2012年8月19日日曜日

2012年8月19日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(85)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(82)
       内山 思考   読む

■ 私のジャズ(85)        
       松澤 龍一   読む

俳枕 江戸から東京へ(85)

愛宕山の周辺(その7)放送博物館
文:山尾かづひろ 

放送博物館









都区次(とくじ): 次はNHKの放送博物館に行きましょう。
江戸璃(えどり): 放送博物館は神社の南側にある広場の前だからすぐに分るわよ。日本の初放送は大正14年3月1日になされたけれど、この愛宕山に放送局の局舎が完成して大正14年7月12日から本放送が開始されたそうよ。博物館は放送局の跡に建てられているのよ。
都区次:放送局を建てるにあたって愛宕山が選ばれた理由は何ですか?
江戸璃:愛宕山が選ばれた大きな理由は海抜約26メートルという高さね。当時の放送は出力が弱くて、少しでも遠くへ電波を届けたいという関係者の願いから「高い場所」すなわち愛宕山が選ばれたそうよ。
都区次:この博物館にはどんな物があるのですか?
江戸璃:博物館は1~2時間ほどで見られる程度だけれど2.26事件の「兵に告ぐ」の放送原稿や昔なつかしいプログラムの台本や写真、人気番組の録画録音が見聞きできたりするのよ。

「兵に告ぐ」の原稿見入る白きシャツ 佐藤照美

江戸璃:都心には貴重な緑の残る山頂の景とあいまって人気のある博物館なのよ。



当初の放送局









夏帽子正し放送博物館 長屋璃子(ながやるりこ)
なつかしのテレビ受像機弱冷房 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(82)

花火のこと
内山思考 


浦花火闇をたっぷり挟むなり   思考

娘が送って来た
熊野大花火の画像



















毎年8月17日は熊野市の花火大会(熊野大花火)である。昔からよく知られていていつもかなりの賑わいとなる。どれくらい賑わうかというと、まず紀伊半島の交通の命綱とも言うべき国道42号線が熊野市で通行止めになる。だからこの日尾鷲から和歌山方面へ行くことは考えない方がいい。

そしてもしも花火見物に行こう、と思うならその日のんびり出かけていては駐車場の確保すらままならないのだ。第一、迂回路や近道がほとんど無いに等しいため、まずは熊野へたどり着くまでが一騒動なのである。娘は勤務先が熊野なので花火の日はいつも帰宅を諦めて友人宅へ泊まる用意をして出勤する。

今年もそのつもりで朝、通常より一時間早い6時半に家を出たようだが、すぐ「アカン、渋滞で車動かへん遅刻する…」とメールが来た。その頃僕は炭焼の木こりに行くために反対方向に移動していたが、対向車線つまり熊野方面へはほとんど切れ目なく名古屋など他県ナンバーの車が走っていた。バイクも多い。

仕事を終えて昼過ぎ42号線に戻るとまたまた花火ドライブの車の列に挟まれてしまった。電光掲示板に「熊野花火大会のため、鬼ヶ城トンネルから矢の川峠まで20キロ渋滞」とあるが、それはまるまる熊野ー尾鷲間の距離なのだ。花火が終了してもすぐに通行止めが解除になるわけでなく、日頃30分もかからない距離でも、帰鷲が午前様になるのは当たり前なのに、それでもみんな出掛けて行くのである。

大樹来鷲当時の新聞記事











ところでわが尾鷲にも花火大会はある。8月第一土曜日の「おわせ港まつり」がそれである。規模は熊野に及ぶべくもないが、それはそれで趣のあるものなのだ。20年以上前、「大樹」の同人方が見に来られたことがあった。物足りないのでは、と心配したが、あに図らんや皆さんとても気に入って下さり、「尾鷲の花火は素晴らしかった」「港に映ったあの彩りが忘れられない」「出来ればもう一度見てみたいものだ」などと賞賛を述べて頂き、それぞれがどうも社交辞令では無さそうで嬉しかったものだ。その時来て下さった方々はもうほとんど他界された。

私のジャズ(85)

東京はジャズの街
松澤 龍一


『サルトル哲学序説』
(竹内芳郎著 盛田書店)
















60年代から70年代にかけて、東京はジャズの街であった。あらゆるところでジャズが聴けた。ジャズが溢れていた。当時、ジャズ喫茶と呼ばれ、少し高めの煮しめた不味いコーヒーで数時間ねばれる喫茶店がそこいらじゅうにあった。

ハイライトを吸いながら黙々とジャズを聴いた。喋るとお店の人から怒られた。頭の中にあるお店の名前を手繰っただけで、上野にダンディ、いとうコーヒー、駒込に名前はド忘れしたが確かに一件、池袋はあまり記憶になく、早稲田にモズとフォービート、新宿は、ジャズ喫茶のメッカでディグにダグ、木馬、ニュー・ポニー、ビッレジ・バンガード、ジャズ・ビッレジ、生演奏もやるタローにピット・イン、お隣の代々木にはナル、渋谷はブラックホーク、ジーニアス、デュエットと道玄坂に集中し、有楽町には後に新宿に引っ越したママ、と山手線沿線でもこれだけ思い出せる。

面白い映像を発見した。当時のジャズ喫茶のマッチを集めたものである。



時は団塊の世代がちょうど大学生、全共闘運動華やかなりし頃である。これらの世代に支えられ、東京にジャズが花開いた。ジャズ喫茶でタバコの煙に燻されながらジャズを聴く、そして本を読む。その当時読んでいた本がたまたま本棚に捨てられもせず色褪せて飾ってある。竹内芳郎と云う東大の先生が書いたサルトルの『存在と無』の解説書である『サルトル哲学序説』と云う本である。

解説書とは言うものの超難解な本だった記憶がある。それでも「対自は即自をあらわしめる根源的な無であると同時に、他方では己れに先立つ即自の中にはじめから投げ出された存在でもある」なんてところや、その他色々と赤線を引かれているのを見ると理解しようと務めたには違いないが、恐らく何も理解できていなかったと思う。

その頃のジャズ喫茶で鳴っていたジャズは、ニュー・ジャズと呼ばれた前衛ジャズが多かった。アート・ブレーキーやキャノンボールなどは「コマーシャル(商業主義)」と言って軽蔑された。ボーカルなどはめったにかからなかった。

アルバート・アイラーはこの時代のスターであった。どこのジャズ喫茶に行っても必ずと言っていいほどアルバート・アイラーのレコードがかかった。むせび泣くように唄うアルバート・アイラーの「サマー・タイム」、今聴いても良いと思う。