2015年6月28日日曜日

2015年6月28日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(234)
       山尾かづひろ  読む

■ 
尾鷲歳時記(231)
       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(234)

石神井公園(その4)三宝寺
文:山尾かづひろ 

三宝寺の山門










江戸璃(えどり):早いものね、明後日の6月30日は名越の祓よ。

大茅の輪都心山王日枝神社  大矢白星

都区次(とくじ): ところで5月に大矢白星師の歩いた石神井公園をひと月遅れで案内していただけるとの事で、(その1)は石神井池で、(その2)は三宝寺池で、(その3)は殿塚・姫塚でしたが、今回はどこですか?

五月闇木立の茂る三宝寺  油井恭子

江戸璃:三宝寺へ行くわよ。水神社の向かいの穴弁天の左にある階段を上がって氷川神社の前を通って行くのよ。

遊歩道過ぎて寺領や花樗      高橋みどり
石楠花や石神井城の郭跡      石坂晴夫
石楠花を身にふりかむる寺の前   甲斐太惠子

江戸璃:この寺は、応永元年(1394) に鎌倉・大徳寺の幸尊法印によって開かれたのよ。当時、石神井城を築き付近を治めていた豊島氏からも帰依を受けていてね。豊島氏が滅んだあと、後北条氏や徳川家からも保護を受け発展して、徳川家光の鷹狩の休憩所としても使われ、格式ある寺院となったのよ。

石楠花や象と獏彫る四脚門   小川智子
青葉風結界石置く御成門    白石文男

江戸璃:山門は徳川家光が鷹狩で御成になった門ということで、御成門とも呼ばれているのよ。現在の門は、文政10年(1827)の建築で、昭和28年(1953)に修復したものだそうよ。全体的に重厚な門で、象や獏などの彫刻は江戸時代後期の特徴を示しているそうよ。

鐘楼にひとりだに居す梅雨の昼  近藤悦子

江戸璃:また三宝寺の梵鐘は高さ164センチメートル、口径85センチメートルで、銘文によれば作者は江戸時代に多くの鐘を造った椎名伊予守藤原吉寛で、延宝3年(1675)に制作され、鐘楼に掛けられたそうよ。逸話的には「新編武蔵風土記稿」によると、江戸増上寺の大鐘を鋳た時、その余銅をもって造ったと伝えられているそうよ。長屋門はもと勝海舟邸にあった由緒ある門で、区内旭町兎月園に移されていたものを、将軍家ゆかりの当寺が幕末の重臣勝海舟を慕い昭和35年移築したものだそうよ。

鐘楼












実梅熟る人謐(しづか)なり寺の庭  長屋璃子
境内の闇濡れてをり梅雨晴間     山尾かづひろ

尾鷲歳時記(231)

わんこそば百八句(後) 
内山思考 

少年や泳ぎごころにペダル踏む  思考

この二人も
蕎麦好きだったろうか














二度とソバ食わぬぞと言い笑わせる
ソバの椀重ね煩悩楽しめる
食うとき忙し縄文の鼻呼吸
厨には蕎麦無尽蔵ごゆるりと
箸先に蕎麦重くなる食い疲れ
曖昧な笑いを蕎麦に集めたる
ソバ怖し次の一椀目の前に
わんこそばもう励ますなすすめるな
幾筋のソバが岩手の山に見ゆ
蕎麦の神失笑せるか凡の胃に
ソバの椀一人となれば殺到す
食う限り止まらぬソバの時間かな
蕎麦つゆの染みたる舌で語り合う
このソバの一つの味で押してくる
押し返すわけにもいかずソバを呑む
替えソバを提げて仲居のすぐ戻る
ソバ食うに足の裏さえ動くなり
飽きるほど食いたりソバの名は知らず
百歳は長寿 ソバ百杯は並み
ソバよ汝がために心身無にしたる
北の凍て知らずひたすらソバを食う
地の訛り聞けば弥増すソバの味
見られつつ食うソバやがて味失せて
空椀を見逃さずソバ投げ入れる
茶をわずか飲んではソバに戻るなり
のみすすりくえども噛まず椀のソバ
一椀の蕎麦にも海と山の声
ひとときを蕎麦の虜となりたるよ
蕎麦つゆや輪廻の先の峰の雲
空腹と満腹の間の蕎麦まみれ
蕎麦引いている記憶あり母もおり
仮名文字を積む如く胃に降りる蕎麦
次のソバ来るまで山葵舐めており
熟練の技椀返しソバ移し
ソバ好きか否か仲居のこの二人
夫婦共ソバに膨れし腹まわり
ソバ百杯食べて面目立ちしかな
雨に負けぬ賢治の里の蕎麦を食う
緊張緩和してわんこそば終わる
ソバ腹を抱えし天女舞えざりし
椀に蓋して箸置いて蕎麦を消す
わんこそば百八杯の手形受く
ソバ打つ人食う人会わぬまま別れ
ソバ百杯食べてよろよろ立ち上がる
ソバの椀鎮まり夏の世に帰る
席を立つそれぞれの身にソバを詰め
ささやかな蕎麦の縁へ合掌す
ざるそばをゆっくり手繰る人に会う
満腹の胃へ血は巡り風薫る
斯くて去る一期一会の蕎麦処
ソバ疲れ熱きコーヒーにて癒やす
昼のソバ忘れて宵のカレーかな
わんこそば早や懐かしきまたいつか
みちのくの話のタネも若葉して

本日校正中













 (以上)