2011年6月12日日曜日

2011年6月12日の目次

俳枕 江戸から東京へ(24)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (21)                          
                   内山  思考    読む

私のジャズ (24)          
                  松澤 龍一     読む
第35回現代俳句講座(講演:高野ムツオ)-俳句 瞬間を切り取る詩(東日本大震災のなかで)
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尾鷲歳時記(21)

紀勢線の話
内山思考 

 マンゴーの終着にして掌   思考 

跨線橋より尾鷲駅上り方面を望む












日本に秘境はない、と誰かが言っていた。 まあ、島国のことであるから、大抵どこへ行っても日本語は通じる。方言はあっても言語そのものや民俗の形態が根本的に違う、などということはまずない。 だが「陸の孤島」といわれる地方は全国にもかなりあって、僕の父や母が生まれた奈良県吉野郡十津川村などは最近までそう呼ばれていた。 「きょーとい(ひどい)」「うたてー(きたない)」など古語の雰囲気を持つ方言も多く、僕は十津川弁は話せないが内容はよくわかる。

尾鷲も、昭和三十四年に国鉄(JR)紀勢線が全通するまで「陸の孤島」だった。 紀伊半島の海岸線をたどる 紀勢線はまさに夢の鉄路であったが、東紀州は急峻な山が入り組んだ地形で平坦地が少なく、戦争の影響もあり、地元民の期待とは裏腹に、なかなか工事ははかどらなかった。 ことに、木本(熊野)と尾鷲の間が最大の難関で、開通するまで人々は、海路を利用するか、国鉄バスで高低差八百メートルの羊腸の山路を車酔いに苦しみながら、三時間近く揺られねばならなかった。
吉田初三郎描く伊勢大廟

「大正の広重」と評された鳥瞰絵師・吉田初三郎が挿し絵を描いた「鉄道旅行案内」・大正十三年発行、が手元にあるが、それによると「相可口(現・多気)から木ノ本まで三十一里自動車十圓八十銭、午前七時半と午後零時半に発し八時間を要す、荷坂峠を越えて紀州に入るあたり、長島を真下に見た眺観美は何とも云へぬ、其長島と尾鷲とが途中の繁華地である、長島まで五圓四時間半、尾鷲まで七圓五時間半…」とある。

庶民が気軽に旅行など楽しめない時代の話だ。 昭和三十四年七月十五日、尾鷲駅で十河国鉄総裁のテープカットにより悲願の紀勢線全通は成ったが、当時七才の妻は全く記憶に無いと言う。

私のジャズ(24)

60年代
松澤 龍一


JUBA-LEE (fontana SFON-7091)












サイケ、サイケデリック、ヒッピー、全共闘、反帝反スタ、オルグ、カルチェ・ラタン、学園紛争、学校封鎖、LSD、立カン、内ゲバ、機動隊、催涙ガス、ゲバ棒、ジグザグデモ、過激派、反代々木派、三派連合、革マル、民青、ジャズ喫茶、サルトル、構造主義、国際反戦デー、羽田闘争、新宿騒乱事件、東大闘争、日和る、総括、自己批判、ゴダール、トリュフォー、ベルイマン、ダベル、早稲田小劇場、天井桟敷、唐十郎、歌舞伎町、二丁目、道玄坂、深夜映画、名画座、名曲喫茶、火炎ビン、バリケード、劇的なるものをめぐって、白石加代子、鈴木忠志、別役実、べ平連、カルメン・マキ、時には母のない子のように、ゴーゴー喫茶.....と、60年代をひっくり返すと、色々な言葉が零れ出る。今では、ほとんどが言葉としてのインパクトを失ってしまった。あの1960年代と言う時代、江戸時代、鎌倉時代などと同じ括りで片付けられてしまいそうだ。

このレコードはマリオン・ブラウンと言うアルト・サックス奏者が1966年に吹き込んだもの。この人も60年代に現れて、60年代に消えてしまったジャズ・プレやーの一人である。全編、当時の流行りであった前衛精神に充ち溢れている。LSDの幻覚にヒントを得て、音楽による色彩の混合体を創りだそうとしたものだから、すさまじい。伝統的なジャズを聴きなれた耳には「何やこれ」である。その当時は、狭苦しいジャズ喫茶で、タバコの煙に燻されながら、一杯180円の煮しめたコーヒーを飲みながら、みんな一心不乱に聴いていた。

あの頃、あんなにも熱かった若者たちはどうしているのだろうか。年恰好から言えば、仕事を辞めて、一定の社会的責任は果たし、これからは悠々自適のはずである。今でもジャズは聴いているのだろうか。カラオケでド演歌など唄っていてくれていれば嬉しい。

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追加掲載(120104)
60年代はやはり、これ。


第35回現代俳句講座(講演:高野ムツオ)前編


俳句-瞬間を切り取る詩
高野ムツオ
(日時:平成23年6月11日、場所:東京都中小企業会館/文責:大畑 等)

高野ムツオ氏

常々、俳句は時間を表現出来ない、一瞬を切り取り、そこに作者の様々な思いや感情を表現していく詩形と思っていました。そういうなかで「東日本大震災」に衝撃的に向き合ったわけですが、この震災と係わりながら、俳句の表現について話したいと思います。

震災の前日は東京の秋葉原で、「どこでも五七五」という番組の収録を終えました。震災の当日3月11日は仙台の駅ビルで30年ぶりに友人たちと会っていました。そこで地震なのですが、とにかく音が凄かったです。私たちは駅ビルの地下から駅の広場に出ました。そこでは映画のシーンを見るようで、数百人から千人の群衆がたむろしていました。余震も凄く、不安と恐怖のなかで、恐ろしげな声を聞きました。電車、バスがありませんので、住んでいる多賀城までの13kmぐらいを歩いて帰ることにしました。携帯電話はつながらず、5時半ころ気楽な気持ちで国道を歩き始めました。電気は消えていますが、車のライトで道は明るい、車を追い越して歩きました。

家まで2~3kmのところにさしかかったとき、「何かがおかしい」と思いました。車が横転しているのです。こういうときに交通事故とはなんてことだ、と思っていましたが、次々と車が横転したり仰向けになったりしている、大きなトラックまでそうなっているのを見て、「これは津波だ!」と思ったのです。津波のことはたまたまつながった携帯電話で知っていました。仙台港10mという情報が入っていたのです。国道まで津波が来るとは思っていなかったのですが、実は来ていたのです。コンビナートのもの凄い爆発音も聞きました。歩くことの出来る道を探りながら家に着いたのは10時頃、4時間半から五時間ぐらいかかったことになります。住居はマンションの五階で、くたくたになって寝ました。

車は無事だったので、カーナビで津波の映像は見ていました。しかし津波の本当の恐ろしい姿を見るのは翌日のことでした。-写真がスクリーンに映し出される(会場より驚きの声)-

俳句を作ろうと思い始めたのは駅の広場に逃げたときからですが、歩いて家に帰りながら、いろいろ考えました。

一つは、阪神淡路大震災の俳句が気になりました。当時朝日新聞から俳人たちに1句出すように言われていました。しかし自分の作品が空々しく感じ出さなかったのです。数日後、師の佐藤鬼房のところに行って「先生は出しましたか?」と聞くと「俺は出したよ」との返事。後で、出来た本を見て、やっぱり表現することは大事だと、後悔の気持ちを持ちました。阪神地区の多くの俳人たちが良い作品を出していました。やはり句にしなければいけないのだと思いました。そのことがずうっと頭のなかにあったので、まず俳句を作ろうと考えたのだと思います。

二つ目。私が生きているなかで俳句っていったい何だろう、と思いました。これも常々考えていたのですが、この震災に遭ったときにも思いました。自分のこころを支えるためにあったのではなかろうか、と。他人に何かを伝えるためではなく、自分が表現することで、そこから力を得ることが出来る、と思ったのです。特にそう思ったのは4年前に咽頭癌の手術をしまして、もしかすると声が出なくなるかも知れないと医者から言われていました。不安のなかで作った俳句が私自身を随分元気付けてくれました。だからこんどもやっぱり俳句を作る、そのように思いました。

三つ目。やっぱり俳句は瞬間を切り取る、ということです。生きなければいけない、家族の心配もする、そういうことが一回収まってから遡って俳句を作ろうとしても、その遭ったときと数日後の作者の間に少しずつ乖離が始まります。前に戻って俳句を作ることが出来ないのです。瞬間をそのときに表現しなければいけないと思ったのです。

ここで阪神淡路大震災のときに私が感動した句を掲げてみます。

倒・裂・破・崩・礫の街寒雀  友岡子郷

大変有名な俳句です。映像メディアが現在のようになってから可能となった表現で、カメラのフラッシュでパッパッと映像を見せているような感じです。寒雀はいつでも必死、寒雀に、ひたすら生きている人間を重ねた俳句だと思います。

寒暁や神の一撃もて明くる  和田悟朗

和田悟朗さんも阪神淡路大震災の被災者です。「神の一撃」がいろんな解釈を生みますが、自然科学者である和田悟朗さんであるから、大自然の摂理そのものが一撃となって現れた、その大自然の大きな力のもとに人間は生きていることをもう一回確認するのだ、そういうふうに私はとらえ、こころを打った俳句です。

枯れ草や大孤独居士ここに居る  永田耕衣

 当時95歳になった永田耕衣さんの、震災翌年の句です。トイレに入っていて震災に遭われ、銅製の銅鑼みたいなのをガラガラ鳴らして救助されました。目の前に広がる枯草を見ながらの句です。人間の孤独は、永田さんが常に言っていることですが、その孤独に居士をつけたところが永田耕衣さんらしいと思います。居士とは死んだ人間のことで、あたり一面の枯草のなかで、俺は黄泉の国からよみがえってここに居るんだと、諧謔味をもって表現しました。直接、震災にあったなどとは言っていないのですが、そういう経験があったからこそ言えたのだと思います。

それから二つ目の「こころを支える俳句」、たくさんあるのですが、皆さんもご存じの有名な句をいくつか掲げます。

水脈の果て炎天の墓碑置きて去る  金子兜太

 トラック島で多くの、亡くなった戦友をそのままにして帰るとき、墓標が立っているところを眺めている、そういう句です。悲しみと「置き去る」に表現されたもの、つまりその悲しみを越えて生きていこう、死を無駄にしないぞ、という思いが書かれています。この金子兜太の俳句は他の人に知って貰うためのものではなくて、今ある自分のこころの再確認、俳句というのは自分が元々思っていたことをそのまま書く、なぞるのではないのですね。漠然とした思いが言葉で表現することによってはじめて、新しいものとして立ち上がってくる、そしてそのことが支えになるのだと、そのように私は思います。

暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり  鈴木六林男

 この暗闇はどこにあるか、そういうことではなく心象的なものだと思います。実際に泳いだ戦争体験に基づいているのかもしれません。その暗闇のなかで目玉だけがギラギラ光っている。現実の暗闇であると同時に時間のなかの暗闇、戦後と言ってもさらに暗闇が続いていくだろうという醒めた認識があります。その暗闇を泳ぎ切っていこうとする意志の表現だと思います。作者はそれを作り上げることによって、それを確認しているのだと思います。

縄とびの寒暮いたみし馬車通る  佐藤鬼房

 洟をたらしながら子供たちが縄とびをしている。どこにでもあるような寒々とした景色です。側を馬車が通る、塩竃ですから魚を載せた汚い、壊れそうな馬車がゴトゴト通る。打ちひしがれそうな情景です。でもどこかに生きる思い、活気があります。縄とびの縄の音、馬車の音がある。そこに作者は自分の生きる気持ちを確かめている。確かめることによって明日へのこころの支えとしている。

また、ある日ある時の瞬間がこれらの俳句に捉えられていると思うのです。(後編へ続く

俳枕 江戸から東京へ(24)

上野界隈/東叡山寛永寺
文 : 山尾かづひろ  挿絵 : 矢野さとし

上野駅









【東叡山寛永寺】
都区次(とくじ): 上野駅は東京の北の玄関として歌謡曲に出てきたりして独特の雰囲気があります。歴史的に上野のシンボルといえば寛永寺でしょう。この寛永寺が建てられた訳は何ですか?
江戸璃(えどり): 三代将軍徳川家光の時代に太田道灌以来の江戸城の改築が終って、余った西の丸の旧材と費用を家康以来のブレーンの天海僧正に託したのよ。天海は上野が江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当るとして、鬼門除けに寛永寺を建てたのよ。
都区次: 不忍池の弁天堂は寛永寺の堂宇の一つなのですが、この関係は何ですか?
江戸璃:寛永寺は寛永2年(1625)の創建で、寺号は当時の年号から付けたというのはすぐ分るわね。天海は元々比叡山延暦寺系の僧侶で、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」としたのよ。比叡山なら琵琶湖が無くてはならぬとばかりに、不忍池を琵琶湖に見立てて、綺麗に整備させ、さらに竹生島になぞらえて弁天島を築かせて弁天堂を造ったのよ。
都区次:不忍池が琵琶湖ですか。
江戸璃: 本当に「恐れ入谷の鬼子母神」よね。


不忍池弁天堂





















暮しばし玉降雨の蓮かな 大島蓼太(おおしまりょうた)
弦固き弁天の琵琶秋の蟬  山尾かづひろ