2015年11月1日日曜日

2015年11月1日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(252)
       山尾かづひろ  読む

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尾鷲歳時記(249)
       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(252)

善養寺(小岩不動)
文:山尾かづひろ 挿絵:小倉修子  




















江戸璃(えどり):先日、大矢白星師は武蔵五日市周辺の大悲願寺、広徳寺を廻って秋草を眺めて来たそうよ。

大悲願寺へ広徳寺へと登高す    大矢白星
脇道は彼岸花道五日市       小倉修子
描かれし地獄極楽萩の寺      小川智子
本堂の庇に入りて秋の蝶      小林道子
正宗公ゆかりの御寺萩揺るる    窪田サチ子
白萩のうねり重ねて庭一面     小林道子
紫苑咲くひときは高く他を制し   小倉修子
金木犀山近くして奔放に      小林道子
茅屋根の草刈り作務や寺の秋    窪田サチ子
山寺の黄花秋桐(キバナアキギリ)裏切らず  小川智子
大寺の屋根の掃除も冬支度     小倉修子
多羅葉に文字こまごまと秋日透く  大矢白星

都区次(とくじ):前回は板橋区の赤塚植物園でしたが、今回はどこですか?

江戸璃:樹齢600年の「影向(ようごう)の松」と「菊人形」を見て「走り蕎麦」の美味いのを食べたいので、私の独断と偏見で江戸川区の善養寺(小岩不動)へ行くわよ。

門柱の上の黒猫小六月        戸田喜久子
背に受ける日ざしのぬくく菊日和   福田敏子
空の色深め老松色変えず       柳沢いわを
松が枝の占める境内秋の寺      白石文男
菊人形袂に小さな莟かな       甲斐太惠子
憂き事も佳き日となりて菊花展    油井恭子
垂直に松の支へ木秋澄めり      白石文男
色かへぬ松や琴の音流れ行く     近藤悦子
恋疎き乙女心よ走り蕎麦       石坂晴夫
ごつごつの木肌に触れつ松手入    甲斐太惠子
零れ散る菊の花びら庫裏の脇     白石文男
十六夜や小岩の不動善養寺      石坂晴夫
古の琴の音色や菊人形        油井恭子

江戸璃:アクセスだけれど総武線の小岩駅から葛西・瑞江方面行バスで、「江戸川病院前」(小岩から4つ目)で下車、徒歩200メートルよ。

大寺の更に堂堂菊日和       長屋璃子
秋の日のかくも穏やか老いの松   山尾かづひろ

尾鷲歳時記(249)

物事の見方
内山思考

野菊にも何となくある日曜日   思考

買わなくても寄ってくる蜜柑








どちらかというと面倒くさがりの方である。でも割とこまめなところもあって、例えば新聞や本を読んでいて、判らない文字が出てくると必ず辞書を引く。気になって次に進めないのである。快調に走っている車の前にいきなり障害物が現れた気分になるのだ。

最近はケータイに辞書機能が備わっていて、読めなくても指で画面にその文字を書けば「この字かい?」とでも言うように教えてくれる。でも僕はへそ曲がりでもあるから、なるべく電子機器より印刷物を利用しようと、重い広辞苑をボトン(擬音)と割り、継ぎ接ぎだらけの蘊蓄辞典を拡げるのである。読みや意味がわかったら、それをメモ紙に書いてルビを振りしばし眺めた後、机上の小函の引き出しに仕舞って置く。そして再び黙読のドライブを続けるのである。

僕の相棒たち
書き取り作業は、なるほどと肯かされるセンテンスに遭遇した際にも行われる。昨日は宮本常一の「女の民俗誌」の中の次の一文に膝を打った。「新聞も雑誌もテレビもラジオもすべて事件を追うている。事件だけが話題になる。そしてそこにあらわれたものが世相だと思っているが、実は新聞記事やテレビのニュースにならないところに本当の生活があり、文化があるのではないだろうか。

その平凡だが英知にみちた生活のたて方がもっと掘りおこされてよいように思う。当節はすべてに演出が多く、芝居がかっていすぎる」 これが書かれたのは昭和五十六年だが、三十数年後の現代にも全く同じことが言える。われわれはあまりにも多くの情報に翻弄されているのだ。などとつらつら考えつつ、これも白紙に書き写して引き出しに収めたのである。


蜜柑十句

 一盛りの小粒みかんや色弾む
みかん剥く人北極派南極派
みかん手にしばし朝食後の会話
わが生の出船入船蜜柑山
このみかん宇宙に置けばどうなるか
役目終う皮に一瞥みかん食う
遠目して気分は紀文蜜柑山
文学は不滅龍之介と蜜柑
みかん与えん渇くとき銃いらぬ
正座にも見えて置かるる蜜柑かな