2010年12月26日日曜日

2010年12月26日の目次

アンドレイ・タルコフスキィの芭蕉(上)
            大畑  等  読む
俳枕 江戸から東京へ(2) 
            山尾かづひろ 読む
私のジャズ(2)
            松澤 龍一  読む

アンドレイ・タルコフスキーの芭蕉(上)

大畑 等



雪ちるや穂屋の薄の刈残し  芭蕉   
             (岩波文庫『芭蕉七部集』)

『映像のポエジア』より
ソ連を亡命同然に出たアンドレイ・タルコフスキー、彼の映画を最初に観たのは『ノスタルジア』であった。その後二三本観て、彼の著作を読んだ。そこでは石を組み上げていくような執拗な文体で、彼の映画の方法論が語られている。そのなかにすべり込むように俳句のことが書かれていた。しかし語り口は熱っぽい。抜き書きするとこうである。

-なんと簡潔で、また正確な観察だろうか!規則正しい知性、高尚な想像力!(略)
日本の詩人は、たった三行で現実に対する関係を表現できた。彼らは現実を観察しただけではない。観察しながら、その永遠の意味を、せかせかしたり、あくせくしたりせずに、呈示したのである。観察は正確で具体的であるほど、それはユニークなものになる、反復不可能なものであればあるほど、それだけイメージに近づく。(『映像のポエジア』より)

-それらは、自身以外には何も意味しない。と同時に、多くのものを意味するので、それらの本質を探究していくと、最終的な意味をとらえることが不可能になるのだ。言い換えれば、イメージがその使命に正直に一致すればするほど、それを何らかの理解可能な思弁的形式に押し込むことがますます困難になっていく。(『タルコフスキーの映画術』より)
※『映像のポエジア』:(株)キネマ旬報社刊、『タルコフスキーの映画術』:水声社刊

ソ連に俳句が紹介された事情によると思われるのだが、タルコフスキーは俳句を発句と呼び、取りあげた句は芭蕉、嵐蘭など近世江戸俳諧のものである。冒頭の「雪ちるや」の句は翻訳者によって「雪散るや穂屋のすすきの刈り残し」と表記されているが、以下岩波文庫『芭蕉七部集』の表記に倣う。

この句に関する個人的な事情を書くと、この句はタルコフスキーの著書で初めて知ったと思っていたのだが、実は違った。芭蕉の句について書くにしろ読むにしろ何かと重宝している『芭蕉百五十句』(安東次男著・文春文庫)にはとりあげられていない。そこで本棚から茶色く焼けた、煙草のヤニの臭いのしみた岩波文庫『芭蕉七部集』を取り出し、この句が載っている頁を開けた(「猿蓑集 巻之一」におさめられている)。いつの頃か全く記憶にないが「残し」に赤ボールペンで傍線を引き「?」を付けているのを知った。頁下段の中村俊定の注を読むと、

穂屋の薄(ホヤノススキ 大畑ルビ)-陰暦七月二十七日、信濃諏訪神社の御射山祭に薄の穂で御仮屋を作る行事がある。これを穂屋の神事という。

とある。そうだ、日航機墜落事故のとき、私は御射山を訪れていたのだ。この句を当地で知り、その後俳句を始めてこの句を探したのかも知れない。さて、本題に。もう一度句を掲げると

(信濃路を過るに) 
雪ちるや穂屋の薄の刈残し  芭蕉 
             
タルコフスキーの著書でこの句を見たとき、あっ、これは彼の映画『ノスタルジア』のラストシーンそのものではないか!と思ったのである。タルコフスキーはこの句を掲げるのみで素通りしているが、もう語る必要がないほど彼の『ノスタルジア』を句は語っているのだろう、と私は想像した。

芭蕉のこの句の意は、「一面の枯れた薄原にいる。むこうに刈り取られた跡が見える。ぽっかりと穴が空いているようだ。刈り取られた薄は神事のための穂屋に使われた。しかしその穂屋も今は取り壊されてもう無いのだ。ああ、雪がちらついてきた」とこんなところだろう。伝統的な「わび・さび」を継承しながら、「刈残し」でもって俳諧の境地を打ち出していると思う。

一方、タルコフスキーは芭蕉の句をどうとらえたか?『ノスタルジア』の温泉のシーンで、半狂人ドメニコは語る。
「神は聖カテリーナに言った。『お前が存在するのではない。私が代わりに存在する』」

続く

俳枕 江戸から東京へ(2)

皇居界隈/和田倉噴水公園~大手門
文:山尾かづひろ 
大手門









【和田倉噴水公園~大手門】
都区次(とくじ):日比谷通りを横断して、「和田倉橋」を渡ります。渡った先が「和田倉噴水公園」です。この公園は昭和36年、当時の皇太子殿下明仁親王(現在の天皇陛下)のご成婚を記念して造られたものです。
江戸璃(えどり):この「和田倉橋」は徳川家康が江戸に入った時、このあたりに「和田倉」という大きな倉を造り、この倉へ渡る橋を掛け、「和田倉橋」と名づけたことに由来するのよ。
都区次:ところで家康は自分の意思で江戸のある関八州にきたのですか?


灌漑事業前の関東平野のイメージ(映画『鬼婆』より)
 









江戸璃:違うわよ。豊臣秀吉により三河から関八州に転封させられたのよ。秀吉が天下統一した当時、秀吉に対抗できる勢力は家康ぐらいしかいなかったのよ。そのころ関東は近畿圏にくらべて「ど田舎」で家康を関東に閉じ込めれば勢力も弱るだろうと考えたわけよ。転封させられた家康は「その手は桑名の焼きハマグリ」とばかりに必死に塩田を探しまくったわけよ。戦国時代、兵を動かそうとすれば「塩」は軍糧として欠かせなかったのね。苦労の甲斐があって下総の行徳に良い塩田を見つけたわけよ。これを整備させて、塩を江戸に運ぶ小名木川などの水路を引っ張って、最後には関ヶ原で豊臣方に勝っちゃったのね。以来江戸には幕府が置かれて大発展したというわけ。
都区次:さて、「和田倉橋」より3分ほど歩くと江戸城の「大手門」ですが、立派なものですね。
江戸璃:家康が江戸に入った当初は「塩」と「飲み水」と「埋立地」の確保が先決で、こんな城の門なんて言うのは二の次、三の次で家康が天下統一後のものなのよ。

(大手門)
千代田城大手の蟬に竜賀(りょうが)出づ 飯田蛇笏
(和田倉濠)
一羽来てやっと成立鴨の陣 山尾かづひろ

私のジャズ(2)

唸る、バド・パウエル
松澤龍一

CD(Black Lion BLCD760121)より












唸る、唸る。バド・パウエルは唸る。天才ビーバップピアニスト、パーカーをピアノで演じた最初のピアニスト、バド・パウエル。彼の42年という生涯の大半は麻薬と精神病に悩まされたものだと云う。これらから逃れるために、パリに渡り、一時期当地に住み、病も小康を得た。その時期に吹き込まれた演奏がブラック・ライオンというレコード会社から出された「Solt Peanuts」と題されたアルバムに残されている。フランスのパトロンの借りてくれたノルマンジーのペンションで数十人の支持者の前で演奏したもので、私家録音のため録音は悪い。さらにピアノも調律がまずく、音が外れる。バド・パウエルの指も思うように動かない。全曲を通じて聞こえてくるものは、唸り声である。バド・パウエルは唸り、呻き、思うように動かない指で鍵盤をたたく。名演でもなければ、名盤でもない。訴えてくるものはバド・パウエルと云う麻薬に侵され、心の病を負った一人の黒人の心の呻きである。

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追加掲載(120104)
この日は調子が良かったようだ。指が良く動く。唸りは少ない。


 

2010年12月19日日曜日

2010年12月19日の目次

小野竹喬の「奥の細道句抄絵」
大畑 等   読む
俳枕 江戸から東京へ(1) 
山尾かづひろ 読む
私のジャズ(1)
松澤 龍一   読む

小野竹喬の「奥の細道句抄絵」

大畑 等

「現代俳句」平成22年11月号に菱沼多美子さんが「小野竹喬展を観て」と題するエッセイを書いています。今年の春に東京国立近代美術館で「生誕百二十年小野竹喬展」が開催されましたが、私も出かけました。展示の最後は「奥の細道句抄絵」十点でしたが、そのなかの一点はリーフレットに出ている、

田一枚植ゑて立ち去る柳かな  芭蕉

を絵にしたものでした。


「生誕百二十年小野竹喬展」リーフレットより


西行に「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の歌がありますが、歌枕を訪ねる旅の芭蕉はこの柳のある蘆野の里(栃木県那須町芦野)を訪ねました。西行の歌の柳を芦野の柳に結びつけて伝承させたのは、謡曲「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」で、朽木の精が旅僧に報謝の舞をのこして消えるくだり。

荻原恭男は岩波文庫『芭蕉おくのほそ道』で、西行の和歌を「田一枚植て」に具象したところが俳諧である、と注をつけています。また、芭蕉の句の「立ち去る」は朽木の精が「消える」ことをふまえ、芭蕉は西行を偲びそして対話をしている、この句は概ねこういうことを背景にして鑑賞されています。つまり素直な嘱目の句とはとられてはいません。

しかし小野竹喬のこの絵には芭蕉の心理は描かれていません。芭蕉の句のなにを絵にしたのでしょうか?井本農一の『芭蕉入門』(講談社学術文庫)では以下のように書かれています。

-この句は、農夫や早乙女(さおとめ)たちが田植えをしているのを見るともなく眺めながら、遊行柳の下で西行との対話に耽っていた芭蕉が、田を一枚植えおわった人々の立ち去るのに、はっと我に返ったときの気持ちを読んだもののように、私は思われます。(p129)

井本農一の鑑賞は「柳かな」の「かな」を「ただいま、ここ」に重きをなした句の鑑賞。小野竹喬も同じ、芭蕉の心理的なもの(想起体験)ではなく「はっと我に返ったとき」風景を感覚する、それを絵にしたと私は思います。かたちと色を単純化して構成した象徴的な絵と言えましょう。

小野竹喬(おの ちっきょう:1889~1979)
笠岡市生まれの近現代日本画を代表する日本画家。晩年は日本の伝統的な大和絵(やまとえ)を新たに解釈し象徴的な世界に到達した。「奥の細道句抄絵(おくのほそみちくしょうえ)」は昭和51年の作。

【蛇足】
会場には竹喬筆の芭蕉の句も展示されていましたが、その端正な書に感動しました。俳句は松瀬青々(1869~1937)を師としたそうですが、竹喬の句は展示されていませんでした。師の青々の句は、

 正月にちよろくさいことお言やるな  青々
 元日の庭に真白の椿かな       青々
 水にては水の色なる白魚かな     青々


俳枕 江戸から東京へ(1)

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皇居界隈/東京駅・丸の内
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし
皇居内濠















【東京駅・丸の内】
都区次(とくじ):東京駅は丸の内北口から降りていただきます。大規模なビル群が目に入りますね、この景色こそが東京駅を東京の表玄関という所以ですね。東京駅の赤レンガは象徴的で素晴らしいですが、それに引き換え屋根は味気ないですね。
江戸璃(えどり):私のような大正生れの人は知ってるけれど、味のあるドームだったのよ。それが昭和20年5月の東京大空襲で3階から上と屋根が燃えちゃったのよ。現在のは終戦直後の改修だから付焼刃なのよ。米軍も選別爆撃をしていたのだから外してくれてもよかったのよねエ。いま全面に防災の網を張ってトンカン・トンカンと改修工事をやってるわよ。来年の春には元のちゃんとした姿になるんじゃない?
都区次:江戸時代の繁華街というと日本橋なんですが、この東京駅・丸の内はどうだったのですか?東京駅は東海道本線の起点として大正3年12月の開業ですが、周りの景観に比べて駅の開業が相当に遅いようですが?
江戸璃:江戸時代は東京駅から江戸城辺りまでの大手町・丸の内・霞ヶ関などは大名の藩邸だったのよ。
都区次:維新後はそうした大名の藩邸は新政府のものになりますよねエ?
江戸璃:そのとおり新政府に接収されて陸軍用地、官庁用地になったわね。ところがギッチョンチョン、このときの新政府は財政難で麻布の兵舎の建設資金すら無く、明治23年に丸の内の十万余坪を売りにだしたのよ。
都区次:現在の状況から考えると売れたということですね。
江戸璃:そう簡単でもなかったのよ。財相の松方正義が財閥の幹部を呼び出してお願いしたのだけれど相場の数倍とあっては、そうは問屋は卸さないわよねエ。松方は次男が三菱の副社長の岩崎弥之助の長女と結婚している関係から岩崎弥之助に何度も懇願したのよ。弥之助も困っちゃうわよねエ。仕方なくロンドン出張中で経験豊富な上級番頭の荘田平五郎に電報で相談したわけよ。答えは「スミヤカニカイトラルベシ」だったのよ。
都区次:でも、それは言い値で買ったのでしょう?
江戸璃:その通りだけど荘田の考えは「情け有馬(ありま)の水天宮」というのではなくて、すでにロンドンのビル街を想定していたのね。
都区次:丸の内に三菱一号館が出来たのは明治27年ということですが、まだ東京駅は開業してませんよね。
江戸璃:東海道線も新橋まで、中央線もお茶ノ水までで、アクセスは大手町と日比谷間を走っていた路面のチンチン電車だけだったから相当不便で簡単にビルの借り手なんてなかったと思うわよ。歌人の岡本かの子が子供の頃、丸の内は三菱ヶ原と呼ばれて、草茫々の原野でところどころに武家屋敷の跡らしい変わった形の築山があったと書いていたわね。三菱側も土地の確保と政府への「貸し」をつくっておいて東京駅が出来るまで「塩漬け」にしておいたのじゃない?
都区次:さて、現在の丸の内を東京駅より眺めて、ひときわ目につくのが「丸の内ビルディング」です。このビルは二代目で平成十四年八月竣工の地上三十七階、地下四階の超高層ビルという仕様です。下層には歌謡曲『東京行進曲』などで名を残した先代の「丸の内ビルヂング(先代は表記が少し違う)」の面影を残しています。
江戸璃:私ね、二代目の「丸ビル」には悪いけど、先代の方がはるかに味があって好きだったのよ。
都区次:その先代の「丸ビル」に俳句の「ホトトギス」発行所が大正12年から入っていたそうですね。これは三菱が勧誘したのですか?
江戸璃:違うわよ。高浜虚子の方から入居希望したのよ。当時は欧州大戦が収束するか、しないかの時期で、昭和20年代の朝鮮特需のような状況でテナントの募集宣伝をしなくても入居希望があったのよ。新興成金にとって丸ビルへの入居は垂涎の的だったらしいわよ。当時、三菱地所の不動産部長だった赤星陸治(のちの赤星水竹居)が最初のテナントリストを見て、その中にホトトギスの虚子の名があってビックリ仰天したのよ。
都区次:何でビックリ仰天したのですか?
江戸璃:実業家でもないし、牛込の借家で「ホトトギス」を発行しているような虚子が本当に入るのか?家賃は支払えるのか?という疑問が当然浮かぶでしょ。後々になって家賃不払いとかになったら面倒じゃない?それで赤星は虚子に会いに行ったのよ。そしたら意気投合しちゃってね。赤星は虚子を応援する気になったのよ。応援と言ったって赤星は三菱の人だから家賃を負けてやるなんていうことは出来ないでしょう?まず自分が「ホトトギス」に入って、三菱の人達を「ホトトギス」に入れてやったのよ。
都区次:何か虚子が背伸びして丸ビルに入居したようですが、何でですか?
江戸璃:ライバルの河東碧梧桐を意識したのよ。当時、碧梧桐の方が俳句は隆盛で、おまけに浄土真宗の大谷句仏がスポンサーになって全国行脚をしたり、飛ぶ鳥を落とす勢いだったのよ。虚子も対抗意識を燃やしたのでしょうね。
(丸ビル)
梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け  高浜虚子
丸ビルのあの窓ひとつ冬灯  山尾かづひろ

私のジャズ(1)

レイ・ブラウンはやはりすごい
松澤 龍一



ピアノトリオはベースで決まる。このアルバムを聴いてつくづく思う。このアルバムとは、ジュニア・マンスが遺した数少ないアルバムの一つ「JUNIOR」(Verve V6-8319)のこと。ベースが、レイ・ブラウンである。レイ・ブラウンはやはりすごい。なんと言っても、あの音、ふくよかで深みのある音、ウッドベースの真髄、ここにありである。このアルバムはリーダーのジュニア・マンスより伴奏のレイ・ブラウンを聴くべきものだと言えよう。最初の曲「A Smooth One」でテーマの提示が終わり、アドリブに入るところで絡んでくるベース、この間がまたなんとも言えない。こんなスリリングな箇所が随所にある。ピアノのソロがベースを伴奏しているかのように聞こえてしまうから不思議だ。1959年のニューヨーク録音とあるから、モダンジャズ、いわゆるハードバップ全盛の頃の作品、リーダーのジュニア・マンスは同時代のボビー・ティモンズとかウィントン・ケリーなどと比べると影が薄いが、実に小粋な演奏を聞かせてくれている。ジャケットはジュニア・マンスが赤いセーターで一人ぽつんと写っている写真、これもまた粋である。

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追加掲載(120104)
長く音楽活動を共にしていたオスカー・ピーターソンのトリオでの演奏で、レイ・ブラウンの妙技が聴ける。

2010年12月17日金曜日

「現代俳句」:無季俳句特集

小学生に人気ある句は、

戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡辺 白泉 
狼に蛍がひとつ付いていた   金子 兜太

と聞きます。アニメ映画がつくるイメージが、これらの句を子供のこころに取り込ませたのでしょう。上の渡辺白泉の俳句(発表は昭和14年「京大俳句」5月号)は無季。新興俳句の代表的なこの句が子供の口から出るとは誰が想像したでしょうか。
「現代俳句」(現代俳句協会刊)平成22年11月号は無季俳句特集でした。ちょっと紹介、目次を覗いてみましょう。

(1)直線曲線-三橋敏雄の戦争俳句   遠山 陽子
(2)無季俳句考            林   桂
(3)江戸の無季俳句          川名つぎお
(4)『現代俳句歳時記・無季編』を読む 20名による鑑賞

となっています。いくつか抜き出してみます。

(1)より
-当時、「新興俳句がこんどの戦争をとりあげ得なければ、それは神から見放されたときだ」という山口誓子の言や、「青年が無季派が戦争俳句を作らずして、誰がいったい作るのだ」という西東三鬼の発言に鼓舞扇動されて、敏雄少年は無季俳句の制作に奮い立った。
-そのころの敏雄は、自分はあと二三年で兵隊にとられて戦死するだろうと思っていた。

(2)より
昭和21年土屋文明の「日本紀行」の文章を引いて
-「私は日本文学殊に和歌俳諧の類の優れた特色が、その季節感にあるといふ論に別に正面から反対する程の理由を持つて居ない。しかし日本文学の特色がいつもその季節感にありといふならばそれは吾々日本人にとつて淋しいことではあるまいか。吾々の文学がいつも季節感から出られないとすればそれは少なくとも日本人の生活能力の低調に関連する悲しむべきことではあるまいか。(後略:大畑)」

(3)より
徒行ならば杖つき坂を落馬かな      松尾芭蕉
襟にふく風あたらしきこゝちかな     与謝蕪村
松陰に寝てくふ六十余州哉        小林一茶

(4)より
昭和衰へ馬の音する夕かな        三橋 敏雄
鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ      林田紀音夫
白線の内にかたまりいつか死ぬ      石川日出子
後ろにも髪脱け落つる山河かな      永田 耕衣
淋しさを許せばからだに当たる鯛     攝津 幸彦
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 橋本 夢道
号泣やたくさん息を吸ってから      池田 澄子
強風の肉体旗もて巻かれたる       小川双々子
こめかみを機関車くろく突きぬける    藤木 清子
黄泉路にて誕生石を拾ひけり       高屋 窓秋
焼捨てて日記の灰これだけか       種田山頭火
鬼甍より恐ろしき鳩時計         山崎 尚生
ローソクもってみんなはなれてゆきむほん 阿部 完市
木の股の猫のむこうの空気かな      橋  閒石
彎曲し火傷し爆心地のマラソン      金子 兜太
切株は じいんじいんと ひびくなり   富澤赤黄男
うまく抱けない女のような木が一本    加藤 佳彦



2010年12月11日土曜日

現代俳句協会と現代俳句

「現代俳句は難しいから」とのっけから言われることがあります。あたかも「現代俳句」というジャンルがあるかのように。これを金子名誉会長は『現代俳句年鑑』1989年版(現代俳句協会刊)できっぱり否定しています。「いま、現代俳句協会とは何か」というタイトルで金子兜太会長(当時)と松澤浩幹事長(当時)が対談、司会は前田吐実男年鑑部長(当時)です。これについての発言を抜き出して構成しましたが、今日にも真っ直ぐ通じる見解と言えましょう。

左:金子会長(当時)と松澤幹事長(当時)


以下、金子兜太会長(当時)の発言より

現代俳句協会を、現代俳句の協会だと考えている人が多いんです。そうしますと、現代俳句とはなんぞや、ということになって来るんだなあ。現代俳句協会というのは「現代」の俳句協会なんです。

戦後まもなくできたわけですが、あの時、第二次世界大戦後の時期を、現代と考えている、時代として現代と言おうとした傾向が強かったんです。それまで、明治以後は、近代という傾向だったんです。そのうちにちゃちゃらもちゃらになって、いつから近代だ、現代だとなって来たけれど、戦後当時は、時代区分が鮮明だったんです。

当初創設した石田波郷さんや西東三鬼さんたちが、戦後一番新しい組織内容をもった、われわれの理想とする俳句協会を作ろうじゃないか、そして作った。だから現代の俳句協会と言ったんです。したがって、現代俳句の協会ではありません。

私の中では、現代俳句という概念ははっきりしています。それは、現在ただ今を中心とした俳句だと思います。そして古き良きものを従属的な型、活用体として置くということです。古き良きものが主と考えるのが伝統俳句と考えます。伝統俳句なんて言うのは僭称であつかましい言い方だと思うけれどそれが、古き俳句なんです。現代俳句協会はそうではなく、あくまでも組織上の言葉です。(文芸理論上の、現代俳句とは何かと言い出すような)そんな狭いものを作ったわけではないのですから。(構成:大畑 等)

2010年12月7日火曜日

<予告> 俳枕 江戸から東京へ 

     文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし

浅草仲見世
 


2010年11月29日月曜日

準備中

ただいま準備中です。しばらくお待ち下さい。(管理者)