるようだ。人日の起源については「未之聞也似臆語耳経伝無依拠」【聞いたことはない。単なるいい伝えのようなもので確たる根拠はない】という。確たる典拠はないという点では春の登高にも同じことがいえるとして、「其登高則経史不載唯老子云如登春台」【春の登高についても経や史書には載っていない。ただ老子に「春台に登るが如し」とあるだけだ】とあり、この春のピクニックは別に人日に限らず、何月と決まったものではないともしている。

不思議なのは『和漢三才図会』で、本家筋の『三才図会』はまだ見ていないから、そこはなんともいえないし、『和漢三才図会』のほうは単純な私の見落としかも知れないが、和本の『和漢三才図会』は、あれだけ膨大な書物でありながら、人日については一行の記述もない。ということは人日は良安にとって、特別に食指が動かなかったのかも知れない。しかし、この『和漢三才図会』は、天地人三才に亙る事項を網羅している本だから、興味がなかったからという、そんな理由で書かなかったのではなく、単なる手抜かりだったのだろう。

その関連で第四十四巻の山禽類に※(号へんに鳥)とあって、それを「ふくろう」としている。「長則食其母不孝鳥也故古人夏至磔之鳥梟字従鳥首在木(中略)可為羹※(月へん+霍)炙食古人多食之」【長じて成鳥になるとその母を食らう不孝の鳥で、昔の人はそれを嫌って夏至にこの鳥を磔にした。梟という字は木に鳥の首が載っている形で、(中略)その肉は煮たり焼いたりするとうまいので、昔の人はたくさん食っている】といい、『和漢三才図会』はこの鳥が夜行遊女だとはしていない。ただ、梟は成鳥となったのち親を食い殺すというけれども、食い殺すのは母親に限られる。「孟康云梟食母破鏡食父破鏡者如※(むじなへん+區)而虎眼獣也」【孟康がいうには梟は母を食い殺し、破鏡は父を食い殺す。破鏡というのは狸に似た体に、虎のような目をした獣である】としており、これについては後の『塵袋』の項で再説する。

『和漢三才図会』では別に姑獲鳥の一項があって、夜行遊女、天帝少女、乳母鳥、無辜鳥、隠飛、鬼鳥、鉤星などの異名を『本草綱目』から引用して挙げている。それはよいとしても山鳥の項にあるのがなんとなく変に思われる。もとは梟だから山鳥の部へ入れたのだと思うが、姑獲鳥という伝説上の鳥、実在しない妖鳥であるだけに、山鳥といっていいのかという素朴な疑問は残る。

ともあれ「本綱鬼神類也能収人魂魄荊州多有之衣化為飛鳥脱毛女人」【『本草綱目』では鬼神の類であるとしており、よく人の魂を食う。荊州にはたくさんいて羽を着ると鳥となり、羽を脱ぐと女になる】といい、続けて「是産婦死後化作故胸前有雨乳喜取人子養為己子」【この鳥は妊婦が死んで鳥になったものだから、胸に乳房があり、人の子を攫ってわが子とする】という。攫ったこどもは食ってしまうとも、あるいは自分の子として育てるともいうが、「凡有小児家不可夜露衣物此鳥夜飛以血点之為誌」【こどもがいる家では夜、着物を外に干してはいけない。この鳥はこどもの衣類に血をつけ、目印にするからだ】といっている。

このへんは『酉陽雑俎』と同様で、鬼鳥に血の印をつけられると「児輙病驚癇及疳疾謂之無辜疳也蓋此鳥純雌無雄七八月夜飛害人」【その子は癲癇、疳疾などの病気になる。これを無辜癇というが、この鳥は雌だけで雄はいない。七、八月の夜は盛んに飛んで人を害する】として以下に良安のコメントをつけている。雌だけで雄がいない鳥というのも変な話だが、妊婦が死んで化した鬼神の類とすれば、それはそれで話の筋は通っているのかも知れない。

良安のコメントは「△按姑獲鳥俗云産婦鳥相伝曰産後死婦所化也蓋此付会之説」【姑獲鳥は俗に産婦鳥といい、いい伝えによれば産後に死んだ女が化したものだという。しかし、それはこじつけというものだ】として中国では荊州、日本では西海の浜に多くいるといっている。「九州人謂云小雨闇夜不時有出其所居必有燐火遥視之状如鴎而大鳴声亦似鴎」【九州の人がいうには雨の夜、不意に現われる。その時は必ず鬼火が燃えており、遠くからこの鳥を見ると、大きさも鳴き声も鴎に似ている】といっているが、九州ではということだから、これは日本の話ということになる。

この鳥は「能変為婦携子偶人則請負子於人怕之逃則有憎寒壮熱甚至死者」【よく子連れの女に姿を変え、人に会うとこどもを負ぶってくれと頼む。頼まれたほうは恐ろしくて逃げたりすると、逃げた人をひどく憎む。憎まれた人は寒気に襲われ、熱が出て死ぬこともある】けれども「強剛者諾負之則無害将近人家乃背軽而無物」【男などは怖がらず、こどもを負ぶってやると別に害はしない。人家に近づくといつの間にか軽くなって、背中の子はいなくなっている】という。これに類する民話はあちこちにあるから、似たようなお話を読んだ記憶のある人は多いだろう。

少しまえのところで『和漢三才図会』に、人日が見当たらないと書いたが、そこでちょっと触れた画鶏は時候の部にあるのでご紹介する。先のところで「一応、鶏としておく」と書いた鳥のことで、祗支の国から堯帝に重明という鳥が献上されたとあり、この鳥は「一名雙晴言双晴在目状如鶏鳴似鳳」【雙晴、またの名を双晴ともいい、涼しげな目をした鶏のような鳥で、鳴声は鳳凰のようだ】といい、「時解落毛羽肉翼而飛能博逐虎狼使妖災群悪不能為害」【ときどき羽毛を落して肉の翼で飛び、虎や狼なども追い払ったり、妖怪や災を寄せつけず、人に害をさせない】力を備えている。そして餌として宝玉の粉を練ったものを与える。しかし、「或一歳数来或数歳不至」【年に数回渡ってくるかと思えば、何年ものあいだ一度も来なかったりする】ので、祗支の国の人は門前を清掃して水を打ち、この鳥の渡りを待ち兼ねる。

ところがこの鳥はまことに気紛れで、何年も来ないこともあるから、人々は仕方なくこの鳥の木像を作ったり、黄金でこの鳥を作ったりする。そして「此鳥之状置於門戸之間則魑魅之類自然退伏」【この鳥を象った像を門に置くと、魑魅魍魎の類いは恐れをなして近づかない】効能があるから「今人毎歳元日或刻木或画鶏於窓上此之遺像也」【いまの人は毎年元旦に木彫の鶏を飾ったり、窓に鳥の画を描いたりするのはこの風習の名残なのだ】とある。『和漢三才図会』を引用したのだから、もう一つ先の『三才図会』まで遡るべきところだが、こちらの根気が続かなかった。

ほかには『和漢三才図会』で触れた破鏡について、ここで『塵袋』を引用するが、そのまえに梟について述べている。「伯労鳥トハ何鳥ゾ」というタイトルで『万葉集』『礼記』『兼名※(くさかんむり+宛)』を引用し、この鳥は鵙、百舌鳥、反舌鳥、服鳥、※(号へんに鳥)などの異名があるとしているから、要するに鵙と梟という、二つの説に分かれることになるのだろう。その鳥は「其レ生マレテ長大ニシテ、便ハチ反リテ其ノ母ヲ食ラフ。一名ハ梟、不孝ノ鳥也」といい、継母に苛められてばかりいた伯奇という子が川へ身投げし、その霊がこの悪鳥となったもので、これが今でいう伯労鳥だとする。

だから「此ノ説ノ如クナラバ、フクロウト云フトリニコソ。両説、是非ハカリガタシ」ということになる。続けて「梟ハ母ヲ食フトリ、破鏡ハ父ヲクラフ獣トテ、一雙ノ物也」と、梟は母を食い殺し、破鏡は父を食い殺す、親不孝者の代名詞として一対のものとしている。ただ、ここでは破鏡についての解説はなく、その鳥を『鴻鳥賦』『異物志』を引用し、「※(号へんに鳥)ニ似テ群レヌ鳥」であるといい、「小ニシテ鶏ノ如ク、躰ニ文色アリ」というけれども、梟や鶏とも違う別な鳥ではないかとしている。そのうえで「遠ク飛行スルコト能ハズト云ヘリ」としているのは『和漢三才図会』で引用した通り、肉の翼で飛ぶからだろう。

謝肇※(さんずいに制)の『五雑組』に、八日の穀の日も載っていることは前記したが、七日を人の日として「此雖出東方朔占書然亦俗説晋以前不甚言也」【これは東方朔の『占書』にあるといっているけれども、それは俗説で晋以前はそんなことをいっていない】とある。人日が天部にあるのは奇異な感じを抱かせるが、人日だけでなく清明節、寒食、七夕、重陽などもすべて天部にあるから、それはそれで統一はとれている。いずれにしても天文、時候、行事の三つは紛らわしい。「歳後八日一鶏二猪三羊四狗五牛六馬七人八穀」【元旦からの八日間は一日は鶏、二日は猪、三日は羊、四日は狗、五日は牛、六日は馬、七日は人、八日は穀】の日に当たり、これは「雖出東方朔占書」【東方朔の『占書』に出ている】けれども「然亦俗説晋以前不甚云也」【それも俗説で、晋以前にそんなことはいわなかった】としている。

さらに続けて「案晋議郎菫勛答問礼謂之俗言」【考えるに晋の議郎だった菫勛は、『答問礼』でこれを民間伝説だといっている】というが、問題なのはここで猪を二日とし、狗を四日として、その順序はほかの文献と違っている。これも単なる書き間違いではないかと考えられるが、さらに「魏主置百寮問人日之義惟魏収知之以※(形のへん+おおざと)子才之博不能知也」【魏の皇帝が百官を招いて宴会を開いたとき、群臣に人日の意味を尋ねた。魏収は知っていたが、※(形のへん+おおざと)子才のような博識の人でも知らなかった】というから、平たくいえば学者でも人によって知らなかったということで、それは人日の起源や意味は、ほとんどの書物に書いてなかったからだろう。ちゃんとした本に載っていれば、学者が知らないという法はない。

そして「然収但知引菫勛云而不知引方朔占書則固未為真知耳」【魏収は菫勛のいったことを引用しただけで、東方朔の『占書』を引用したのではない。ということは、本当に知っていたということにはならない】とあり、ここでも人日の意味や起源には言及していない。【晋以前はそんなことはいわなかった】という言葉の裏を返せば晋以後のことになる。起源とされている周はもちろん、漢という説もすべて否定されるから、『事物紀原』で【漢の御代に始まったらしい】、といっているのも単なる推定に過ぎないことになる。だが、そうはいうものの、一口に晋といっても私が勝手に混乱しているだけかも知れない。さらに古くは揚子江沿岸から華南地方では、この日に野草を摘む風習があって、これが日本に伝えられて延喜十一年以降、正月七日、七草の風習に繋がる。

『近世風俗志』は俗に『守貞漫稿』ともいわれている。『川柳末摘花』はそこから引用しているので、『近世風俗志』を調べてみたところ、「正月七日」の項に「今朝、三都トモニ七草ノ粥ヲ食ス」として、「七草ノ歌ニ曰ク芹ナヅナ、ゴゲウハコベラホトケノザ、スヾナスヾシロコレゾ七種。以上ヲ七草ト云フ也。然レドモ今世、民間ニハ一、二種ヲ加フノミ。三都トモニ六日ニ困民小農ラ、市中ニ出テ之ヲ売ル。京阪ニテハ売リ詞ニ曰ク、吉慶ノナヅナ、祝ヒテ一貫ガ買フテオクレト云フ。一貫ハ一銭ヲイフ戯言ナリ。江戸ニテハナヅナ、ナヅナト呼行ノミ」と京都、大阪、江戸の売り子の違いを書いている。

さらに「三都トモニ六日コレヲ買ヒ、同夜ト七日暁ト再度コレヲハヤス。ハヤスト云フハ俎ニナヅナヲ置キ、其傍ニ薪、包丁、火箸、磨子木、杓子、銅杓子、菜箸等七具ヲ添エ、歳徳神ノ方ニ向ヒ、マヅ包丁ヲトツテ俎ヲ拍チ、囃シテ曰ク『唐土ノ鳥ガ、日本ノ土地ヘ、渡ラヌサキニ、ナヅナ七種、ハヤシテホトト』ト云フ。江戸ニテハ『唐土云々、渡ラヌサキニ、七種ナヅナ』ト云フ。残リ六具ヲ次第ニコレヲトリ、コノ語ヲクリ返シ唱エハヤス」とあり、続けて「京阪ハコノ薺ニ無菜ヲ加エ、粥ニ煮ル。江戸ニテモ小松トイフ村ヨリ出ル菜ヲ加エ、煮ル」とあり、六日の夜と七日の朝、二度に亙って七草を叩く。

七回ずつ七度、計四十九回叩くのが本当なのだと解説しているが、この「唐土ノ鳥ガ、日本ノ土地へ、渡ラヌサキニ」と歌う鳥が前記の鬼鳥または鬼車鳥、姑獲鳥ということになる。なお「小松トイフ村ヨリ出ル菜」とは小松菜で、産地はもちろんいまの江戸川区小松川、この小松川では私も若いころ店をやっていたことがあり、いわば小松川という土地の恩恵を受けた一人である。

七草は一種の信仰行事だから、当然ながら改まった感じが伴う。江戸の九尺二間の長屋住いでは、寝床の目の前が狭い土間の台所であるわけで、これをやるのはもちろん女の仕事だから、前記の『川柳末摘花』はその情景を寝床からご亭主が眺めて怪しからぬ情を催し、「なゝくさをたゝいてしなと女房いひ」と軽くあしらわれる様子が書かれ、いかにも破礼句の本らしくてよい。「薺ヲワズカニ加エ、煮テ、余ル薺ヲ茶碗ニ納レテ水ニヒタシ、男女、コレニ指ヲヒタシ、爪ヲ切ルヲ七草爪トイフ。今日専ラ爪ノ斬初ヲナス也。京阪ニテハコノ行ヲキカズ」ともあり、下手な歳時記より親切な記述になっている。

続いて「アル書ニ曰ク、七草ハ七ツヅツ七度、合セテ四十九叩クヲ本トス」といい、その起源は「天武天皇十年正月七日」というから西暦六八三年に始まったことになる。その年に「親王、諸王ヲ内安殿ニ召シ、諸臣ヲシテ外安殿ニ侍ラセ、置酒シテ楽ヲ賜ハラシム云々。今日ノ節会コレガ始メナリ」ということで、さらに「宇多天皇寛平二年正月上子日、内蔵寮、内膳司ニ勅シテ若菜ヲ献ゼシム。ソノ後アルヒハ十二種、アルヒハ七種ト云々。シカレバ七種ノ粥ヲ食スハ、上子日ヲ本トスルナリ。中古以来七日ヲ用フ」とあるから、このときは西暦八九〇年ということになる。

この七草も上巳や端午と同じ方程式で、一月最初の子の日に行われていたものが、のちになって一月七日に固定された。この「正月七日」の最後に「江戸モ昔ハ十六日ニ門松、注連縄等ヲ除キ納ム。寛文二年ヨリ、七日ニコレヲ除クベキノ府命アリ。今ニ至リテ七日コレヲ除ク。コレ火災シバシバナル故ナリ。京阪ハ今モ十六日ニコレヲ除ク」とあるから京都、大阪は別として、江戸で門松を七日に片付けるのは、西暦一六六二年に確定したことになる。

次の「正月七日、筑紫大宰府鷽替神事」では『三養雑記』を引用し、「筑紫大宰府ニテ毎年正月七日ノ夜、酉ノ刻ヨリ鷽替ノ神事アリ。今ハ世ニ晋ク知ルコトナレドモ、昔ハサルコトアリトモ知ル人稀ナリ」として、『大宰府略記』も引用している。「参詣ノ老若ウチツドヒ来テ、木ニテ作リタル鷽ノ鳥ヲ調エ、相互ニ袖ニカクシテ、ウソカエントヨバワリテ、双方ヨリトリカエルコトナリトアリ」とあるから、筑紫の天満宮では大宰府に納めてしまうのではなく、参拝客同士が交換し合ったことになる。

それが大阪に飛び火して、「近頃文政二年」というから一八一九年、もう幕末に近いころ「大阪天満天神ニテ、宰府ニナラヒテコノ神事ヲ始メテ執行セシトキ、大阪ニテノハヤリ唄ニ、『心ヅクシノ神サンガ、ウソヲ信ニカエサンス、ホンニウソガエヲゝウレシ』ト云フ小唄ヲウタヒシニ、コトノホカモテハヤセシヨシ聞ケリ」とある。さらに翌年の文政三年、江戸は亀戸天満宮に及び、「毎年正月二十五日ニ鷽替アリ」ということになる。お江戸へ移った途端に、正月七日が二十五日になってしまったのは、どういう理由によるものか分からない。守貞は京都北野天満宮に鷽替神事があるのは知っているが、大阪でこの神事が行われたというのは聞いたことはない、これは京都の間違いではないかとしている。

そして「今日ハ嘉永四年正月二十五日ナリ。午過ヨリ亀戸ニ詣シ黄昏、家ニ帰リテ右ノ一条ヲ筆ス」と書いている。鷽を包んであった紙の文章まで書き写しているが、そのおしまいに「筑紫ニテハ正月七日ナレドモ、亀戸ニテハ正月二十四日、五日ト定ム」とあって、なぜ亀戸では一月二十四、二十五日と定めたのか、そこまでは書いていない。筑前大宰府では自分で作った鷽を持ち寄り、神前でお互いにとり替えたもので、いままでの悪いことが嘘となり、吉と鳥替えるので「うそかへ」というとし、「亀戸東宰府ハツクシノウツシナレバ」「ウソ鳥ノ形ヲツクリ、境内ニオヰテウラシム」とあるから、亀戸天満宮ではお互いに交換し合うのではなく、前年のものは天満宮へ納め、今年からのものは新しく買っていたということになる。

いま私が住んでいるのは旧墨田区吾嬬町西六丁目、町名変更で墨田区八広三丁目となった。ここが私の終の栖となるわけで、亀戸天神へは散歩がてらに歩いてゆける距離にある。毎年、梅や藤の季節には何度も行っているが、鷽替にはまだ行ったことがない。いまさら行ってみても何の感懐も湧いてこない、いわばお馴染のところではあるけれども、その昔の喜田川守貞の業績を偲びながら、改めて歩いてみるのも面白いかも知れない。

蔵前通りを挟んだ反対側には団地があり、紡績会社、カネボウだったかの跡地の前には、亀戸銭座跡の石碑などもあって、こちらは地元の人はとにかく、一般にはまったくといっていいほど知られていない。いま、新人類といわれる世代が闊歩し、新聞の社会面には血なまぐさい事件が毎日のように報道される、この殺伐とした世相の中で、いまさら「唐土の鳥が渡らぬ先に」と歌ってみても、また、鷽替の意味を説いてみても、携帯電話でぴこぴこ会話する若者に、それがどこまで通用するのかはなはだ心許ない。隔世の感とはこういうことをいうのだろう。それがよいことか悪いことかの判断は措くとしても、なにやらうら淋しくなる話である。