2012年1月29日日曜日

2011年1月29日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(56)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(53)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(56)          
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(56)

隅田川東岸/百花園 
文 : 山尾かづひろ 

百花園の入口














都区次(とくじ): 白鬚神社の次は福禄寿の百花園へ行きましょう。
江戸璃(えどり):白鬚神社から百花園へは100メートルちょっとなのよ。すぐに行けるわよ。百花園は文化2年(1805)佐原鞠塢(さはらきくう)によって開設されたのよ。鞠塢は仙台の生れで、江戸へ出て芝居小屋で働いたり、骨董屋をしたりして向島に落ち付き、蜀山人、谷文晁、大窪詩仏らの文化人と交遊を深め、最初に梅園を作ったのが百花園の起源だそうよ。開園当初は、360本の梅が主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどだったらしいわよ。その後、宮城野萩(みやぎのはぎ)、筑波の芒など詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしたようよ。
都区次: 雪吊りの松や、蠟梅、冬桜などが見られて、ひと休みしたくなる場所ですね。

一水に架けし石橋冬桜      大矢白星

冬の鯉夢見勝ちなる日もありぬ  戸田喜久子

七草のすずしろばかり育ちをり  品田秀風

欅落葉打ちかぶりたる茶店かな  高田文吾

雪吊の縄をはじけばどんな音   藤尾尾花

都区次: 「百花園」とは「いとも」分りやすい名前ですね。
江戸璃: 「百花園」の名称は、一説では、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものだそうよ。現在、東京都の名園というと、大名屋敷の名残りが大半だけど、ここは全くちがうのよね。江戸っ子町人の心意気を見せつけたようで面白いじゃない。
百花園の福禄寿













押し並べて冬木と言ふも様様に 長屋璃子(ながやるりこ)
対岸の画竜点晴冬桜 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(53)

福西正幸さん
内山 思考

湖をこぼさぬように冬の山  思考 

戦時中のホトトギス













朝日選書「忘れ得ぬ俳句」・野見山朱鳥著に尾鷲の俳人、福西正幸(せうこう)さんの名がある。 今、書架を探したが何処かに埋没してしまい、行方不明なので子細はよく思い出せないが、懐かしい俳人として取り上げられていたと記憶する。「ホトトギス」は第二次大戦中も粗悪な紙質ながら発行されていて、雑詠欄には戦地からの投句もかなり含まれていた。

例えば(マニラ・暁雪)(ハルピン・了咲)(中支派遣・きみ男)(〓〓丸・文彦)といった具合である。地名が〓になっているものが多いのは、配属先が極秘にされていたためであろう。なかには(〓隊・故某)と書かれたものもあり、投句後に戦死したと推測される。兵隊や将校による生々しい戦場俳句は本土にいる読者に臨場感と緊張感を持って鑑賞されたに違いない。

この時期のホトトギス誌上に福西正幸さんは彗星のように現れて常に虚子選の上位を占めた。昭和二十年一月号でも

夜光蟲鏤む潮に轉舵急
白手套五指の止と刀捧ぐ

で巻頭を得ている。地名は(南支派遣)とあり、その左には「句狂」「爽雨」「素十」「素逝」の名が続く。

福西さんの油絵
僕が晩年の福西さんを訪ねたのはもう二十年も前のこと、絵画にも才能を発揮されていた福西さんの部屋には沢山の油絵が並んでいた。にこやかにいろんな思い出話をして下さったが、なかでも印象深かったのは、戦後、虚子を迎えて志摩かどこかで句会をした時、出句の中に「海女とても陸こそよけれ桃の花」というのがあり、ほとんど全員がその句を取ったという逸話だった。

もちろん今ではよく知られた虚子の句である。「その頃の田舎の俳人は、そんな言葉使いの俳句を見たことがないから、みんなビックリしてその句を取ったんだよ」と福西さんはとても愉快そうに話しておられた。

私のジャズ(56)

人気がも一つ、ディジー・ガレスビー
松澤 龍一

DIZZY GILLESPIE DUETS
 (Verve 835 253-2)












ディジー・ガレスビー、パーカーの盟友と言われ、モダンジャズの黎明期のビ・バップ時代に登場したトランペッタ―。不思議と人気が無い。彼の代表アルバムはと言われてもすぐには思いつかない。パーカーの盟友と言われていても、実際のパーカーとの共演の数ではマイルス・デイビスの後塵を拝す。

では、彼がヘボなトランペッタ―かと言うと、とんでもない、一流も一流、超一流のトランペッタ―である。ルイ・アームストロングの伝統を引き継ぎジャズの本流を守ってきたプレーヤーである。彼がいなければ、クリフォード・ブラウンもリー・モーガンもフレディー・ハバードも、さらにウィントン・マルサリスもいない。一時、ルイ・アームストロングを真似て、道化路線に走ってしまった。頬を目いっぱい膨らませて吹くスタイルや、トランペットの菅を上向きに曲げたりのパフォーマンスでショー・ビジネスでの成功を求めた。これがジャズ・ファン、特に日本のジャズ・ファンには評判が悪い。

上掲のアルバムはソニー・ローリンズとソニー・ステットの、サックスのヴァーチュオーゾ二人とそれぞれ数曲づつ競演をしている。ソニー・ローリンズやソニー・ステットとの競演となれば、ディジー・ガレスビーも本気にならざるを得ない。ジャズ・プレヤ―としての本領を存分に発揮している。ソニー・ステットの本職はアルト・サックスであるが、一曲テナー・サックスを吹いている。これが素晴らしい。これだけのテナーが吹ける奏者が今いるのだろうか。そう言えば、ソニー・ステットも人気はも一つだった。理由は上手すぎたからかも。

では、ガレスビーの素晴らしいトランペットを聴いてみよう。