2012年12月2日日曜日

2012年12月2日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(100)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(97)
       内山 思考   読む

■ 私のジャズ(100) 最終回       
       松澤 龍一   読む


※松澤さん、楽しい読み物を有り難うございました。ジャズがグッと近くなりました。またの登場を待ち望んでいます。(IT部)

俳枕 江戸から東京へ(100)

三田線に沿って(その15)正岡子規・高浜虚子
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし

本郷 東京大学














都区次(とくじ): 松山の虚子は本郷・常盤会宿舎の碧梧桐を介して子規と文通するようになったのですが、具体的にはいつからですか?
江戸璃(えどり): 明治24年5月23日付ではじめて子規に手紙を送ってね。「文学界」への情熱の一端を吐露して、子規に「教導訓戒」を願ったのよ。

 黄落の東大構内訪ぬれば 熊谷彰子

江戸璃:子規は28日に「国家の為に有用な人となれ」と、早速返信激励したのよ。虚子はこれに感激。子規の「美しい文字」と「立派な文章」は青年虚子の心をひきつけてね、傾倒の念を深めていくのよ。以後文通による交渉がはじまったわけ。この往復書簡は、正岡家に保存された虚子書簡42通、子規の通信と相応じて、書簡文学の新分野を開拓したものとして評価されているそうよ。

松山 道後温泉










赤門を後方(しりへ)にたたみ時雨傘 長屋璃子(ながやるりこ)
赤門を潜ってよりの大枯木 山尾かづひろ 

尾鷲歳時記(97)

今日は山人
内山思考

寄鍋や箸は過去から未来から   思考

朝日を受ける大銀杏












 今日は久しぶりに南伊勢町の山へ炭の原木を伐りに行ってきた。朝7時に家を出て、駐車場まで少し歩く。丁度その方向が真東になるので、出たばかりの冬の太陽と向き合う形になり、さあ、これから楽しい肉体労働の始まりだ、と胸が躍る。僕の好きなひと時だ。いつもより寒いと思ったら案の定、車のフロントガラスに霜が降りていて、ああ、冬がやってきたんだと改めて実感した。キャッシュカードを出して霜を削ろうとしたら、近所の奥さんが「これ使って」とお湯を入れたペットボトルを持って来てくれ、有り難く頂戴したそれをかけると一瞬にして霜は融けた。

ようやく出発して路地をでると、金剛寺の前の大銀杏が朝日を浴びて見事に輝いている。あまりの美しさに、車を停めて写メールを数枚撮った。再び走り出し、FMでクラシックをききながら20分後に窯に到着、今度はトラックに乗り換えて一路、原木山へと向かう。同行はH君とS君で共に四十代だ。他愛の無い雑談をしながら海沿いに走る走る。

やっと目的地へついたら今度はリュックサックを背負い、チェーンソーを持って急斜面を登らなければならない、僕は重い物を持つのは苦にならないが、登山は不得手ときている。それでも高度を稼がねば仕事にならず、やっとの思いで現場に荷を下ろすと、もうそこで弁当を食べたい気持ちになった。しかしそうもいかない、簡単に段取りを説明して、さあ開始、程なくそれぞれのチェーンソーが唸りをあげ始めた。

この景色をおかずに
弁当を食べた
しばらくは忘我無我の時が流れて、あれもう11時。木を積んで帰る時間から逆算すると今が昼食にベストと判断した僕は「ホゥッ」と声を発して他の二人にその意志を伝え、リュックサックからミカンを取り出して、上にいるS君、下のH君に投げてやる・・・が上手く届かず申し訳なし。それにしても遠く見張るかす岬や入江は絶景である。「あれ何処や?」と聞くとS君が 「浜島の方と違いますか?」と言った。

私のジャズ(100) 最終回

最初に買ったレコード
松澤 龍一

リック・ネルソン












最初に買ったレコードは意外と多くの人が覚えているらしい。この質問をすると、殆どの人から返事が返ってくる。私の最初に買ったレコードはリッキー・ネルソン(後にリック・ネルソンと改名)の「トラヴェリング マン」と言う、当時EPとかドーナツ盤呼ばれていたものである。レコードの真ん中に大きめの穴が開いており、これをプレーヤーにかけるにはプラスティックで出来たアダプターが必要だった。3分程度の曲が1曲づつ裏表に録音されている。「トラヴェリングマン」の裏は「ハローメリールー」と言う曲で、こちらの方がヒットした。
リッキー・ネルソンは当時アメリカで、プレスリーに少し遅れて、続々と登場したティーンエイジャーの歌手たちの一人。ポール・アンカ、ニール・セダカ、デル・シャノン、女性ではコニー・フランシス、アメリカではなくイギリスだが、ヘレン・シャピロなどと人気を競っていた。今の団塊の世代が中学生の頃、最初に耳にした西洋の大衆音楽はこのようなアメリカンポップだった。


このように最初に西洋の大衆音楽に触れた若者が次に向かった先は大きく分けて二つある。一つはビートルズであり、もう一つはフォークソングである。どうも二つとも好きになれなかった。特にビートルズは毛嫌いをした。あの軽薄な音感になじめなかった。そんなときに出会ったのがアート・ブレーキーとジャズメッセンジャーであった。中学の一二年の頃だと思う。パリのサンジェルマンのライブ録音盤は毎日のように聴いていた。最初の曲の「モーニン」のリー・モーガン(トランペット)やベニー・ゴルソン(テナーサックス)やボビー・ティモンズ(ピアノ)やジミー・メリット(ベース)のソロなど一緒に唄えるまでになった。最後はジャケットはボロボロ、音質は針音ばかりになってしまった。恐らく、生涯でもっとも多く聴いたレコードだろう。ここから私のジャズの遍歴が始まった。