2011年2月20日日曜日

永田耕衣 × 土方巽(6)

大畑 等


記憶―耕衣の姉・土方の姉

耕衣はこう回想して語る

―二歳ソコソコのころ、ある日の夕方、私は八つ年上の姉に負んぶされていた。生家のすぐ横手の路次であった。姉は、同じように子守をさせられている隣家の友だちと向い合って話をしていた。私は負われながらも疎外されている感じであった。私は何ということなしに、姉のウシロ髪をもてあそんでいた。その髪を強く引っ張ったのであろう、姉は突然キツイ声で「イタイヤナイカ」と叱って、私の手先を振り払うように頭を振った。私はすぐ髪いじりを止めたが、途端に何ともいえぬ寂しさがこみあげてきた。泣きはしなかったが、或る遠い遠い、何か分からぬ空間を痛感した。やはり「孤独」感というものだったにちがいない。(中略)
 ツイむつがしげになったようだが、二歳ソコソコの童子が、姉に負んぶされながら、手持ちぶたさのあまり、姉のウシロ髪をもてあそんで、「イタイヤナイカ」とキツク叱られた、その髪の根は大人になってから「思考」すると、ソレがパスカルの「葦」の根と同根だったことが分かるのだ。※12


(中略)部では「人間は考える葦である」をダシにしたような耕衣の文章、換骨奪胎の耕衣の世界観である。葦を、地球生成後のドロドロとしたカオスからさきがけて発生した生命と捉え、パスカルの「葦」(理性)は姉の髪の「根」に潜り込んでいく。実に耕衣は身体的だ。一方、土方、

―ふと家のなかに目を向けると調度類がなくなっていることに気づくこともあった。調度類や什器には注意を払っていなければいけない。その頃から、縁側にいつもすわっていた姉がふいにいなくなっていた。姉とは、突然に家のなかからいなくなるものだ、と私は思っていた。黴のなかから幽霊を育ててきたような私のからだには、その黴に抱かれてミイラのように干涸らびて育ってきたようなところがある。※13
土方と姉 ※14より









土方の姉たち。ふと家から消えていく姉を調度類が消えるように土方は語る。そして文脈を交えず黴の身体を語るが、姉たちは黴のように土方の身体に棲みついていたと捉えて良いだろう。この姉たちは土方の実の姉を越えて飢饉のとき花街に売られ「ふいに居なくなっていた」姉たちでもあろう。

―小学校一年生の時に、ちょうどこちらにおりました一番上の姉を訪ねて、鈍行に乗りまして二十二時間ぐらいかかってやって来ました。当時の鈍行というのは石炭ですから顔が真黒になって神戸の駅に降りたわけです。その時に、真っ白い人が近づいて来まして、何か恐ろしいことを知ってしまったと思った。それが私の姉でした。その姉を私は自分の体に住まわせてしまった。※14

土方は「何か恐ろしいことを知ってしまったと思った」と言う。何かは、土方は語らないが、「風だるま」のような者を姉に見たのかも知れない。姉の不在、黴のように土方に棲みついた空白が先に来て、その空白が「これが姉さんだよ」と言ったとしよう。そのような恐怖か?

耕衣と土方の二人の「姉体験」は強烈である。耕衣は姉の背中から人生の「孤独」を言い渡された。一方の土方は「真っ白い人」という姉の存在、いや不在か?幼児耕衣、少年土方にとって、この前言語的体験は一生をかけて書き、踊っていくことになる。

二歳ソコソコの耕衣は姉に負われて一つ身体の心地よさのなかにあったであろう。しかし、その姉の「イタイヤナイカ」との一声で断絶(存在論的差異)を知る。耕衣はその衝撃を一生考えることになる。言葉の耕衣は、それを「或る遠い遠い、何か分からぬ空間」と言い、「カオス」と言い、「存在の根源」と言い、「孤独」と言う。しかしいくら言ったところで、幼児の耕衣が痛感した「クオリア(質)」に迫ることはできない。迫ろうとするところに俳句(詩)が生まれる。

 尾を上げて尾のした暗し春雀     傲霜
 夢の世に葱を作りて寂しさよ     驢鳴集
 道路ほど寂しきは無し羽抜鶏     驢鳴集
 佇ちなやむ人間といひあやめといひ  驢鳴集

ここにあげた4句は、「孤独」感を色濃く表現している。耕衣目前の「春雀」「葱」「羽抜鶏」「あやめ」は、二歳のときの「イタイヤナイカ」の声に遡る。冬であれば耕衣と姉は「ねんねこ」一つのなかにある。一のなかで耕衣は切り離されたのだ。

 冬の雲一箇半箇となりにけり    與奪鈔
 手を容れて冷たくしたり春の空   冷位

元藤(土方巽夫人)は、三番目の姉に土方が会いに行く話をする。この姉は、土方が小学校に入る前から家にいなかった。故郷の姉が土方を探しあて、土方が家族とともに会いに行くことになった。1977年、「竿灯」の祭りの前日、八月の初旬のこと。

―土方は自分で私と子供たちの着て行く服を選んできた。それは真夏なのに冬服だったが、どうしてもこれが似合うので着て行けと命令調で言う。私の分はピンクの中国服だった。私は苦痛だったが汗をかきながら彼のためにこれを着ることにした。子供たちも同じく冬服だった。自分は大島紬と茶色の上布の和服を揃え、さらに背広を新調した。※14

土方は姉と抱き合って泣き、姉の肩を優しく撫でてあげた、と元藤は書いている。心底二人は抱き合って涙した。しかし土方の演出は何故か?土方一家の「真夏の冬服」「ピンクの中国服」「大島紬」。対して出迎えの親類の「まっ黒な顔にギコチない背広姿」。畸形滑稽でもある、しつらえた現実。

そもそも知覚は限定的だ。生の現実を生きるための負荷があまりにも大きいからだ。そこでそぎ落とされたもの。目の前の人のかたちを剥がしたあとの膨大な残余、空白、これが耕衣の「或る遠い遠い、何か分からぬ空間」であり、土方の「何か恐ろしいこと」なのだ。土方が姉に見た「真っ白い人」とはこの膨大な残余なのである。そしてそれが「一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい」と言う「死んだ人」なのだ。このことは後に書くとしよう


※4より

















この白、土方は白塗りの肢体で踊る。このことについて郡司正勝はこう語る。

―暗黒舞踏団の「白塗り」の肢体をみてみると、壁の中に閉じ込められた感じがしてくるのはなんなのであろうか。もしかして、反逆の罪の罰の色なのかとも想ったりもする。いうまでもなく、その白さは、澄明な性質のものではない。その裸形の底には、闇の黒を沈めていて、異様に隠微な匂いが立ち籠めているのである。(後略)※15

郡司は、「白」には、色なき「死の世界」と太陽光の「生の世界」の両儀をもつが、元初には、死者の白骨の連想があると語る。

土方は姉に会うとき「何か恐ろしいこと」、「真っ白い人」を踊らねばならなかった。「一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい」を踊らねばならなかったのだ。現実は舞台空間にしつらえられたのだ。
                                   (続く)
 

※4 『土方巽の舞踏』慶応義塾大学出版会 より
※12 「アスベスト館通信6」(発行所・アスベスト館)より孫引き。
   原典は『田荷軒皮袋』と記されている。
※13 『病める舞姫』土方巽著 白水社刊 より
※14 『土方巽とともに』元藤燁子著 筑摩書房刊より
※15 『土方巽頌』吉岡実著 筑摩書房刊 より