■ 北がなければ日本は三角
大畑 等 読む⇒
■ 俳枕 江戸から東京へ (13)
山尾かづひろ 読む⇒
■ I LOVE 俳句 Ⅰ-(10)
水口 圭子 読む⇒
■ 尾鷲歳時記(10)
内山 思考 読む⇒
■ 私のジャズ(13)
松澤 龍一 読む⇒
■ 季語の背景(4・寒食)-超弩級季語探究
小林 夏冬 読む⇒
2011年3月27日日曜日
北がなければ日本は三角
大畑 等
3月11日に発する「東日本大震災」。以来、夜、寝ている間もラジオをつけっぱなしでいる。眠っているのか起きているのか分からない日々。
東北地方の被害の大きさに震撼し、パソコンで津波に襲われた町の地図を見る。航空写真が地形を顕わにし、自分のなかで津波の恐怖を否応なく増大させる。そして津波に直面した人たちを思う。
寝不足でぼーっとした頭に、一冊の本の書名が思い浮かんだ。谷川雁の『北がなければ日本は三角』。「西日本新聞」に掲載された谷川最後の書き物であろう。幼い日々の回想を綴る、随想五十篇のなかの「北がなければ」から書名をとっている。
谷川家に「鼻歌から生まれてきたとでもいいたくなる、陽気なえくぼの小娘が登場」する。
―蚊帳の中の食事は、すこぶる彼女の気に入らないようでした。鍋にくっついている煮魚のしっぽを、平気で指でつまみあげ皿にのせたりします。そんな彼女の仕草を、だれか兄弟の一人が「きたない」と非難したときのことです。
彼女はいたずらっぽい目をくるっとさせ、あかるい音声で「北がなければ日本は三角」と応じました。この答は私たちを驚倒させました。父母ともに執着している清潔思想のお家芸が、軽いフックの一撃で吹っ飛とばされたからです。
私と弟は、寝室の蚊帳の釣り手をかわるがわる一箇ずつはずしては、三角になった日本を笑いながら検証しました。
満州事変(1931年)、五・一五事件(1932年)の頃であろう。十歳に達しようとする当時の谷川に向けて最晩年の谷川は推理する。大陸を含めた日本のかたちは四辺形だったが、幼い谷川はそれを円形として捉えていたようだ。それに対して海辺の娘の言葉は一撃を加えた。
―「あなたに北はあるの、それはどこ」という問いでもあると見れないこともありません。
この随想を書く谷川は地図を広げ、北海道東辺、小笠原諸島、与那国島を結ぶ。みごとな三角形、いつわりの所有(大陸)をとりのぞいた日本のすがた。
―彼女のいう、<北>とは<いつわりの領土>の意味だったのかと、つい深読みにおちいるほどです。
ともあれ、父が規定した検察官的な幼児期は、彼女のシンバルの一撃によってようやくゆらぎはじめ、私のなかの十代の独楽はあてもなく動きだすことになりました。
実は、私の頭に想起されたのは<三角>ではなくて「北がなければ日本は四角」であった。誤って想起されていた。本棚から取り出して私の思い違いが分かったのであるが、それには理由がある。四角は不安定なかたち、垂直性に欠ける、北があってこそ私たちは立つことができるのだ、三角形を成すことができるのだ、との思いが意識の下にあったからであろう。
熊野に生まれ育った私には<南>の「普陀洛」は肌に刷り込まれている。一方、北は希求するもの。谷川が言う「自分の精神をある透明な冷たさの極に集約する、<抽象としての北>」でもある。そんなことをいま思うのは戯言のように響くほど東北の被害は大きい。
私の東北の旅を、東北の友人を、津波におそわれた人たちを思う。一刻も早く北の町が復興して欲しい。
※『北がなければ日本は三角』著・谷川雁 河出書房新社刊
3月11日に発する「東日本大震災」。以来、夜、寝ている間もラジオをつけっぱなしでいる。眠っているのか起きているのか分からない日々。
東北地方の被害の大きさに震撼し、パソコンで津波に襲われた町の地図を見る。航空写真が地形を顕わにし、自分のなかで津波の恐怖を否応なく増大させる。そして津波に直面した人たちを思う。
寝不足でぼーっとした頭に、一冊の本の書名が思い浮かんだ。谷川雁の『北がなければ日本は三角』。「西日本新聞」に掲載された谷川最後の書き物であろう。幼い日々の回想を綴る、随想五十篇のなかの「北がなければ」から書名をとっている。
谷川家に「鼻歌から生まれてきたとでもいいたくなる、陽気なえくぼの小娘が登場」する。
―蚊帳の中の食事は、すこぶる彼女の気に入らないようでした。鍋にくっついている煮魚のしっぽを、平気で指でつまみあげ皿にのせたりします。そんな彼女の仕草を、だれか兄弟の一人が「きたない」と非難したときのことです。
彼女はいたずらっぽい目をくるっとさせ、あかるい音声で「北がなければ日本は三角」と応じました。この答は私たちを驚倒させました。父母ともに執着している清潔思想のお家芸が、軽いフックの一撃で吹っ飛とばされたからです。
私と弟は、寝室の蚊帳の釣り手をかわるがわる一箇ずつはずしては、三角になった日本を笑いながら検証しました。
満州事変(1931年)、五・一五事件(1932年)の頃であろう。十歳に達しようとする当時の谷川に向けて最晩年の谷川は推理する。大陸を含めた日本のかたちは四辺形だったが、幼い谷川はそれを円形として捉えていたようだ。それに対して海辺の娘の言葉は一撃を加えた。
―「あなたに北はあるの、それはどこ」という問いでもあると見れないこともありません。
この随想を書く谷川は地図を広げ、北海道東辺、小笠原諸島、与那国島を結ぶ。みごとな三角形、いつわりの所有(大陸)をとりのぞいた日本のすがた。
―彼女のいう、<北>とは<いつわりの領土>の意味だったのかと、つい深読みにおちいるほどです。
ともあれ、父が規定した検察官的な幼児期は、彼女のシンバルの一撃によってようやくゆらぎはじめ、私のなかの十代の独楽はあてもなく動きだすことになりました。
実は、私の頭に想起されたのは<三角>ではなくて「北がなければ日本は四角」であった。誤って想起されていた。本棚から取り出して私の思い違いが分かったのであるが、それには理由がある。四角は不安定なかたち、垂直性に欠ける、北があってこそ私たちは立つことができるのだ、三角形を成すことができるのだ、との思いが意識の下にあったからであろう。
熊野に生まれ育った私には<南>の「普陀洛」は肌に刷り込まれている。一方、北は希求するもの。谷川が言う「自分の精神をある透明な冷たさの極に集約する、<抽象としての北>」でもある。そんなことをいま思うのは戯言のように響くほど東北の被害は大きい。
私の東北の旅を、東北の友人を、津波におそわれた人たちを思う。一刻も早く北の町が復興して欲しい。
※『北がなければ日本は三角』著・谷川雁 河出書房新社刊
俳枕 江戸から東京へ(13)
佃島界隈/勝鬨橋
文:山尾かづひろ
【勝鬨橋】
都区次(とくじ): 築地本願寺の東にある勝鬨橋に行ってみましょう。この橋は初代の橋で、何代目というのではないのではありません。しかし架けられたのが昭和15年と遅いのですが、それまではどうだったのですか?
江戸璃(えどり):対岸の月島は元からあった島じゃなくて大方は明治25年より東京湾の浚渫の土砂を使って埋立てた島なのね。渡る手段としては日露戦争の旅順陥落祝勝記念として地元の有志によって設けられた「勝鬨の渡し」が唯一のものだったのよ。
都区次:勝鬨橋が出来るまで「渡し」で事が足りていたのですか?
江戸璃:昭和のはじめまでの月島は造船所に関係のない者には用のない場所だったのね。「渡し」を使うのは造船所の通いの職工さん位のもので、それほどの交通需要でもなかったのよ。昭和も少し経つと月島の石川島造船所が充実して一気に交通需要が増え、橋を架けることにしたのよ。その当時は陸運がパッとしていなくて隅田川を行く船が多かったので可動橋を計画したのよ。
都区次:造船所などの工場地帯への橋にしては格式のある造りですが?
江戸璃:勝鬨橋の完成する昭和15年は「皇紀2600年」で、月島地区で日本万国博覧会の開催を予定したのね。それで御大層な造りになっちゃったのよ。ところがギッチョンチョン、日中戦争が激しくなって軍部の反対で日本万国博覧会は「オジャン」になっちゃった。しかし、それ用の橋は予定通り架けられたというわけなのよ。
橋詰に風あり寒くなりにけり 小野淳子
渡り掛く勝鬨橋の師走かな 山尾かづひろ
文:山尾かづひろ
現在の勝鬨橋 |
【勝鬨橋】
都区次(とくじ): 築地本願寺の東にある勝鬨橋に行ってみましょう。この橋は初代の橋で、何代目というのではないのではありません。しかし架けられたのが昭和15年と遅いのですが、それまではどうだったのですか?
江戸璃(えどり):対岸の月島は元からあった島じゃなくて大方は明治25年より東京湾の浚渫の土砂を使って埋立てた島なのね。渡る手段としては日露戦争の旅順陥落祝勝記念として地元の有志によって設けられた「勝鬨の渡し」が唯一のものだったのよ。
都区次:勝鬨橋が出来るまで「渡し」で事が足りていたのですか?
江戸璃:昭和のはじめまでの月島は造船所に関係のない者には用のない場所だったのね。「渡し」を使うのは造船所の通いの職工さん位のもので、それほどの交通需要でもなかったのよ。昭和も少し経つと月島の石川島造船所が充実して一気に交通需要が増え、橋を架けることにしたのよ。その当時は陸運がパッとしていなくて隅田川を行く船が多かったので可動橋を計画したのよ。
都区次:造船所などの工場地帯への橋にしては格式のある造りですが?
江戸璃:勝鬨橋の完成する昭和15年は「皇紀2600年」で、月島地区で日本万国博覧会の開催を予定したのね。それで御大層な造りになっちゃったのよ。ところがギッチョンチョン、日中戦争が激しくなって軍部の反対で日本万国博覧会は「オジャン」になっちゃった。しかし、それ用の橋は予定通り架けられたというわけなのよ。
橋詰に風あり寒くなりにけり 小野淳子
渡り掛く勝鬨橋の師走かな 山尾かづひろ
I LOVE 俳句 Ⅰ-(10)
水口 圭子
たましいを彫刻したる吹雪村 吉田透思朗
ある彫刻家の作品集がある。その1ページ目は、「サキモリ」という作品名の、胸に四角の風穴の開いたブロンズの彫像が、四国側から朝焼けの瀬戸内海に向かって立っている写真である。「サキモリ」はいくつか有って、東京のギャラリーで観たことがある。しかしこの写真に出会ってからは、いつか是非この写真と同じ風景の中で観てみたいと思っている。
彫刻家の名は流政之、1923年生まれで現在88歳である。少年期より武士道と芸術の共存する環境にあり、ゼロ戦のパイロットとして敗戦を迎えた。後、戦死したパイロットの追悼のための作品作成を機に、彫刻家として活躍し始める。1964年41歳で渡米、各地に様々な作品を作り、ニューヨークのワールド・トレードセンターには、7年をかけて、2つの浮上三角が連なる形で250トンのミカゲ石の「雲の砦」を完成させた。1975年、ベトナム戦争が激しくなって来たので帰国、以後香川県高松市庵治町のスタジオを拠点とし、今でも旺盛に作品を作り続けている。
さて、その「雲の砦」だが、2001年9月11日の同時多発テロ事件の際、崩壊を免れ無事残ったものの、救助活動と復旧作業のために、跡形もなく撤去され廃棄されてしまった。2001年10月1日号のニューヨークマガジンに掲載されたテロ事件の報道写真には、煙る廃墟の手前に無傷で残った「雲の砦」が写っている。それから3年後の9月11日、鎮魂の想いが込められた「雲の砦Jr」が北海道近代美術館に甦った。
流の彫刻は殆どが抽象的な形であるが、作品名と置かれた場所を知ると、深く納得する。形が大きくとも威圧感が無く、一たびその前に立つと暫く離れられなくなる。魂がそこに還って行く様な、温かくてひどく懐かしい感じがするのである。
掲句を読んだ時、真っ先に流彫刻を思った。吹雪村の彫る彫刻はたましいの幻影だと思うが、流はたましいを込め、魂を惹きつける形を彫り続けている。
たましいを彫刻したる吹雪村 吉田透思朗
ある彫刻家の作品集がある。その1ページ目は、「サキモリ」という作品名の、胸に四角の風穴の開いたブロンズの彫像が、四国側から朝焼けの瀬戸内海に向かって立っている写真である。「サキモリ」はいくつか有って、東京のギャラリーで観たことがある。しかしこの写真に出会ってからは、いつか是非この写真と同じ風景の中で観てみたいと思っている。
彫刻家の名は流政之、1923年生まれで現在88歳である。少年期より武士道と芸術の共存する環境にあり、ゼロ戦のパイロットとして敗戦を迎えた。後、戦死したパイロットの追悼のための作品作成を機に、彫刻家として活躍し始める。1964年41歳で渡米、各地に様々な作品を作り、ニューヨークのワールド・トレードセンターには、7年をかけて、2つの浮上三角が連なる形で250トンのミカゲ石の「雲の砦」を完成させた。1975年、ベトナム戦争が激しくなって来たので帰国、以後香川県高松市庵治町のスタジオを拠点とし、今でも旺盛に作品を作り続けている。
さて、その「雲の砦」だが、2001年9月11日の同時多発テロ事件の際、崩壊を免れ無事残ったものの、救助活動と復旧作業のために、跡形もなく撤去され廃棄されてしまった。2001年10月1日号のニューヨークマガジンに掲載されたテロ事件の報道写真には、煙る廃墟の手前に無傷で残った「雲の砦」が写っている。それから3年後の9月11日、鎮魂の想いが込められた「雲の砦Jr」が北海道近代美術館に甦った。
流の彫刻は殆どが抽象的な形であるが、作品名と置かれた場所を知ると、深く納得する。形が大きくとも威圧感が無く、一たびその前に立つと暫く離れられなくなる。魂がそこに還って行く様な、温かくてひどく懐かしい感じがするのである。
掲句を読んだ時、真っ先に流彫刻を思った。吹雪村の彫る彫刻はたましいの幻影だと思うが、流はたましいを込め、魂を惹きつける形を彫り続けている。
尾鷲歳時記(10)
大矢数のこと
内山思考
韋駄天に山路は夢のごときかな 思考
記憶に間違いがなければ、大矢数は夏の季語だったと思う。京都三十三間堂の通し矢にしても、大阪生國魂(いくたま)神社の大矢数俳諧にしても、今のように照明や空調の設備が整っていない江戸時代のことだから、日が永く、夜も寒暖にそれほど影響されない初夏が最適だったのだろう。二十四時間でどれだけの矢を通せるか、とか、五・七・五と七・七の句を連続して詠めるか、とか、今なら誰もやらないようなことに昔の人は闘争心を燃やしたのだ。案外、平和な時代だった証拠だろう。
さて、ここから手前味噌になるが、僕も平成元年から四年続けて、大矢数をやった経験がある。五年には「西鶴没後300年スペシャル」とかで、NHK大阪のスタジオで十二時間の小矢数を実演した。僕のは全て発句。面白半分、真面目半分で挑戦した一回目で二千二百五十句。短冊の位置や、一つの季語で三十句づつ詠む、など工夫を重ね平成二年に三千二百四十六句、アレ、四千句
行けるんじゃないの?と自信がついて、三年目に三千九百五十句、と大台までもう少し。
そして平成四年十一月三日の某紙の記事。
「数千の小鳥を手より放ちけり。二日正午から二十四時間の大矢数俳諧にチャレンジしていた内山思考さんの打ち止めの句はこの一首だった。そして井原西鶴が残した記録をはるかに破って、今回の矢数は四千七百九十七句だった(中略)五千句にあと二百。調子よく四千句が作れたので、五千句はいけるかと思ったが、目標達成で気がゆるんでしまったかも…とちょっぴり反省」。
当時三十九才、「矢数は知的格闘技だ」と毎日、仕事を終えてから筋力トレーニングに一時間をかけ、挑戦の二日前から食事と水分を制限し、もちろん、句を読み始めたら熱い茶で口を湿らせる以外は食事抜き、不眠不休で筆を握りっぱなし。幻覚、幻聴、幽体離脱、体に起こった変化も全て句にした。一句平均十八秒である。あれから二十年近い歳月が流れた。もう一度やれといわれても多分できない。
内山思考
韋駄天に山路は夢のごときかな 思考
井原西鶴(像)さんと対面 生國魂神社にて |
記憶に間違いがなければ、大矢数は夏の季語だったと思う。京都三十三間堂の通し矢にしても、大阪生國魂(いくたま)神社の大矢数俳諧にしても、今のように照明や空調の設備が整っていない江戸時代のことだから、日が永く、夜も寒暖にそれほど影響されない初夏が最適だったのだろう。二十四時間でどれだけの矢を通せるか、とか、五・七・五と七・七の句を連続して詠めるか、とか、今なら誰もやらないようなことに昔の人は闘争心を燃やしたのだ。案外、平和な時代だった証拠だろう。
さて、ここから手前味噌になるが、僕も平成元年から四年続けて、大矢数をやった経験がある。五年には「西鶴没後300年スペシャル」とかで、NHK大阪のスタジオで十二時間の小矢数を実演した。僕のは全て発句。面白半分、真面目半分で挑戦した一回目で二千二百五十句。短冊の位置や、一つの季語で三十句づつ詠む、など工夫を重ね平成二年に三千二百四十六句、アレ、四千句
行けるんじゃないの?と自信がついて、三年目に三千九百五十句、と大台までもう少し。
そして平成四年十一月三日の某紙の記事。
「数千の小鳥を手より放ちけり。二日正午から二十四時間の大矢数俳諧にチャレンジしていた内山思考さんの打ち止めの句はこの一首だった。そして井原西鶴が残した記録をはるかに破って、今回の矢数は四千七百九十七句だった(中略)五千句にあと二百。調子よく四千句が作れたので、五千句はいけるかと思ったが、目標達成で気がゆるんでしまったかも…とちょっぴり反省」。
四千七百枚の短冊に埋もれて |
当時三十九才、「矢数は知的格闘技だ」と毎日、仕事を終えてから筋力トレーニングに一時間をかけ、挑戦の二日前から食事と水分を制限し、もちろん、句を読み始めたら熱い茶で口を湿らせる以外は食事抜き、不眠不休で筆を握りっぱなし。幻覚、幻聴、幽体離脱、体に起こった変化も全て句にした。一句平均十八秒である。あれから二十年近い歳月が流れた。もう一度やれといわれても多分できない。
私のジャズ(13)
発見!ジョン・コルトレーン
松澤 龍一
CDケースには Live at the Five Spot Discovery !と書いてある。まさに発見された録音なのである。ジョン・コルトレーンが彼の独自のテナースタイルを確立したのは、マイルスの元を離れ、セロニアス・モンクのカルテットに加わり、1957年にニューヨークのジャズクラブ、ファイブスポットに出演したときと言われている。このときの録音は残されていない...、と長年、信じこまされていた。それがあったのである。出てきたのである。その当時のコルトレーンの夫人がひそかに個人用のカセットで録音していた。1990年代に、これを Blue Note がCD化してリリースした。
発売されると同時に購入した。なにしろあのコルトレーンの一大転機の現場である。ちなみに、これを契機にコルトレーンは長年の麻薬から足を洗っている。あの Sheets of Sounds と呼ばれた、重層的な奏法が随所に聴ける。ソニー・ローリンズ風のホリゾンタルなメロディーラインも健在だ。二つのスタイルが混在していた時期のようである。その中から新しいコルトレーンは羽ばたきつつある。それにしても録音はひどい。やたらとドラムの音が大きく、その奥からコルトレーンが聞こえる。勝手にフェイドアウトはする。テーブルの食器の音が大きく被さる。この最悪な録音でも、、コルトレーンの変革への強いメッセージは強く鳴り響いてくる。これから10年、本当にコルトレーンは疾走した。モードからフリージャズへ、そして、1966年東京のコンサートを迎える。(ウィキぺディアによるとこのCDは1957年の録音ではなく、その一年後のものとされている。仮に一年後であったにしても、変革期のコルトレーンを伝える歴史的録音であることには変わりない)
************************************************
追加掲載(120104)
コルトレーンの独特のフレージングが聴ける。コルトレーンに続くアルトのソロはエリック・ドルフィーか。
松澤 龍一
The Thelonious Monk Quartet featuring John Coltrane (Blue Note CDP0777 7 99786 2 5)CD |
CDケースには Live at the Five Spot Discovery !と書いてある。まさに発見された録音なのである。ジョン・コルトレーンが彼の独自のテナースタイルを確立したのは、マイルスの元を離れ、セロニアス・モンクのカルテットに加わり、1957年にニューヨークのジャズクラブ、ファイブスポットに出演したときと言われている。このときの録音は残されていない...、と長年、信じこまされていた。それがあったのである。出てきたのである。その当時のコルトレーンの夫人がひそかに個人用のカセットで録音していた。1990年代に、これを Blue Note がCD化してリリースした。
発売されると同時に購入した。なにしろあのコルトレーンの一大転機の現場である。ちなみに、これを契機にコルトレーンは長年の麻薬から足を洗っている。あの Sheets of Sounds と呼ばれた、重層的な奏法が随所に聴ける。ソニー・ローリンズ風のホリゾンタルなメロディーラインも健在だ。二つのスタイルが混在していた時期のようである。その中から新しいコルトレーンは羽ばたきつつある。それにしても録音はひどい。やたらとドラムの音が大きく、その奥からコルトレーンが聞こえる。勝手にフェイドアウトはする。テーブルの食器の音が大きく被さる。この最悪な録音でも、、コルトレーンの変革への強いメッセージは強く鳴り響いてくる。これから10年、本当にコルトレーンは疾走した。モードからフリージャズへ、そして、1966年東京のコンサートを迎える。(ウィキぺディアによるとこのCDは1957年の録音ではなく、その一年後のものとされている。仮に一年後であったにしても、変革期のコルトレーンを伝える歴史的録音であることには変わりない)
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追加掲載(120104)
コルトレーンの独特のフレージングが聴ける。コルトレーンに続くアルトのソロはエリック・ドルフィーか。
季語の背景(4・寒食)-超弩級季語探究
小林 夏冬
寒食
中国最後の王朝はいうまでもなく清だが、その清王朝の史官だった斎召南の編になる『歴代帝王年表』によれば、紀元前三千年ころは中国の歴史もまだ暁闇の時代で、『史記』には伏犧氏は蛇身人頭にして聖徳ありとか、神農氏は炎帝といい、人身牛頭であったとか、有虞氏は龍顔であったなどという記述になっている。「龍顔を拝し奉り」というのはここから来るわけだが、この伏犧氏の蛇身人頭、神農氏の人身牛頭、有虞氏の龍顔などはいくらむかしむかし、その昔、いまから五千年もまえのことだといっても、そんなものがいるわけはない。
結局、五千年以上も前の話だから、これはもう仕方ないと思っていたら、暇潰しに眺めていた高井蘭山著、『訓蒙天地弁』「地の巻」「人」の項に「異国、上古の聖人に伏犧は蛇身人首、神農は人身牛首なりと。何ぞ聖人にしてかくのごとき畜物に類せるや」という質問があって、その質問になんと答えているか興味津々、読み進めてゆくと「上古の聖人、形体いまの人に異なること、太素の昔は火食することなく山海、土地に従い、畜肉魚肉を生マにて食し、巣に居し穴に座す。人物柔弱ならざるは時に従い自然の理なり」という。それはそうだ、そのころの人間がいまのように過保護であるわけがない。だけど、それがなぜ聖人なのに顔は牛なのか、「体は人で頭が牛」という生き物の答えにはならないだろう、と思いながら読んでゆくと、「仮令ば神農、牛の首ということ、その形しばらく似たるをいうものなり。今も顔の長きものをば馬の如しともいうべし」といっている。
神農は牛のような顔をしていたから、だから牛に例えて「人身牛頭」といっただけの話だと、まるで見てきたようなことをいっている。しかし、それにしてもうまく逃げたもので、確かに面長のことを「うまづら」という。だから「うしづら」といわれれば、そのあたりまでは渋々納得するとしても「へびたい」「りゅうづら」などは聞いたこともない。蘭山先生も「うまづら」と同じだといって切り抜けたものの、流石に少しは気が引けると見えて「容貌美なる悪人あり、醜き善人あり、聖人たる所以はただその徳にありて、形体にあらず」と補足している。
一方、『史記』はそのころを「兄弟十二人立各一万八千歳」【十二人の兄弟が、それぞれ皇位にあること一万八千年】としており、三皇とは天皇、地皇、人皇とする説、伏犧、女媧、神農とする説、伏犧、神農、黄帝とする説、燧皇、犧皇、農皇とする説などいろいろあり、その三皇に続くものが五帝ということになる。いずれにしてもこのへんまでは史実や、確かな文献があるわけではなく、伝説や口碑の域を出るものではない。しかし、それは順を追って述べる。
『歴代帝王年表』の「三皇五帝表」によると、三皇最初の伏犧は「生於成紀以木徳王風姓都於陳教民佃漁養犠牲」【成紀に生まれ、木徳の王で姓は風といい、都を陳に置き、人民に漁を教え、家畜を飼うことを教えた】そして「始画八卦造書契制嫁娶以龍紀官造琴瑟」【始めに八卦を画し、書契を作り、婚姻の制度を定め、龍を以って官位を表し、琴瑟を作り】「在位百十五年崩葬於陳〔陵在陳州城北三里〕或曰伝十五世八卦易始」【在位百十五年で陳に葬られた。〔陵墓は陳州城の北三里にある〕十五代続き、八卦、易を始めた】とあり、それは紀元前二千九百五十二年のこととしているが、伏犧のまたの名を庖犧ともいう。
続く神農氏は炎帝ともいい、俳句では夏の季語になっている。紀元前二千八百三十七年から同二千六百九十六年まで在位した王で、「育於姜水姜姓以火徳王亦曰烈山氏」【姜水で成長したので姓を姜といった。火徳の王なので炎帝といい、烈山氏ともいって】「都陳遷曲阜始芸五穀嘗百草日中為市以火紀官在位百四十年崩於長沙之茶郷〔陵在茶陵県〕」【都を陳から曲阜に遷し、五穀を蓄え、多数の薬草を嘗めて市を成した。官位を火で表して在位百四十年に及び、死してのち長沙の茶郷に葬られた。〔陵墓は茶陵県にある〕】そして「伝八世至楡罔而亡共五百六十四年」【八代目の楡罔で亡び、その治世は五百六十四年続いた】というから、単純計算で一代が約七十年ということになる。伏犧の在位百十五年などというのとは違い、それだけをとっても話は現実味を帯びてくる。
三皇の最後は黄帝軒轅氏で、紀元前二千六百九十七年から二千五百八十六年まで在位した。このへんから『歴代帝王年表』の記述はより具体的、かつ詳細なものになってゆく。日本で神武天皇が即位した皇紀元年を西暦年でいえば、紀元前七百四年になるが、それより二千三十七年も前、紀元前二千六百九十七年に即位した王が黄帝で、その黄帝に関する記事は「長於姫水姫姓有熊氏以土徳王」【姫水で成長したので姓を姫といい、有熊氏ともいって土徳の王である】という。そして「滅蚩尤代炎帝有天下都涿鹿以雲紀官」【蚩尤を滅ぼし、炎帝に代わって天下を取り、涿鹿に都を定め、雲で官位を表し】「作甲子紀暦法造律呂楽曰咸池制冠冕衣裳作器用作舟車作貨幣教蚕桑作内経」【甲子紀暦を作り、律呂や楽を作り、咸池という。儀式の冠や衣裳を定め、器用や舟や車を作り、貨幣を作り養蚕を教え、内経を作った】としている。
さらに「画野分州経土設井帝子二十有五人其得姓者十有四人自帝以後五帝三王皆子孫也」【野を画して州とし、土地を耕して井戸を設けた。黄帝には二十五人の子があり、うち姫姓を名乗ったのは十四人で、黄帝以後の五帝、三王はみなその子孫である】という。その黄帝は「在位百十年崩於荊山之陽葬橋山史記五帝本紀始」【在位百十年、荊山において没し、橋山に葬られた。『史記』五帝本紀の始めである】というスーパー帝王で、これが紀元前二千五百八十六年までの三皇に関する記述である。
神話の時代だから仕方ないといえばそれまでだが、在位百十年といえば、生まれた瞬間から王であったとしてもたいへんな年月といえる。たいへんな、というよりもちょっと現実離れした年月で、それに続くものが五帝ということになる。三皇まではそれぞれに血筋の繋がりはなく、世襲ではないが、三皇に続く五帝は三皇最後の帝王である黄帝の子孫で、まず少皞金天氏は紀元前二千五百八十七年から二千五百六年まで、次に顓頊高陽氏が紀元前二千五百五年から二千四百二十八年まで、次の帝嚳高辛氏は紀元前二千四百二十九年から二千三百五十八年まで、そして五帝四代目として帝堯陶唐氏が、紀元前二千三百五十九年から同二千二百五十八年まで、五帝最後の帝舜有虞氏は、紀元前二千二百五十七年から同二千二百八年までとなり、『歴代帝王年表』ではそれぞれ一項を立ててその業績を述べている。つまり、紀元前二千五百年代後半の王からは、もうそこまで具体的に記述ができる歴史が整っていたわけで、この点でも日本とはだいぶ差があることになる。
紀元前二千二百九年以降は夏王朝、同千八百八年からは商(殷)王朝、さらに紀元前千百五十年から周王朝となって春秋時代に入る。五帝の時代が約三百八十年、夏、商、周の時代が併せて約千九百年続いたことになる。殷は商ともいい、この殷王朝を『歴代帝王年表』では「商世表」としている。この商についていえば、塩は国の専売として国庫を支える重要な柱であったが、そこで塩池の塩を扱う人を商の人、商人という。いまのわれわれは日常会話の中で、なんの気なしに商人というが、この呼称は紀元前千八百年くらいまえ、殷のときからあったということになる。
その「商世表」紀元前千四百三十年の記事には「盤庚」とあり、「陽甲弟元祀庚子遷於殷改号曰殷在位二十八祀崩弟小辛立尚書有盤庚」【陽甲の弟、元祀庚申子は都を殷に遷し、国号を殷とした。在位二十八年で没し、弟の小辛が立ったが、書には盤庚とある】と書いている。しかし、その約二百年後に殷は周のために滅ぼされる。暴君としていまもその名を残す殷の紂王が、あまりにも暴虐を恣にしたため、周の武王に討たれることになるのだが、その紂王をして国を誤らせる原因となったのは例の妲己で、そのへんの事情は各種の書物に詳しい。
そして紀元前七百七十年に周は洛邑(洛陽)に東遷し、同二百五十五年ころから戦国時代に突入するが、周は国としての権威を全く失いはしても、滅亡することはなかった。それは周が伝国の鼎といって、日本でいえば三種の神器に匹敵するものを保持していたため、戦乱の時代を通じて群雄割拠の枠外にあったことによる。日本の戦国時代における朝廷のような別格の存在であったし、周の国力からいってどの国にとっても脅威たり得なかった、つまり、放っておいても別に心配ない存在だったというわけで、そのへんもわが国の戦国時代における朝廷のありようと似ている。
もし周を侵す国があれば、他の国はそれを口実にして大義を唱え、周を侵した国を滅ぼすことが出来るから、いわば周は錦の御旗である。その錦の御旗を侵すと周囲の敵国に、国賊を討つという大義名分を与えてしまう。そのような事情があって、どこも迂闊に周に手を出すことは出来なかった。周はそのお陰で命脈を保ったという事情があるのだが、最後は王政復古が成った日本と、中国統一を成し遂げた秦に伝国の鼎を奪われ、滅亡した周の違いはあるにしても、そこに至るまでの経過は日本の朝廷とよく似ている。そして束の間の平穏は四十年そこそこに過ぎず、あとは前漢、後漢、三国志の時代を経て晋、東晋へと続く、血で血を洗う抗争が延々と繰り返されてゆくことになる。
寒食はここまでの時代背景のなかで、周王朝末期から秦王朝のはざまで発生した、ある事件に由来する。それは後に述べるように二説あり、本当は風が強くなる三月ころ、防火のために火の使用を制限したものが、いつの間にか介子推に結びついたと思われる。詳しくは後で述べるとして、この例も屈原と競渡の話と同じように、介子推の事件と寒食の結びつきがどこまで正しいのか、ちょっと判断できないものがあり、講談社『日本大歳時記』は、介子推の焼死に重点を置いているにしても両論併記しているし、『広辞苑』では防火のためとしている。
関係のない他国の歴史を延々と書いた挙げ句、いきなり介子推なんたって、おれは知らんといわれてしまいそうだが、それもまことに尤なことである。寒食と関係ないことを長々と書いたが、寒食という行事が発生した背景、時代のよって来たる歴史を見たかっただけのことで、自分の国の歴史ならまだしも、他国の歴史に関心がない人にとっては迷惑千万、ただお気の毒としかいいようがない。いずれにしても以上が国会図書館所蔵になる『歴代帝王年表』に拠った中国古代史の流れで、乱暴ないい方をすればこれが中国有史以前から三千五百年間の概略ということになる。
ここまでに述べた時代背景を頭の隅に置いた上で話は少し遡る。周はいまからすればごく狭い範囲であるとはいえ、そのころの中国全土を平定したのち、王室の姻戚や功臣を各地に封じ、「小国並立千八百」という状態となった。各地に封ぜられた姻戚や、功臣諸侯が次第に勢力を強めるに従い、周王室を軽んじるようになり、その結果として周全体の結束が緩み、互いに争いあうようになって春秋時代となる。
そのころ十九年間に亙る亡命生活を送り、「逃げの重耳」と渾名された重耳が、晋の文公となったのは紀元前六百五十一年のことで、神武天皇が即位したとされる時期とほぼ重なると見てよい。正確にいえば紀元前七百四年に即位した神武天皇のほうが、約五十年早いことになる。しかし、『歴代帝王年表』によれば周王朝の十七代目、周は周でも十三代目以降は東周ということになるが、その十七代目、恵王の十七年が神武天皇即位の年となる。しかし、中国歴代の帝王在位年数を数えてゆくと、そこに二十八年の食い違いがあるというから、五千年の歴史の上では、晋の重耳が文帝となって即位した年と、神武天皇の即位年とはほとんど同時期といってよいだろう。そのへんになると確実なことは誰にも分かるものではない。
神武天皇のころの日本は、遠い神代の時代でなんの記録もないが、中国ではそのとき既に千三百七十年もの歴史が記録されている。その紀元前六百五十一年、この年、晋の公子だった重耳は長い亡命の旅から帰国して文公となった。この重耳が危うく逃れたのは四十三歳のときで、それから数えて十九年後、齢すでに六十二歳である。亡命のきっかけは皇位継承の内紛による粛清から逃れるためであったが、『史記』「晋世家第九」はその経緯を次のように記述している。
「蒲人之宦者勃鞮命重耳促自殺重耳踰垣宦者追斬其衣袪重耳遂奔翟」【蒲の宦官で勃鞮というものが、重耳に自決するよう迫った。しかし、重耳は垣根を越えて逃れ、勃鞮はそれを追って、重耳の翻る袂を斬っただけで逃げられてしまった。重耳は翟に逃れた】とある。『史記』は晋の皇位を巡る内紛を重複して記述しているが、後のほうでは「獻公使宦者履鞮趣殺重耳重耳踰垣宦者遂斬其衣袪重耳遂奔狄狄其母国也」【獻公は宦官の履鞮に重耳を殺せと命じた。重耳は垣根を飛び越えて逃げたが、刺客はそれを追って袂を斬っただけで逃げられてしまった。重耳は狄に逃げ込んだが、それというのも狄は重耳の母の出身国だったからだ】と記している。同じ『史記』でも、重耳が逃げ込んだところを前者では翟とし、後者では狄としている。翟も狄も音は同じ「テキ」だとはいうものの、刺客の名前も前者では勃鞮、後者では履鞮という違いがある。
また、後で引用する『塵袋』は重耳が逃げ込んだのは蒲だとしているが、これは『史記』に記載された「蒲人之宦者勃鞮」の、刺客となった宦官の出身国を誤って記した『塵袋』著者の単純な転記ミスではないかと思われる。なぜなら『史記』ではすぐその後のところで「重耳遂奔翟」【重耳は翟へ逃れた】と書いているからだ。記述の違いはこれだけではないが、『史記』の成立は紀元前九十七年だから、この記事は五百五十四年前のことを書いていることになる。マスメディアの発達した現在と単純に同一視できないとしても、現代の日本に当てはめていえば、応仁の乱の二十年ばかり前のことを、平成十五年になって書いたのと同じ理屈だから、ときには単純なミスも起きるだろう。
もう一つ、重耳の亡命に従った五人の賢者の名前も、『史記』と『十八史略』では違いがある。『史記』では趙衰、狐偃(咎犯)、賈侘、先軫、魏武子としており、子推の名はなく、ずっと後になって登場する。そもそも重耳の逃亡生活の始まりは前記の通り、命からがら逃げ出したもので、「是時重耳年四十三従此五士其余不名者数十人至狄」【この事件は重耳四十三歳のとき、従うものは五人の賢者と無名の家臣数十人、狄へいった】と、以下に十九年間に亙る亡命生活、というより逃亡の年月といったほうが正しいが、その苦労話を載せている。その間ずっと介子推の名は出てこず、亡命の旅が終わる少しまえ、重耳が秦の援助を得て文公となり、晋へ帰国するとき、黄河を渡る船上でのエピソードにやっと介子推の名が出てくる。
五人の賢者の一人、狐偃は咎犯ともいい、重耳にとっては舅に当たる人である。その狐偃が黄河を渡る船中で重耳に、私はあなたの亡命中ずっと従ってきましたが、至らないところばかりでした。このへんでお暇を下さいといったとき、重耳は当然のことながら、帰国した暁には重用することを誓って慰留した。それを見ていた介子推がせせら笑っていうには、「天実開公子而子犯以為己功而要市於君固足羞也吾不忍与同位乃自隠」【わが君の運が開けたのは天の賜なのに、犯は暗に自分の功績であるとしている。お恥ずかしい限りで、おれはこんなやつと今後、一緒に何かをするのは嫌だといって姿を隠した】
介子推の隠棲は以上の理由によるものだが、ここに至るまで介子推の名が出なかったのは、そんな子推の性格によるものだったかも知れない。そして重耳が帰国して文公となったのち、逃亡生活中の論功行賞があり、その顕彰に漏れたのも子推の、そのような性格ゆえと思うのは考えすぎだろうか。だからこそ「是以賞従亡未至介子推推亦不言禄禄亦不及」【亡命に従ったものはみな賞を受けたが、介子推は漏れた。子推も黙っていたのでご褒美の沙汰はなかった】となる。
重耳が子推のことを忘れてしまったのはそれなりのわけがあった。子推が隠遁生活に入って、重耳の目の届かないところへ行ってしまったということもあるが、重耳は文公となっても、国の基礎が固まらないうちは内外に山積した問題が多く、ごたごたの対応に追われていたからである。しかし、子推の母にしてみればこのような不公平は納得できるものではない。「盍亦求之以死誰懟」【おまえはなんで殿さまにいわないのかね。いわずに死んでしまったら、誰を怨みようがないよ】と子推に迫った。子推は黄河を渡る船上で起きた狐偃との経緯を母に話し、人のことをいっておきながら、自分も同じようなことをするわけにはゆかないというと母は、ではわたしもおまえと一緒に隠れようといって、ともに山へ入ってしまった。
その様子を見た子推の従者は義憤に駆られ、龍と五匹の蛇に仮託して宮門に張り紙する。「龍欲上天五蛇為輔龍己升雲四蛇各入其宇一蛇独怨終不見処所」【龍が天に昇ろうとしたとき、五匹の蛇がそれを援けた。お蔭で龍は雲に昇り、四匹の蛇はそれぞれ居所を得たが、一匹だけは怨みを呑んで遂に居場所さえ分からない】というものである。文公はその張り紙を見て「これは子推のことだ。わたしは国事に追われて彼のことを忘れていた」と悔い、すぐに子推を探させたところ、綿上山に隠れ住んでいることが分かり、この山を子推の封田としたうえ、山の名も介山と改めさせた。
『史記』は宮門に張り紙したのは従者だとしているが、『塵袋』では鍋蓋に書いて下げたとなっている。この二点の違いについては『塵袋』の項で改めて触れることにするが、このように『史記』は子推が焼死したと書いていない。また、『呂氏春秋』『淮南子』も子推が焼死したとはしていない。ただ、『史記』では子推の従者が主のため、宮門に張り紙したとしているが、『呂氏春秋』「十二紀」に続く「介立編」では、子推が自ら詩を作り、それを宮門に貼ったことになっている。その部分を見ると、「介子推不肯受賞自為詩賦曰」【子推は賞を受けることを拒んで詩を作った】として用字に小異はあるものの『史記』に述べられている、従者が作ったとされている詩を書いて、「懸書公門」【書を文公の宮門に張った】としている。
しかし、これはちょっとおかしな話で、「不肯受賞」は少なくとも『史記』にいう「禄亦不及」とは違い、子推が賞を受けることを辞退したというニュアンスがあり、そこに子推の意思が働いていたことを意味する。だが、「禄亦不及」になると、子推の意志云々の前段階として無視された、忘れられたということになろう。だから「不肯受賞」だとしたら、禄を受けることを拒みながら、一方では未練がましく宮門に張り紙をするという、話の流れとしていかにも不自然なものになる。もしそうだとするならば、黄河を渡るときのエピソードからいって、子推の二枚舌ではないかということになり、彼の孤高とさえいえるイメージはがらりと崩れてしまう。
五人のうち一人だけ賞をもらえなかったのなら、その旨を文公に申し出ても、一向に恥ずべき行為ではない筈だが、それが子推の美学に外れているのなら、最後まで沈黙を通すべきだろう。それでこそ「木を抱いて焼死した」ことが首尾一貫するわけだから、やはり龍と五匹の蛇の話は、子推の従者が宮門に張ったというほうが正しく、『呂氏春秋』でいう子推自作の詩、というのは間違いと思えてならないが、子推が自作の詩を張ったとする説と、従者が作って宮門に張ったという説と、どちらが本当のことなのか、いまになってはもう分からない。
これを『十八史略』で見ると、『史記』とは五人の名前に違いがあることは前記したが、そのほかにも黄河を渡る船中での、狐偃を巡るエピソードもない代り、股を割く話がある。「重耳出奔十九年而後反国嘗餒於曹介子推割股以食之」【重耳は十九年の逃亡生活ののち国へ帰った。かつて曹を流浪して飢えに苦しんだとき、介子推は腿の肉を割いて重耳に食わせた】とあり、続けて「及帰賞従亡者狐偃趙衰顚頡魏犨而不及子推」【帰るに及んで亡命の旅に従った狐偃、趙衰、顚頡、魏犨には恩賞があった。しかし、子推にはなんの沙汰もなかった】としているから、五人の名前に違いはあるにしても記述してある事柄そのものは矛盾しない。
重耳は帰国して晋の国王となり、その名も公と表記される。そこへ前記の張り紙事件が起きたわけである。「子推従者懸書宮門曰有龍嬌嬌頃失其所五蛇従之周流天下龍飢之食一蛇刲」【子推の従者が宮門に張り紙をした。曰く、威勢のよかった龍はあるとき、その居るべき場所を失い、五匹の蛇が供をして天下を流れ歩いた。逃亡生活で龍は食うものもなく、飢えに苦しんだとき、一匹の蛇が自分の腿の肉を割いて食わせた】そして「龍返於淵安其壤土四蛇入穴皆有処処一蛇無穴号于中野」【その後、龍はもとの淵に戻って安穏に暮らし、供をした四匹の蛇もそれぞれの穴に入った。しかし、一匹だけは入るべき穴もなく、荒野で泣いている】というものである。
「公曰噫寡人之過也使人求之不得隠綿上山中焚其山子推死焉後人為之寒食文公環綿上田封之号曰介山」【文公は張り紙を見てああ、おれが悪かったと反省し、子推を探したが見つからなかった。やがて綿上山に隠れていると分かり、その山を焼いたら子推は出てくると思い、火を放った。しかし子推は遂に山を降りず、木を抱いたまま焼死した。そういうことがあって、後の人はその日に火を使うことを禁じ、前以って煮炊きした冷たいものを食べた。文公は綿上山を封じて介山と名付け、子推を祀るための所領とした】とある。
『十八史略』の腿を割く話は、日本人の常識からいえばいかに食うものがなかったとしても、自分の腿の肉を切り取って主君や、自分が尽くしている人に食わせるというのは違和感があるが、日本の文献にもそういう表現が皆無というわけではなく、稀にはそういう表現も見受けられる。一方、中国の文献では定番ともいえるもので、主君が飢えたりするとすぐに「わが肉を割いて」食わせたりする。
例えば『夢粱録』十七巻「后妃と烈女」には、病に臥した主君や老母のため、わが肉を割いて食べさせる女の話がたくさん出てくるし、西太后(第二夫人)は、対立する東太后(第一夫人)が病に臥したとき、わが腕の肉を切ってスープを作り、それを東太后に飲ませた。人のよい東太后はそれに感激して前後を忘れ、亡き王からもらったお墨付きを燃やしてしまった。恐れるものがなくなった西太后は、そこで一気に東太后を葬り去ったという話もある。「后妃と烈女」の例や、西太后の場合は飢を凌ぐためではなく、わが肉を薬として食わせているから、食に窮した主君のためにわが肉を食わせたという、子推の場合と聊かニュアンスは異なるとしても、「わが肉を割く」という点では同じだろう。
『夢粱録』第二巻、「清明節」の項にも寒食が出てくる。こちらは単なる季節行事としてのもので、子推の話は出てこない。「清明交三月節前両日謂之寒食京師人従冬至後数起至一百五日」【三月は清明節に始まり、そのまえの二日を寒食という。都の人は冬至から数えて百五日目をその日としている】といい、「此日家家以柳条挿于門上名曰明銀」【この日はどの家も柳の枝を門に挿し、これを明銀という】とし、さらに「凡官民不論大小家子女未冠笄者以此日上頭」【官民は貧富の別なく、未冠の子女は頭に笄を挿す】風習があり、「寒食第三日即清明節」【寒食の三日目が清明節になる】としているだけで、寒食の謂れについては言及せず、あとは当日の行事や宮中、民間の風俗を描写している。
ここまで見てきたように、本による小異はあるが、いずれにしても介子推は寒食にまつわるお話の主人公とされている。ただ、その日と起源についてそれぞれ二説あって、日については子推が焼死したとされる五月五日という説と、季節風の強くなる三月、冬至後の百四日目、百五日目、百六日目の三日間とする説があり、起源についても子推が焼死したことを悼んでするという説と、防火のためとする説で、この子推を寒食と結びつけて考えるのは、民間伝説の誤りであるとする記述は『五雑組』ほかにある。どちらが正しいのかということになると、正しくは冬至から数えて百五日目のほうで、起源はあくまでも防火のためと思われるが、この点については後述する。
寒食は最初のうちは一箇月間だった。のちになって三日間だけとされたが、これについても民話があって、後漢の周挙という人が并州の知事になり、子推の御霊屋に詣でていうには「人民は禁火のためにみな苦しんでおります。このようなことは賢者のなさることではありません」と祈り、人民は暖かいものを食えるようにして、いまは三日間だけのことになった。それが冬至から数えて百四、百五、百六日目の三日間であるとし、并州の話であると断っているが、その起源は子推と結びつけ、日のほうは防火説である冬至後の日数をいっているという、二つの説を繋ぎあわせたようなおかしなことになっている。この禁火の令はもともと周王朝によって制定され、期間も一箇月に及ぶもので、この火禁の令は魏の時代にも重ねて発令され、罰則はいっそう厳しいものになった。
日本でも三月は黄砂の時期であることからも分かる通り、光の二月、風の三月という俗言そのままである。風が強くて山火事はほとんどこのころに集中しているし、もとはといえば中国大陸からの偏西風が原因だから、日本も中国もそういう気象状況に大差はないと考えてよい。その偏西風は遠く太平洋を越え、アメリカ大陸にまで達するから、太平洋戦争のとき、日本軍部はそれを利用して風船爆弾を作り、アメリカで山火事を起こさせた。これはアメリカにとって相当の脅威だったが、日本ではその効果を疑問視し、中止してしまった。
そのくらいだからこの時期は季節風が強く、防火のために一箇月間も火を使うことを禁じた。その間の炊事は出来ないから、あらかじめ火を通しておいたものか、それとも生で食べるということになる。冷たいものを食べるしかないわけで、ましてや火で体を温めるということも出来ない。これが寒食の謂れで病人、老人、こどもなどの死者が続出したという。火禁を犯したものに対する罰則は過酷を極め、後には遂に死刑が適用されるまでになった。
以上は正史の記述で、次に高承撰『事物紀原』を見てゆく。この『事物紀原』は、宋の高承が二百十七項目について、その縁起を古文献に拠って明らかにしたもので、それがいまに伝わるように、千七百六十四項目にまで膨れ上がったのは、後世の人が追加したものだろうと校注者の胡文煥は書いている。その『事物紀原』「歳時風俗部」寒食の関係では、「子推」「寒食」「禁火」の三項目があり、「子推」の項に火を断った理由、即ち文公が山を焼いたため子推が焼死した条りがあり、寒食に入る前に準備する食品をいろいろ上げたあと、どの家も「柳条挿戸」【柳の枝を門に挿す】春の風習を述べ、子推の焼死が寒食の起源であるとする説を、「相伝之謬至於如此也」【口コミによる誤りとはこのようなものだ】といい、寒食は子推の焼死を悼んでのこととする説を否定し、その日は冬至ののち、百三日目以降の三日間としている。
その記述が「寒食」の項で、陸翽の『鄴中記』を引用し「并州之俗以冬至後一百三日為介子推断火冷食三日作乾粥食之中国以為寒食」【并州の民間では俗に、冬至ののち百五日目は介子推のために火を断ち、乾粥を作って食う。これを中国では寒食という】とし、続けて『荊楚歳時記』を引用し、「去冬至一百五日即有疾風甚雨謂之寒食」【冬至から数えて百五日目のころは、風や雨が甚だしい。それで火を断ち、寒食する】と、『荊楚歳時記』も冬至後の百五日目という説を取っており、起源については両論併記している。
しかし、「禁火」の項では『鄴中記』を引き、「寒食断火起於介子推左氏史記不見子推被焚之事」【寒食に火を断つのは介子推の焼死から起きたという。しかし、左伝や史記には子推が焼死したという記事はない】とし、「周礼司烜仲春以木鐸修火禁於国中注謂季春将出火」【『周礼』には司烜氏が木鐸を鳴らし、国中に火禁を呼びかける。その注記には季春の火事を防ぐためだとある】という。こうして見ると寒食は介子推の焼死に始まる、とするのはここでも誤りだとしており、こちらのほうが正しいと思われる。そして「寒食一月老少不堪今則三日而巳自漢以来訛謬巳若此也」【寒食の禁火は一箇月にも及び、老人や幼児には耐えられない。今は三日間だけとなったが、漢以来の誤りがそのまま伝えられたからだ】とあり、『荊楚歳時記』そのほかの記事と重複するので、そちらでもう一度述べることにする。
ちょっとまえのところで『夢粱録』に触れた。これは南宋で、一口に宋といっても北宋と南宋がある。この二つを別のものとして見るか、一つのものとして見るかだが、歴史区分としてはもちろん別である。しかし、もとはといえば宋の属国だった金が次第に力をつけ、遂に属国から対等の関係になり、最後にその立場は完全に逆転し、西暦千百二十七年、宋は金に降った。『歴代帝王年表』によればその年四月、金は二人の帝と后妃三千人を北へ拉致した。それだけでなく皇族、縁戚まですべて家族ぐるみ金に拉致され、軟禁状態にあって帰国は許されなかった。
たまたま旅行中で拉致を免れた徽宗の九番目の子、構が高宗となって同年九月、南京で即位した。宋の大半は金の領有するところとなり、高宗は遥か南の一隅に下って南宋となる。北朝鮮もまっ青というか、カタなしの暴挙だが、宋としては領有する地や皇帝は変わっても、年代的な空白はなく、血統の上でも絶えてしまったわけではない。さっき北宋と南宋を一つのものと見るか、別のものとして見るかと書いたのは、そのような事情からである。いずれにしても南に下って建国した宋は、南宋として臨安を事実上の都として栄えた。この金もモンゴル族の元によって滅ぼされるが、それはまた後の話である。
呉自牧の著になる『夢粱録』二十巻のうち、第六巻までは臨安の歳時記ともいうべきもので、三月の項には清明節があり、そのまえは寒食だということは先に述べた。この清明節はいわば中国の墓参りの日で、日本の彼岸や盆の墓参りに比べると、ずっと娯楽的な色彩が濃く、いってみればピクニックを兼ねたようなものである。謝肇淛はこの風潮を、『五雑組』で嘆いて次のように記している。
曰く、「北人重墓祭」【北方の人は墓参りを重んじ】るので、山東地方にいたころの体験談として、「寒食郊外哭声相望至不忍聞」【寒食には墓に詣で、野に哭く声は遠くから聞こえ、とても耐えられないほどだった】それなのに「南人借祭墓為踏青遊戯之具」【南の地方の人は、墓参りを口実にして野に出て遊ぶ】という。野に出て清遊するだけならよいとしても、「紙銭未灰冩履相錯」【紙銭が燃えきらないというのに、もう遊びのほうに目の色を変え】「日暮墓間主客無不頽然酔矣」【日暮れのころともなれば、主客ともに墓の前で酔い潰れている】と弾劾する。
日本では三途の河の渡し賃として、棺の中へ紙幣を入れたりする。中国の紙銭というのは亡き人があの世で使う紙幣で、葬儀や忌日などに亡き人を供養するために燃やす。私が若いころ中国人の家に不幸があって、この紙銭を一枚もらって仕舞っておいたものだが、その後いつの間にやらなくしてしまった。縁起のよいものではないから、どうしても大事にしようという気にならない。亡き人があの世でも自由に金が使えるようにという趣旨のものだから、墓参りのときにそれを燃やしたり、地獄の獄卒に贈る賄賂として燃やすことになる。
そして「夫墓祭巳非古而況以薫香凄愴之地為謔浪酩酊之資乎」【だいたい、墓参りはもう昔とはその様相を一変しているが、それにしても厳粛に香を焚き、先祖を祭る地を、酔っ払いの場にしてしまうとはいったいなんたることか】と切歯扼腕している。一般的に北の地方、寒いところの人と比べると南方人はどうしても楽天的というか、開放的な気質になるものだが、それも度が過ぎるとよろしくないのは昔も今も変わらない。清明はあくまで清明であって踏青ではないのだから、慎むべき事柄は慎むべきだろう。
江蘇古籍出版、顧禄の『清嘉録』は、このころの風習として「寒食日家家楊柳挿門」【寒食にはどの家も門に柳の枝を飾る】としている。さらに『昆新合志』を引用して「挿麦葉於門戸」ともあるから、ところによっては柳の枝ではなく、葉のついた麦を使うところもあるのだろう。それについては「寒食日男女胥佩戴麦葉此又一説」【寒食には男女を問わず、麦の葉を挿すという説もある】というから、これは門ではなく胸のポケットとか、襟首などに挿すか何かするのだろう。柳の枝にしても必ずしも門に飾るだけではない。この日は柳の枝を売り歩く人がいて、女は老若を問わず、柳の枝を髪に挿して飾るというから、季節に相応しい洒落れた楽しみ方ではある。ただ、それは単に季節的なお洒落、春の楽しみということの他に、毒虫除けのお呪という意味もあることは、次の『燕京歳時記』の一節からも窺うことができる。
北京古籍出版『燕京歳時記』は、その名の通り北京の年中行事を記したもので、寒食は清明の項で出てくる。そこには「清明即寒食又曰禁烟節古人最重之今人不為節但児童戴柳祭掃塚塋而己」【清明と寒食は一体のもので禁烟節ともいい、昔の人はこの日を大事にした。ただ、いまは節日になっていない。こどもは柳の枝を輪にして頭に戴き、墓を清掃して先祖を祭る】として、その祭りのやり方というか、つまり墓参りのやり方ということになるが、それは「世族之祭掃者於祭品之外以五色紙銭製成幡蓋陳於墓左祭畢子孫親執於墓門之外而焚之謂之仏多」【先祖を祭るものは墓参り用品のほか、五色の紙銭や幟や旗を墓の左側に並べて行い、儀式が終わるとこれらの品々を墓前で焼く。これを仏多と称し】このやり方は「民間無用者」【民間ではしない】という。そして『析津志』を引用して「遼俗最重清明上自内苑下至士庶倶立鞦韆架日以嬉戯為楽」【遼では清明を最も大事にし、宮中から庶民に至るまでぶらんこを作り、一日中それを楽しむ】としている。
さらに『歳時百問』を引用し、清明の謂れを明かしている。「万物成長此時皆清浄明潔故謂之清明」【万物はこの時期に成長し、みな清らかにして明るい。それで清明という】ということで、柳の枝を輪にして頭に戴くのは、唐の高宗が三月三日に渭水の岸辺で禊をしたとき、家来一同に柳の枝で作った輪を賜ったのが始まりだとしている。「謂戴之可免蠍毒」【これを頭に載せると蠍の毒を免れる】というが、どうして柳の枝で作るのか、それを頭に載せるとどうして蠍の毒を免れるのか、その説明は書いていないから理由は分からない。結局は単なる迷信だから、そういう迷信に理由を糾しても、納得できる答えなどなくて当然だろう。
清明の市井風俗や墓参りについては『清嘉録』にも詳しく記されているが、この項は寒食について書いているのだから、墓参りの風俗などは省く。それというのも、そこまで紹介し始めたら相当のスペースが必要になって、寒食のほうがボケてしまう虞があるからだ。これらの文献のほかに中国の仙人を七十一人挙げ、紹介している『列仙伝』もあり、これは一人について百五十字から、三百字くらいの記述しかないが、一口に百五十字くらいといっても漢文の百五十字だから、和文に直したら、とても百五十字や三百字程度で収まるものではない。
この劉向の著になる『列仙伝』で見ると、介子推の話もいささか趣が異なってくる。だいたい、そのまえに子推を仙人の仲間に入れてよいのか、という疑問もなきにしも非ずといえよう。山に隠れ住んだというから、それで仙人の部に入れたのかも知れないが、それをいったら日本に限らず、世界各地にゴマンといるホームレスといわれる人たちは、みな仙人ということになってしまう。この『列仙伝』は仙人の伝記という性質上、当然ながら史書と同一視することは出来ない。夏の暑い日は一日中、水の底に潜んで涼んでいたというような、現実にあり得ない仙人の話だから、『史記』や『十八史略』など、正史の記事と大幅に異なるのは当然である。
日本でも著名な仙人として、川で洗濯をしている女性の太腿に見とれて墜落した、まことに人間臭い久米の仙人がいる。この久米の仙人は高井蘭山『訓蒙天地弁』「人の巻」に、雲から逆さまに墜落する挿絵入りで、中国の仙人と並んで紹介されている。仙人というより、そこらの助平おやじといった風貌で描かれているのはご愛嬌だが、その挿絵に添えられているコメントには、「久米の仙人、浣婦の白き脛に心を揺し、忽ち通を失ひて墜落す」とある。「浣婦」とは要するに洗濯する女ということだが、ちらりと女の太腿を見たくらいで目が眩み、墜落するようでは、いまどきの若い女の子を見たら悶絶し兼ねない。さりとはまた心許ない仙人で、いったい何を修行していたのかといいたくなる。そんなことでよく仙人になどなれたものだ。
それに反して中国の仙人たちは『抱朴子』『列仙伝』『神仙伝』などに掲載され、荒唐無稽な話という共通点はあるとしても、久米の仙人のように不謹慎なものはいない。とくに『神仙伝』に出てくる仙人は「神仙」と断っているくらいで、それこそ人間離れした仙人ばかりだから、魅力という点ではゼロに近い。仙人伝説に共通しているのは不老不死と錬金術で、その二つの話が大きな柱になっており、どちらもまことしやかに書いてあるが、不老不死にしても錬金術にしても、どちらもインチキ話だからあまり面白くはない。
しかし、そうはいっても、ただインチキ話だから面白くないというのではない。俳句の世界だって蚯蚓や亀を鳴かしたり、草が腐って蛍になったり、鷹や雀が蛤になることがある。面白くないのは一見したところは科学的に記述し、それでいながらインチキ話だからで、徹頭徹尾インチキに徹したら面白いのだが、記述はシリアスでいながら、話自体は我田引水といった趣だからどうしても好きになれない。
自分の好みで話が横道にばかり逸れた。その『列仙伝』介子推の項は短いものだから全文を紹介すると、「介子推者姓王名光晋人也隠而無名悦趙成子与遊旦有黄雀在門上晋公子重耳異之与出居外十余年労苦不辞及還介山伯子常晨来呼推曰可去矣推辞母入山中従伯子常遊後文公遣数千人以玉帛礼之不出後三十年見東海辺為王俗売扇後数十年莫知所在」とあり、要約すると【介子推は姓を王、名を光といい、晋の国の人で、その名は隠遁生活を送っていたので世間には知られていない。趙成子とウマが合うところから交友があり、いつも一緒に遊んでいたが、あるとき黄雀が門に止まっていた。晋の公子だった重耳は、子推の人物を見込んで国外へ出、一緒に十年余り暮らしたが、別に苦労を嫌がることもなかった。晋に帰ってから介山の伯子常が朝早く訪ねてきて、子推を俗外の世界に誘ったので、子推は母に別れを告げて山中に入り、いつも伯子常と行動をともにしていた。のちに文公、かつての重耳が数千人の家臣を迎えに出し、山のような財物を積み、三顧の礼をもって誘ったが、子推は遂に山を降りることはなかった。その後三十年くらい経って東海のあたりに現れ、扇を売っているのを見た人がいる。さらにそののち数十年経つとその姿さえ見られなくなり、居場所は杳として知ることは出来なかった】としている。
これは介子推外伝というべきかどうか知らないが、いずれにしても、防火のために火を使うことを禁じたとも、焼死した子推を悼み、その霊鎮めのために火を禁じ、冬至から百五日目の前後三日間、冷たいものを食べる中国の年中行事になったという。しかし、子推は仙人になったのであれば、寒食などとアホなことをやってんじゃねえと顎を撫でているか、おれは関係ねえと昼寝でもしているか、仙人の考えることは常人には分からないとしても、少なくともそんなふうに思わせるところに夢がある。
次は宗懍撰『荊楚歳時記』によって、寒食の由来を述べる。こちらは至って真面目な話で、「去冬節一百五日即有疾風甚雨謂之寒食禁火三日造飴大麦粥拠歴合在清明前三日亦有去冬至一百六日者」【冬至のあとの百五日ころは風の強い季節なので、この三日間は火を禁じて寒食し、飴と大麦の粥を作る。寒食は暦によると清明の三日前で、冬至から数えて百六日のちのことである】という。そして文公が山を焼いたため、子推は木に抱きついたまま焼死したとされる五月五日にこれを悼み、「令人五月五日不得挙火」【いまの人は、五月五日に火を使わない】というが、『荊楚歳時記』は続けて「五月五日与今有異皆因流俗所伝拠」【五月五日といっていまと違うのは、結局のところみな民間伝説だからだ】として、五月五日に子推は焼死したから火を禁じる、というのはあくまでも俗説に過ぎないといっている。
そのうえで『周書』司烜氏のくだりを引用して、「去冬節一百五日」【冬至を去る百五日】つまり春先の三月、風の強くなる時期は防火のため火を使わないで、寒食するのが正しいという。さらに「周書司烜氏仲春木鐸循火禁于国中注云為季春将出火也」【周書の司烜氏の条に、仲春になると木鐸を鳴らし、国中に火禁を呼びかける。春先は風が強く火が出やすいからだ】とし、続けて「今寒食準節気是仲春之末清明是三月之初」【寒食を節気に当てはめてみると二月末で、清明は三月初めになる】し、「然則禁火蓋周之旧制」【この禁火の令は周の制度】なのだという。
そうなると五月五日に焼死したとされる介子推と、三月の行事である寒食とでは、日付のうえからいっても関係ないことになるし、そもそも『史記』には子推が焼死したという記事そのものがないのだから、寒食は子推の鎮魂のためとするのは後世のこじつけだという、『和漢三才図会』ほかの説が正しいことになる。『荊楚歳時記』はさらに各種の記事を引用し、「陸翽鄴中記曰寒食三日醴酪又煮粳米及麦為酪擣杏仁煮作粥」【陸翽の鄴中記に寒食の三日間はバターやチーズ、それから米を炊いたものや、麦の粥に杏仁を砕いて足し、粥にする】といい、「玉燭宝典曰今人制為大麦粥研杏仁為酪引餳沃孫祭子推文云干飯一盤醴酪二盂是其事也」【『玉燭宝典』によると今の人は麦の粥を作り、杏仁を加えてバターや飴をかけるとある。孫楚が子推を祀った文に干飯一皿、チーズ二椀とあるのはそのことだ】といい、寒食に備えて各種の食品を取り揃えた台所の様子を描写している。
寒食が一箇月だったころは台所だけで足りる筈もなく、家中が食品で埋まっていたことだろう。火を禁じる寒食に入る前日、すなわち冬至から百三日目を「炊食熟」といい、この日はあらかじめ煮炊きをする日となっており、『荊楚歳時記』はさらに続けて『琴操』を引用し、『十八史略』と同じ話を載せ「琴操所云子綏即推也又云五月五日与今有異皆流俗所伝拠」【琴操に子綏と書いてあるのは子推のことである。また、その日を五月五日といって、いまと違うのは民間伝承だからで、俗に流された説なのだ】とし、『周礼』を引いている。「周書司烜氏仲春以木鐸循火禁于国中注云為季春将出火也今寒食準節気是仲春末清明是三月之初然則禁火蓋周之旧制」【周礼には司烜氏が仲春になると、木鐸を鳴らして国中に禁火を呼びかける。注によれば春先に火を出さないためで、寒食を節気でいうと仲春の末、清明は晩春の初めになる。この禁火は周の旧法によるものだ】とある。
この条は謝肇淛著『五雑組』第二巻、禁火の項にも引用されている。「寒食禁火以為起自介子推者固俗説之誤」【寒食には火を禁じたが、それは介子推から始まったというのは俗説だ】とし、続けて『周礼』を引用し、「司烜氏仲春以木鐸徇火禁於国中注云為季春将出火」【司烜氏は仲春に木鐸を鳴らし、国中の火を禁じたという。これは春は火が出やすいからだ】とあって『荊楚歳時記』と同じ記述になっている。
さらに寒食の項で『琴操』を引き、「介子綏以五月五日死文公哀之令民不得挙火今人以冬至一百五日為寒食其説巳互異矣(中略)訛以伝訛日甚一日至」【介子推は五月五日に焼死したのを文公が哀れに思い、火を禁じたというが、今の人は冬至から百五日目を寒食とし、そのいうことは違っている。(中略)これは誤りが誤りを呼び、日一日と甚だしくなったものだ】とし、子推は五月五日に焼死したというが、今は冬至から百五日目としているという違いを問題にしている。
このころの中国は一貫して陰暦だから、いまの日本のように陰暦で数えるか、陽暦で数えるかという、そういう混乱から生じたのではない。従って日にちの食い違いはあってならないもので、もともとは火事を防ぐためのものが、後世になって子推の焼死と結びつけられてしまった、と解釈するのが正しいだろう。前にも記したようにこの記事は『事物紀原』第七巻、歳時風俗部と同じである。この禁を犯したものは家長で半年の刑、主吏で百日の刑、令、長は一箇月の俸給を没収された。のち、さらに罰則は強化され、死刑を適用されるまでになったが、なぜこんな厳しい罰を科してまで火を禁じたかといえば、防火のための禁火とも、また、守護神であるオリオン星座に対し、敬意を表したものだともいう。
しかし、介子推の鎮魂のため、あるいは守護神に対する敬意の表白といっても、それだけのために老人、幼児の死するもの続出という事態を無視して、そこまでやるとは到底思えない。一箇月も火を禁じるのは人間の生存にも関わる、重大な支障となるのは目に見えたことだからだ。やはり『刑楚歳時記』でいっている「去冬節一百五日即有疾風甚雨」【冬至のあと、百五日目ころは風が強くなる】から、防火のためと考えるのが自然だろう。この寒食の風習は日本にはないもので、たいていの行事は日本に伝来しているが、寒食は伝わらなかったのはなぜか分からない。一面識もない介子推にそこまで義理を立てることもない、ということかも知れないし、防火の必要性は十分に理解した上で、火禁という暴挙にはついてゆけないということかも知れない。
あるいはそこに日本人と中国人の、発想の違いのようなものがあるのかも知れない。『事物紀原』は最後に、「雞羽挿入灰中焦者輒論死是何等刑法耶」【鶏の羽を灰に挿し、その羽が焦げたら死刑だというが、それはいったいどんな刑法に拠ったものなのか】と問題提起し、「国朝之不禁火其見卓矣」【わが朝廷では寒食節に火を禁じていない。これは卓見である】と結んでいる。だが、そんなことを卓見であるなどといい、得意顔をするようではもうおしまいというもので、いくら防火のためとはいえ、一箇月にも亙る火禁は暴挙でしかない。鶏の羽を灰に挿し、羽が焦げたら死刑にするというのは、そこまでやるかといいたくなる悪法である。
『刑楚歳時記』に引用された『玉燭宝典』は、魏の『明罰令』を引用し、冬至から数えて百五日目は子推のために寒食するという。しかし、「夫子推晋之下士無高世之徳子胥以直亮沈水呉人未有絶水之事至於子推独為寒食豈不偏乎」【介子推は晋でも下級の家来に過ぎず、屈原のように徳のある人ではない。その徳ある屈原が節を曲げずに入水自殺したというのに、呉の人が水を断ったという話は聞いたことがない。子推のときだけ火を断つというのはおかしな話ではないか】といっている。まことに尤もな話で、改めてそんな理屈を聞かされなくても、禁火と子推を絡める話は民間伝説に過ぎないことが分かる。『五雑組』は「二月二日」の項でも「寒食禁火託之介子推五日競渡託之屈原皆俗説耳」【寒食に火を禁ずるのは介子推に始まるとか、五日の競渡は屈原に始まるとかいう。しかし、それはみな俗説、こじつけに過ぎない】としている。
しかし、子推や屈原を別にして考えたとき、不公平はいろいろなことについて廻るもので、それをいちいち「あに偏ならずや」などと、おでこの血管を浮かせて怒ってみても始まらない。たとえ民間伝説であっても美化されるもの、貶められるものといろいろあって、人間にはそれぞれ持って生まれた運、不運があるのは古今東西を問わない。こういうと反撥されるかも知れないが、権力に対する反抗は出来ても、民衆による数の論理には抗し得べくもない。あんたねえ、いまの朝顔は「あさがほ」じゃないんだ、花は桜じゃなくて梅なんだと、額に青筋立てて力説しても笑われるだけの話である。
『玉燭宝典』で京師は漢の時代に、馬の頭くらいの雹が降ったこともある北方厳寒の地であるとして、「老小贏弱将有不堪之患令書到民一不得寒食」【老人やこども、病人には耐えられない災難だが、お上の火禁の命令に人民は従わざるを得ない】と、ただ耐えることだけを強いられる。
そして「若有犯者家長半歳刑主吏百日刑令長奪俸一月」【もしこのお触れに違反したら家長は半歳の刑、主吏は百日の刑、令と長は一箇月の給料を没収される】という。そして『鄴中記』を引用し「寒食又作醴酪又煮粳米或大麦作之酪擣杏子仁作鬻」【寒食に備えてチーズやバターを作り、米の飯や麦に絡め、杏仁を入れた粥を作る】と、寒食期間中の食事について述べているが、ほかにも『史記』や『琴操』を引用して重耳の逃亡生活や、介子推にまつわる話も収録している。
日本の文献では寺島良安『和漢三才図会』も『鄴中記』『荊楚歳時記』を引用したあと、良安のコメントとして「△按寒食如感子推之義死者何不用日月謂冬至後日数乎恐歳時記之説近於理矣本邦不為之」【寒食が子推の死を悼むものなら、なんでその日にしないで冬至後の日数でいうのだろうか。これは荊楚歳時記でいっていることのほうに理があるようだ。日本では寒食という行事はやらない】とある。中国だけで日本では馴染みのない風習であるせいか、『和漢三才図会』はたった六行あまりで済ませている。
しかし、これが『塵袋』になると、寒食について延々十一頁に亙って続いている。十一頁といっても筆で書かれたものだから、活字に直すとそれほど大量の記事ではない。「ニハトリアハセテ三月三日ニスルハ、イカナル心ゾ」という見出しになっているから、寒食がメインではなく、闘鶏について述べたおまけのような、つまり、寒食などはそれだけ日本人にはピンとこない、つまらない行事だということになるのだろうか。
「本説アリヤ、ツマビラカニ其ノ説ヲシラズ。寒食ノ節ニ闘鶏ヲナスト云事ハ、初学記ニモ見エタリ、其ノ義カ」とあり、それに続けて寒食の本題に入る。「寒食トハ晋ノ介子綏ガ綿上山ニコモリテ、ヤケシヌルニヨリテ、火ヲイム事ナリ」と、こちらは寺島良安と違って子推は焼死したとしているから、『五雑組』でいう「訛以伝訛」【誤りが誤りを呼び】の延長で、とくに目新しいことが書いてあるわけではないが、皇位継承の争いで重耳が逃げ込んだのは『史記』のところで触れたように「蒲」としている。
そして重耳が皇位継承の内紛に巻き込まれて逃亡し、亡命生活を送るようになった事情を述べているが、その逃亡生活のなかで子推が腿の肉を割いた部分は、「路次ノカテナクシテカツエニケル故ニ、アユマレズシテヘリイタリケルヲ、子推ト云フモノガ、モモノシシヲキリテマイラセタルヲメシテ、チカラツキテアユミケリ」としている。
さらに子推だけ恩賞に漏れた部分では「文公、晋国ノマツリゴトヲトリテ、ミタビ賞ヲオコナフニ子推モレニケリ。子推モ申サズ、文公モサズケズト云々。子推又、介子綏トモ介トモ推トモカク、又ハ介推トモカクベシ。母コレヲナゲク。子推ガ云ヒケルハ献公ノ子アマタアリトイヘドモ、運ツタナクシテ、国ヲタモツウツワモノナシ、天、モシ晋ヲモステズバ、カナラズ国ヲオサムル王アラン、コレヲ天、キミニアラズバ誰、天マコトニコレヲヲケリ。シカルニ賞ニアヅカルトモガラヲノヲノ、ヲノガツトメニヨレリトオモヘリ、マタアヤマラズトヤ」といっているから、最後の部分では狐偃(咎犯)を当てこすっているわけだ。
さらに「人ノタカラヲヌスムスラ、ナヲコレヲ盗ト云フ。天、功ヲムサボッテヲノガツトメトセン、其ノセメノガレガタシ。賞ナキ事ヲウラムハ、罪イヨイヨハナハダシカリナン。其ノ母ノ云ク、オモフ所ヲノベテコレヲシラシメヨ。子推ガ云ク、コトバハ身ノ文ナリ、身、マサニカクレナントス、イズクンゾアラハサンコトヲモトメント云ヒテ、綿上山ト云フ山ニカクレニケリ。子推ガ門人アリテ、タダニヤミナンコトヲクチオシトヤ思ヒケン、子推ニカハリテ龍蛇ノ歌ヲツクリ、フタニカキテ宮門ニカケタリ。其ノ詞ニハ龍、天ニ上ラントシテ五蛇輔ケヲ為ス、スデニ雲ニ升リ、四蛇各々其ノ宇ニ入ル。一蛇独リ怨ムト云ヘリ。コレニ異説アリ。又、趙衰、フタヲケズルニ字ナホウセズトモ云ヘリ。文公オドロキテ子推ヲ召セドモマイラズ。推ヲイタサンタメニ、綿上山ニ火ヲハナツニ、子推ナホイデズ、木ヲイダキテヤケシヌ、三月五日ノ事ナリ。其ノ日至ルゴトニ国中ニ火ヲ用ヒル事ナシ、コレヲ寒食ト云フ。綿上山ヲバ介山トナヅク。寒食、今ハ二月二四日ヨリ三日三夜ナリ。モトハ一月ノアヒダ火ヲ断ツ、後ニハ三日也」と続いており、ここでは宮門に張り紙したのではなく、鍋蓋に書いて門に下げたことになっていて、趙衰というものがその蓋を削ったところ、書かれた文字は消えなかったとしている。
『塵袋』の記事はさらに続く。「文公、カナシミニタヘズシテ、子綏ガイダキタリケル木ヲ切リ、屐ヲツクリテカタミトシ、ツネニコレヲ見テハ悲シキ哉足下、足下トゾ、ノ給ヒケル。足下トハアシダノ異名也トカヤ」昔の武士階級のものは相手のことを足下と呼んだ。いまふうにいえば君とか、あなたというような言葉で、その言葉の淵源はこんなところにあって、下駄の別名が足下ということになる。確かに下駄は足の下にあるから、それを足下というのは分かる。また、目下の相手に対して、足下というのなら分かるとしても、同等の相手に対する敬語として足下というのは、その語源からすればちょっと違和感がある。
それはとにかく、『塵袋』では見出しを「闘鶏」としておきながら、肝心の闘鶏については最後のところで、申し訳程度にしか書いていない。「コノ寒食ニ、ニハトリアハスルユエニ、ナホオボツカナシ、ニハトリハ陽ノ精ニシテ火ニカタドレリ。サレバ火ヲニクムトキニアタリテ、コノトリノイタハリヲ思ハズ。アハセテチカラヲモツカラカサント云フ心カ」これの最後の部分である、「ツカラカサント云フ心カ」は書いてある通りに転記したが、こちらの理解力が不足しているせいか、写本したときの書き間違いか、なんのことやらちょっと意味が分からない。
そして「子推ガシヌルコトハ五日ナレドモ、節日ナレバ三日ニヒキアグルカ、又、寒食三ケ日ノヨシニテ、初日ニトリヲアハスルカトモオボユルナリ」としてこの項を結んでいるが、子推の焼死は五日だけれども、節日のことだから三日に引き上げたのだろうといっている。日のほうはそれで説明がつくとしても、「五月」五日を「三月」三日にしたという、月のほうはどうなっているのか、この書き方では分からない。
寒食という言葉、あるいは行事は日本の史書、文学書の類でも、それほど頻繁にみかけることはないし、日本人の暮らしのなかに定着した行事とはとてもいえないから、一応、歳時記には載せられていても、一般的にあまり理解されていない。そんな関係で俳句実作の面で、ほとんど使われることのない季語だから、どうしても冷遇されっ放しということになるが、それも仕方のないことだろう。
寒食
中国最後の王朝はいうまでもなく清だが、その清王朝の史官だった斎召南の編になる『歴代帝王年表』によれば、紀元前三千年ころは中国の歴史もまだ暁闇の時代で、『史記』には伏犧氏は蛇身人頭にして聖徳ありとか、神農氏は炎帝といい、人身牛頭であったとか、有虞氏は龍顔であったなどという記述になっている。「龍顔を拝し奉り」というのはここから来るわけだが、この伏犧氏の蛇身人頭、神農氏の人身牛頭、有虞氏の龍顔などはいくらむかしむかし、その昔、いまから五千年もまえのことだといっても、そんなものがいるわけはない。
結局、五千年以上も前の話だから、これはもう仕方ないと思っていたら、暇潰しに眺めていた高井蘭山著、『訓蒙天地弁』「地の巻」「人」の項に「異国、上古の聖人に伏犧は蛇身人首、神農は人身牛首なりと。何ぞ聖人にしてかくのごとき畜物に類せるや」という質問があって、その質問になんと答えているか興味津々、読み進めてゆくと「上古の聖人、形体いまの人に異なること、太素の昔は火食することなく山海、土地に従い、畜肉魚肉を生マにて食し、巣に居し穴に座す。人物柔弱ならざるは時に従い自然の理なり」という。それはそうだ、そのころの人間がいまのように過保護であるわけがない。だけど、それがなぜ聖人なのに顔は牛なのか、「体は人で頭が牛」という生き物の答えにはならないだろう、と思いながら読んでゆくと、「仮令ば神農、牛の首ということ、その形しばらく似たるをいうものなり。今も顔の長きものをば馬の如しともいうべし」といっている。
神農は牛のような顔をしていたから、だから牛に例えて「人身牛頭」といっただけの話だと、まるで見てきたようなことをいっている。しかし、それにしてもうまく逃げたもので、確かに面長のことを「うまづら」という。だから「うしづら」といわれれば、そのあたりまでは渋々納得するとしても「へびたい」「りゅうづら」などは聞いたこともない。蘭山先生も「うまづら」と同じだといって切り抜けたものの、流石に少しは気が引けると見えて「容貌美なる悪人あり、醜き善人あり、聖人たる所以はただその徳にありて、形体にあらず」と補足している。
一方、『史記』はそのころを「兄弟十二人立各一万八千歳」【十二人の兄弟が、それぞれ皇位にあること一万八千年】としており、三皇とは天皇、地皇、人皇とする説、伏犧、女媧、神農とする説、伏犧、神農、黄帝とする説、燧皇、犧皇、農皇とする説などいろいろあり、その三皇に続くものが五帝ということになる。いずれにしてもこのへんまでは史実や、確かな文献があるわけではなく、伝説や口碑の域を出るものではない。しかし、それは順を追って述べる。
『歴代帝王年表』の「三皇五帝表」によると、三皇最初の伏犧は「生於成紀以木徳王風姓都於陳教民佃漁養犠牲」【成紀に生まれ、木徳の王で姓は風といい、都を陳に置き、人民に漁を教え、家畜を飼うことを教えた】そして「始画八卦造書契制嫁娶以龍紀官造琴瑟」【始めに八卦を画し、書契を作り、婚姻の制度を定め、龍を以って官位を表し、琴瑟を作り】「在位百十五年崩葬於陳〔陵在陳州城北三里〕或曰伝十五世八卦易始」【在位百十五年で陳に葬られた。〔陵墓は陳州城の北三里にある〕十五代続き、八卦、易を始めた】とあり、それは紀元前二千九百五十二年のこととしているが、伏犧のまたの名を庖犧ともいう。
続く神農氏は炎帝ともいい、俳句では夏の季語になっている。紀元前二千八百三十七年から同二千六百九十六年まで在位した王で、「育於姜水姜姓以火徳王亦曰烈山氏」【姜水で成長したので姓を姜といった。火徳の王なので炎帝といい、烈山氏ともいって】「都陳遷曲阜始芸五穀嘗百草日中為市以火紀官在位百四十年崩於長沙之茶郷〔陵在茶陵県〕」【都を陳から曲阜に遷し、五穀を蓄え、多数の薬草を嘗めて市を成した。官位を火で表して在位百四十年に及び、死してのち長沙の茶郷に葬られた。〔陵墓は茶陵県にある〕】そして「伝八世至楡罔而亡共五百六十四年」【八代目の楡罔で亡び、その治世は五百六十四年続いた】というから、単純計算で一代が約七十年ということになる。伏犧の在位百十五年などというのとは違い、それだけをとっても話は現実味を帯びてくる。
三皇の最後は黄帝軒轅氏で、紀元前二千六百九十七年から二千五百八十六年まで在位した。このへんから『歴代帝王年表』の記述はより具体的、かつ詳細なものになってゆく。日本で神武天皇が即位した皇紀元年を西暦年でいえば、紀元前七百四年になるが、それより二千三十七年も前、紀元前二千六百九十七年に即位した王が黄帝で、その黄帝に関する記事は「長於姫水姫姓有熊氏以土徳王」【姫水で成長したので姓を姫といい、有熊氏ともいって土徳の王である】という。そして「滅蚩尤代炎帝有天下都涿鹿以雲紀官」【蚩尤を滅ぼし、炎帝に代わって天下を取り、涿鹿に都を定め、雲で官位を表し】「作甲子紀暦法造律呂楽曰咸池制冠冕衣裳作器用作舟車作貨幣教蚕桑作内経」【甲子紀暦を作り、律呂や楽を作り、咸池という。儀式の冠や衣裳を定め、器用や舟や車を作り、貨幣を作り養蚕を教え、内経を作った】としている。
さらに「画野分州経土設井帝子二十有五人其得姓者十有四人自帝以後五帝三王皆子孫也」【野を画して州とし、土地を耕して井戸を設けた。黄帝には二十五人の子があり、うち姫姓を名乗ったのは十四人で、黄帝以後の五帝、三王はみなその子孫である】という。その黄帝は「在位百十年崩於荊山之陽葬橋山史記五帝本紀始」【在位百十年、荊山において没し、橋山に葬られた。『史記』五帝本紀の始めである】というスーパー帝王で、これが紀元前二千五百八十六年までの三皇に関する記述である。
神話の時代だから仕方ないといえばそれまでだが、在位百十年といえば、生まれた瞬間から王であったとしてもたいへんな年月といえる。たいへんな、というよりもちょっと現実離れした年月で、それに続くものが五帝ということになる。三皇まではそれぞれに血筋の繋がりはなく、世襲ではないが、三皇に続く五帝は三皇最後の帝王である黄帝の子孫で、まず少皞金天氏は紀元前二千五百八十七年から二千五百六年まで、次に顓頊高陽氏が紀元前二千五百五年から二千四百二十八年まで、次の帝嚳高辛氏は紀元前二千四百二十九年から二千三百五十八年まで、そして五帝四代目として帝堯陶唐氏が、紀元前二千三百五十九年から同二千二百五十八年まで、五帝最後の帝舜有虞氏は、紀元前二千二百五十七年から同二千二百八年までとなり、『歴代帝王年表』ではそれぞれ一項を立ててその業績を述べている。つまり、紀元前二千五百年代後半の王からは、もうそこまで具体的に記述ができる歴史が整っていたわけで、この点でも日本とはだいぶ差があることになる。
紀元前二千二百九年以降は夏王朝、同千八百八年からは商(殷)王朝、さらに紀元前千百五十年から周王朝となって春秋時代に入る。五帝の時代が約三百八十年、夏、商、周の時代が併せて約千九百年続いたことになる。殷は商ともいい、この殷王朝を『歴代帝王年表』では「商世表」としている。この商についていえば、塩は国の専売として国庫を支える重要な柱であったが、そこで塩池の塩を扱う人を商の人、商人という。いまのわれわれは日常会話の中で、なんの気なしに商人というが、この呼称は紀元前千八百年くらいまえ、殷のときからあったということになる。
その「商世表」紀元前千四百三十年の記事には「盤庚」とあり、「陽甲弟元祀庚子遷於殷改号曰殷在位二十八祀崩弟小辛立尚書有盤庚」【陽甲の弟、元祀庚申子は都を殷に遷し、国号を殷とした。在位二十八年で没し、弟の小辛が立ったが、書には盤庚とある】と書いている。しかし、その約二百年後に殷は周のために滅ぼされる。暴君としていまもその名を残す殷の紂王が、あまりにも暴虐を恣にしたため、周の武王に討たれることになるのだが、その紂王をして国を誤らせる原因となったのは例の妲己で、そのへんの事情は各種の書物に詳しい。
そして紀元前七百七十年に周は洛邑(洛陽)に東遷し、同二百五十五年ころから戦国時代に突入するが、周は国としての権威を全く失いはしても、滅亡することはなかった。それは周が伝国の鼎といって、日本でいえば三種の神器に匹敵するものを保持していたため、戦乱の時代を通じて群雄割拠の枠外にあったことによる。日本の戦国時代における朝廷のような別格の存在であったし、周の国力からいってどの国にとっても脅威たり得なかった、つまり、放っておいても別に心配ない存在だったというわけで、そのへんもわが国の戦国時代における朝廷のありようと似ている。
もし周を侵す国があれば、他の国はそれを口実にして大義を唱え、周を侵した国を滅ぼすことが出来るから、いわば周は錦の御旗である。その錦の御旗を侵すと周囲の敵国に、国賊を討つという大義名分を与えてしまう。そのような事情があって、どこも迂闊に周に手を出すことは出来なかった。周はそのお陰で命脈を保ったという事情があるのだが、最後は王政復古が成った日本と、中国統一を成し遂げた秦に伝国の鼎を奪われ、滅亡した周の違いはあるにしても、そこに至るまでの経過は日本の朝廷とよく似ている。そして束の間の平穏は四十年そこそこに過ぎず、あとは前漢、後漢、三国志の時代を経て晋、東晋へと続く、血で血を洗う抗争が延々と繰り返されてゆくことになる。
寒食はここまでの時代背景のなかで、周王朝末期から秦王朝のはざまで発生した、ある事件に由来する。それは後に述べるように二説あり、本当は風が強くなる三月ころ、防火のために火の使用を制限したものが、いつの間にか介子推に結びついたと思われる。詳しくは後で述べるとして、この例も屈原と競渡の話と同じように、介子推の事件と寒食の結びつきがどこまで正しいのか、ちょっと判断できないものがあり、講談社『日本大歳時記』は、介子推の焼死に重点を置いているにしても両論併記しているし、『広辞苑』では防火のためとしている。
関係のない他国の歴史を延々と書いた挙げ句、いきなり介子推なんたって、おれは知らんといわれてしまいそうだが、それもまことに尤なことである。寒食と関係ないことを長々と書いたが、寒食という行事が発生した背景、時代のよって来たる歴史を見たかっただけのことで、自分の国の歴史ならまだしも、他国の歴史に関心がない人にとっては迷惑千万、ただお気の毒としかいいようがない。いずれにしても以上が国会図書館所蔵になる『歴代帝王年表』に拠った中国古代史の流れで、乱暴ないい方をすればこれが中国有史以前から三千五百年間の概略ということになる。
ここまでに述べた時代背景を頭の隅に置いた上で話は少し遡る。周はいまからすればごく狭い範囲であるとはいえ、そのころの中国全土を平定したのち、王室の姻戚や功臣を各地に封じ、「小国並立千八百」という状態となった。各地に封ぜられた姻戚や、功臣諸侯が次第に勢力を強めるに従い、周王室を軽んじるようになり、その結果として周全体の結束が緩み、互いに争いあうようになって春秋時代となる。
そのころ十九年間に亙る亡命生活を送り、「逃げの重耳」と渾名された重耳が、晋の文公となったのは紀元前六百五十一年のことで、神武天皇が即位したとされる時期とほぼ重なると見てよい。正確にいえば紀元前七百四年に即位した神武天皇のほうが、約五十年早いことになる。しかし、『歴代帝王年表』によれば周王朝の十七代目、周は周でも十三代目以降は東周ということになるが、その十七代目、恵王の十七年が神武天皇即位の年となる。しかし、中国歴代の帝王在位年数を数えてゆくと、そこに二十八年の食い違いがあるというから、五千年の歴史の上では、晋の重耳が文帝となって即位した年と、神武天皇の即位年とはほとんど同時期といってよいだろう。そのへんになると確実なことは誰にも分かるものではない。
神武天皇のころの日本は、遠い神代の時代でなんの記録もないが、中国ではそのとき既に千三百七十年もの歴史が記録されている。その紀元前六百五十一年、この年、晋の公子だった重耳は長い亡命の旅から帰国して文公となった。この重耳が危うく逃れたのは四十三歳のときで、それから数えて十九年後、齢すでに六十二歳である。亡命のきっかけは皇位継承の内紛による粛清から逃れるためであったが、『史記』「晋世家第九」はその経緯を次のように記述している。
「蒲人之宦者勃鞮命重耳促自殺重耳踰垣宦者追斬其衣袪重耳遂奔翟」【蒲の宦官で勃鞮というものが、重耳に自決するよう迫った。しかし、重耳は垣根を越えて逃れ、勃鞮はそれを追って、重耳の翻る袂を斬っただけで逃げられてしまった。重耳は翟に逃れた】とある。『史記』は晋の皇位を巡る内紛を重複して記述しているが、後のほうでは「獻公使宦者履鞮趣殺重耳重耳踰垣宦者遂斬其衣袪重耳遂奔狄狄其母国也」【獻公は宦官の履鞮に重耳を殺せと命じた。重耳は垣根を飛び越えて逃げたが、刺客はそれを追って袂を斬っただけで逃げられてしまった。重耳は狄に逃げ込んだが、それというのも狄は重耳の母の出身国だったからだ】と記している。同じ『史記』でも、重耳が逃げ込んだところを前者では翟とし、後者では狄としている。翟も狄も音は同じ「テキ」だとはいうものの、刺客の名前も前者では勃鞮、後者では履鞮という違いがある。
また、後で引用する『塵袋』は重耳が逃げ込んだのは蒲だとしているが、これは『史記』に記載された「蒲人之宦者勃鞮」の、刺客となった宦官の出身国を誤って記した『塵袋』著者の単純な転記ミスではないかと思われる。なぜなら『史記』ではすぐその後のところで「重耳遂奔翟」【重耳は翟へ逃れた】と書いているからだ。記述の違いはこれだけではないが、『史記』の成立は紀元前九十七年だから、この記事は五百五十四年前のことを書いていることになる。マスメディアの発達した現在と単純に同一視できないとしても、現代の日本に当てはめていえば、応仁の乱の二十年ばかり前のことを、平成十五年になって書いたのと同じ理屈だから、ときには単純なミスも起きるだろう。
もう一つ、重耳の亡命に従った五人の賢者の名前も、『史記』と『十八史略』では違いがある。『史記』では趙衰、狐偃(咎犯)、賈侘、先軫、魏武子としており、子推の名はなく、ずっと後になって登場する。そもそも重耳の逃亡生活の始まりは前記の通り、命からがら逃げ出したもので、「是時重耳年四十三従此五士其余不名者数十人至狄」【この事件は重耳四十三歳のとき、従うものは五人の賢者と無名の家臣数十人、狄へいった】と、以下に十九年間に亙る亡命生活、というより逃亡の年月といったほうが正しいが、その苦労話を載せている。その間ずっと介子推の名は出てこず、亡命の旅が終わる少しまえ、重耳が秦の援助を得て文公となり、晋へ帰国するとき、黄河を渡る船上でのエピソードにやっと介子推の名が出てくる。
五人の賢者の一人、狐偃は咎犯ともいい、重耳にとっては舅に当たる人である。その狐偃が黄河を渡る船中で重耳に、私はあなたの亡命中ずっと従ってきましたが、至らないところばかりでした。このへんでお暇を下さいといったとき、重耳は当然のことながら、帰国した暁には重用することを誓って慰留した。それを見ていた介子推がせせら笑っていうには、「天実開公子而子犯以為己功而要市於君固足羞也吾不忍与同位乃自隠」【わが君の運が開けたのは天の賜なのに、犯は暗に自分の功績であるとしている。お恥ずかしい限りで、おれはこんなやつと今後、一緒に何かをするのは嫌だといって姿を隠した】
介子推の隠棲は以上の理由によるものだが、ここに至るまで介子推の名が出なかったのは、そんな子推の性格によるものだったかも知れない。そして重耳が帰国して文公となったのち、逃亡生活中の論功行賞があり、その顕彰に漏れたのも子推の、そのような性格ゆえと思うのは考えすぎだろうか。だからこそ「是以賞従亡未至介子推推亦不言禄禄亦不及」【亡命に従ったものはみな賞を受けたが、介子推は漏れた。子推も黙っていたのでご褒美の沙汰はなかった】となる。
重耳が子推のことを忘れてしまったのはそれなりのわけがあった。子推が隠遁生活に入って、重耳の目の届かないところへ行ってしまったということもあるが、重耳は文公となっても、国の基礎が固まらないうちは内外に山積した問題が多く、ごたごたの対応に追われていたからである。しかし、子推の母にしてみればこのような不公平は納得できるものではない。「盍亦求之以死誰懟」【おまえはなんで殿さまにいわないのかね。いわずに死んでしまったら、誰を怨みようがないよ】と子推に迫った。子推は黄河を渡る船上で起きた狐偃との経緯を母に話し、人のことをいっておきながら、自分も同じようなことをするわけにはゆかないというと母は、ではわたしもおまえと一緒に隠れようといって、ともに山へ入ってしまった。
その様子を見た子推の従者は義憤に駆られ、龍と五匹の蛇に仮託して宮門に張り紙する。「龍欲上天五蛇為輔龍己升雲四蛇各入其宇一蛇独怨終不見処所」【龍が天に昇ろうとしたとき、五匹の蛇がそれを援けた。お蔭で龍は雲に昇り、四匹の蛇はそれぞれ居所を得たが、一匹だけは怨みを呑んで遂に居場所さえ分からない】というものである。文公はその張り紙を見て「これは子推のことだ。わたしは国事に追われて彼のことを忘れていた」と悔い、すぐに子推を探させたところ、綿上山に隠れ住んでいることが分かり、この山を子推の封田としたうえ、山の名も介山と改めさせた。
『史記』は宮門に張り紙したのは従者だとしているが、『塵袋』では鍋蓋に書いて下げたとなっている。この二点の違いについては『塵袋』の項で改めて触れることにするが、このように『史記』は子推が焼死したと書いていない。また、『呂氏春秋』『淮南子』も子推が焼死したとはしていない。ただ、『史記』では子推の従者が主のため、宮門に張り紙したとしているが、『呂氏春秋』「十二紀」に続く「介立編」では、子推が自ら詩を作り、それを宮門に貼ったことになっている。その部分を見ると、「介子推不肯受賞自為詩賦曰」【子推は賞を受けることを拒んで詩を作った】として用字に小異はあるものの『史記』に述べられている、従者が作ったとされている詩を書いて、「懸書公門」【書を文公の宮門に張った】としている。
しかし、これはちょっとおかしな話で、「不肯受賞」は少なくとも『史記』にいう「禄亦不及」とは違い、子推が賞を受けることを辞退したというニュアンスがあり、そこに子推の意思が働いていたことを意味する。だが、「禄亦不及」になると、子推の意志云々の前段階として無視された、忘れられたということになろう。だから「不肯受賞」だとしたら、禄を受けることを拒みながら、一方では未練がましく宮門に張り紙をするという、話の流れとしていかにも不自然なものになる。もしそうだとするならば、黄河を渡るときのエピソードからいって、子推の二枚舌ではないかということになり、彼の孤高とさえいえるイメージはがらりと崩れてしまう。
五人のうち一人だけ賞をもらえなかったのなら、その旨を文公に申し出ても、一向に恥ずべき行為ではない筈だが、それが子推の美学に外れているのなら、最後まで沈黙を通すべきだろう。それでこそ「木を抱いて焼死した」ことが首尾一貫するわけだから、やはり龍と五匹の蛇の話は、子推の従者が宮門に張ったというほうが正しく、『呂氏春秋』でいう子推自作の詩、というのは間違いと思えてならないが、子推が自作の詩を張ったとする説と、従者が作って宮門に張ったという説と、どちらが本当のことなのか、いまになってはもう分からない。
これを『十八史略』で見ると、『史記』とは五人の名前に違いがあることは前記したが、そのほかにも黄河を渡る船中での、狐偃を巡るエピソードもない代り、股を割く話がある。「重耳出奔十九年而後反国嘗餒於曹介子推割股以食之」【重耳は十九年の逃亡生活ののち国へ帰った。かつて曹を流浪して飢えに苦しんだとき、介子推は腿の肉を割いて重耳に食わせた】とあり、続けて「及帰賞従亡者狐偃趙衰顚頡魏犨而不及子推」【帰るに及んで亡命の旅に従った狐偃、趙衰、顚頡、魏犨には恩賞があった。しかし、子推にはなんの沙汰もなかった】としているから、五人の名前に違いはあるにしても記述してある事柄そのものは矛盾しない。
重耳は帰国して晋の国王となり、その名も公と表記される。そこへ前記の張り紙事件が起きたわけである。「子推従者懸書宮門曰有龍嬌嬌頃失其所五蛇従之周流天下龍飢之食一蛇刲」【子推の従者が宮門に張り紙をした。曰く、威勢のよかった龍はあるとき、その居るべき場所を失い、五匹の蛇が供をして天下を流れ歩いた。逃亡生活で龍は食うものもなく、飢えに苦しんだとき、一匹の蛇が自分の腿の肉を割いて食わせた】そして「龍返於淵安其壤土四蛇入穴皆有処処一蛇無穴号于中野」【その後、龍はもとの淵に戻って安穏に暮らし、供をした四匹の蛇もそれぞれの穴に入った。しかし、一匹だけは入るべき穴もなく、荒野で泣いている】というものである。
「公曰噫寡人之過也使人求之不得隠綿上山中焚其山子推死焉後人為之寒食文公環綿上田封之号曰介山」【文公は張り紙を見てああ、おれが悪かったと反省し、子推を探したが見つからなかった。やがて綿上山に隠れていると分かり、その山を焼いたら子推は出てくると思い、火を放った。しかし子推は遂に山を降りず、木を抱いたまま焼死した。そういうことがあって、後の人はその日に火を使うことを禁じ、前以って煮炊きした冷たいものを食べた。文公は綿上山を封じて介山と名付け、子推を祀るための所領とした】とある。
『十八史略』の腿を割く話は、日本人の常識からいえばいかに食うものがなかったとしても、自分の腿の肉を切り取って主君や、自分が尽くしている人に食わせるというのは違和感があるが、日本の文献にもそういう表現が皆無というわけではなく、稀にはそういう表現も見受けられる。一方、中国の文献では定番ともいえるもので、主君が飢えたりするとすぐに「わが肉を割いて」食わせたりする。
例えば『夢粱録』十七巻「后妃と烈女」には、病に臥した主君や老母のため、わが肉を割いて食べさせる女の話がたくさん出てくるし、西太后(第二夫人)は、対立する東太后(第一夫人)が病に臥したとき、わが腕の肉を切ってスープを作り、それを東太后に飲ませた。人のよい東太后はそれに感激して前後を忘れ、亡き王からもらったお墨付きを燃やしてしまった。恐れるものがなくなった西太后は、そこで一気に東太后を葬り去ったという話もある。「后妃と烈女」の例や、西太后の場合は飢を凌ぐためではなく、わが肉を薬として食わせているから、食に窮した主君のためにわが肉を食わせたという、子推の場合と聊かニュアンスは異なるとしても、「わが肉を割く」という点では同じだろう。
『夢粱録』第二巻、「清明節」の項にも寒食が出てくる。こちらは単なる季節行事としてのもので、子推の話は出てこない。「清明交三月節前両日謂之寒食京師人従冬至後数起至一百五日」【三月は清明節に始まり、そのまえの二日を寒食という。都の人は冬至から数えて百五日目をその日としている】といい、「此日家家以柳条挿于門上名曰明銀」【この日はどの家も柳の枝を門に挿し、これを明銀という】とし、さらに「凡官民不論大小家子女未冠笄者以此日上頭」【官民は貧富の別なく、未冠の子女は頭に笄を挿す】風習があり、「寒食第三日即清明節」【寒食の三日目が清明節になる】としているだけで、寒食の謂れについては言及せず、あとは当日の行事や宮中、民間の風俗を描写している。
ここまで見てきたように、本による小異はあるが、いずれにしても介子推は寒食にまつわるお話の主人公とされている。ただ、その日と起源についてそれぞれ二説あって、日については子推が焼死したとされる五月五日という説と、季節風の強くなる三月、冬至後の百四日目、百五日目、百六日目の三日間とする説があり、起源についても子推が焼死したことを悼んでするという説と、防火のためとする説で、この子推を寒食と結びつけて考えるのは、民間伝説の誤りであるとする記述は『五雑組』ほかにある。どちらが正しいのかということになると、正しくは冬至から数えて百五日目のほうで、起源はあくまでも防火のためと思われるが、この点については後述する。
寒食は最初のうちは一箇月間だった。のちになって三日間だけとされたが、これについても民話があって、後漢の周挙という人が并州の知事になり、子推の御霊屋に詣でていうには「人民は禁火のためにみな苦しんでおります。このようなことは賢者のなさることではありません」と祈り、人民は暖かいものを食えるようにして、いまは三日間だけのことになった。それが冬至から数えて百四、百五、百六日目の三日間であるとし、并州の話であると断っているが、その起源は子推と結びつけ、日のほうは防火説である冬至後の日数をいっているという、二つの説を繋ぎあわせたようなおかしなことになっている。この禁火の令はもともと周王朝によって制定され、期間も一箇月に及ぶもので、この火禁の令は魏の時代にも重ねて発令され、罰則はいっそう厳しいものになった。
日本でも三月は黄砂の時期であることからも分かる通り、光の二月、風の三月という俗言そのままである。風が強くて山火事はほとんどこのころに集中しているし、もとはといえば中国大陸からの偏西風が原因だから、日本も中国もそういう気象状況に大差はないと考えてよい。その偏西風は遠く太平洋を越え、アメリカ大陸にまで達するから、太平洋戦争のとき、日本軍部はそれを利用して風船爆弾を作り、アメリカで山火事を起こさせた。これはアメリカにとって相当の脅威だったが、日本ではその効果を疑問視し、中止してしまった。
そのくらいだからこの時期は季節風が強く、防火のために一箇月間も火を使うことを禁じた。その間の炊事は出来ないから、あらかじめ火を通しておいたものか、それとも生で食べるということになる。冷たいものを食べるしかないわけで、ましてや火で体を温めるということも出来ない。これが寒食の謂れで病人、老人、こどもなどの死者が続出したという。火禁を犯したものに対する罰則は過酷を極め、後には遂に死刑が適用されるまでになった。
以上は正史の記述で、次に高承撰『事物紀原』を見てゆく。この『事物紀原』は、宋の高承が二百十七項目について、その縁起を古文献に拠って明らかにしたもので、それがいまに伝わるように、千七百六十四項目にまで膨れ上がったのは、後世の人が追加したものだろうと校注者の胡文煥は書いている。その『事物紀原』「歳時風俗部」寒食の関係では、「子推」「寒食」「禁火」の三項目があり、「子推」の項に火を断った理由、即ち文公が山を焼いたため子推が焼死した条りがあり、寒食に入る前に準備する食品をいろいろ上げたあと、どの家も「柳条挿戸」【柳の枝を門に挿す】春の風習を述べ、子推の焼死が寒食の起源であるとする説を、「相伝之謬至於如此也」【口コミによる誤りとはこのようなものだ】といい、寒食は子推の焼死を悼んでのこととする説を否定し、その日は冬至ののち、百三日目以降の三日間としている。
その記述が「寒食」の項で、陸翽の『鄴中記』を引用し「并州之俗以冬至後一百三日為介子推断火冷食三日作乾粥食之中国以為寒食」【并州の民間では俗に、冬至ののち百五日目は介子推のために火を断ち、乾粥を作って食う。これを中国では寒食という】とし、続けて『荊楚歳時記』を引用し、「去冬至一百五日即有疾風甚雨謂之寒食」【冬至から数えて百五日目のころは、風や雨が甚だしい。それで火を断ち、寒食する】と、『荊楚歳時記』も冬至後の百五日目という説を取っており、起源については両論併記している。
しかし、「禁火」の項では『鄴中記』を引き、「寒食断火起於介子推左氏史記不見子推被焚之事」【寒食に火を断つのは介子推の焼死から起きたという。しかし、左伝や史記には子推が焼死したという記事はない】とし、「周礼司烜仲春以木鐸修火禁於国中注謂季春将出火」【『周礼』には司烜氏が木鐸を鳴らし、国中に火禁を呼びかける。その注記には季春の火事を防ぐためだとある】という。こうして見ると寒食は介子推の焼死に始まる、とするのはここでも誤りだとしており、こちらのほうが正しいと思われる。そして「寒食一月老少不堪今則三日而巳自漢以来訛謬巳若此也」【寒食の禁火は一箇月にも及び、老人や幼児には耐えられない。今は三日間だけとなったが、漢以来の誤りがそのまま伝えられたからだ】とあり、『荊楚歳時記』そのほかの記事と重複するので、そちらでもう一度述べることにする。
ちょっとまえのところで『夢粱録』に触れた。これは南宋で、一口に宋といっても北宋と南宋がある。この二つを別のものとして見るか、一つのものとして見るかだが、歴史区分としてはもちろん別である。しかし、もとはといえば宋の属国だった金が次第に力をつけ、遂に属国から対等の関係になり、最後にその立場は完全に逆転し、西暦千百二十七年、宋は金に降った。『歴代帝王年表』によればその年四月、金は二人の帝と后妃三千人を北へ拉致した。それだけでなく皇族、縁戚まですべて家族ぐるみ金に拉致され、軟禁状態にあって帰国は許されなかった。
たまたま旅行中で拉致を免れた徽宗の九番目の子、構が高宗となって同年九月、南京で即位した。宋の大半は金の領有するところとなり、高宗は遥か南の一隅に下って南宋となる。北朝鮮もまっ青というか、カタなしの暴挙だが、宋としては領有する地や皇帝は変わっても、年代的な空白はなく、血統の上でも絶えてしまったわけではない。さっき北宋と南宋を一つのものと見るか、別のものとして見るかと書いたのは、そのような事情からである。いずれにしても南に下って建国した宋は、南宋として臨安を事実上の都として栄えた。この金もモンゴル族の元によって滅ぼされるが、それはまた後の話である。
呉自牧の著になる『夢粱録』二十巻のうち、第六巻までは臨安の歳時記ともいうべきもので、三月の項には清明節があり、そのまえは寒食だということは先に述べた。この清明節はいわば中国の墓参りの日で、日本の彼岸や盆の墓参りに比べると、ずっと娯楽的な色彩が濃く、いってみればピクニックを兼ねたようなものである。謝肇淛はこの風潮を、『五雑組』で嘆いて次のように記している。
曰く、「北人重墓祭」【北方の人は墓参りを重んじ】るので、山東地方にいたころの体験談として、「寒食郊外哭声相望至不忍聞」【寒食には墓に詣で、野に哭く声は遠くから聞こえ、とても耐えられないほどだった】それなのに「南人借祭墓為踏青遊戯之具」【南の地方の人は、墓参りを口実にして野に出て遊ぶ】という。野に出て清遊するだけならよいとしても、「紙銭未灰冩履相錯」【紙銭が燃えきらないというのに、もう遊びのほうに目の色を変え】「日暮墓間主客無不頽然酔矣」【日暮れのころともなれば、主客ともに墓の前で酔い潰れている】と弾劾する。
日本では三途の河の渡し賃として、棺の中へ紙幣を入れたりする。中国の紙銭というのは亡き人があの世で使う紙幣で、葬儀や忌日などに亡き人を供養するために燃やす。私が若いころ中国人の家に不幸があって、この紙銭を一枚もらって仕舞っておいたものだが、その後いつの間にやらなくしてしまった。縁起のよいものではないから、どうしても大事にしようという気にならない。亡き人があの世でも自由に金が使えるようにという趣旨のものだから、墓参りのときにそれを燃やしたり、地獄の獄卒に贈る賄賂として燃やすことになる。
そして「夫墓祭巳非古而況以薫香凄愴之地為謔浪酩酊之資乎」【だいたい、墓参りはもう昔とはその様相を一変しているが、それにしても厳粛に香を焚き、先祖を祭る地を、酔っ払いの場にしてしまうとはいったいなんたることか】と切歯扼腕している。一般的に北の地方、寒いところの人と比べると南方人はどうしても楽天的というか、開放的な気質になるものだが、それも度が過ぎるとよろしくないのは昔も今も変わらない。清明はあくまで清明であって踏青ではないのだから、慎むべき事柄は慎むべきだろう。
江蘇古籍出版、顧禄の『清嘉録』は、このころの風習として「寒食日家家楊柳挿門」【寒食にはどの家も門に柳の枝を飾る】としている。さらに『昆新合志』を引用して「挿麦葉於門戸」ともあるから、ところによっては柳の枝ではなく、葉のついた麦を使うところもあるのだろう。それについては「寒食日男女胥佩戴麦葉此又一説」【寒食には男女を問わず、麦の葉を挿すという説もある】というから、これは門ではなく胸のポケットとか、襟首などに挿すか何かするのだろう。柳の枝にしても必ずしも門に飾るだけではない。この日は柳の枝を売り歩く人がいて、女は老若を問わず、柳の枝を髪に挿して飾るというから、季節に相応しい洒落れた楽しみ方ではある。ただ、それは単に季節的なお洒落、春の楽しみということの他に、毒虫除けのお呪という意味もあることは、次の『燕京歳時記』の一節からも窺うことができる。
北京古籍出版『燕京歳時記』は、その名の通り北京の年中行事を記したもので、寒食は清明の項で出てくる。そこには「清明即寒食又曰禁烟節古人最重之今人不為節但児童戴柳祭掃塚塋而己」【清明と寒食は一体のもので禁烟節ともいい、昔の人はこの日を大事にした。ただ、いまは節日になっていない。こどもは柳の枝を輪にして頭に戴き、墓を清掃して先祖を祭る】として、その祭りのやり方というか、つまり墓参りのやり方ということになるが、それは「世族之祭掃者於祭品之外以五色紙銭製成幡蓋陳於墓左祭畢子孫親執於墓門之外而焚之謂之仏多」【先祖を祭るものは墓参り用品のほか、五色の紙銭や幟や旗を墓の左側に並べて行い、儀式が終わるとこれらの品々を墓前で焼く。これを仏多と称し】このやり方は「民間無用者」【民間ではしない】という。そして『析津志』を引用して「遼俗最重清明上自内苑下至士庶倶立鞦韆架日以嬉戯為楽」【遼では清明を最も大事にし、宮中から庶民に至るまでぶらんこを作り、一日中それを楽しむ】としている。
さらに『歳時百問』を引用し、清明の謂れを明かしている。「万物成長此時皆清浄明潔故謂之清明」【万物はこの時期に成長し、みな清らかにして明るい。それで清明という】ということで、柳の枝を輪にして頭に戴くのは、唐の高宗が三月三日に渭水の岸辺で禊をしたとき、家来一同に柳の枝で作った輪を賜ったのが始まりだとしている。「謂戴之可免蠍毒」【これを頭に載せると蠍の毒を免れる】というが、どうして柳の枝で作るのか、それを頭に載せるとどうして蠍の毒を免れるのか、その説明は書いていないから理由は分からない。結局は単なる迷信だから、そういう迷信に理由を糾しても、納得できる答えなどなくて当然だろう。
清明の市井風俗や墓参りについては『清嘉録』にも詳しく記されているが、この項は寒食について書いているのだから、墓参りの風俗などは省く。それというのも、そこまで紹介し始めたら相当のスペースが必要になって、寒食のほうがボケてしまう虞があるからだ。これらの文献のほかに中国の仙人を七十一人挙げ、紹介している『列仙伝』もあり、これは一人について百五十字から、三百字くらいの記述しかないが、一口に百五十字くらいといっても漢文の百五十字だから、和文に直したら、とても百五十字や三百字程度で収まるものではない。
この劉向の著になる『列仙伝』で見ると、介子推の話もいささか趣が異なってくる。だいたい、そのまえに子推を仙人の仲間に入れてよいのか、という疑問もなきにしも非ずといえよう。山に隠れ住んだというから、それで仙人の部に入れたのかも知れないが、それをいったら日本に限らず、世界各地にゴマンといるホームレスといわれる人たちは、みな仙人ということになってしまう。この『列仙伝』は仙人の伝記という性質上、当然ながら史書と同一視することは出来ない。夏の暑い日は一日中、水の底に潜んで涼んでいたというような、現実にあり得ない仙人の話だから、『史記』や『十八史略』など、正史の記事と大幅に異なるのは当然である。
日本でも著名な仙人として、川で洗濯をしている女性の太腿に見とれて墜落した、まことに人間臭い久米の仙人がいる。この久米の仙人は高井蘭山『訓蒙天地弁』「人の巻」に、雲から逆さまに墜落する挿絵入りで、中国の仙人と並んで紹介されている。仙人というより、そこらの助平おやじといった風貌で描かれているのはご愛嬌だが、その挿絵に添えられているコメントには、「久米の仙人、浣婦の白き脛に心を揺し、忽ち通を失ひて墜落す」とある。「浣婦」とは要するに洗濯する女ということだが、ちらりと女の太腿を見たくらいで目が眩み、墜落するようでは、いまどきの若い女の子を見たら悶絶し兼ねない。さりとはまた心許ない仙人で、いったい何を修行していたのかといいたくなる。そんなことでよく仙人になどなれたものだ。
それに反して中国の仙人たちは『抱朴子』『列仙伝』『神仙伝』などに掲載され、荒唐無稽な話という共通点はあるとしても、久米の仙人のように不謹慎なものはいない。とくに『神仙伝』に出てくる仙人は「神仙」と断っているくらいで、それこそ人間離れした仙人ばかりだから、魅力という点ではゼロに近い。仙人伝説に共通しているのは不老不死と錬金術で、その二つの話が大きな柱になっており、どちらもまことしやかに書いてあるが、不老不死にしても錬金術にしても、どちらもインチキ話だからあまり面白くはない。
しかし、そうはいっても、ただインチキ話だから面白くないというのではない。俳句の世界だって蚯蚓や亀を鳴かしたり、草が腐って蛍になったり、鷹や雀が蛤になることがある。面白くないのは一見したところは科学的に記述し、それでいながらインチキ話だからで、徹頭徹尾インチキに徹したら面白いのだが、記述はシリアスでいながら、話自体は我田引水といった趣だからどうしても好きになれない。
自分の好みで話が横道にばかり逸れた。その『列仙伝』介子推の項は短いものだから全文を紹介すると、「介子推者姓王名光晋人也隠而無名悦趙成子与遊旦有黄雀在門上晋公子重耳異之与出居外十余年労苦不辞及還介山伯子常晨来呼推曰可去矣推辞母入山中従伯子常遊後文公遣数千人以玉帛礼之不出後三十年見東海辺為王俗売扇後数十年莫知所在」とあり、要約すると【介子推は姓を王、名を光といい、晋の国の人で、その名は隠遁生活を送っていたので世間には知られていない。趙成子とウマが合うところから交友があり、いつも一緒に遊んでいたが、あるとき黄雀が門に止まっていた。晋の公子だった重耳は、子推の人物を見込んで国外へ出、一緒に十年余り暮らしたが、別に苦労を嫌がることもなかった。晋に帰ってから介山の伯子常が朝早く訪ねてきて、子推を俗外の世界に誘ったので、子推は母に別れを告げて山中に入り、いつも伯子常と行動をともにしていた。のちに文公、かつての重耳が数千人の家臣を迎えに出し、山のような財物を積み、三顧の礼をもって誘ったが、子推は遂に山を降りることはなかった。その後三十年くらい経って東海のあたりに現れ、扇を売っているのを見た人がいる。さらにそののち数十年経つとその姿さえ見られなくなり、居場所は杳として知ることは出来なかった】としている。
これは介子推外伝というべきかどうか知らないが、いずれにしても、防火のために火を使うことを禁じたとも、焼死した子推を悼み、その霊鎮めのために火を禁じ、冬至から百五日目の前後三日間、冷たいものを食べる中国の年中行事になったという。しかし、子推は仙人になったのであれば、寒食などとアホなことをやってんじゃねえと顎を撫でているか、おれは関係ねえと昼寝でもしているか、仙人の考えることは常人には分からないとしても、少なくともそんなふうに思わせるところに夢がある。
次は宗懍撰『荊楚歳時記』によって、寒食の由来を述べる。こちらは至って真面目な話で、「去冬節一百五日即有疾風甚雨謂之寒食禁火三日造飴大麦粥拠歴合在清明前三日亦有去冬至一百六日者」【冬至のあとの百五日ころは風の強い季節なので、この三日間は火を禁じて寒食し、飴と大麦の粥を作る。寒食は暦によると清明の三日前で、冬至から数えて百六日のちのことである】という。そして文公が山を焼いたため、子推は木に抱きついたまま焼死したとされる五月五日にこれを悼み、「令人五月五日不得挙火」【いまの人は、五月五日に火を使わない】というが、『荊楚歳時記』は続けて「五月五日与今有異皆因流俗所伝拠」【五月五日といっていまと違うのは、結局のところみな民間伝説だからだ】として、五月五日に子推は焼死したから火を禁じる、というのはあくまでも俗説に過ぎないといっている。
そのうえで『周書』司烜氏のくだりを引用して、「去冬節一百五日」【冬至を去る百五日】つまり春先の三月、風の強くなる時期は防火のため火を使わないで、寒食するのが正しいという。さらに「周書司烜氏仲春木鐸循火禁于国中注云為季春将出火也」【周書の司烜氏の条に、仲春になると木鐸を鳴らし、国中に火禁を呼びかける。春先は風が強く火が出やすいからだ】とし、続けて「今寒食準節気是仲春之末清明是三月之初」【寒食を節気に当てはめてみると二月末で、清明は三月初めになる】し、「然則禁火蓋周之旧制」【この禁火の令は周の制度】なのだという。
そうなると五月五日に焼死したとされる介子推と、三月の行事である寒食とでは、日付のうえからいっても関係ないことになるし、そもそも『史記』には子推が焼死したという記事そのものがないのだから、寒食は子推の鎮魂のためとするのは後世のこじつけだという、『和漢三才図会』ほかの説が正しいことになる。『荊楚歳時記』はさらに各種の記事を引用し、「陸翽鄴中記曰寒食三日醴酪又煮粳米及麦為酪擣杏仁煮作粥」【陸翽の鄴中記に寒食の三日間はバターやチーズ、それから米を炊いたものや、麦の粥に杏仁を砕いて足し、粥にする】といい、「玉燭宝典曰今人制為大麦粥研杏仁為酪引餳沃孫祭子推文云干飯一盤醴酪二盂是其事也」【『玉燭宝典』によると今の人は麦の粥を作り、杏仁を加えてバターや飴をかけるとある。孫楚が子推を祀った文に干飯一皿、チーズ二椀とあるのはそのことだ】といい、寒食に備えて各種の食品を取り揃えた台所の様子を描写している。
寒食が一箇月だったころは台所だけで足りる筈もなく、家中が食品で埋まっていたことだろう。火を禁じる寒食に入る前日、すなわち冬至から百三日目を「炊食熟」といい、この日はあらかじめ煮炊きをする日となっており、『荊楚歳時記』はさらに続けて『琴操』を引用し、『十八史略』と同じ話を載せ「琴操所云子綏即推也又云五月五日与今有異皆流俗所伝拠」【琴操に子綏と書いてあるのは子推のことである。また、その日を五月五日といって、いまと違うのは民間伝承だからで、俗に流された説なのだ】とし、『周礼』を引いている。「周書司烜氏仲春以木鐸循火禁于国中注云為季春将出火也今寒食準節気是仲春末清明是三月之初然則禁火蓋周之旧制」【周礼には司烜氏が仲春になると、木鐸を鳴らして国中に禁火を呼びかける。注によれば春先に火を出さないためで、寒食を節気でいうと仲春の末、清明は晩春の初めになる。この禁火は周の旧法によるものだ】とある。
この条は謝肇淛著『五雑組』第二巻、禁火の項にも引用されている。「寒食禁火以為起自介子推者固俗説之誤」【寒食には火を禁じたが、それは介子推から始まったというのは俗説だ】とし、続けて『周礼』を引用し、「司烜氏仲春以木鐸徇火禁於国中注云為季春将出火」【司烜氏は仲春に木鐸を鳴らし、国中の火を禁じたという。これは春は火が出やすいからだ】とあって『荊楚歳時記』と同じ記述になっている。
さらに寒食の項で『琴操』を引き、「介子綏以五月五日死文公哀之令民不得挙火今人以冬至一百五日為寒食其説巳互異矣(中略)訛以伝訛日甚一日至」【介子推は五月五日に焼死したのを文公が哀れに思い、火を禁じたというが、今の人は冬至から百五日目を寒食とし、そのいうことは違っている。(中略)これは誤りが誤りを呼び、日一日と甚だしくなったものだ】とし、子推は五月五日に焼死したというが、今は冬至から百五日目としているという違いを問題にしている。
このころの中国は一貫して陰暦だから、いまの日本のように陰暦で数えるか、陽暦で数えるかという、そういう混乱から生じたのではない。従って日にちの食い違いはあってならないもので、もともとは火事を防ぐためのものが、後世になって子推の焼死と結びつけられてしまった、と解釈するのが正しいだろう。前にも記したようにこの記事は『事物紀原』第七巻、歳時風俗部と同じである。この禁を犯したものは家長で半年の刑、主吏で百日の刑、令、長は一箇月の俸給を没収された。のち、さらに罰則は強化され、死刑を適用されるまでになったが、なぜこんな厳しい罰を科してまで火を禁じたかといえば、防火のための禁火とも、また、守護神であるオリオン星座に対し、敬意を表したものだともいう。
しかし、介子推の鎮魂のため、あるいは守護神に対する敬意の表白といっても、それだけのために老人、幼児の死するもの続出という事態を無視して、そこまでやるとは到底思えない。一箇月も火を禁じるのは人間の生存にも関わる、重大な支障となるのは目に見えたことだからだ。やはり『刑楚歳時記』でいっている「去冬節一百五日即有疾風甚雨」【冬至のあと、百五日目ころは風が強くなる】から、防火のためと考えるのが自然だろう。この寒食の風習は日本にはないもので、たいていの行事は日本に伝来しているが、寒食は伝わらなかったのはなぜか分からない。一面識もない介子推にそこまで義理を立てることもない、ということかも知れないし、防火の必要性は十分に理解した上で、火禁という暴挙にはついてゆけないということかも知れない。
あるいはそこに日本人と中国人の、発想の違いのようなものがあるのかも知れない。『事物紀原』は最後に、「雞羽挿入灰中焦者輒論死是何等刑法耶」【鶏の羽を灰に挿し、その羽が焦げたら死刑だというが、それはいったいどんな刑法に拠ったものなのか】と問題提起し、「国朝之不禁火其見卓矣」【わが朝廷では寒食節に火を禁じていない。これは卓見である】と結んでいる。だが、そんなことを卓見であるなどといい、得意顔をするようではもうおしまいというもので、いくら防火のためとはいえ、一箇月にも亙る火禁は暴挙でしかない。鶏の羽を灰に挿し、羽が焦げたら死刑にするというのは、そこまでやるかといいたくなる悪法である。
『刑楚歳時記』に引用された『玉燭宝典』は、魏の『明罰令』を引用し、冬至から数えて百五日目は子推のために寒食するという。しかし、「夫子推晋之下士無高世之徳子胥以直亮沈水呉人未有絶水之事至於子推独為寒食豈不偏乎」【介子推は晋でも下級の家来に過ぎず、屈原のように徳のある人ではない。その徳ある屈原が節を曲げずに入水自殺したというのに、呉の人が水を断ったという話は聞いたことがない。子推のときだけ火を断つというのはおかしな話ではないか】といっている。まことに尤もな話で、改めてそんな理屈を聞かされなくても、禁火と子推を絡める話は民間伝説に過ぎないことが分かる。『五雑組』は「二月二日」の項でも「寒食禁火託之介子推五日競渡託之屈原皆俗説耳」【寒食に火を禁ずるのは介子推に始まるとか、五日の競渡は屈原に始まるとかいう。しかし、それはみな俗説、こじつけに過ぎない】としている。
しかし、子推や屈原を別にして考えたとき、不公平はいろいろなことについて廻るもので、それをいちいち「あに偏ならずや」などと、おでこの血管を浮かせて怒ってみても始まらない。たとえ民間伝説であっても美化されるもの、貶められるものといろいろあって、人間にはそれぞれ持って生まれた運、不運があるのは古今東西を問わない。こういうと反撥されるかも知れないが、権力に対する反抗は出来ても、民衆による数の論理には抗し得べくもない。あんたねえ、いまの朝顔は「あさがほ」じゃないんだ、花は桜じゃなくて梅なんだと、額に青筋立てて力説しても笑われるだけの話である。
『玉燭宝典』で京師は漢の時代に、馬の頭くらいの雹が降ったこともある北方厳寒の地であるとして、「老小贏弱将有不堪之患令書到民一不得寒食」【老人やこども、病人には耐えられない災難だが、お上の火禁の命令に人民は従わざるを得ない】と、ただ耐えることだけを強いられる。
そして「若有犯者家長半歳刑主吏百日刑令長奪俸一月」【もしこのお触れに違反したら家長は半歳の刑、主吏は百日の刑、令と長は一箇月の給料を没収される】という。そして『鄴中記』を引用し「寒食又作醴酪又煮粳米或大麦作之酪擣杏子仁作鬻」【寒食に備えてチーズやバターを作り、米の飯や麦に絡め、杏仁を入れた粥を作る】と、寒食期間中の食事について述べているが、ほかにも『史記』や『琴操』を引用して重耳の逃亡生活や、介子推にまつわる話も収録している。
日本の文献では寺島良安『和漢三才図会』も『鄴中記』『荊楚歳時記』を引用したあと、良安のコメントとして「△按寒食如感子推之義死者何不用日月謂冬至後日数乎恐歳時記之説近於理矣本邦不為之」【寒食が子推の死を悼むものなら、なんでその日にしないで冬至後の日数でいうのだろうか。これは荊楚歳時記でいっていることのほうに理があるようだ。日本では寒食という行事はやらない】とある。中国だけで日本では馴染みのない風習であるせいか、『和漢三才図会』はたった六行あまりで済ませている。
しかし、これが『塵袋』になると、寒食について延々十一頁に亙って続いている。十一頁といっても筆で書かれたものだから、活字に直すとそれほど大量の記事ではない。「ニハトリアハセテ三月三日ニスルハ、イカナル心ゾ」という見出しになっているから、寒食がメインではなく、闘鶏について述べたおまけのような、つまり、寒食などはそれだけ日本人にはピンとこない、つまらない行事だということになるのだろうか。
「本説アリヤ、ツマビラカニ其ノ説ヲシラズ。寒食ノ節ニ闘鶏ヲナスト云事ハ、初学記ニモ見エタリ、其ノ義カ」とあり、それに続けて寒食の本題に入る。「寒食トハ晋ノ介子綏ガ綿上山ニコモリテ、ヤケシヌルニヨリテ、火ヲイム事ナリ」と、こちらは寺島良安と違って子推は焼死したとしているから、『五雑組』でいう「訛以伝訛」【誤りが誤りを呼び】の延長で、とくに目新しいことが書いてあるわけではないが、皇位継承の争いで重耳が逃げ込んだのは『史記』のところで触れたように「蒲」としている。
そして重耳が皇位継承の内紛に巻き込まれて逃亡し、亡命生活を送るようになった事情を述べているが、その逃亡生活のなかで子推が腿の肉を割いた部分は、「路次ノカテナクシテカツエニケル故ニ、アユマレズシテヘリイタリケルヲ、子推ト云フモノガ、モモノシシヲキリテマイラセタルヲメシテ、チカラツキテアユミケリ」としている。
さらに子推だけ恩賞に漏れた部分では「文公、晋国ノマツリゴトヲトリテ、ミタビ賞ヲオコナフニ子推モレニケリ。子推モ申サズ、文公モサズケズト云々。子推又、介子綏トモ介トモ推トモカク、又ハ介推トモカクベシ。母コレヲナゲク。子推ガ云ヒケルハ献公ノ子アマタアリトイヘドモ、運ツタナクシテ、国ヲタモツウツワモノナシ、天、モシ晋ヲモステズバ、カナラズ国ヲオサムル王アラン、コレヲ天、キミニアラズバ誰、天マコトニコレヲヲケリ。シカルニ賞ニアヅカルトモガラヲノヲノ、ヲノガツトメニヨレリトオモヘリ、マタアヤマラズトヤ」といっているから、最後の部分では狐偃(咎犯)を当てこすっているわけだ。
さらに「人ノタカラヲヌスムスラ、ナヲコレヲ盗ト云フ。天、功ヲムサボッテヲノガツトメトセン、其ノセメノガレガタシ。賞ナキ事ヲウラムハ、罪イヨイヨハナハダシカリナン。其ノ母ノ云ク、オモフ所ヲノベテコレヲシラシメヨ。子推ガ云ク、コトバハ身ノ文ナリ、身、マサニカクレナントス、イズクンゾアラハサンコトヲモトメント云ヒテ、綿上山ト云フ山ニカクレニケリ。子推ガ門人アリテ、タダニヤミナンコトヲクチオシトヤ思ヒケン、子推ニカハリテ龍蛇ノ歌ヲツクリ、フタニカキテ宮門ニカケタリ。其ノ詞ニハ龍、天ニ上ラントシテ五蛇輔ケヲ為ス、スデニ雲ニ升リ、四蛇各々其ノ宇ニ入ル。一蛇独リ怨ムト云ヘリ。コレニ異説アリ。又、趙衰、フタヲケズルニ字ナホウセズトモ云ヘリ。文公オドロキテ子推ヲ召セドモマイラズ。推ヲイタサンタメニ、綿上山ニ火ヲハナツニ、子推ナホイデズ、木ヲイダキテヤケシヌ、三月五日ノ事ナリ。其ノ日至ルゴトニ国中ニ火ヲ用ヒル事ナシ、コレヲ寒食ト云フ。綿上山ヲバ介山トナヅク。寒食、今ハ二月二四日ヨリ三日三夜ナリ。モトハ一月ノアヒダ火ヲ断ツ、後ニハ三日也」と続いており、ここでは宮門に張り紙したのではなく、鍋蓋に書いて門に下げたことになっていて、趙衰というものがその蓋を削ったところ、書かれた文字は消えなかったとしている。
『塵袋』の記事はさらに続く。「文公、カナシミニタヘズシテ、子綏ガイダキタリケル木ヲ切リ、屐ヲツクリテカタミトシ、ツネニコレヲ見テハ悲シキ哉足下、足下トゾ、ノ給ヒケル。足下トハアシダノ異名也トカヤ」昔の武士階級のものは相手のことを足下と呼んだ。いまふうにいえば君とか、あなたというような言葉で、その言葉の淵源はこんなところにあって、下駄の別名が足下ということになる。確かに下駄は足の下にあるから、それを足下というのは分かる。また、目下の相手に対して、足下というのなら分かるとしても、同等の相手に対する敬語として足下というのは、その語源からすればちょっと違和感がある。
それはとにかく、『塵袋』では見出しを「闘鶏」としておきながら、肝心の闘鶏については最後のところで、申し訳程度にしか書いていない。「コノ寒食ニ、ニハトリアハスルユエニ、ナホオボツカナシ、ニハトリハ陽ノ精ニシテ火ニカタドレリ。サレバ火ヲニクムトキニアタリテ、コノトリノイタハリヲ思ハズ。アハセテチカラヲモツカラカサント云フ心カ」これの最後の部分である、「ツカラカサント云フ心カ」は書いてある通りに転記したが、こちらの理解力が不足しているせいか、写本したときの書き間違いか、なんのことやらちょっと意味が分からない。
そして「子推ガシヌルコトハ五日ナレドモ、節日ナレバ三日ニヒキアグルカ、又、寒食三ケ日ノヨシニテ、初日ニトリヲアハスルカトモオボユルナリ」としてこの項を結んでいるが、子推の焼死は五日だけれども、節日のことだから三日に引き上げたのだろうといっている。日のほうはそれで説明がつくとしても、「五月」五日を「三月」三日にしたという、月のほうはどうなっているのか、この書き方では分からない。
寒食という言葉、あるいは行事は日本の史書、文学書の類でも、それほど頻繁にみかけることはないし、日本人の暮らしのなかに定着した行事とはとてもいえないから、一応、歳時記には載せられていても、一般的にあまり理解されていない。そんな関係で俳句実作の面で、ほとんど使われることのない季語だから、どうしても冷遇されっ放しということになるが、それも仕方のないことだろう。
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