2012年4月22日日曜日

2012年4月22日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(68)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(65)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(68)          
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(68)

古川流域/三田寺町(その1)
文:山尾かづひろ 

普連土学園














都区次(とくじ): 慶応大学の構内を廻りましたが、次はどちらへ行きますか?
江戸璃(えどり): 三田の寺町へ行くのよ。まず、慶応大学の正門を出て桜田通りを横断するわよ。南へ上がってゆく安全寺坂という細い路地が見えるでしょ。この路地は崖際を抜けてゆくもので、下の方には大松寺や長延寺などの寺と墓地が見えてくるわよ。崖上にはミッション系の女子学園の普連土学園があって、目印になるわね。
都区次: それにしても、これは名前の通りの寺町ですね。
江戸璃: ほとんどが八丁堀(現在の中央区内)にあったお寺が、江戸城の最終的な拡張にともなって移転させられて、大挙転入してきたのよ。
都区次:寺の移転からみても、半端な江戸城の拡張ではありませんね。
江戸璃: 寛永11年(1634)の武家諸法度改正で、参勤交代制が確立されて、大量の大名屋敷を必要としたためと言われているわね。
安全寺坂










囀や校舎かがよふ坂の上 長屋璃子(ながやるりこ)
寺町の隅のすみまで花の塵 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(65)

山菜浄土
内山思考

子の声や田螺の世界すぐ濁る  思考

蕨と筍と油揚げの煮物








「春はタケノコ、やうやう時季となりたる、竹藪少し明かりて、鍬を提げたる人の、遅く歩き来たる」 タケノコが夏の季語だというのがどうも解せない。僕の住むあたりでは、3月に入れば走りが採れる。猪に至っては前の年の12月にもう、その嗅覚を使って竹藪を荒らしに来るというから凄い。だから立夏をすぎればタケノコというよりタケノアニキぐらいになっているはずだ。

晩春の野山は山菜の宝庫である。まずイタドリ(虎杖)。尾鷲の人たちはこの路傍の賢者のように立つ植物を殊のほか愛する。天気の良い日、山道(時には国道)に車が止まっていたら、それはまず、イタドリ採りの翁か媼と思って間違いない。それが目的でなくても、散策のついでにイタドリが目に付けば2、3本だったとしてもポン、ポンとあの開放的な感触を感じながら折り取って帰る。

イタドリはさっと湯通しをし、皮を剥いて一晩水に晒して明くる日にカツオの焼き節と一緒に煮たりする。冒頭のタケノコは重曹、木灰、備長炭、糠などを入れた湯で炊いて灰汁を抜き、やはり一晩水に晒して煮物にするなどバリエーションは沢山ある。柔らかい先端部より少し固いぐらいの部位が僕は好きだ。

ゼンマイ、ワラビも欠かせない。先日、街で親類のおばちゃんに会ったので「どこ行くん?」と聞くと「ゼンマイ採りさ、ストレス解消にちょうどええんじゃいハルちゃん」と満面の笑みで答えてくれた。万葉時代から草摘み、野遊びは女性の心身に活力を与えるレクリエーションなんだ、と改めて実感した。
届いたタラの芽、
これから天麩羅にする

しかし僕にとって山菜の王はやはりタラの芽である。幹にトゲがあるうえにかなり山奥へ行かないと数が採れないから希少価値も高い。我が家では妻の友人が毎年どっさり届けてくれるので、そんな日の夜は山盛りのタラの芽の天ぷらがメインディッシュとなる。市販されているのは親指ほどのものがほとんどだが、本当は少し茎が伸びている方が風味も歯応えもあって美味なのである。

私のジャズ(68)

フランク・ストロージャー
松澤 龍一

 "Fantastic" FRANK STROZIER
(VEEJAY STEREO SR 3005)












フランク・ストロージャー、聞きなれない名前である。よっぽどジャズを聴きこんでいなければ、彼の名前を知ることはないだろう。いわゆるハード・バップ時代の白人のアルト・サックス奏者である。ジャケットの写真を見ると、一昔前のハーバードかエールの大学生のようで、およそジャズ・プレ―ヤにはほど遠い容貌、いでたちである。実は私も知らなかった。何気なく手にしたこのレコード、なぜこれが手元にあるか分からかった。

サイドメンを見て納得した。ドラムス、ジミー・コブ、ベースはポール・チェンバース、ピアノはウィントン・ケリーのハード・バップ時代のオール・スターキャストでトランペットはあの夭折の天才、ブッカ―・リトルが共演している。

ブッカ―・リトルは23歳で死んでいる。同じ夭折であってもクリフォード・ブラウンやリー・モーガンより若く死んだことになる。クリフォード・ブラウンやリー・モーガンは事故死だが、ブッカ―・リトルは尿毒症が原因だった。これだけ若く死んだため、残されたレコードも多くはない。

彼がプレーヤーとして開眼したのは、なんと言ってもエリック・ドルフィーと共演したファイブ・スポットのライブにあると思う。この時のライブは3枚のレコードに残されている。1961年の7月の録音である。この年の10月に永遠に帰らぬ人となっている。正に死の直前に開花したのである。ジャズが最も熱く、濃く、スリリングな時代でもあった。