■ 俳枕 江戸から東京へ(240)
山尾かづひろ 読む⇒
■ 尾鷲歳時記(237)
内山 思考 読む⇒
2015年8月9日日曜日
俳枕 江戸から東京へ(240)
目黒自然教育園
文:山尾かづひろ
江戸璃(えどり):早いものね、昨日の8月8日は立秋だったのよ。
秋光のつぶさにひかる竹生島 池田枯石
銀木犀こぼれて人は夢をみる 越川ミトミ
江戸璃:この時期はまた手賀沼の蓮見舟に乗りに行く人がいるのよね。
音立てて蓮に乗り上げ蓮見舟 松本光生
蓮見舟蓮に埋もれて進みけり 柳沢いわを
江戸璃:手賀沼へはJR常磐線の我孫子駅からバスで「手賀沼公園」まで行くのよ。
怖(おづ)怖(おづ)と舳先紅蓮白蓮(はちす) 飯田孝三
蓮見舟天気晴朗なれど波高し 光成高志
都区次(とくじ):前回は埼玉県寄居町少林寺でしたが今回はどこですか?
江戸璃:秋の草を早々に見たいので、私の独断と偏見で目黒自然教育園へ行くわよ。
いろどりのキツネノカミソリ明りかな 高田文吾
一穂の紅さしそめし吾亦紅 松本光生
行くほどに湿りて涼し森の径 柳沢いわを
江戸璃:昔はJRの目黒駅から歩いて行ったけれど、今は地下鉄の南北線か都営三田線で白金台まで行くとすぐなのよ。
菩提樹の実やひとり去り一人来る 戸田喜久子
江戸璃:元々は中世の豪族の館だったものが江戸時代には高松藩主松平頼重の下屋敷となり、明治時代には陸海軍の火薬庫として使用されてね。大正時代には白金御料地となり、一般人の立ち入りが禁止されていたのよ。そんなわけで自然がそっくり残っているのよ。昭和24年に全域が「旧白金御料地」として天然記念物および史跡に指定され、同時に「国立自然教育園」として一般公開されたのよ。
喧騒を逃れ真夏の植物園 高橋みどり
日当りの野に紅染むる吾亦紅 油井恭子
あめんぼうとんでとんでと流さるる 甲斐太惠子
「解散」に飛び散る園児鳳仙花 近藤悦子
豪族の土塁跡とや桐一葉 白石文男
偉大なる雄蕊(ゆうずい)狐の剃刀 石坂晴夫
江戸璃:帰りは日が陰ったからJRの目黒駅に出るわよ。
変遷の歴史巨木に晩夏光 長屋璃子
野萱草ぶっきらぼうに咲いてをり 山尾かづひろ
文:山尾かづひろ
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黒自然教育園正門 |
江戸璃(えどり):早いものね、昨日の8月8日は立秋だったのよ。
秋光のつぶさにひかる竹生島 池田枯石
銀木犀こぼれて人は夢をみる 越川ミトミ
江戸璃:この時期はまた手賀沼の蓮見舟に乗りに行く人がいるのよね。
音立てて蓮に乗り上げ蓮見舟 松本光生
蓮見舟蓮に埋もれて進みけり 柳沢いわを
江戸璃:手賀沼へはJR常磐線の我孫子駅からバスで「手賀沼公園」まで行くのよ。
怖(おづ)怖(おづ)と舳先紅蓮白蓮(はちす) 飯田孝三
蓮見舟天気晴朗なれど波高し 光成高志
都区次(とくじ):前回は埼玉県寄居町少林寺でしたが今回はどこですか?
江戸璃:秋の草を早々に見たいので、私の独断と偏見で目黒自然教育園へ行くわよ。
いろどりのキツネノカミソリ明りかな 高田文吾
一穂の紅さしそめし吾亦紅 松本光生
行くほどに湿りて涼し森の径 柳沢いわを
江戸璃:昔はJRの目黒駅から歩いて行ったけれど、今は地下鉄の南北線か都営三田線で白金台まで行くとすぐなのよ。
菩提樹の実やひとり去り一人来る 戸田喜久子
江戸璃:元々は中世の豪族の館だったものが江戸時代には高松藩主松平頼重の下屋敷となり、明治時代には陸海軍の火薬庫として使用されてね。大正時代には白金御料地となり、一般人の立ち入りが禁止されていたのよ。そんなわけで自然がそっくり残っているのよ。昭和24年に全域が「旧白金御料地」として天然記念物および史跡に指定され、同時に「国立自然教育園」として一般公開されたのよ。
喧騒を逃れ真夏の植物園 高橋みどり
日当りの野に紅染むる吾亦紅 油井恭子
あめんぼうとんでとんでと流さるる 甲斐太惠子
「解散」に飛び散る園児鳳仙花 近藤悦子
豪族の土塁跡とや桐一葉 白石文男
偉大なる雄蕊(ゆうずい)狐の剃刀 石坂晴夫
江戸璃:帰りは日が陰ったからJRの目黒駅に出るわよ。
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黒自然教育園池 |
変遷の歴史巨木に晩夏光 長屋璃子
野萱草ぶっきらぼうに咲いてをり 山尾かづひろ
尾鷲歳時記(237)
残暑の故山
内山思考
写真には皆生きていて八月来 思考
暑い話ばかりでなく涼しさを呼ぶネタは何ぞ無いかいな、と考える内に、先月、元の所属誌「大樹」の俳画などを主宰宅で整理していた時に、自分の祖父田花思考(房吉)が北山河(旧・北星)師に宛てた便りがあったのを思い出した。それについて少し・・・。
差出日は昭和十年八月十日で80年前のこの季節。当時、大阪豊中市に小学校教師として勤めていた祖父は、夏休みで奈良県十津川村に帰省中、「大阪はまだお暑い事でしょう。不肖も先月二十三日大阪発同夕刻大きなルックサックに土産物やら着物やら酒の果てまで七貫目(約26キロ)位の荷物を」詰め込んで多くの徒歩も含めて我が家に辿り着いたら、子供達(僕の叔父叔母)が大変大きくなって居て喜んで迎えてくれた、とある。
翌日からは山の下刈り草刈りに精を出し、盆までに大半は片付いたので、休養がてら一里下流の十津川本流(現在はダム湖)へ鮎釣りに出掛けた。しかし素人の悲しさ釣果の方は、初日四尾、翌日七尾三日目二尾。明治二十六年生まれ42歳の祖父は「よく捕る人は一日百尾」と羨ましがりつつ、「清流を下る筏を、上る川舟を見て」「浮世にもまだこんな清浄な地域もあるもんだ」とリラックスした様子が窺える。
大都会大阪で長男實(僕の父)とやもめ暮らしをする身には掛け替えのない時間が過ごせていたのだろう。電気燈の普及した十津川で思考の村はまだ洋燈生活、でも「衣食住ほとんど自給自足で月に三十円もあれば楽に暮らせる」と田舎自讃をし「一度先生も是非共お遊びにお出でを願ひます。」と筆を置いている。数年後、日本は第二次大戦に突入してしまうのだが、この手紙を投函した祖父にはまだ夏休みがしばらく続くのであった。
内山思考
写真には皆生きていて八月来 思考
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北星師に宛てた祖父の手紙 |
暑い話ばかりでなく涼しさを呼ぶネタは何ぞ無いかいな、と考える内に、先月、元の所属誌「大樹」の俳画などを主宰宅で整理していた時に、自分の祖父田花思考(房吉)が北山河(旧・北星)師に宛てた便りがあったのを思い出した。それについて少し・・・。
差出日は昭和十年八月十日で80年前のこの季節。当時、大阪豊中市に小学校教師として勤めていた祖父は、夏休みで奈良県十津川村に帰省中、「大阪はまだお暑い事でしょう。不肖も先月二十三日大阪発同夕刻大きなルックサックに土産物やら着物やら酒の果てまで七貫目(約26キロ)位の荷物を」詰め込んで多くの徒歩も含めて我が家に辿り着いたら、子供達(僕の叔父叔母)が大変大きくなって居て喜んで迎えてくれた、とある。
翌日からは山の下刈り草刈りに精を出し、盆までに大半は片付いたので、休養がてら一里下流の十津川本流(現在はダム湖)へ鮎釣りに出掛けた。しかし素人の悲しさ釣果の方は、初日四尾、翌日七尾三日目二尾。明治二十六年生まれ42歳の祖父は「よく捕る人は一日百尾」と羨ましがりつつ、「清流を下る筏を、上る川舟を見て」「浮世にもまだこんな清浄な地域もあるもんだ」とリラックスした様子が窺える。
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鮎釣るに筏師からかいて下りけり 祖父の句 |
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