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俳枕 江戸から東京へ(87)
山尾かづひろ 読む⇒
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尾鷲歳時記(84)
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私のジャズ(87)
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2012年9月2日日曜日
俳枕 江戸から東京へ(87)
三田線に沿って(その2)小石川後楽園
文:山尾かづひろ
都区次(とくじ):前回の自然教育園は元は大名屋敷だったそうですね。今度はもっと大名屋敷らしい所へ行ってみたいですね。
江戸璃(えどり): それでは、また三田線に乗って水道橋の小石川後楽園へ行くわよ。この庭園は寛永6年(1629)に徳川家康の11男で水戸藩の初代藩主になった徳川頼房(とくがわよりふさ)が最初に作って、二代藩主の光圀が大改修をして現在のような姿にしたそうよ。
都区次:「光圀(みつくに)」ですか?
江戸璃: 水戸黄門のモデルとして著名なあの水戸光圀よ。
唐様の橋を潜りて赤蜻蛉 小熊秀子
都区次:中国的な趣が各所にありますね。
江戸璃: 光圀が「明」からの帰化人・朱舜水の意見を取り入れたためだそうよ。
鰯雲湧くや魚影の見えかくれ 長屋璃子(ながやるりこ)
四阿の毛氈視野に秋あかね 山尾かづひろ
文:山尾かづひろ
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後楽園入り口 |
都区次(とくじ):前回の自然教育園は元は大名屋敷だったそうですね。今度はもっと大名屋敷らしい所へ行ってみたいですね。
江戸璃(えどり): それでは、また三田線に乗って水道橋の小石川後楽園へ行くわよ。この庭園は寛永6年(1629)に徳川家康の11男で水戸藩の初代藩主になった徳川頼房(とくがわよりふさ)が最初に作って、二代藩主の光圀が大改修をして現在のような姿にしたそうよ。
都区次:「光圀(みつくに)」ですか?
江戸璃: 水戸黄門のモデルとして著名なあの水戸光圀よ。
唐様の橋を潜りて赤蜻蛉 小熊秀子
都区次:中国的な趣が各所にありますね。
江戸璃: 光圀が「明」からの帰化人・朱舜水の意見を取り入れたためだそうよ。
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内部 |
鰯雲湧くや魚影の見えかくれ 長屋璃子(ながやるりこ)
四阿の毛氈視野に秋あかね 山尾かづひろ
尾鷲歳時記(84)
震災忌に思う
内山思考
秋の雲人間急いでも飛べぬ 思考
9月1日は震災忌、大正12年の関東大震災の日である。 それから九十年後の今、震災忌というと僕の頭に浮かぶのは、昭和19年12月7日の東南海大地震、平成7年1月17日の阪神淡路大震災、そして平成23年3月11日の東日本大震災である。関東大震災は無論知らない。東南海地震も昭和28年生まれの僕には過去の出来事だ。
しかし、僕の周りにはまだ東南海の体験者が沢山いる。前の家のおばあちゃんは津波のあと、布団を大八車に積んで川へ洗いに行ったそうだ。海の水に浸かったから塩抜きをしないと使い物にならない。川の水はとても冷たかったそうである。
妻の従兄は家を流され、住居を転々とした。あるおじいさんは両親を流されて大層苦労したそうで、今でも津波警報がでると、バイクに乗って近所中に一声かけたあとは一目散に高台へ走る。つられて皆も逃げる。それが最も有効、それしか手は無いと言うのが経験上の持論なのだ。僕の家は港から200メートル、海抜5メートルで近くに川あり、と津波には最悪の条件が揃っている。だが、すぐ裏が山なのでそこへ逃げることになっている。
阪神淡路大震災の前々日、神戸の岡本で「白燕」の句会があった。僕はその正月に亡くなった同人がいつも座っていた席に花束を捧げよう、と駅のホーム下の小さな花屋に寄った。客は僕一人、店主の女性は手際よく花を揃えながら、しかし店員の男性に小言を言っていた。どうも彼が買ってきた石油ストーブが気に入らないようであった。「灯油は危険です。お願いですから電気ストーブに替えて来て下さい」と言葉使いは丁寧だが強い口調であった。
句会後、誰かに花束を持って帰って貰おう、と思ったが追悼の花だから、と皆さん遠慮される、尾鷲まで提げて帰るのも大変だし棄てるにしても…、と困っていると「じゃあ、私貰って行くわ」と言って下さったのは柿本多映さんだった。 あの花屋はどうなったろう。そしてあの店主と男性は無事だったろうか、と今でも時々思い出す。
内山思考
秋の雲人間急いでも飛べぬ 思考
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東南海地震の際の津波到達点 (市内天満地区) |
9月1日は震災忌、大正12年の関東大震災の日である。 それから九十年後の今、震災忌というと僕の頭に浮かぶのは、昭和19年12月7日の東南海大地震、平成7年1月17日の阪神淡路大震災、そして平成23年3月11日の東日本大震災である。関東大震災は無論知らない。東南海地震も昭和28年生まれの僕には過去の出来事だ。
しかし、僕の周りにはまだ東南海の体験者が沢山いる。前の家のおばあちゃんは津波のあと、布団を大八車に積んで川へ洗いに行ったそうだ。海の水に浸かったから塩抜きをしないと使い物にならない。川の水はとても冷たかったそうである。
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宝永大震災(1707年)の慰霊碑も 家の近くにある |
阪神淡路大震災の前々日、神戸の岡本で「白燕」の句会があった。僕はその正月に亡くなった同人がいつも座っていた席に花束を捧げよう、と駅のホーム下の小さな花屋に寄った。客は僕一人、店主の女性は手際よく花を揃えながら、しかし店員の男性に小言を言っていた。どうも彼が買ってきた石油ストーブが気に入らないようであった。「灯油は危険です。お願いですから電気ストーブに替えて来て下さい」と言葉使いは丁寧だが強い口調であった。
句会後、誰かに花束を持って帰って貰おう、と思ったが追悼の花だから、と皆さん遠慮される、尾鷲まで提げて帰るのも大変だし棄てるにしても…、と困っていると「じゃあ、私貰って行くわ」と言って下さったのは柿本多映さんだった。 あの花屋はどうなったろう。そしてあの店主と男性は無事だったろうか、と今でも時々思い出す。
私のジャズ(87)
もう一人のグリーン
松澤 龍一
前回はモダン派のギター奏者、グラント・グリーンを取り上げたが、もう一人のグリーンと言う名のギター奏者もジャズ史上では忘れてはならない人である。その名はフレデイー・グリーン、カウント・ベイシー楽団で長年にわたり軽快なリズムを刻み続けてきた。
彼はほとんどソロを取らず、もっぱらリズムギターに徹してきた人として有名である。なおかつ電気で増幅するギターを使用せず、アコースチックギターを使用してきた。アコースティックのため当然音量は小さく、ビッグバンドの管楽器には対抗できず、ほとんど聞こえないのが実際のところである。でも、フレディー・グリーンが後ろで弾いていると、カウント・ベイシー楽団の乗りが違うとまで言われてきた。
管楽器の咆哮が一瞬途切れ、カウント・ベイシーの単純なピアノソロ、それに絡むフレディー・グリーンのリズムギター、なんとも粋で良い。ジャズ的感興が高まる一瞬である。このようなギター奏者は今後出てこないであろう。また、彼のいたカウント・ベイシー楽団も過去の遺物になりつつある。
でも、こうして音源として残されていることに、その時のジャズのエッセンスに触れられることに感激する。近代技術の進歩の賜物である。近代技術の進歩は弊害ももたらすが、中々良いこともする。
http://www.youtube.com/watch?v=741zrJSbw1g
松澤 龍一
前回はモダン派のギター奏者、グラント・グリーンを取り上げたが、もう一人のグリーンと言う名のギター奏者もジャズ史上では忘れてはならない人である。その名はフレデイー・グリーン、カウント・ベイシー楽団で長年にわたり軽快なリズムを刻み続けてきた。
彼はほとんどソロを取らず、もっぱらリズムギターに徹してきた人として有名である。なおかつ電気で増幅するギターを使用せず、アコースチックギターを使用してきた。アコースティックのため当然音量は小さく、ビッグバンドの管楽器には対抗できず、ほとんど聞こえないのが実際のところである。でも、フレディー・グリーンが後ろで弾いていると、カウント・ベイシー楽団の乗りが違うとまで言われてきた。
管楽器の咆哮が一瞬途切れ、カウント・ベイシーの単純なピアノソロ、それに絡むフレディー・グリーンのリズムギター、なんとも粋で良い。ジャズ的感興が高まる一瞬である。このようなギター奏者は今後出てこないであろう。また、彼のいたカウント・ベイシー楽団も過去の遺物になりつつある。
でも、こうして音源として残されていることに、その時のジャズのエッセンスに触れられることに感激する。近代技術の進歩の賜物である。近代技術の進歩は弊害ももたらすが、中々良いこともする。
http://www.youtube.com/watch?v=741zrJSbw1g
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