2011年3月6日日曜日

2011年3月6日の目次

■ 永田耕衣 × 土方巽 (8)     
                 大畑   等   読む
■ 俳枕 江戸から東京へ (12)   
                 山尾かづひろ   読む
■ I LOVE 俳句 Ⅰ-(9)        
                 水口 圭子    読む
■ 尾鷲歳時記(9)                          
                   内山  思考    読む
■ 私のジャズ(12)          
                  松澤 龍一     読む
■ 季語の背景(3・上巳)-超弩級季語探究
                  小林 夏冬    読む

永田耕衣 × 土方巽 (8)

大畑 等


世界にとび込まれた肉体


「土方巽と日本人」
(於日本青年館) ※18より


















前回は真鍮板と踊る土方(1968年10月、日本青年館での公演-写真上)を紹介した。そして、この舞踏の構想は、土方と元藤燁子の出会いの頃に出来ていたようだ。青年・土方のエスキスは『土方巽とともに』に紹介されている。その意図を含めて、断片的にここにひき写すと、
  
・楽器体として日本の高校生三十名ずつ計六十名。

・厚さ3mm、巾60cm、長さ1m10cmの真鍮板、アルミニウミ板を男女高校生に持たせる。

・高さ2m、巾1m50cmのアルミニウム板十枚も必要とする。

・十羽程の鳥の足にゆわえられた小さな金属板をライトで追い空間で運搬される音楽を視覚化する。鳥追いの音楽。

意図
・肉体に眺められた状態で発展するこの舞踏展示会は外側から運動として与えられた舞踏性は一切肉体の表面から放逐される。

・この舞踏展示は単なる肉体にまで還元されるもので個体がもち、所属している所番地、姓名をはずすと肉体のなかにその住所を与えるものといってよかろう。なにをするかでなく、なにをされたか、この場合の世界にとび込まれた肉体と解釈してよい。この作品は肉体に命令するのではなく、肉体を作る意図をもっているが、その為にも高校生を採用した。

・日本の小学唱歌と高校生が手にもっている金属板の合唱。

・小さな金属板が突如スクリーンになる。そこに映写される映像はこの切断された金属板によって切断されたり、運ばれたり、重ねられたり、伏せられたり、走ったり、投げられたりする映像として蘇生する。

・巨大なアルミ板十枚は一枚につき二名ずつの持つ人が配置され、二枚一組のかこいを作り、その間に上着をぬいだ高校生一人がその金属板に身体をぶつける。

難解な箇所もいくつかあるにはあるが、この展示会の高校生の肉体は「空っ箱だい」と言って子供の頃に土方が遊んだ、その「空っ箱」と言えば良いようだ。(参照(5))又は弦のない弦楽器(バイオリンやチェロなど)と言っても良い。周囲のあらゆるものを振動として受容する。真鍮板、アルミニウム板は震え、それを持った手を通して体に伝わる。

また、視覚はどうだろう。金属板に映された外界のものは「切断されたり、運ばれたり、重ねられたり、伏せられたり、走ったり、投げられたりする映像として蘇生する」。運動し生成するものの受容が行われる。山も人も動く。金属板に現れては消え、消えては現れる。

自分の顔、体は他の生徒がもった金属板に映りそして去り、替わって次々他の生徒の顔・体が写る。運動体としての映像は、固定されないから、一つは他を排除しないのだ。六十枚の動く金属板の舞踏展示会、自他の境界は運動のなかで消えていく。

金属板の映像はどうだろうか?真鍮板では暗く、闇のなかに溶けるように映っているだろう。一方アルミニウム板は白い影のように映っているだろう。いずれも「図と地」の境界はあやふやで曖昧になっているだろう。ここが鏡とは違うところだ。

※18

















知覚系は運動を固定画像のように捉えることは前回述べた。言語もしかりで、変化生成する世界を記述するには限界がある。ゼノンのパラドックス「飛んでいる矢はいつまでも的に届かない」は、運動を空間に置き換えて記述したときの矛盾を言い当てている。言葉も又疑わなくてはならないのだ。

たとえば犬の臭覚でもって人を描いたとする。人の匂うところ―口、尻、性器は肥大化して描かれることになるだろう。ピカソの絵どころではない。また鳥の足に付けた小さな金属板のきらめきにより音楽(聴覚)が視覚化される。このように全感覚を動的に働かせたとき、変化生成する世界は動くのだ。五感は脳にあるのではなく対象にくっつくように散らばり、体に戻る―絶え間ない往復運動。

「肉体の拡張」、「人間概念の拡張」は「なにをするかでなく、なにをされたか、この場合の世界にとび込まれた肉体」から始まる、それが土方舞踏の根本であった。

また土方のエスキスは「見る―見られる」「触れる―触れられる」など身体性の問題、「自己―世界」「自己―他者」等の戦後の思想・哲学上の問題を抱え込んでいる。言葉が事象の分析であることに対して、土方の構想は行為を通じて無意識にまで浸透していくものであろう。
(続く)
※18『土方巽を読む』 清水正著 鳥影社刊より

俳枕 江戸から東京へ(12)

佃島界隈/築地本願寺
文:山尾かづひろ









築地本願寺
都区次(とくじ): 聖路加国際病院の南側に築地本願寺がありますので行ってみましょう。この建物は関東大震災で崩壊した本堂を昭和9年に再建したもので、古代インド様式の異国風で、独特なものです。京都には東本願寺、西本願寺がありますが、そちらとの関係はどうなのですか?
江戸璃(えどり):京都にある西本願寺の築地別院なのよ。
都区次:元からこの場所にあったのですか
江戸璃:違うわよ。元々は浅草近くの横山町に元和3年(1617)に建立したものが明暦3年(1657)の有名な振袖火事で燃えっちゃったのよ。ところがギッチョンチョン、幕府は焼け跡に再建を認めず八丁堀沖の海上に替え地を下付したのよ。
都区次:何で同じ地に再建を認めなかったのですか?
江戸璃:幕府は火事をきっかけに江戸の区画整理を行ったのよ。この新しい地は海の上なので佃島の門徒が中心となって埋立を行って本堂の再建をしたのよ。「築地」という地名はそのときの土地を築いて埋め立てたことが由来になっているのよ。

築地派の御講淋しや普請中     正岡 子規
この裏が遺体安置所ソーダ水  山尾かづひろ

I LOVE 俳句 Ⅰ-(9)

水口 圭子


これ以上待つと昼顔になってしまう  池田澄子
 

「待つ」というのは、初めはうきうきと楽しい気分だが、そのうち、何時までという先が見えないと、不安が生まれ相手への不信も絡みついて来る。いくら待っていても、少しも状況が変わらないと、焦りや苛立ちから待つのを止めようかと思ったり、もう少し待ってみようかという思いが交錯し、複雑な心境に陥る。

掲句は、そんな待たされている時の心境を表現。主人公は、待ち続けると「昼顔になってしまう」というのだから、女性つまり作者自身であろう。そして、その思いの先は何も言っていない、このまま「昼顔になって」も待ち続けるのか、何か行動を起こすのか。しかし、この句の口語表記から受ける印象はとても明るくて、じっと耐え忍んで待つ女性像は浮かび上がって来ない。多分何かする。たとえどんな結果が待っていようとも、しっかりと現実を受け入れ、前進する潔さ、自分の行き先をきちんと見極められる聡明さを持ち合わせ、逞しく背筋のぴんとした佇まいが彷彿として来る。

先日久しぶりに映画「ひまわり」をTVで観た。ソフィア・ローレン演じる主人公のイタリア女性が、ロシア戦線に従軍したまま行方の分からない夫を探しに行って出合った現実。やっと見つけた夫は、雪の荒野で倒れ記憶喪失になり、助けてくれたロシア女性と暮らしていたこと。

勿論この映画のテーマは、戦争のもたらす悲劇だが、夫の優柔不断さに比べ、主人公の「待たない」決断をする潔さが心地良い。大きな瞳に哀しみをたたえつつ、ミラノ駅で夫を見送るソフィア・ローレンの美しさは言うまでもない。

戦争からの連想で、待つしかなくて、そして決して報われぬ意の、ぞっとするほど哀
しい一句を挙げておきたい。

    英霊が永遠に待つ除隊かな     谷山花猿

尾鷲歳時記(9)

まんぢゅう屋の話
内山 思考

長野泰一博士









春の土ぎゅうと握れば力湧く 思考 尾鷲(おわせ)市の名誉市民に長野泰一(ながの・やすいち)博士(1906ー1998)がいる。長野先生はウイルス抑制因子の発見者として知られる。後に英国学者が同じ物をインターフェロン、の名で発表し有名になった。岡山市にお住まいだったが、生まれ育った尾鷲をこよなく愛し、たくさんのエッセイに古き良きふるさとを書いておられる。

その中で、僕が最も好きなのが「まんぢゅう屋」という一文である。

-小学校の一年生の頃を思い出すと、眼に浮かぶのは咲いた桜の下でみんなが老先生の袖や腰にまつわりつくようにして遊んでいた光景である。(中略)その金津先生がある日、教室で、「先生も年とったので、学校をやめるんだが、何屋さんになったらよいだろうね」といった。我々一年坊主ども、ワイワイ、ガヤガヤ、議論を戦わした末、衆議一決、「まんぢゅう屋がよい」と答えた。(『うゐのおくやま』より)

 
半年ほど後、先生は小さなまんぢゅう屋を構える。当時、上菓子と呼ばれたまんぢゅうの思い出に触れながら長野先生はこう述懐する。金津先生がまんぢゅう屋になったのは、我々がすすめたからだ、と思っていたが実はそうではなく、先生の方から我々がそう言うようにもっていったのではないか、と。

老練な教師が小児の気まぐれで、余生の職業を選択するはずがない。そして、「きっと、そうだ、そうに違いないと思いながら、八十歳に近くなった今も、いや、先生はワシらがまんぢゅう屋がよいといったから、まんぢゅう屋になったのだという気がしてならない」と結んでいる。

博士から頂いた論文集
チンプンカンプンだけど宝物










晩年、尾鷲で記念講演をされた時、最後の質疑応答で僕は手を挙げて、「先生、ノーベル賞の可能性は如何?」と申し上げたら、「それは委員会の方に聞いて下さい」と笑顔で返され、会場大爆笑となったのも今は懐かしい思い出である。

私のジャズ(12)

そっくりさん
松澤 龍一

MOODY  MARILYN MOORE
(Bethlehem COCY-9938) CD












 またビリー・ホリデイの話。ビリー・ホリデイと言う偉大な歌手、アメリカでは、自伝が発刊されたり、映画が作られたりと有名だが、本当かなとずっと疑っている。今までに私が会ったアメリカ人でビリー・ホリデイに関心のある人は皆無に等しかった。中には全く知らないと言う人もいた。意外と一般の人には名前がそれほど浸透していないのかも知れない。ところが、歌をやる人、特にロック、ジャズ系の歌手でビリー・ホリデイを知らない人は、まずいないであろう。フランク・シナトラを始めとして、多くの歌手が一番影響を受けた歌手としてビリー・ホリデイの名前を挙げている。

この MARILYN MOORE と言う女性歌手、ビリー・ホリデイの影響を強く受けていると言うより、ビリー・ホリデイそのもの、そっくりさんなのである。個性を重んじるアメリカのショー・ビジネス界でよくぞここまで真似できたと感心する。彼女が遺した唯一のアルバム MOODY を聴いてみる。思わず笑ってしまう。誰が聴いてもビリー・ホリデイだ。CDの解説書によれば、彼女は黒人ではない。チェロキー・インディアンの血が混ざっているそうだ。1931年生まれと言うので、おそらく生きているだろう。どこかでまだ唄っているかも知れない。CDを聴き進むにつれて、どこか違う感じがしてくる。声の艶とか張りが違う。終わり近くのビリー・ホリデイの持ち歌である I CRIED FOR YOU になるとまぎれもなく違う。こんな生硬な高音はビリー・ホリデイに無かった。 これほど完璧なそっくりさんが生まれ、なおかつ、その録音が残されていること自体ビリー・ホリデイの偉大さ、アメリカの大衆音楽に遺した影響力を物語っているのかも知れない。

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追加掲載(120104)
えっ、これがビリー・ホリデイじゃないの?

季語の背景-超弩級季語探究(3・上巳)

小林夏冬


上巳

上巳は重三、仙源ともいい五節句の一つ。本来、上巳とは三月第一の巳の日だから、必ずしも毎年三月三日にはならない。それは五月最初の午の日である端午が、必ずしも五月五日にならないし、七夕も同じ理屈で七日と決まっていない。それが『宋書』によれば「魏より以後但三日を用い、巳を以ってせず」とあるように、魏の時代から三月三日に固定された。その点は端午や七夕も同じ方程式でそれぞれ五月五日、七月七日になったが、それが固定されるまえの上巳は、あくまで三月最初の巳の日で、水の流れによってわが身の穢れを祓い、川に流して清める日だった。

だから中国には桃の節句や雛祭りはなく、あくまでも上巳であって、三月三日を指して桃の節句といい、雛祭りというのは日本だけに通用することである。この日の行事として中国から渡ってきたものに、曲水や闘鶏などたくさんあるが、日本では雛祭り、または桃の節句として女の子の祭りとなった。中国にも女の子のおもちゃとしての雛はあったようで、『聊斎志異』『三国志』などにもちらりと出てくる。しかし、それはあくまでも玩具としてでしかない。


この上巳の節句を日本では桃の節句、雛祭りとしているが、桃の花は町の花屋が扱う室咲きのものは別として、露地ものの桃が三月初めに花が咲くことはない。それを桃の節句というのはおかしいということになるが、これは旧暦の日付をそのまま太陽暦に当てはめたからで、上巳、三月三日は当然ながら旧暦で、それを太陽暦に換算するとだいたい四月末ころとなる。地方によって多少の差があるとしても、そのころなら桃の花も咲くから、桃の節句という別名は自然の成り行きといえる。ただ、桃の節句、雛祭りは日本独自のもので、中国ではあくまで五節句のうちの上巳ということになる。

日本での桃はしばしば女性を隠喩する場合があり、早い話が「桃から生まれた桃太郎」はその典型だろう。ただ、それは桃の実であって桃の木、あるいは桃の花ではない。それに対して中国の桃はその実に限らず、桃の木自体も特別な意味を持つ。孫悟空がまだ暴れん坊で、天界で桃畑の管理人をしていたころの桃に象徴されるように、その桃を食べることによって、不老不死が得られるというめでたいものであるが、それ以上に桃の木そのものに宿る霊力によって、すべての災を避ける力があるとされている。

では、なぜ桃の実だけでなく桃の木にまでそのような霊の力が宿るのかといえば、『事物紀原』は「桃版」の項で『玉燭宝典』を引用し、「元日施桃版著戸上謂之仙木」【元日に桃の絵を門に飾り、これを仙木という】といい、神荼と鬱壘の二神が桃の木に宿るとされている。そこで「百鬼畏之故也」【もろもろの鬼はその故にこれを恐れる】ということになる。『事物紀原』は続けて山海経を引用し、問題の桃の木が生えている山について述べる。「東海度朔山有大桃樹蟠屈三千里」【東海の度朔山に桃の大樹があり、三千里に亙って枝を張っている】が、「其卑枝門東北曰鬼門万鬼出入也」【その桃の木の東北に卑枝門という門があり、これを鬼門ともいってすべての鬼はここから出入りする】から、ここには神荼と鬱壘という二人の兄弟神が常駐しており、この神の役目は「主閲領衆鬼之害人者」【人を害する鬼を監視し、取り締まる】ことにある。

それを簡略化してこの二神、「画神荼鬱壘以禦凶鬼」【神荼と鬱壘の絵を門に貼って鬼を防ぐ】のだが、次第に拡大解釈されて「書右鬱壘左神荼元日以置門戸間也」【二神を画にし、右に鬱壘、左に神荼の像を元日の門に張る】と鬼が恐れて退散するとし、続けて「桃符」の項では『淮南子』を引用し、「羿死於桃棓許慎注云棓大杖以桃為之以撃殺由是以来鬼畏桃」【羿は桃の木の杖で打ち殺された。許慎の注によると棓とは桃の木で作った杖で、これで羿が打ち殺されてから鬼も桃の木を恐れるようになった】としている。

羿とは人の名で、天下に二人といない弓の名人だった。それが家来の反逆に会い、狩りから帰ったところを、桃の木の杖で打ち殺されてしまった武将である。そのように強い武将でさえ桃の木が持つ霊力に敵わなかった、という事実が鬼を恐れさせることになる。そして『事物紀原』に引用された『玉燭宝典』は、正月の項で桃についてさまざまな話を紹介している。前記したことと重なるが、まず鬼はどうして桃、あるいは桃の木を恐れるかという理由で、この『玉燭宝典』も『活地図』を引用しているから、こうなってくるといたちごっこというか、剥いても剥いても芯のない玉葱と同じで、どこまで辿れば原典にゆきつけるのか心許ない。そこを追求してゆくと脇道に入ることになるがそれも止むを得ない。

そこで『玉燭宝典』の序文を見てゆくと、「作礼記者取呂氏春秋」【『礼記』を書いた人は『呂氏春秋』から取った】とある。そこまでは私も分かっていたが、その『呂氏春秋』も淵源ではなく、まだ先がある。「月令自周時典籍周書有月令第五十三呂氏春秋取周之月令」【月令は周の典書に月令第五十三とある。『呂氏春秋』はこれを取り入れた】という。ということは『呂氏春秋』「時令」もオリジナルではないことがこれで分かる。

そして「蔡雍以為」【蔡雍が思うには】「月令自周時典籍周書有月令第五十三呂氏春秋取周之月令」【月令は周公が定めたもので、周書にも「月令第五十三」と書いてある。だから『呂氏春秋』は、この周の月令を取り入れたものだ】といい、さらに「案周書序周公制十二月賦政之法作月令」【『周書』の序に、周公が十二の月ごとに政治を行うための基準として、それぞれに月令を作った】とあるのがそれだとする。こう書くと『周書』は『呂氏春秋』より古い本と勘違いされ易いが、『周書』は唐の時代の本だからずっと新しい。ただ、月令そのものは周公が政治を敷くための基準として定めたものだから、これは『呂氏春秋』より先行しており、それを取り入れたものである。

いったん脇道に入ってしまったから、『玉燭宝典』は中断して月令について述べる。この月令は私も『礼記』から入り、そこから『淮南子』そして『呂氏春秋』という順序で遡ったのだが、その『呂氏春秋』も、既にどこかにあった資料を取り入れたのではないかと想像していた。その元の資料とはなにかと考え、自然発生的な、土着の風習に基づく資料かと思っていたのだが、案に相違して「周公制十二月賦政之法作月令」【周公は十二の月ごとに、政治を行ってゆくための法として月令を作った】というから、由緒正しいものだったわけである。しかし、その周公にしても最初から一年を通し、あれだけ整然としたものを書くのは至難の業で、やはりその先になにかの資料とか、風習があったのではないかと考えてしまう。だが、そこまでいうと下司の勘ぐりと笑われてしまいそうだし、【周公が制定した】と書いてあるのだから、それを素直に信じるべきだろう。どうも難儀なことである。

月令が周公までゆきついたところで『玉燭宝典』にある、鬼はなぜそんなに桃の木を恐れるのか、というところへ戻ることにする。『玉燭宝典』に引用された『括地図』の記事は、「桃都山有大桃樹盤屈三千里」【桃都山の頂上に大きな桃の木があり、三千里に亙って枝を張っている】といい、さらに「上有金雞日照此木雞則鳴於是群雞悉鳴」【その上に金の鶏がいて、朝日が射すと高く鳴く。そうするとすべての鶏が一斉に鳴き出す】という。犬や鶏は連れ鳴きするから、一犬虚に吠えれば万犬これに応えるの鶏版である。そして「下有二神一名鬱一名壘竝執葦索以伺不祥之鬼得而殺之」【この木の下に鬱、壘という二人の神がいて、葦の綱を持って鬼を待ち構えており、害をしようと隙をうかがう鬼を捕えて殺す】という。桃の木が生えている山の名の度朔山がこちらでは桃都山となり、二人の神は神荼と鬱壘の筈なのに、ここでは鬱、壘と一人の名を分割して二人の神としている。

続いて『風俗通』を引用し、「黄帝書称」【黄帝の書でいうには】として「上古之時有神荼与鬱壘昆弟二人性能執鬼」【神代のころ、神荼と鬱壘という兄弟の神がいて、この神は鬼を捕えることが出来た】と解説している。この兄弟神は「住度朔山上桃樹下簡閲百鬼」【度朔山上の桃の木の下に住み、常に鬼を監視する】という役目があり、「鬼無道理妄為人禍者荼与鬱壘縛以葦索執以食虎」【鬼が理由もなく人に禍いすると、神荼と鬱壘が鬼を葦の綱で縛り上げ、虎に食わせる】とある。こうしてみるとお互いに引用し合っているうちに鬱壘という一人が、いつの間にか二人になってしまったり、山の名も桃都山になったり度朔山になったりする。最後のところでは「鬼を捕えて殺す」が「鬼を捕えて虎に食わせる」になるというように、話の内容が少しずつ変わってゆくのが分かる。伝言ゲームをすると少しずつ話が変わり、最後にはとんでもない話になってゆくのと同じ方程式だろう。

結局、恐いものの本体は神荼と鬱壘という兄弟神であるわけだが、その二人は桃の木の下を住所としているから、いわば桃の木に宿っているわけで、その桃の木は鬼にとっていちばん恐い、神荼と鬱壘を象徴するものとなっている。そんなことで桃の実だけでなく、桃の木そのものも邪しまなものを避ける力があるとされたもので、正月に「飲桃湯服却鬼丸」【桃酒を飲み、却鬼丸を身につけ】たり、桃人といって、桃の木で人形を二体作って門の両側に飾る。これは単に桃の枝を門に挿すだけの時もあり、また、雄鶏の羽を混ぜて作った葦の綱も飾る。この鶏の羽は桃の木のてっぺんで鳴くとされる金鶏を象徴するものだろうか。それが鬼として一括される、邪悪なものを避けるお呪となったものと見える。

この考え方が五行思想と結合してゆく。『玉燭宝典』はさらに『典術』を引用し、「桃者五行之精厭伏邪気能顓百鬼故今人作桃板著戸謂之仙木」【桃は五行の精だから邪気を退け、鬼を防ぐ力がある。それで今の人は桃板を戸に懸け、これを仙木という】が、この桃板は桃印、桃人ともいい、そのかたちにさまざまなものがある。そのほかに却鬼丸というものもあって、それを身に帯びることによって、邪悪な鬼を寄せつけないようにすることが出来る。続いて『大医方』を引用し、却鬼丸について述べる。それは「有姓劉者見鬼以正旦至市見一書生入市衆鬼悉避」【劉さんという人がいた。普通の人では見ることが出来ない鬼を見る力を備えていたが、この人が市場へ行くと一人の書生がいて、その書生を見ると鬼は一斉に逃げ出した】という不思議な事件を目撃する。そこで「劉謂書生有何術以至於此」【劉さんは不思議に思って書生に、鬼がきみを見るとみな逃げてゆくが、いったいどんな術を使うのか】と聞いた。

するとその書生がいうには「出山之日家師以一丸薬絳嚢裹之令以繋臂防悪気耳」【私が山を降りる日、先生は赤い丸薬を袋に入れ、これを肘に掛けていると悪い気を防ぐことが出来る】から持ってゆきなさいといわれたので、先生にいわれた通りにしているだけです、と答えた。そこで劉さんは半信半疑ながら、「於是借此薬至所見鬼処諸鬼悉走所以世俗行之」【その薬を借りて鬼のところにゆくと、鬼は蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。その事件があってから、世間の人もそういうことをするようになった】とあり、この話は『荊楚歳時記』その他にもある。

この例でも分かるように、各種の本がいろいろな話を引用しあっているから、どこまでゆけば出典に辿り着けるのか分からないときがある。当然、孫引きが横行していたのだろう。その点は今も変わらない図式である。『事物紀原』はいろいろなもの、ことについて、各種の文献を典拠として解説している本だから、原典の引用がなければ成り立たないし、読むほうもそれは承知している。だから『事物紀原』が各種の文献を引用するのは当然としても、ほかの書物が孫引きをし合ってよいということにはならない。

とはいうものの私が『事物紀原』から『玉燭宝典』へ溯ってみたところで、その先にはまだ『括地図』『典術』『大医方』『荊楚歳時記』などがあるのだから、これも所詮は孫引き、曾孫引きに過ぎないことになる。ある意味では痛烈な皮肉だが、ただ、出典を辿ってゆくと扇状に広がってゆくし、なかには散逸してしまったものもあるから、すべての原典に遡ることは個人の手に負えるものではない。『事物紀原』から『玉燭宝典』に遡るのさえ容易なことではない、という現状からすれば、まあ仕方がないかといういい訳にはなるかも知れない。

しかし、そうはいうものの当時の孫引き、曾孫引きを、現在の感覚でどうこういうのは酷というものである。中国に限らず日本でもそうだが、重要な文物はその殆どが各王朝に収められ、書籍なども含めたそれらの文物を手にすることができるのは、ほんの一握りの人だったから、いまの日本でいえば宮内庁所蔵になるようなもので、当時の一流の学者でも自由に見られるというものではなく、たまたま民間所蔵のものでも門外不出、他人に簡単に見せるものではない。

また、現在のように何万部、何十万部と出版されるものではないから、その絶対数の差もある。見るだけでも大変なことで、ましてや書写などは以てのほかという世界だから、それに比べれば私が国会図書館へいって古典籍を閲覧し、複写するなどはフリーパスのようなもので、その当時と今の事情の違いを無視して勝手なものいいは出来ない。現在のように各書店から出版され、買わせるための広告までするのとはまったく次元が違う話だからだ。原典でさえ国会図書館へ足を運び、手続きすれば、それが誰であろうと無料で閲覧させ、複写までしてくれるなどというのは夢のような世界だから、この本のあとがきに「お役所仕事などといったら口が曲がる」と書いたのは私の実感そのものである。

そういう現在の感覚で孫引き、曾孫引きの横行などといえたものではない。当時の学者はその一節を引用するだけでも、いまの私が原典に接するより、何十倍もの労力を必要としたわけである。ただ、そこにも抜け道のようなものがあって、いってみればネタ本といわれるものがあった。それが『芸文類聚』で、これは日本でも復刻されている。これにしてからがおいそれと手に入るものではなかった。しかし、学者にとっては必需品で、そういうものから孫引きされていた。

またしても脱線してしまったが、桃と桃の木が持つ力の話に戻ることにする。ここまでは桃の木が持つ力というか霊力について述べたが、この桃や桃の木がもつ霊力という考え方は、日本には入らなかったようで、あるいは入ってきても日本人には受け入れられなかったのかも知れないし、受け入れられはしても根付かなかったのかも知れない。これは民族性の違いに根ざすことだから、すぐによいとか悪いとかということにはならないし、逆説的ないい方をするならば、そういうところが各民族の独自性を支えてきたのだろう。

いずれにしても日本の上巳は次第に禊祓という本来の姿から外れ、女の子のままごとが進化した雛遊びから、雛祭りへと変化してゆく。その雛はのちに述べるように平安時代から存在しており、そもそもは形代という神霊の象徴としての雛が、陰陽道に取り入れられて禊や祓のための紙人形となり、それで体を撫でてわが身の災を移し、川に流すようになった。その一枚ものの紙人形が立雛となり、室町時代に座雛という人形本来の形となった。そして江戸中期以降に今日の雛人形と同じものが作られ、流し雛という形でいくぶんか本来の意味は残ったとしても、形代としてわが身の災厄を託して流す、禊祓本来の意味は次第に薄れてゆく。そして女の子のままごと遊びと習合して雛祭りとなり、ハレの行事に変化した日本と、人が流れで身を清め、禊祓に終始した中国は、その後の過程において大きく分かれてしまったといえる。

雛の語源は緑園書房、喜多村信節『嬉遊笑覧』によれば、「ひゝな又ひなともいふ。鳥の雛に准へて小さきものをいふ」とあって、俳句の関係では『俳諧水鏡』『新続犬筑波集』『増山井』『犬子集』などにも季語としての雛祭りがあるというが、この項は季語をテーマとしているものではあっても、季語の淵源、成立を探るのが目的だから、季語となったあとの俳諧関係の本までは調べていない。日本では上巳本来の行事である禊祓は曲水、宮廷行事として残りはしたが、その当時はともかくのちには雛祭りが主流となり、現在では三月三日といえば雛祭り、桃の節句で、曲水はテレビなどでもちらりと紹介されるが、それは単なる季節の風物詩ていどの扱いだし、新聞でもベタの囲み記事で載るくらいのものだから、注意して見ないと見落としてしまう。

その曲水の宴については後述するが、それとともに日本に渡ってきた闘鶏は、秦の時代に始まったとされる。玄宗皇帝がもっとも好んだといわれているが、日本でも「古止利豆加比」として平安時代から行われた。『和漢三才図会』でも「雛祭」の最後の行に、「三月三日闘雞『古止利豆加比』始於唐玄宗」【三月三日の闘鶏をわが国では古止利豆加比という。これは唐の玄宗皇帝のときから始まった】として雛祭りの記事をしめ括っている。

しかし、闘鶏の起源は玄宗の時代より古い。『事物起原』には『韓詩』『宋書』『歳時記』『論語』などを引用した「禊祓」の一項があり、また、『宋書』を引用して「魏巳後但三日不復用巳也」【魏以後は三日に固定され、巳の日に拘わらない】とした上で「水浜祓除由来遠矣蓋周典也」【流れによって穢れを祓う由来は遠く、周の時代に制定された】としている。その内容は『荊楚歳時記』と同じなので、あとでそちらも紹介するとして、ほかには『呂氏春秋』にも闘鶏があり、ここでは目先を変えて『淮南子』の話を引く。

「魯李氏与郈氏闘鶏」【魯の国の李さんと、郈さんが闘鶏をした】のがそもそもの発端である。隣り合わせに住み、どちらも魯の国を代表する政治家だから、お互いに負けるわけにはゆかない。「郈氏芥其鶏而李氏為之金距」【郈さんは鶏に芥子を塗り、李さんは鉄の蹴爪をつけ】どちらも勝つために手段を選ばないインチキをする。しかし、「李氏之鶏不勝李平子怒因侵郈氏之宮而築之」【苦労して蹴爪をつけた甲斐もなく、李さんの鶏は負けてしまった。そこで怒った李さんは、郈さんの土地に家を建てた】

たかが闘鶏の勝敗を巡って、常識では考えられない振る舞いだが、どちらも面子を大事にするから黙って引き下がらない。「郈昭伯怒傷之魯昭公曰」闘鶏には勝ったが、そのおかげでわが土地に勝手に家を建てられた【郈さんも烈火の如く怒って、皇帝に中傷した】李のばかやろうがそういう横車を押すのなら、おれはその横車を、縦にも斜めにもしてやろうじゃないかというわけである。

「祷于襄公之廟舞者二人而己其余舞於李氏」【先君である襄公の御霊屋で舞っている舞子は二人だけで、そのほかの舞子はみな李のところで舞っております】李のすることはそのように横暴で、臣下でありながら帝をも蔑ろにしておりますというわけである。これには注釈が必要で、このままではちょっと分かり兼ねるところがある。それはそれぞれの身分というか家格によって、ご先祖を祀るようなとき、霊廟で舞う舞子の数が決まっている。それでゆくと李家のほうこそ舞子は二人で、その他の舞子は帝の霊廟で舞うのが順序というものである。ところが李は平然と逆のことをやり、下剋上をしているというわけだ。

そこまでいってもまだ腹の虫が納まらない郈さんは、さらにもう一押しする。「李氏之無道無上久矣弗誅必危社稷」【李が君臣の道を踏み外し、お上を敬わなくなってから久しくなります。このままにしておきますと李はますます増長し、わが国そのものが危うくなるでしょう】ここで一気に李さんを抹殺してやろうという腹づもりである。闘鶏に負けた李さんは、その腹癒せに郈さんの土地に家を建ててしまったが、郈さんもすりかえの論理を以って、祖霊を祀る儀式の舞子の数をあげつらい、「誅せずんば必ず社稷を危うくせん」などと威丈高に中傷するのもおかしな話で、こうなってくると喧嘩に負けた幼稚園児が、「先生にいいつけてやる」というのと同じ、李さんも郈さんも目くそが鼻くそを笑うの図である。

この話は『漢書』にも引用され、災の芽は小さいうちに摘めという教訓にされているが、政治の本道を揺るがすところまで騒ぎが大きくなると、道楽の闘鶏などと暢気に構えていられる話ではない。これが原因となって昭公は李氏討伐の軍を起こしたが、情ないことに臣下の李氏に敗れてしまい、魯の国そのものが滅ぶことになる。この李氏と郈氏の話を『玉燭宝典』では『左伝』を引いているが、細かい話の内容まで立ち入っていない。その代り「此節城市尤多闘鶏卵之戯」【この節は町の市場で闘鶏が大流行している】と記し、「左伝有李郈闘鶏延魯邦魏陳思王有闘鶏表云預列鶏場後代文人又有闘鶏詩賦」【『左伝』の闘鶏を巡る李と郈の例でも分かるように、魯の国には亡国の兆しがあった。魏王も闘鶏に言及しているし、後世の文人にも闘鶏の詩が数多くある】という。

また、闘卵というものもあって、これは画卵ともいい「猶染藍蒨雑色仍加雕鏤」【卵に画を描いたり、青や赤で染め、または彫刻したり】して、その出来栄えを競い、「遞相餉遺或置盤俎」【お互いに贈答し合い、あるいは食卓に飾ったり】して楽しむという。これは闘鶏と違って優雅な楽しみだから、争いは起きようがないだろう。ときには生で飲むこともあったかも知れないが、だいたいは茹でたり焼いたりしたという。キリスト教にも染卵というものがあるそうで、私はその実物を見たこともないし、なんのためにやり、どういう扱いをするのか知らない。宗教的な部分が加味されるのだからただ飾ったり、食べてしまうだけではないだろうと思う。

それはとにかく「其闘卵則莫知所出」【その闘卵はどこに由来があるのか分からない】けれども、「菫仲舒書云心如宿卵為体内蔵以拠其剛髣髴闘理也」【菫仲舒がいうには心とは卵のように体内に宿り、剛健となって闘いの理念を髣髴とさせる】という。なんだか分かったような分からないような、それでいてなんとなく心に響き、いつまでも脳裏に残る言葉である。

『史記』『漢書』『戦国策』『西京雑記』そのほかにも闘鶏の話はあるが、玄宗も好きだったというから上は王侯貴族から富豪、長屋住まいの貧民に至るまで、よい鶏と見れば家産を傾け、争って買ったことからもその狂奔ぶりが分かる。いずれにしてもブームとなれば強い鶏、よい鶏は当然高くなり、そのうえ鉄の蹴爪をつけたり、防具をつけて闘うとなれば、一般人にはとても手の出ないものだったろう。庶民は街の市場で闘わせ、賭博の対象としたという。

一方の曲水は日本に渡った当時はそのままの形を受け継ぎ、古代の朝廷でもそのように執り行われたことは、『日本紀』に第二十三代顕宗天皇の元年三月上巳、初めて曲水の宴があったとしていることでも知ることが出来る。それはまだ神代の昔、弥生時代末期のこととて年代は特定できない。それぞれの天皇の即位年、在位期間、年齢などの記録が現れるのは、女帝であった第三十三代推古天皇からで、中国では『荊楚歳時記』によると『晋書』を引用している。この『晋書』は『夢粱録』にも引用されているが、流れに盃を流す起源について次のように書いている。「三月三日士民竝出江渚池沼間為流杯曲水之飲」【三月三日には士農工商を問わず水辺にゆき、杯を流して曲水の宴をする】とあり、曲水についてもっとも古い文献として梁、呉均の『続斎諧記』を引用している。

それによれば「晋武帝問尚書摯虞曰三日曲水其義何指」【晋の武帝が三月三日に行われる曲水の意味を、尚書の摯虞に下問した】とき、摯虞が答えるには「漢帝時平原徐肇以三月初生三女」【漢の章帝のとき、平原に住む徐肇という人が、三月の始めに三人の女子を生みました】というところから話が始まる。この徐肇という人は男だが、古代中国では当主が後継ぎを生むといういい方をしたから、男が子を生んだという表記になる。このいい方は上は皇帝から下は庶民に至るまで同じで、このいい方も日本に持ち込まれているが、こんなところにも古代中国の、徹底した男尊女卑の思想が汲み取れる。「而三日倶亡一村以為怪乃相携之水浜盥洗遂因流水」【しかし、その子は三日にしてみな亡くなったので、村中のものがこれを怪しみ、みな連れ立って水辺へゆき、災を水に流しました】といい、続けて「以濫觴曲水起於此」【それが曲水の起源で、そこから始まったものです】と真正直に言上した。

武帝が摯虞の答えに縁起が悪いとご機嫌斜めになったとき、尚書郎の束晢が「臣請説」【私にいわせてください】と身を乗り出していうには、「昔周公卜成洛邑因流水以泛酒故逸詩云羽觴随流」【昔、周公が易を立てて地を選び、その流れに杯を流しました。ですから『逸詩』にも「羽觴、波に従いて流る」とあります】といい、さらに続ける。「又秦昭王三月上巳置酒河曲有金人」【また、秦の昭公は三月三日上巳の日、川に酒を注いだところ、金の人に会いました】という。人の出会いなどは川へ酒を注いでも注がなくても、会うときは会うし会わないときは会わないと思うのだが、話の都合で金の人に会わなくては話が先へ進まないのだろう。余計なことをいうと束晢に無礼討ちにされ兼ねないが、「自東而出奉水心剣曰令君制有西夏」【その人が水心剣という名刀を捧げていうには、昭公、あなたはこの剣を以って西夏を制するでありましょう】といった。そののち「及秦覇諸侯乃因其処立曲水二漢相沿皆為盛集」【秦が諸侯を制覇するに及び、昭公はその地に祠を建てて曲水の儀を執り行い、いっそう栄えました】と答えたというが、どうも話がうますぎると思うのは私がへそ曲がりだからだろう。

この話は架空の物語ともいわれているが、ものもいいようで角が立つ、丸い卵も切りようで四角という俗言の通りで、機転が利いて弁舌の回るやつには敵わない。おかげで束晢のほうは「賜金十五斤左遷摯虞為陽城令」【金十五斤のご褒美を賜ったが、かたや摯虞は陽城の令に左遷された】という。答えが気に入った、入らなかったというだけで、この扱いの違いはひどすぎる。『荊楚歳時記』はさらに『呉地記』を引用し、「郭虞三女竝以上巳日死故臨水以消災所未詳也」【郭虞の三人の女の子は上巳に死んだ。そこで災を水に流したそうだが、どうもはっきりしないところがある】としてここでも主人公の名前のほかに話自体も少しずつ変わっている。

お話はさらに続く。「孔子云暮春浴乎沂則水浜禊祓由来遠矣」【孔子さまがおっしゃるには、晩春に水を浴び、穢れを祓うのは遠い昔からしていることだ】として曲水の項を結んでいるが、この話は『玉燭宝典』にも載っている。だが、曲水の原義からいえば摯虞の答えのほうが正しいわけで、皇帝から諮問を受けた臣下として、皇帝のご機嫌がどうあろうと正しい答えをするのが当然で、束晢のほうは何やら幇間のような感じを受ける。

題は忘れたが、落語にも似たようなのがあって、江戸の大店に縁起ばかり担ぐ旦那がいて、元日早々お皿を割ってしまった粗忽者の権助が、田舎から出てきたばかりの世慣れのなさから割った、壊したというと、元日から縁起が悪いと咎めた旦那に、権助はもっと縁起の悪い言葉をぽんぽんいってしまう。頭から湯気を立てんばかりになった旦那に番頭が、「元日早々、増えましておめでとうございます」とその場を収め、旦那もそれでご機嫌が直ったという話で、落語だから笑って万事めでたしとなるにしても、一国を統治するものが、それに類するようなことをしていたのでは話にならない。

いまもその名が残る優秀な官僚であった束晢を幇間扱いする気はないし、架空の物語であっても咄嗟にそういう話をして、白けた場を取りなした機転と気配りはさすがだから、それに対してご褒美を下されたのはよいとして、こちらも優秀な官僚だった摯虞を左遷したのは武帝の、皇帝としての器を問われても仕方がないだろう。ましてや皇帝の側近から、一挙に地方の令への降格はひどすぎる。事は下世話の世間話とはわけが違うから、左遷の理由を「縁起でもない答えをしたから気に食わない」などという基準で計られたのでは、お上にへつらうことしか考えない家来だけになってしまうだろう。

この話は紀元前千五十年ころで、唐徐堅の撰になる『初学記』は曲水の起源を周公とし、『十節録』では幽公からとしている。これだけの文献があるのだから、その起源は周の時代に間違いないだろうが、南宋の首都、臨安の諸行事を記録した『夢粱録』では、曲水の故事は晋の時代に始まったとしている。その巻二は「三月祐聖真君誕辰時」【三月、祐聖真君は辰の刻に生まれた】というタイトルで始まっているが、その冒頭で「三月三日上巳之辰」【三月三日は上巳の辰】といっている。これは上巳が三月三日に固定された後だからで、そのまえの三月三日は必ずしも巳の日にはならないことは繰り返し述べた。

それに続いて「曲水流觴故事起于晋時」【曲水に杯を流す故事は晋の時代に始まった】とある。これは先に述べた束晢の話が、誤り伝えられたものとされているが、それにしても曲水の始まりが周の時代であったとしても、周公からか、幽公からかという問題は残る。周の初代は武王で、周公はその弟である。それが幽公ということになると、西周最後の王で十二代目となる。秦の圧力に屈して伝世の鼎を奪われ、東へ移ってその子の平公から東周となるが、武王から幽公までの間に三百五十二年が経過している。神代の時代だからはっきりしないのは仕方ないとしても、ずいぶんいい加減な話ということになる。

『夢粱録』はさらに続けて、「唐朝賜宴曲江傾都禊飲踏青亦是此意」【大唐の御代に水辺で宴を催し、穢れを払って青草の野に遊んだのもそういう意味からだ】として、「右軍王羲之蘭亭序云暮春之初修禊事」【王羲之が「蘭亭序」でいっているように、暮春の初めに当たり禊を行う】とか、「杜甫麗人行云三月三日天気新長安水辺多麗人」【杜甫の「麗人行」に出てくる「三月三日、天気新たにして長安の水辺に麗人多し」】とは「此景至今令人愛慕兼之此日」【こうした風景をいったもので、今に至るも人々はこの日の風習を好んでいる】という。また、この日は「正遇北極祐聖真君聖誕之日」【祐聖真君である北極星の誕生日】だとする。祐聖神君とは道教でいう北極星の別名で、以下は道教による盛大な祭の様子を描写し、章を改めて三月に行われる科挙について詳しく説明している。

寺島良安は『和漢三才図会』で束晢の話のあと、「魏晋以後用三日不用巳」【魏、晋以後は三日に固定され、巳の日に限らない】として『十節録』の話を紹介している。「昔周幽公淫乱群臣愁苦之于時河上曲水宴」【むかし、周の幽公があまりにも淫乱なので、困り果てた家臣どもが幽公の色好みを水に流そうとして、曲水の宴を設け】たとき、「或人作草餅貢幽公嘗其味為美也王曰是餅珍物也可献宗廟周也大治遂致太平」【ある人が草餅を作って幽公に奉った。幽公はこれはうまい、珍味であるといい、宗廟に供えよといった。それから周は大いに治まり、太平の御世となった】ので、「後人相伝作草餅是日進于祖霊従此始也」【のちの人はその日に草餅を作り、祖先の霊に供えるようになった】という。しかし、「然韓詩初学記亦皆謂曲水宴起於周公也」【『韓詩』『初学記』は、曲水の起源を周公からだとしている】というから、その起源が周公から始まったのか、『十節録』でいう幽公からなのか分からなくなり、その間に三百五十二年の差があることは述べた。

『和漢三才図会』は続けて日本の曲水について『日本紀』を引用し、「顕宗天皇元年三月上巳始有曲水宴」【顕宗天皇元年三月、最初の巳の日、日本で初めて曲水の宴があった】としているから、第二十三代顕宗天皇の御代になる。そのころの日本には西暦年はもとより紀元年の記録もないから、第二十三代顕宗天皇の元年という以外は分からない。さらに『本草綱目』を引いて「是日酒漬桃花飲之除百病益顔色」【この日、酒に桃の花を入れて飲むと百病を除き、健康になる】といい、その際の注意事項も挙げている。

それは「其花単葉者良千葉者有毒」【酒に入れて飲む桃の花は一重のものがよく、八重のものは毒がある】とし、「嫩艾作菜食或和麺作饂飩如弾子呑三五枚以飯圧之治一切鬼悪鬼」【艾の若葉を食べたり、麺や饂飩に混ぜたり、または四、五枚丸めて飲み下し、飯を食って押さえれば一切の鬼や悪鬼を寄せつけない】と続き、「今草餅拠此乎為彼幽王之故事者偽説也」【草餅を食べる意味はそこにある。だから草餅が幽王に始まるというのは偽説だ】といい切っている。つまり、草餅の発祥は漢方薬としての意味が大きく、医食同源の思想を基にしたものといえる。

いずれにしても日本の雛の起源は形代であり、わが身の災を形代に託して流したもので、もとはといえば災厄を水に流すための道具だった形代が、紙の雛となり、時代の推移とともに女児の玩具と習合し、贅を凝らした作りとなってゆく。そして現在のように雛祭りの主役となって、雛流しの行事は次第に衰退する。その雛流しがあまり行われなくなったということは、禊祓という、もともとの意味も薄れてしまったことを意味する。

一方、中国に雛祭りはない。だから当然のことながら『事物紀源』も上巳、禊祓、曲水の記事はあっても雛、あるいは雛祭りの項目はないが、『和漢三才図会』「雛祭」の項には「三月三日児女有雛遊作」【三月三日に女の子は雛を作って遊ぶ】とあるように、流し雛をするために作ったお雛さまに、わが身の穢れを祓って流す、という本来の意味が次第に忘れられてゆき、宮中や貴族の女の子の遊び道具に変化してゆく。

それを「衣冠束帯小木偶夫婦或紙人形」【男女の木彫人形に衣冠束帯を着せて飾ったり、紙で人形を作ったり】して遊ぶが、そのときは「日用調度尋常所用器物無闕皆美小而飲食配膳如常」【日用品や、いつも使っている品物や道具をみな小さく、美しく作り、食事の膳なども揃える】が、それは「未肇於何時也」【いつごろから始まったのか分からない】としている。つまり、祓えのための人形が、次第に女の子の遊び道具に変化したということである。それは「源氏物語枕雙子有此事則其来尚矣」【『源氏物語』や『枕草子』にも載っているから、これはずっと昔からあるものだ】とし、そのころはまだ正式な雛祭りというようなものではなく、宮中の女の子の遊びであったとしている。

『和漢三才図会』は続けて、「或書云敏達天皇二年正月奉勧雛像」【ある本によれば、敏達天皇の二年正月に、お雛さまを奉ったところ】「於太子二歳而取分其男像女像定内儀外儀」【太子はまだ二歳におなりになったばかりだったが、男像、女像を分けて内儀、外儀を定められ】「非大夫遊向後為幼女遊」【これは大夫たるものの遊びではない。これからは女児の遊びとせよ】と宣わったという。それに続けて「拠比則始乎聖徳太子未詳」【ということはここで始まったことになるが、聖徳太子のことはよく分からない】としている。

しかし、内儀、外儀に分けたというのも、これは士大夫たるものの遊びではない、今後は女の子の遊びとせよと宣わったというのも、いくらなんでも誇張が過ぎる。いかに聖徳太子といえども二歳ではろくに口も利けまい。ましてや内儀、外儀などという概念が二歳の子に理解できる筈もない。その他にも聖徳太子に九人だか十人だかが、同時に違うことを申し上げたところ、一人残らず正確に聞き分けたとかいろいろあるが、聖徳太子を美化した話にも疑問があるという。なかには聖徳太子は実在していなかった、という極端な説もあり、話を面白くするにはよいかも知れないが、そこまではいえないだろう。

いろいろな粉飾があったとしても、聖徳太子二歳のころにお雛さまがあったとすれば、その起源は六世紀の半ばを過ぎたころと思われるから、だいたい五百七十年以降、遣唐使のころということになる。ただ、それは雛があったというだけで、雛祭りという様式化されたものではなかった。それが十一世紀初頭、平安時代中期に著わされた『枕草子』二十六段には、「過ぎにし方、恋しき物、枯れたる葵、ひいなあそびの調度」とある。これは清少納言の追憶に過ぎないが、そのころのお雛さまは女の子にとって、遊びと行事の中間的な存在というような、もっとも普遍的なものになっていたのだろう。

ほぼ同時代に成立した『源氏物語』は谷崎潤一郎の名訳がある。少し長くなるが、その「紅葉賀」をここに引用する。「男君は元日に、朝拝にお出ましになると云つて部屋をお覗きになりました。(中略)姫君はもういつの間にやら雛を竝べて、忙しさうにしてゐらつしやるのでした。三尺のお厨子一具にさまざまな品をお飾り付けになり、玩具の家をたくさん拵へてお上げになつたのを、その辺一杯に立て散らかして遊んでゐらつしやるのです。(中略)人々が端に出てお送り申し上げますと、姫君も立ち出でゝお見送りになつて、直ぐ又雛の源氏の君をお飾り立てになり、参内させなどしてお遊びになります。『もう今年からは少し大人におなり遊ばせ。十歳を越した人は雛遊びは宜しくないと申しますものを。かうして男君をお持ちになつたのでございますから、それらしゆうしとやかにしてお相手なさらなければいけません。お髪をお直しになる間さへ大儀らしうなさるのですから』などゝ少納言が聞こえ上げます。遊びにばかり夢中におなりなさいますのを、恥かしいとお思ひになるやうにと思つて云ひますと、それでは私は夫を持つたのだ、此の人たちの夫と云ふのは醜い器量の者共だけれど、私はあんなに美しい若い人を持つたのだと、やつと今はじめて気がお付きになるのでした」というから、清少納言のこどものころはとにかく、この源氏の君の奥方のころは雛祭りという行事名称はなかったとしても、事実上の雛祭りはあったということになる。

ただ、このときは元日ということで上巳ではないから、かたちとしてはあくまで雛祭りであっても、行事として存在したものではない。ここへ引いた後段の「此の人たちの夫と云ふのは醜い器量の者共だけれど、私はあんなに美しい若い人を持つた」の原文は小学館、阿部秋生ほかの校注によれば「我はさは男まうけてけり、この人々の男とてあるは、みにくくこそあれ、我はかくおかしげに若き人をも持たりけるかな」とあり、清少納言もよくもまあ、こんなえげつない物言いをしたものだが、私がそんなことをいったら清少納言に張り倒されてしまうかも知れない。

いまの常識からいえば、十歳ちょっとでは雛遊びも年齢相応といえるとしても、当時は既に源氏の君の奥方ともなれば、ご出勤の光源氏を送り出したあと、主婦である身を忘れてままごと遊びをするのはおかしなもので、女房がそれを止めさせようとするのは当たり前である。いずれにしても、そういう堂上方の遊びが次第に民間に伝わり、雛祭りという、上巳の行事として定着する方向に進んでゆくが、江戸時代も泰平の世となるとお雛さまも飛躍的に発展し、大流行したという。

西村白烏著『烟霞綺談』によると「雛祭は少名彦名の命を祭る。此神、高皇産霊命御子、其形小き御神なり。故に人形も小く拵へ祭るとなり。彦名を中略して『ひな』と唱へ来る。此神、大己貴尊と力を戮せて天下の疾病を祓ふの神誓あり。日本医薬の祖神なり。紀伊国粟嶋大明神と申奉る、世俗女神といふは誤りの甚しきなり。自見翁曰く雛祭はいづれの御代より始まりたるにや、古史実録に見へず。源氏物語、枕草子にひなあそびと云事あれば其来る事久し。近世の雛、配膳調度、殊の外に美をつくして旅行の乗輿までも悉く飾る。ある人の曰く雛祭の器供は蛤やうの器然るべし、周礼に山川四方に祭るにさへも蜃器とて蛤類の器を用ゆといへり」とあり、「彦名を中略して『ひな』と唱へ」といっているから、『嬉遊笑覧』の「鳥の雛に准へて小さきものをいふ」の語源説とは違うが、いずれにしても「ヒナ」の正確な語源は不明ということになる。

相撲とか踏絵のようにそれが始まるべき理由があって始まり、順次発展しながら今に続くものと違って、この雛祭りや暦のように自然発生的なものは、その発展の経過を見てゆくことは出来ても、発生の時期を確定しようとするほうが無理な話で、そんなことはないものねだり、出来ない相談というものだろう。

喜田川守貞の著になる『近世風俗志』は別名を『守貞漫稿』というが、守貞自身は『守貞謾稿』としている。「漫」と「謾」ではその意味するところはだいぶ違ってくるが、この際は通過することにする。その「三月三日」の項に「上巳ト云、マタ桃花ノ節ナル故ニ婦女子ハ桃ノ節句ト云。今世今日大阪ハ住吉、江戸ハ深川州崎等ニ潮干狩群集ス」とあるから、娯楽の少なかった当時はシーズンになると、大挙して潮干狩りに押しかけたのだろう。そしてこの雛祭りについて「今世今日三都共女子雛祭ス。古ハ雛遊ト云テ今日ノミニ非、平日ニコレヲ為コト、源氏物語末摘花ノ巻ニアルハ正月八日、紅葉賀正月、野分、夕霧共ニ八月也」つまり源氏物語のころは上巳に限らず、紅葉の賀に出てくる正月元日、末摘花の巻に出てくる正月八日、野分と夕霧の巻に出てくる八月などにも雛遊びがあったわけで、それはままごとから雛祭りへの、過渡期の姿だったといえよう。

そのことは『宇都保物語』でも、「季の詳カナラザルト冬ノ雛遊アリ。是等ハ今世幼稚ノ遊ビニ土偶人等ヲ並ベ、小サナル鍋釜其他庖厨ノ具ヲ以テマゝゴト、飯事也。平日ノ遊ビスルト同ジキ也」といっているから、ままごと遊びが雛祭りと習合したもので、この段階でもまだ中国の五節句の一つ、三月三日の上巳とは別物で、上は宮中から下は一般庶民に至るまで、それこそ貧富の別なく、女の子の普段の遊びであったわけだ。

「古モ高貴ノ児女ハ雛ノ調度ト云テ、膳椀ノ類其外モ小形ニ製シ又善美ニモ造リ、人形モ精製ナルモアリシナラン。清少ガ枕草子等モ『スギニシカタ、コヒシキモノ、カレタルアフヒ、ヒイナアソビノテウド』又ウツクシキ物ノ条ニ『ヒイナノテウド』トアリ」とあるが、これが民間になると「紙、土偶等ヲ並ベ諸器モ木葉、蛤殻等ヲ用フノ類ナルベシ」ということだから、この段階ではまだお雛さまを使ったままごとということになる。蛤の殻を使うのも、そのころは遊びと実益を兼ねて江戸では深川、州崎に潮干狩りの群集が集ったことからも知られるように、蛤の殻が手近に得られたという背景がある。そしてもっと重要な理由として蛤の殻は、違う個体のものとは絶対に合わないという特質を利用して、いまでいうトランプの神経衰弱のような貝合わせという遊びがあり、女性の二夫にまみえず的な考え方の残り香もあったわけだ。

いまの若い人はこの『近世風俗志』に限らず、送り仮名の少ない昔の文章は、読むのに差し支えるかも知れないが、現在の過剰ともいえる送り仮名の氾濫になかば呆れている私には、こういう文章のほうがぴったり来る。それはとにかくとしてこの『近世風俗志』は、挿絵がふんだんに入っているが、そのなかには室町時代の男雛女雛ほか、各時代の雛の図がある。

室町幕府は一三三八年に足利氏が京都に開いたものだが「足利幕府ノ比ハイマダ三月三日ヲ雛遊ノ節ト定メザル時ナレバ、右図ノ物等モ平日ノ弄翫ニシテ」とあるから、中国で上巳が三月三日に固定され、日本でも三月三日が上巳とされてはいても、まだ雛祭りとは結びついておらず、普段の日の遊びとして上巳とは別物であったわけだ。そして雛そのものは次第に豪華なものになっており、全体にお公卿さんふうになっているのは、「公卿ノ形ニスルコトハ、堂上ノ児女ノ遊ビナレバナルベシ」雛祭りの発祥は、宮廷の女の子のままごと遊びの延長だからだとしている。享保雛、次郎左衛門雛、古今雛と続き、このあたりまではお公卿さまふうなところもあるが、貞享雛を経て元禄雛になると、女雛はもう遊女ふうの作りとなる。

挿絵には注釈があって「右ノ二図共ニ女雛ノミニテ男雛無之。当時モ男女公卿ノ物別ニアリテ、此二図ノ如キハ別ニ並ベ飾ルナラン」というから、これは雛壇に飾る雛祭り用の雛ではなく、今も見られる箱入りのもののような、単独で飾られる人形がこのころ既にあったのだろう。「今世モ一対雛ノ外ニ小野小町ノ立像、種々ノ姿ヲ造リ、台ニ穴ヲ明ケ、足裡ニ竹串ヲ以テ之ヲ立ツルアリ、此類ナルベシ。ケダシ一対ノホカニカクノゴトキ物ハ、三月ヨリ端午ノ武者人形ノ方多シ」と、一対のものとは別に単体のものもあるということは、とくに雛祭り用ではなく季節を限定しないものや、端午の節句に飾る武者人形なども作られていたことが分かる。

また「今世三都共ニ嬰児ノ形ヲ造リ、衣服ヲ製シ着セテ、今日及ビ他日モ女児コレヲ弄ブ物ヲ、京阪ニテ市松人形ト云、略シテ『イチニンギョ』ト云」飾るだけではなく着せ替えなどもして遊び、その人形を抱いたり負ったりしたといから、いまでいう縫いぐるみや、着せ替え人形のようなものもあったわけだ。それが市松人形で、元文のころ佐野川市松という俳優がいて、男ぶりがよかったところからそれに似せて作り、市松人形の名の由来になった。

この市松人形は三寸から尺というから、九センチから三十センチくらいのものもあり、安物は鋸屑を膠で練り固めたもので首や手足を作り、張りぼての胴に取りつけて動くようになっていたが、高価なものは全身の各部分を木で作って取りつけ、それぞれが自由に動くようになっていた。そして腹には笛を入れ、そこを押すと赤子の泣く声がするように作られていたという。髪は人間の髪を使い、眼にはガラス玉を入れ、「鼻口耳等ノ中悉ク彫リテ歯舌備ヘリ」とあるから、同じ市松人形といってもピンからキリまであったのだろう。

そして「近世マデ雛祭ニハ物ヲ供ズルニ、蛤殻ヲ用ヒシト聞ク。今三都ハ蛤ヲ供スモ昔、殻ヲ用ヒシ遺志ナラン」というから、潮干狩りが盛んだったのは遊びと実益のほかに、その殻もちゃんと使い道があったということである。「京阪ニテハ蛤ヲ供ス、江戸ニテハ蛤オヨビ螺ヲ供ス。京阪ニハ螺ヲ供セズ、江戸ニテハ必ズコレヲ用フ」というが、古老が述懐していうには「昔ノ雛遊ノ調度ハ質素ニテ、今世ノゴトキ善美ノ物ヲ用ヒズ、飯器皆蛤貝ヲ用フ。宝暦頃ヨリヤウヤク廃シテ、貧民ノ児ノミコレヲ用フ云々。是民間ノコトナレ共、貧戸ノミナラズ不用云々。宝暦後モ貧家ノ児ハ猶蛤殻ヲ用ヒシ也」といい、宝暦以後は調度も豪華になり、蛤の殻を使うのは貧しい家の子だけになってしまったという。

宝暦といえば西暦一七五一年以後のことになるが、赤穂浪士の討ち入りから五十年後、徳川幕府によって甘藷の栽培が奨励されたころ、青木昆陽などが活躍したころになる。京都、大阪では「檀二段バカリニ赤毛氈ヲ掛ケ、上段ニハ幅尺五、六寸、高サモ同之許リノ、無屋根ノ御殿ノ形ヲ居ヘ、殿中ニ夫婦一対ノ小雛ヲ居ヘ、階下左右ニ随身二人及ビ、桜ト橘ノ二樹ヲ並ベ飾ルヲ普通トス」とあり、続けて「又近年豆御殿ト号ケテ尺許ニテ、屋根アル物ヲ造リ飾ルモアリ、他ハ准右之。調度ノ類ハ箪笥長持、其多クハ庖厨ノ諸具ヲ小模シテ飾之、江戸ヨリ粗ニシテ野卑ニ似タリトイヘ共、児ニ倹ヲ教ヘ家事ヲ習ハシムルノ意ニ叶ヘリ」とあり、江戸に比べると全体的に京、大阪のものは粗末であるけれども、こどもに倹約の何たるかを教え、家庭教育にはなるとしている。

それに対して江戸では「檀ヲ七、八階トシ上段ニ夫婦雛ヲ置ク。蓋御殿ノ形ヲ用ヒズ、雛屏風ノ長サ尺バカリナルヲ立廻シ、前上ニハ翠簾或ハ幕ヲ張リ、ソノ内ニ一対雛ヲ飾ル。二段ニハ官女等ノ類ヲ置ク。又江戸ニハ必ラズ五人囃子ト号ケ、笛、太鼓、ツヅミヲ合奏スル木偶ヲ置ク。必ズ五人也」二段目には五人官女を飾り、三段目以下には種々の楽器や道具類を飾り、「皆必ズ黒漆ヌリニ牡丹唐草ノ蒔絵アルヲ普通トシ、或ハ別ニ精製シテ定紋ニ唐草ヲ金描キシ、或ハ梨子地蒔絵ノ善美ヲ尽スアリ。スベテ京阪ヨリ雲上華美結構也」といい、「総蒔絵女乗物或ハ御所車アルモアリ、近年ハ台時計ノ形サヘ摸造シテ売也」とあるから、これではとても熊さん、八っつあんの手の届くものではない。

そしてこれらのものを商う店は、その時期になると特定の場所に集中して出店を張る。新品では買えない人のために中古品を売る店もあって、「江戸ノ雛及調度共ニ其制精美ナル故ニヤ、古雛、古調度ヲモ売也。諸所ノ古道具店ニテ上巳前専ラ売也」ということだが、新品を扱う店と中古品を売る店は別々で、新古のどちらも売るという店はなかったし、「京阪ニテハ古雛古調度ヲ売買スルコト極メテ稀トス」とあるから、京都や大阪では新品のお雛さまを売る店ばかりで、中古品を売る店は滅多になかったということになる。
桃の節句にはつきものとして菱餅、白酒があるが、それについても『近世風俗志』は「蓬餅」の項で、『文徳実録』を引用し、「有草俗名母子草。二月始メテ茎ヲ生ジ葉白ク脆シ。毎属三月三日、婦女採之蒸シ搗キ以為蒸餅、伝為歳時云々」とある。蓬と母子草は別物ではないかと思うのだが、時代や地方によって植物や魚、鳥の名などは違うことがあるから、蓬ではなくて母子草を使うのは間違いだともいえないし、あるいは蓬の関連として母子草を挙げたのかも知れない。いずれにしても私は植物に詳しくないから、ここはこのまま通過する。

それというのも、それに続けて通幼という僧が、諸国を遍歴したのち攝津に一寺を創建したが、その村の名を母子村といい、「此処ノ母子草ヲ以テ蒸餅ニ作リ、歳時トスルノ始也云々」とあるから、その地方だけの名なのかも知れない。菱餅にしても「古ハ如何ナル形ニ製シケン、今世ハ三都共ニ菱形ニ造リ、京阪ニテハ蓬ヲ搗キ交ヘ、青粉ヲ加ヘテ緑色ヲ美ニス。江戸ハ蓬ヲ交ユルハ稀ニテ、多クハ青粉ニテ緑色ニ染シノミ也。因ニ云、江戸ニテハ大概クサモチ、京阪ニテハヨモギ餅ト云也」といっている。

そしてこの餅は「女児産レテ初メテノ上巳前ニハ親族、知音ヨリ、雛調度或ハ人形、其他ニテモ種々祝ヒ物ヲ贈ル。報之ニ此菱餅ヲ遣ルヲ通例トス」というから、女の子の誕生祝に対するお返しとして、この蓬餅を配ったということになる。そして「或ハ請待シテ饗之、或ハ酒肴及膳ヲ贈ルモアリ」というから、雛祭りには誕生祝をくれた人を招待し、酒食の接待をしたわけだ。「菱餅大小アレ共、横長キ方ニテ尺許リヲ普通トス」大小はあるけれどもと断ってはいるが、菱餅の長いほうで一尺、約三十センチが普通だというから、いまわれわれが思い浮かべる「あられ菱餅」の感覚からすればずいぶん大きいものとなる。

しかし、これはたぶん、搗きたての草餅をのした寸法で、食べるときはこれに庖丁を入れたのだろう。この草餅は前記の通り母子草、本名は鼠麹草、仏耳草を入れて搗くのが本当だというから、父子草とか母子草というときの、その母子草とは別の草のような気がする。やはりその地方、地方でいう母子草なのだろうか。「今ハ諸国共ニ蓬ヲ用ユルハ略カ」としているから、本来であればあくまでも母子草で作るもので、蓬は代用品ということになる。これを供えるときは「菱餅三枚、上下青、中白也」三枚重ねで飾るが、上下の二枚は母子草を混ぜた青い餅にし、中の白い餅を挟むとある。

白酒については「三都共ニ白酒ヲ供ズ。常ニ不売之酒店ニモ此時ノミ売之。特ニ江戸鎌倉川岸町豊島屋ト云酒店ノハ、荒クシテ辛味ナレ共、精製ナレバ買人山ノゴトク」殺到したという。そのため「容易ニ買得ルコト難ク、空手ニテ帰ル者甚ダ多シ」という状態で、この白酒は雛祭りのときだけ酒屋でも売っていたが、この豊島屋の白酒は辛口だったので人気が高く、とうとう買えなくて手ぶらで帰る人が多かったという、ちょっと信じられないほどの盛況で、「京阪ニハカクノゴトキコトナシ」と守貞も呆れている。この項では「三都」が頻繁に出てくるが、この三都とは京、大阪、江戸を一括したいい方で、守貞は大阪に生まれ、江戸に移り住んだ人だから、そういう出自が関係して京都や大阪の風習に詳しく、移り住んだ江戸のことも併記してあるから、読むほうは居ながらにして関西のことも知ることが出来た。

最後に三田村鳶魚『市井の風俗』も見たが、ここには十三代将軍であった家定夫人、天璋院のおつきだった老女から聞いた話の受け売り、つまり伝聞だと断った上で、千代田城大奥の雛祭りについて述べられている。しかし、それは単に大奥の雛祭り風景あれこれといったもので、それなりに面白い話ではあっても、「季語の淵源を探る」という目的からは外れるので、ここでは省略する。その冒頭に宮中では「桃花の節会」という儀式はあっても、お雛さまそのものはない、宮中では雛を飾らないということで、そんなものかと意外な感じを受けた。それはいまもそうなのだろうか。つい最近も愛子さまがお生まれになったが、やはりお雛さまは飾らないのかも知れない。

私の故郷は長野県中野市だが、ここには古くからの伝統ある土雛がある。私がこどものころは田舎ということもあって、左大臣に右大臣、五人官女などという正式な雛飾りを見かけることはほとんどなく、いろいろなお雛さまに土雛をまぜて雑然と飾ったものだ。土雛は焼き物に彩色したものだから割らない限り、色は褪せてもいつまでも保つ。父が生まれたときどこからか貰ったという、古めかしいものも混じっていたが、土蔵が白蟻にやられたので壊してしまい、その際に出てきた古いものはほとんど燃やしたり、捨ててしまったというから、今はどうなったやら分からない。

昔の道具類や古い軸、枕屏風などの中に、手品の種明かしなどという他愛のない和綴の本もあって、炬燵に入って父に読み方を教わりながら、少しずつ拾い読みをしたものだが、いまでは道具類が少し残っているだけらしい。

ぼろぼろになった枕屏風だけは、私が貰ってきて表装に出したら、こういうものをまだお持ちですか、もしありましたら高く買いますけどというので、土蔵を壊したときの話をして、みんななくなってしまったというと、たいそう残念がっていた。そのときの枕屏風は萩の乱の図柄で、枕屏風だったら危な絵のようなのがいいんですけどね、とはそのとき表装を手がけた古物商の弁である。私がこどものころはがらくたとしか考えていなかった。作り直して表装した枕屏風にしてからが、私が悪戯して破り捨てた部分があり、ちゃんと表装した今では致命的な傷になっているが、当時は邪魔にして蹴飛ばしていたのだから、それも仕方ないことではある。

そのころの雛祭りの楽しみは、家で飾るよりも町の雛市を見にゆくことで、春が遅い信州北部では平野部の雪がやっと融け、土の部分がところどころ顔を出すころの、陰鬱な冬の時期からの解放感もあり、砂埃が舞い上がる雑踏のなかで、飴を舐めながら並べてある土雛の品定めをしたりして、お雛さまを買うことよりも春が来たという、その解放感を思い切り楽しんだものだ。

そのころはまだ土雛も安く、欲しいと思えばどんな雛でも、いくらでも自由に買えたものだが、だいぶまえから中野の土雛ということでその名が上がり、好事家が全国から集って大変なものらしく、今年の雛市で来年の分を予約しないと買えないのだという。それも三点までに制限されているということなので、その話をして嘆いたら田舎の兄が、「なんの、おめえ、いまじゃあ来年の予約なんて、そんな生易しいもんじゃねえわさ」ということで、いまでは何年も前から予約して、それでも一人二点くらいに制限され、とても買えたものではないという。お宝ブームに乗った町興しとしてはごく結構なことだが、私のようにそこで生まれ、育ったものにとっては、ただ嘆かわしい現象でしかない。