2011年8月7日日曜日

2011年8月7日の目次

俳枕 江戸から東京へ(32)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (29)                          
                   内山  思考    読む

私のジャズ (32)          
                  松澤 龍一     読む


8月14日の「現代俳句協会ブログ」はお休みします。次回は8月21日となります。よろしくお願い致します。 

俳枕 江戸から東京へ(32)

浅草界隈/酉の市・浄閑寺(投込寺)
文:山尾かづひろ  


酉の市














都区次(とくじ): 鷲神社(おおとりじんじゃ)と言えば酉の市ですが、今年は「三の酉」ですか?
江戸璃(えどり): 11月2日が酉の日で「一の酉」、その12日後の11月14日が「二の酉」で、その12日後が11月26日だから「三の酉」だわね。
都区次: 「三の酉」には火事が多いと言いますが?
江戸璃: これは酉の市の帰りに男性が吉原に寄ることが多くて、留守をあずかる女性としては、何とかして亭主を家に引きもどさなければならない。まして、酉の市が3回もあったのじゃ、たまったものじゃないわよ。それで「三の酉」には「火事が多い」とか「吉原に異変が起こる」という俗信をつくって亭主の足を引き止めようとしたのよ。
都区次: 「吉原の異変」というと投込寺の浄閑寺を思い浮かべますが?
江戸璃: 浄閑寺は花又花酔の「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の川柳で有名よね。俗説が多いけど、浄閑寺のホームページによると安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになったそうよ。
浄閑寺(投込寺)








 
針納む寺と投込寺隣る      大矢白星
お女郎の墓を密閉冬の蜘蛛  山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (29)

四千万歩のお客様
内山思考

手花火の光の中にみんな居る 思考 

もてなしの心得を記したお触れ









井上ひさしさんの著書に「四千万歩の男」という長編がある。 わが国で最初の実測地図を作った江戸時代の測量学者・伊能忠敬(いのうただたか)の生涯を書いたもので、兎に角長い。全五巻の一巻をまず買ったが、文庫本でありながら厚み四センチ?ほどもあり、読み始めたものの四千万歩どころか四千歩も行かないうちに頓挫してしまった。

しかし、伊能さんは凄い人だ。歩き始めたのが寛政三年(1800)五十六才の時で、それから17年かかって何と約三万五千キロを踏破したのだ。これは、月からも見えると言われる万里の長城を七往復したことになる。 どれだけ丈夫な人だったのだろう。 三尺(二尺三寸説も)の歩幅を保って歩き続けるため、そこに嫌なものがあってもエイッと踏んづけたかも知れない。
伊能一行が多分通った
旧街道

その伊能さんたち一行14名が尾鷲にやって来たのが文化二年(1805)のこと。二月に江戸を立ち桑名、伊勢、志摩を経由して六月二十三日に尾鷲に入り、浜野屋善助さんというお宅へ宿をとったそうだ。 二百年前、熊野古道の街道筋である僕の家の前を、あの伊能忠敬さんが通ったと思うとちょっと鼻が高い。 市の郷土室にある古文書に、その時のことが書いてある。

なにしろ、幕府の偉いお役人であるから、事前にその筋から「お触れ」があったようで、まず、ご一行が到着すると、菓子と茶をだすべし、次に食事は一汁一菜にせよ、と厳格だが、その後に、一菜といっても大きい皿に沢山の料理を乗せてもよい、と書いてあるのが面白い。玄米の嫌いな伊能さんに上等の白米を炊いて差し上げたとも言われている。

別の土地では、おかずが気に入らず持って来た鰹節を食べたとか、茶碗に文句を言った、焼いた魚に手をつけなかったなどのエピソードも伝わるが、体調に気を配るあまり、食事に神経質になっていたと考えられる。

私のジャズ (32)

泣ける!ジョージ・ルイスには泣ける
松澤 龍一

GEORGE LEWIS AT HOME
(American Music VC-7021)













今までに聴いて泣ける音楽は二つしか無かった。一つはメンゲルベルクが指揮をしたバッハの「マタイ受難曲」であり、二つ目は中村美津子が唄う「瞼の母」である。だが、このジョージ・ルイスには泣ける。曲は「セント・ジェームズ病院」、彼が1963年に来日した時のテープのようだ。あまり上手くない歌、それに続く単調なトロンボーンとトランペットのソロの後に出るジョージ・ルイスのクラリネットのソロは素晴らしい。泣ける。単純に泣ける。


ジャズはニューオリンズで始まったとされるのが定説である。ニューオリンズの売春宿のオーナーたちがパトロンで、彼等あるいは彼女等の庇護のもと盛んになったが、ニューオリンズの紅燈街が閉鎖の憂き目にあうと、そこで演奏していたプレーヤ―はミシシッピー河を逆上り、シカゴ、そしてニューヨークに向かった。こうしてアメリカ南部の都市のその一部の地区で演奏されていた、後にジャズと呼ばれる音楽が全国規模になるわけである。

ところがニューオリンズを離れようとしない連中もいた。彼等はニューオリンズに踏みとどまり、音楽以外の仕事を捜し生活を始める。1940年代に好事家の一人が一昔前にニューオリンズで演奏されていた音楽の復活を試みた。その当時のプレーヤー達が探しだされた。その中のプレーヤーの一人が、このクラリネットのジョージ・ルイスなのである。なんと、発見された当時、彼は沖仲仕であったと云う。

この GEORGE LEWIS AT HOME と題されたレコードは、ジョージ・ルイスの自宅で吹き込まれたもので、 バンジョーとベースの伴奏だけの数曲が素晴らしい。ビブラートをたっぷりと利かせたむせび泣くクラリネットである。