2014年6月1日日曜日

2014年6月1日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(178)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(175)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(178)

山手線・田町(その9)
文:山尾かづひろ 

東禅寺の山門









都区次(とくじ):前回は三田台地の泉岳寺でしたが、今日はどこへ案内してくれますか?

またの名を海上禅寺夏の蝶  畑中あや子

江戸璃(えどり):やはり大矢白星師に案内してもらった三田台地で、東禅寺へ行くわよ。 泉岳寺の門を出たら右に行くのよ。この辺は高輪という地名でね、高輪は台地の上のまっすぐな道という意味の「高輪手道」が略されたものなのよ。台地から品川の街へ下ってゆく幅の広い坂道が桂坂なのよ。以前は坂の両側の圧倒されるような高い石垣に沿った歩道を下るのが素晴らしかったけれど、惜しいかな、最近のマンション建設工事で、その高い石垣の片方が壊されちゃったわね。桂坂を少々下って、右手の細い路地に入るわよ。すぐに急な下り坂になるけれど、これが洞坂(ほらざか)なのよ。一見、この細い坂道に寺があるとは思えないけれど、 坂を曲折しながら東禅寺に出られるのよ。東禅寺は高輪界隈きっての巨刹でね、慶長14年(1609)に飫肥藩(おびはん)の藩主伊藤祐慶(いとうすけのり)が赤坂に創建し、寛永13年(1636)にこの地に移転したのよ。東京湾が眼前に広がることから海上禅寺と呼ばれたのよ。本堂正面に掲げてある「海上禅林」の扁額は横書きの堂々たる楷書で、一見の価値はあるわよ。その本堂の向って左手には、美しい三重の塔も見られるわよ。門前には「都旧跡 最初のイギリス公使宿泊所」の石碑があるのよ。東禅寺は幕末にはイギリス公使館として使われてね、駐日公使となったオールコックは、文久元年(1861)5月、水戸浪士による襲撃を受けたのよ。これが東禅寺事件でね、オールコックは難を免れたけれど、書記官オリファンと領事モリソンは重傷を負わされちゃった
のよ。
都区次:日が暮れてきましたが今日はどこへ行きますか?
江戸璃:今日は暑かったわね。慶応仲通りのイタリアン居酒屋のボルコロッソでスパークリングワインを飲みたくなっちゃった。
都区次:いいですね。行きましょう。

洞坂










日盛りや寺に息づく英国史  長屋璃子
高輪の坂道小道額の花    山尾かづひろ





尾鷲歳時記(175)

左利きの話 
内山思考 

蹴球を言語としたり汗の民    思考

左手を上に杖を持つ和田さん
六林男句碑の前で









この頃、桑名の姉の家に泊まる機会が増えたので、食事をしたりテレビを見たりする内についつい思い出話に花を咲かせることが多くなった。先日も、最近の食べ物のCMには左利きのタレントや俳優がよく出てくるね、と左手の箸でハンバーグを挟みながら僕が言うと、姉が、「お父ちゃんも左利きだったね」と返したので、そこから話題が広がった。

父は元来左を得意としたようだが、幼少期に米の脱穀機に人差し指を奪われる事故に会い、表面上の生活は全て右使いで通していた。気にもしなかったけれど、いつもどこかに不便さを感じていたんじゃなかろうか、と父の齢を追い越して今しみじみ思う。美筆の祖母に似ずあまり達筆でなかったのもその故か。でも祖父(先代の思考)は見事な金釘で、僕の悪筆はきっとそちらの隔世遺伝に違いないと勝手に思っている。ちなみに、右利きの僕が左手に箸を持つようになったのはここ二十年ほどのこと。

僕の場合は左右どちらで
書いてもこんな風
きっかけは和田悟朗さんが父によく似ていて、しかも左利きだから真似をしたくなったのだ。和田さんのように、カッコよく左手に持った割り箸でうどんをズルズルと啜りたい、という我ながら子供じみた発想で今に至っている。外国はどうか知らないが、日本では書くことに関しては右優先で、和田さんも矯正されたらしくペンは右、しかし、現役時代の授業では、両手に2色のチョークを持ってボードに何か書き、それをノートしようと学生がいちいち利き手に色付きペンを持ち替えるのを見て優越感に浸ったという。

右手より左手自在繭ごもり  悟朗

右利き左利きの比率は太古より変わらないはずだから、例えば三十六歌仙の中にも左利きはいたのではなかろうか、と考えたことがある。

曲水の宴ほんとうは左利き  思考

それ以外にも例えば宮本武蔵の二刀流は左利きの産物だとか推察するのも興味深い。歴史に名を残す左利きが左甚五郎だけ、と考える方が不自然なのではなかろうか。