2011年3月27日日曜日

北がなければ日本は三角

大畑 等



3月11日に発する「東日本大震災」。以来、夜、寝ている間もラジオをつけっぱなしでいる。眠っているのか起きているのか分からない日々。

東北地方の被害の大きさに震撼し、パソコンで津波に襲われた町の地図を見る。航空写真が地形を顕わにし、自分のなかで津波の恐怖を否応なく増大させる。そして津波に直面した人たちを思う。

寝不足でぼーっとした頭に、一冊の本の書名が思い浮かんだ。谷川雁の『北がなければ日本は三角』。「西日本新聞」に掲載された谷川最後の書き物であろう。幼い日々の回想を綴る、随想五十篇のなかの「北がなければ」から書名をとっている。

谷川家に「鼻歌から生まれてきたとでもいいたくなる、陽気なえくぼの小娘が登場」する。
―蚊帳の中の食事は、すこぶる彼女の気に入らないようでした。鍋にくっついている煮魚のしっぽを、平気で指でつまみあげ皿にのせたりします。そんな彼女の仕草を、だれか兄弟の一人が「きたない」と非難したときのことです。
 彼女はいたずらっぽい目をくるっとさせ、あかるい音声で「北がなければ日本は三角」と応じました。この答は私たちを驚倒させました。父母ともに執着している清潔思想のお家芸が、軽いフックの一撃で吹っ飛とばされたからです。
 私と弟は、寝室の蚊帳の釣り手をかわるがわる一箇ずつはずしては、三角になった日本を笑いながら検証しました。


満州事変(1931年)、五・一五事件(1932年)の頃であろう。十歳に達しようとする当時の谷川に向けて最晩年の谷川は推理する。大陸を含めた日本のかたちは四辺形だったが、幼い谷川はそれを円形として捉えていたようだ。それに対して海辺の娘の言葉は一撃を加えた。

―「あなたに北はあるの、それはどこ」という問いでもあると見れないこともありません。

この随想を書く谷川は地図を広げ、北海道東辺、小笠原諸島、与那国島を結ぶ。みごとな三角形、いつわりの所有(大陸)をとりのぞいた日本のすがた。

―彼女のいう、<北>とは<いつわりの領土>の意味だったのかと、つい深読みにおちいるほどです。
 ともあれ、父が規定した検察官的な幼児期は、彼女のシンバルの一撃によってようやくゆらぎはじめ、私のなかの十代の独楽はあてもなく動きだすことになりました。


実は、私の頭に想起されたのは<三角>ではなくて「北がなければ日本は四角」であった。誤って想起されていた。本棚から取り出して私の思い違いが分かったのであるが、それには理由がある。四角は不安定なかたち、垂直性に欠ける、北があってこそ私たちは立つことができるのだ、三角形を成すことができるのだ、との思いが意識の下にあったからであろう。

熊野に生まれ育った私には<南>の「普陀洛」は肌に刷り込まれている。一方、北は希求するもの。谷川が言う「自分の精神をある透明な冷たさの極に集約する、<抽象としての北>」でもある。そんなことをいま思うのは戯言のように響くほど東北の被害は大きい。

 私の東北の旅を、東北の友人を、津波におそわれた人たちを思う。一刻も早く北の町が復興して欲しい。

※『北がなければ日本は三角』著・谷川雁 河出書房新社刊