2011年12月25日日曜日

2011年12月25日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(51)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(48)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(51)          
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(51)

隅田川東岸/永代橋 
文 : 山尾かづひろ 

広重の「東都永代橋佃島」










都区次(とくじ): それでは両国橋の東詰から歩いて永代橋へ行きましょう。永代橋の由来は何ですか?
江戸璃(えどり): 江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝して元禄11年8月に架橋されたのよ。架橋には上野寛永寺の根本中堂(こんぽんちゅうどう)の余材を使ったと言われているわね。
都区次: この永代橋は隅田川の架橋では何番目ですか?
江戸璃: 4番目よ。ついでに言うと、1番目が千住大橋、2番目が両国橋、3番目が新大橋よ。
都区次: 場所的に言うと隅田川のどの辺りですか?
江戸璃: 当時は隅田川の最も下流にあったのよ。広重の「東都永代橋佃島」を見ても分かるとおり千石船の入る江戸湊(みなと)に近くて、多数の廻船が通るので橋脚は満潮時でも3メートル以上あり、当時としては最大規模の大橋だったのよ。橋の上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしがよかったそうよ。
都区次: 「討入り」の話ですが、赤穂浪士は仇討報告のために泉岳寺へ行きましたが、武家屋敷街を通る両国橋コースをやめて、町人街の多い永代橋を渡るコースで泉岳寺に行ったそうですが、どんな訳があったのですか?
江戸璃:両国橋を渡らなかったのは橋奉行・服部彦七の役目上の渡橋拒否を受けたからだ、という説があってね、「本所松坂町公園」に錦絵もあるけれど、私はちょっと疑問なのよね。両国橋には番屋は有ったでしょうけど、江戸中の橋はたくさんあってね、奉行や同心を一々張り付けておくだけの人数はいなかったのよ。仕方なく同心が身銭で雇った小者を橋番屋に置いておいた筈なのよ。さて、両国橋か永代橋かの話だけれど、町人街は「討入り」を、よくやった「やんや」と言ってくれるけど、この「討入り」は無届の仇討ちだから武家屋敷街の場合、外様大名の中には幕府に「ゴマ」をすって取り押さえにくるのがいない、とも限らないじゃない?進路変更はその辺にあったと私は思うのよ。

夜の永代橋












極月や永代橋のシルエット 長屋璃子(ながやるりこ)
煤逃げの漢(やから)満載釣の船 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(48)

秋刀魚の時間
内山思考

沈みゆくもの歳晩の秒針も  思考


町の魚屋さんのサンマすだれ



 











今年は例年より遅く、サンマの干物が魚屋さんの軒先に簾のように干され始めた。 少し塩を効かせてから、内臓を取らずそのまま尾をビニール紐などで結わえ、二匹、あるいは四匹を振り分けにして吊し、寒風にさらす。いわゆる丸干しである。 サンマと言えば、関東では脂の乗ってよく肥えた新鮮なのを、煙を出しながらジュージュー焼いて大根おろし、のイメージだろう。

ところが、僕たち紀州の者には、脂の抜けた丸干しをサッと炙って、歯で毟って食べる冬の味覚なのである。 だから「秋刀魚」ではなく、「冬刀魚」もしくは「冬剣魚」の字を充てたいぐらいなのである。形状もそれに似ているし。 まだまだ、年が明けて寒になればもっと旨味が出てくる。 俗にこの辺りでは水分が抜けて堅くなったものを「カンピンタン」と呼び、二本を両手で持って打ち鳴らせば、寒、寒と音がするぐらいである。これを特に好む人もいて、僕もその一人。

今年の初めには、知人のNさんが、サンマを桜の木でいぶした「燻製」を持って来てくれ、それがまた身震いするほど美味だったことをこのコラムに書いた記憶がある。あれをまた味わってみたい、というのが今、沢山ある僕の夢の一つである。 ここでふと、僕に食べられる一匹のサンマの時間を戻してみることを思いついた。

近所の奥さんも
これから丸干し作り
 口から箸で摘(つま)み出されたサンマの肉片は皿の上の骨に徐々に魚の形を造っていく、やがて妻の手が皿を取り上げてグリルへ入れ、丸干しの状態から新聞紙にくるまれ魚屋さんへ行き、干されて生に戻ると、港で沢山の仲間と合流、氷詰めにされて船で沖へと向かう。そして網で掬われて海へ帰され大海を泳ぎだすのだ。そんな空想に耽ると、一匹のサンマと一庶民との邂逅に不思議な感動すら覚えてしまう。僕の「サンマ・タイム」はこれから本番を迎える。

私のジャズ(51)

ナット・コール Who ?
松澤 龍一

「AFTER MIDNIGHT」
(Capitol  CDP 7 48328 2)












ナット・コール、ピアニストである。テディ・ウィルソンばりのスウィンギーなピアノを聴かせてくれた。時々、唄も歌った。少しして、名前の間にキングを入れて歌手に転向した。ナット・キング・コールの誕生である。

中学一、二年の頃、田舎の街に一軒だけあった、秋にはコオロギの鳴く映画館で「ヨーロッパの夜」と言う映画を見たことがある。ヨーロッパ各地のショービジネスを紹介した映画だった。なぜかナット・キング・コールが出演をしていた。ピアノトリオで弾き語りで歌を唄っている。やけに舌が赤かった。この赤い舌が妙に印象的だったが、それよりも印象的だったのはパリのナイトクラブのストリップティーズ、田舎の中学生には刺激が強すぎた。

上掲のCDはナット・キング・コールのピアノトリオの演奏を集めたもので、当然、歌も唄っている。本来のピアノ、ベース、ギターと言うドラムの無い変則的なトリオに今回はドラムを加え、さらにスイング系の名手をゲストに迎えて、軽快なスイングピアノを聴かせている。オスカー・ピーターソンがデビューした頃も、確かドラムレスのトリオだったと思う。ナット・キング・コールを真似たのかも知れない。但し、オスカー・ピーターソンの歌は聴いたことがあまり無い。

ナタリー・コールはナット・キング・コールの娘である。デュエットでナット・キング・コールの往年のヒット曲 Unforgettable  をカバーしている。しかし、この時、ナット・キング・コールはこの世にいない。



Merry Christmas !

2011年12月18日日曜日

2011年12月18日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(50)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(47)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(50)          
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(50)

隅田川東岸/両国橋 
文:山尾かづひろ 
広重「両国橋大川ばた」












都区次(とくじ): それでは両国橋へ行きましょう。
江戸璃(えどり):先に行った回向院の明暦の大火の焼死者を葬った話は覚えているわね。この橋の架橋も明暦の大火に関係があるのよ。明暦3年(1657)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人と伝えられる死傷者を出してしまったのね。幕府は敵襲防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかったのね。しかし事態を重く見て防火・防災目的のために架橋を決断したのよ。架橋後は本所・深川方面が発展して市街地が拡大したのね。また橋の周囲は火除地としての役割が大きかったのよ。
都区次:お話を聞きますと、両国橋は隅田川への2番目の架橋ということですが、1番目の千住大橋はどういう訳で架けられたのですか?
江戸璃:千住大橋は徳川家康が江戸入府して間もなくの文禄3年(1594)に架橋されているのね。これは私の推理なのだけれど、日光への参拝のためなのよ。家康はブレーンの天海僧正のアドバイスによって日光へ遺骨を埋葬するように、という遺言を残しているのね。アドバイスの内容は長くなるからここでは言えないけれど、千住大橋の架橋に繋がるものであることは間違いない筈よ。
都区次:前回の回向院の話で、赤穂浪士は両国橋を渡らずに川下の永代橋を渡って泉岳寺へ行った。とのことですが訳は何ですか?
江戸璃:確かに本所から泉岳寺に行くには隅田川を両国橋で渡って江戸の市中に入るのが一般的なのよ。ところがそのコースは武家屋敷街を通るのね。さらに十五日は大名・旗本の登城日だったね。不測のトラブルを懸念した大石内蔵助は、両国橋を渡らず、そのまま隅田川を南下して町人の街を行くコースをとったのよ。そして、永代橋で隅田川を渡って市中に入り、霊岸島から鉄砲洲に出て、潮留橋、金杉橋を通り、泉岳寺へと向かった訳よ。というわけで次回は永代橋へ行くわよ。

両国橋









大銀杏結へぬ漢に時雨来る  長屋璃子(ながやるりこ)
十二月ゆっくり筏曳かれゆく  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(47)

ガラスの中のクリスマス
内山思考

空間に遅れて入る冬の猫  思考 

いつからあるか解らない、
と妻が言う陶器の置物













五十数年前の思い出。 幼稚園から息を切らせて帰って来た僕は、母にこう告げた。「お母(か)ちゃん、今日、げた箱にこんな物(ん)入っとった」 それは確か色紙(いろがみ)だったような気がする。 生まれて初めてのクリスマス・プレゼントを突き出して、僕は夢心地だった。「そうか、よかったの」止まらぬお喋りを微笑みながら聞いている母の顔を今でも覚えている。

その母も年が明けると九十一才、入居させて貰っているグループ・ホームを時折、訪ねて、自分の鼻を指差し「誰?」と問うと、しばらくして 「ア・ウ・ウォ」とベッドの母の口が動く、晴雄、と言っているのだ。僕の本名である。まあ、それさえ忘れなんだらエエわ、といつも笑い、痩せた肩を撫でて帰ってくる。 この季節になると、デパートのクリスマスグッズの中にウォーターボールが並ぶ。

水の入ったガラス玉を逆さまにして戻すと雪が降る、あれである。 どうしても一つ欲しくて、名古屋に買い物に出た時などに売り場を覗くのだが、なかなか意中の品に巡り会わない。僕がイメージしているのは西欧の田舎の一軒家、といった風情のものである。 妻も心得ていて、いろいろ探してくれているようだ。でも、中途半端な買い物はしたくない。本当にそこに敬虔なクリスチャンの一家が住んでいて、寒い冬を暖かい家族愛で耐えている、そんな風景に出会いたい。
今も航海を続ける帆船

ちなみに僕は仏教徒。 ガラスの中の風景と言えば、ボトル・シップもそうである。物理的には限られた空間に閉じ込められていても、見る側の心の内では大海を渡っている。時の海とでも言おうか。そこに惹かれるのだ。 創作する根気は端から無く、欲しい欲しいと願い続けていたら、町内の元漁師さんがある日、オリジナルをプレゼントしてくれた。 万人に幸あれ、メリークリスマス。

私のジャズ(50)

引き声て?
松澤 龍一

「JJULIE at home」(LIBERTY  TOCJ-5327)













前回の美空ひばりを読んで頂いたプロの民謡歌手の方からお便りがあった。美空ひばりは「引き声」が魅力的だという。歌は、声を出して唄うものだが声を引いて唄うところがないと息が続かないし、味わいも出ないとのこと。これは民謡でも同じことで、声は出せども息は出さないのが原則と、プロの民謡歌手ならではのコメント。「引き声」、初めて聴いた言葉で、勉強になった。成程と思うことも。

では、ジャズシンガーと呼ばれる人の中に引き声の上手いのは、と言われるとハタと困ってしまう。ハスキー系の女性歌手を手当たり次第に聴いてみるが、引き声と言われるとそうかも知れないし、そもそも引き声自体が良く分からない。その中で、上掲のCDが出てきた。懐かしい、ジュリー・ロンドン。彼女がジャズのコンボをバックにスタンダード・ポップを唄っている。

ジュリー・ロンドンと言えば日本ではCry Me A Riverで有名だ。消え入るような声で、Cry Me A River と囁き、日本のファン(ほとんど男性)の心を揺さぶっていた。これは引き声とは違うような気がする。単なる声量不足だろう。ジュリー・ロンドンと言う歌手、声量は無いし、唄もあまり上手くない。でも、美人だし、セクシーだし、これで良しとしよう。

やはり、ジュリー・ロンドンは Cry Me A River だ。映像が面白い。

2011年12月11日日曜日

2011年12月11日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(49)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(46)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(49)          
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(49)

隅田川東岸/回向院
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし

回向院の力塚














都区次(とくじ):それでは吉良邸跡の本所松坂町公園から西へ200メートルの回向院へ行ってみましょう。
江戸璃(えどり): この回向院は浄土宗の寺で、諸宗山無縁寺(むえんじ)と号するのよ。明暦3年(1657)の「振袖火事」の名で知られる明暦の大火による焼死者を4代将軍徳川家綱の命によりこの場所に葬り、増上寺の第23世上人遵誉(じゅんよ)に回向させて、塚上に一寺を建立したのをはじまりとするのよ。本堂の左には江戸中期の歌人・国学者だった橘千蔭(たちばなちかげ)や戯作者・浮世絵師だった山東京伝(さんとうきょうでん)といった有名人の墓が並んでいるわね。また鼠小僧次郎吉の墓はギャンブラーたちが運がつくようにと、墓石を削って持って行くので削り取り用の墓石も置いてあるわよ。イヌやネコの動物の供養寺としても有名よね。また回向院は江戸勧進相撲の常打ち場ともなり、明治42年に旧国技館がこの地に建てられたのもこの縁によるのよ。国技館が両国駅の北側に移った後も、この辺には相撲部屋が数多くあるのよ。

時津風部屋の看板鳥わたる  小野淳子

都区次:この回向院と吉良邸跡は近いのですが、討入りのとき回向院は何か影響を受けたのですか?
江戸璃:赤穂浪士が吉良上野介の首を打ち取り、吉良邸を出て回向院に来たのよ。門番を叩き起し「寺内に入り休息したい」と伝えたところ、住持がやってきて「寺法により日の入りから日の出まで檀家と亡者(死者)以外は通さないことになっている。どこかへ立ち退いていただきたい」ということで、寺内に入れず泉岳寺へ向かうこととしたのよ。両国橋を渡らずに過ぎ、川下の永代橋を渡って泉岳寺へ行ったのよ。というわけで次回は両国橋へ行くわよ。

回向院山門
 









冬の日の肩より暮れし力塚 長屋璃子(ながやるりこ)
時雨るるや明暦大火の供養塔 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(46)

文字と数字のパラダイス
内山 思考

本はみな四角き島や冬籠 思考

行きつけの書店・川崎尚古堂












子供の頃から勉強が苦手だった。 めんどくさがり屋で、興味の持てること以外に意欲を示さない、先生方からすると甚だ扱いにくい生徒だったに違いない。 特に敬遠したのは算数である。0と、1から9までの数字が無表情にくっついたり離れたりするだけの授業が退屈で、僕の頭はまったく違う空間に遊んでいたような気がする。 あまりに出来が悪いので、中学で理数系の教師をしていた父が心配して、算数を教えてくれようとしたことがあった。

ハードルをずいぶん下げて、数字を動物に見立てたりもしたが、彼の愚かな息子は、父はそうやって僕を騙しながら算数の世界へ引きずり込むつもりだ、と邪推?し、疲れて眠ったふりをした。 その後はテストの度に暗記することで、ある程度の点数を確保し何とか学生生活を全う出来たのは幸いだったと言うべきか。

運動も得意ではなかった。走るのは遅かったし球技も駄目、中学に入った時、撃剣の達人だった祖父に憧れて剣道を始めたのもつかの間、連日「面」だ「胴」だと叩かれるのが「めんどう」になってすぐ退部した。でも無茶苦茶な叩き合いは結構強かったことを付け加えておこう。

何度となく読み返す、
フェルマーの最終定理
それほど努力嫌いの僕が、たった一つ飽きなかったのは「読書」である。本を読むことだけが僕の救いであり生きがいであり、未来への導きだったのだ。基本的には雑読で、しかも早読み(速読術とは無縁)、分野は問わないけれど、最近は書店に入っても興味ある書物に巡り会う機会が少なくなって来たのは寂しい。

もしも、無人島に一冊だけ持って行くとしたら、僕は迷わず新潮文庫「フェルマーの最終定理」サイモン・シン著、青木薫訳をあげる。今、僕は思っているのだ。数学の世界とは何と魅力的でミステリアスなものなのだろうと。

私のジャズ (49)

演歌も良い
松澤 龍一

「美空ひばり 武道館ライブ」
(日本コロンビア COCA-13361~62)













この前、あるところで飲んでいたら、「ジャズも良いけど、演歌も良いよね」との話になった。酔った勢いで、最後は「演歌は良い、本当に良い、演歌の心が分からんヤツとは付き合わん」との暴論にまでなってしまった。前回の油井正一さんのことを書いたブログで、「ラジオでクラッシックとジャズの対抗番組が組まれ、クラッシック側がマリア・カラスを出したとき、ジャズ側はベッシー・スミスをぶつけた」ことを引用したが、さて演歌だったら誰をぶつけるか。答えは決まっている。誰が何と言おうと美空ひばりだ。マリア・カラスに対抗できるのは美空ひばり、ベッシー・スミスにも美空ひばりである。

上掲のCDはひばりの芸能生活35周年を記念して武道館で行ったコンサートを収録したもので、ひばり、44歳、円熟期の快演との評判の高いものである。昔、家の近くの神社に回転木馬が巡回して来たことがあった。木製のガタピシと廻る回転木馬に音割れのするスピーカー、そのスピーカーから流れて来たのが、「越後獅子の唄」だった。昭和生まれの者ならば、きっとその人生のどこかにひばりの唄が流れていたに違いない。

彼女の最後のコンサートは有名な「不死鳥コンサート」。これは音楽史上残る最も壮絶なコンサートである。すでに立つこともやっとだったひばりが前半後半合わせて2時間余りのステージを歌いっぱなしに歌う。一曲目は「悲しき口笛」で始まり、最後は「人生一路」で終わるが、顕かに「人生一路」を唄うひばりの顔には死相が漂う。
このコンサートの約1年後、平成の世が始まると同時に、偉大なる昭和のエンターテイナー、美空ひばりは永遠の眠りにつく。(「不死鳥コンサート」は厳密には最後のコンサートでは無いが、実質的には最後のものと言って良いだろう)


美空ひばりが生前、誉めた歌手が一人だけいた。ちあきなおみである。楽屋で通りすがりに、「あんた、歌、上手いわね」とちらっと言われたそうだ。確かに上手い。今、演歌を歌わせたら天下一品だろう。
私の愛聴曲である。




う~ん、今夜は酒が旨い。

2011年12月4日日曜日

2011年12月4日の目次

現代俳句をITで楽しむ:『現代俳句』平成23年12月号より
             大畑 等   読む
 

■ 俳枕 江戸から東京へ(48) 
                       山尾かづひろ   読む
■ 尾鷲歳時記(45)                        
                  内山  思考    読む

■ 私のジャズ (48)          
                  松澤 龍一     読む

現代俳句をITで楽しむ

『現代俳句』平成23年12月号 「直線曲線」より
大畑 等

 現代俳句協会のホームページをご覧になったことはありますか?インターネットを使用されない方は、どなたかにお願いして是非ご覧下さい。現代俳句協会の歴史・組織のことをはじめ、行事や句会のことなど多方面にわたって掲載しています。

  そのなかにインターネット(IT)句会があります。現代俳句協会会員に限らず、どなたでも参加出来るオープンな句会です。G1・G2のグレード制で、合計で毎月1800句ほど投句されます。会員の自己紹介欄を読みますと、様々な理由でインターネット句会に参加されていることを知ります。
               
                ※
「難病と共生しています」
「脳梗塞をして、左手リハビリの為PC(パソコン)を勉強中」
「車椅子の生活です。見たままの俳句と冬は頭の中で考えた俳句を作っています」
「白血病を俳句で乗り越えようとしています」
「若くして脳出血を患いましたが、リハビリ日記のような俳句を我流で始めてみました」
「音声で入力をしております」
 
このなかのお一人が、

徒競走歯をくひしばる青みかん   万里子 

の句を投句されました。G1の901句のなかの一点句で高得点一覧から漏れてしまう句でした。講評では、「その他の注目句」欄を設け、たとえ無得点であっても私が感銘した句は取り上げるようにしています。この句の講評では「走者の緊張感は作者の緊張感でもあり、また『青みかん』のそれでもある。徒競走の情景が、座五の『青みかん』に収束され焦点を生みました。」と書きました。

 実はこの原稿を書くにあたって、先ほど掲げた「自己紹介」のなかの一人と知り、感慨を深くしています。ああ、「歯をくひしば」っているのは、作者なのだと。

 もう十数年も前のことと思います。新聞でほぼ一面を使って、インターネットの活用を訴えていたのは作家の水上勉でした。病気の人、高齢の人こそインターネットを活用して欲しい、ということでした。  

 水上勉は平成元年に心筋梗塞で倒れ、ペンを持つことが出来なくなりました。そこでパソコンを始めた、指一本でポツリ、ポツリとキーボードを打ったようです。そしてインターネットを始めました。夜中に目が覚めても、仲間にメールを送ることが出来る。電話の場合、ベルが相手を起こしてしまいますが、メールなら相手が起きたときメールを見ることになります。仲間との深夜のコミュニケーションにより、孤独感に陥ることはない。そのような訴えでした。

 「インターネットの功罪」とか「インターネットは俳句をどう変えるか」という議論もありますが、身体的なハンディを負っている人の活用についても忘れてはいけないことと思います。俳句に限らず、「書きたい、綴りたい」という欲求に応えてくれるからです。

 IT句会は投句者の相互選。G1会員の人はG1の句、G2会員の人はG2の句の選をします。そして感想や鑑賞を掲示板に書き込み、お互い楽しんでいるようです。投句者は毎月900句ほど読み、選をします(皆さんタフです)。ときどき類句・類想句の問題で掲示板に訴えがありますが、良識的な運びとなっています。

 一人の人間に緩急があるように、IT句会でもそのときどきの緩急のリズムがあるようです。3月11日の「東日本大震災」後、4月、5月投句の句会では緊張感を感じました。そのなかから、いくつか抜き出してみます。

哀しくてどこからはじめよう さくら     良子
地震去りて囀り太郎かも知れぬ        樋口紅葉
先生と海底出でよ子供の日               高橋みよ女

 最後に、最近のIT句会からいくつか抜き出して終わりとします。

嫁さんの風向き次第鉄風鈴            なにわの銀次
尻を拭く皺くちやの尻迎へ盆             小愚
半夏生姉の辞書より煙草の香               横田未達
稲妻を食らうて国語舌を出す              赤松勝
トラックに大首絵あり夏木立        小林奇遊
そら豆やこの世で礼の言えぬひと       吉村紀代子
らっきょ食む孔子の弟子となる日まで         陽南
ATMに指なめられしカフカの忌   おくだみのる
柿の木をどうする父の七回忌              本田信美
半夏生叩きたくなる尻がある                 玉水敬藏
夏立つやぬうつと立てばぬうつとな      三休
荒縄の巻かるる地蔵花は葉に            坂東三郎
阿蘭陀の木靴売る店若葉風                高橋城山
笹粽雨の匂ひのしてゐたり                大塚正路
恋愛映画見て尾骨より新樹                木野俊子
紋黄蝶無言の吹き出しが舞う            中條啓子

 

俳枕 江戸から東京へ(48)

隅田川東岸/本所松坂町公園
文 : 山尾かづひろ 

本所松坂町公園














都区次(とくじ): いよいよ12月となりました。12月といえば赤穂義士の討入りです。今日はJR両国駅から吉良邸跡の本所松坂町公園へ行きたいと思います。 それでは「討入り」のあらましをお話し願います。
江戸璃(えどり):「討入り」の前段階の「松の廊下の刃傷沙汰」に至るまでの「いじめ」の数々はこの事件を題材にした「忠臣蔵」でよく知っているわね。説明が重複するけど元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家旗本(こうけはたもと)の吉良上野介義央に対して江戸城殿中において刃傷に及んだわけよ。浅野内匠頭は殿中抜刀の罪で即日切腹となり赤穂藩は改易となったわけ。遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名(四十七士)が翌15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、主君が殺害しようとして失敗した吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害した大事件だったのよ。
都区次:現在の吉良邸跡は武家屋敷としては小さいのですが?
江戸璃:吉良上野介が隠居したのは元禄14年3月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりに松坂町に新邸を与えたのよ。討入りは翌元禄15年(1702)12月14日だから、1年半に満たない居住だったのよね。隠居したとは言っても屋敷は広大で、東西七十三間、南北三十五間で、面積は約2千550坪(約8400平方メートル)だったとされているわね。明治維新後に江戸中の武家屋敷は官有地と民有地に仕分けされて、この吉良邸の屋敷も跡形もなくなっちゃったのね。昭和9年(1934)地元両国3丁目町会有志が発起人になって、邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、昭和9年(1934)3月に東京市に寄付し貴重な旧跡が維持され、昭和25年(1950)9月に墨田区に移管されたのよ。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎないのよ。如何に元の屋敷が広大だったか判るわね。
都区次:現在は墨田区の旧跡としてはっきり残されているわけですが、行事的なものはあるのですか?
江戸璃:毎年12月14日、義士討入りの日には、両国連合町会主催の「義士祭」、12月の第2または第3土曜日・日曜日には両国3丁目松坂睦主催の「吉良祭」や地元諸問屋出展の「元禄市」が開催され、大変な賑わいを見せるわよ。

首洗い井戸










凩や吉良邸跡のなまこ壁  長屋璃子(ながやるりこ)
悴みて吉良邸跡に辿り着く  山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (45)

珈琲杯
内山思考 

老眼にしか見えぬもの冬うらら   思考 


矢野孝徳作
勿体無いので未使用













焼き物の知識はあまりないけれど、妻が好きなので、機会があれば観に行くことにしている。 先々週は菰野町のパラミタ・ミュージアムへ出掛けた。「北大路魯山人展」が開催されていたからだ。「書」も「画」も「陶芸」も「料理」も師を持たず、あれほどエネルギッシュな生き方を見せ、豊潤な作品群を残したのだから、やはり天才だったのだろう。

「色絵福字平向五人」「伊賀風透し彫鉢」「乾山風椿絵鉢」の絵ハガキを買い、隣の「茶々」でとろゝ飯を啜り込んで帰って来た。 先週は、地元で東京在住の陶芸家・矢野孝徳さんの作品展があり、それにもいそいそと足を運んだ。もちろん妻と。

 器というのは面白いものだ。一口に鍋だ茶碗だ盃だと名がついて分類されていても全ての表情がみな違う。 ことに陶磁器の場合、人の仕事は造形までで、最後の仕上げを火に託さなければならない。肝心なところだけ人の手を離れるのである。まったく愉快である。「美の神の添削」。

矢野さんの作品は販売もしてくれるそうなので、懐具合と相談してコーヒーカップを買うことにした。 めんどくさがり屋の僕は、自宅では専らインスタント派でいつも机の上にはデミタスカップが乗っている。何故デミタスかと言うと、せっかく熱々を淹れても、一口飲んでは読み、二口飲んでは書き、している間に冷めてしまうのでマグカップでは勿体無いからである。

矢野さんは 「どうぞ手で持ってお確かめ下さい」と言う。 しかし、僕は割れ物に触れるのはとても苦手なのだ。持った途端に誰かが体当たりして来ないとも限らないではないか。その点、妻は大胆で、高価なガラス器であってもヒョイと手に取る。とかなんとか考えている内に妻が「これにしたら」。

桂三象さんのオデコにも
随分キス?した

私のジャズ (48)

油井正一さんのこと
松澤 龍一


「バグス・アンド・トレーン 」
(Atlantic MJ-7023)













中学生の頃だったと思う。父親に連れられ銀座に映画を見に行った。見たのは「アラビアのローレンス」、内容は中学生には難しく、良く分からなかったが、どこまでも続く白い砂漠の印象が強烈だった。映画の帰りに数寄屋橋の「ハンター」で買って貰ったのがこのレコードで、数度にわたる仕分けを生きのび、今だに手元に残っている。ビクターが発売した国内盤である。従ってジャケットも輸入盤の様に硬質の紙では無く、ペラペラとした薄手のものである。この薄手のジャケットも、今になると妙に懐かしい。

ライナーノーツは油井正一さんが書いている。日本のジャズ評論の草分けの方で、その著書、「ジャズの歴史」は長らく私のバイブルであった。編年的に歴史を述べたものでは無く、ジャズの歴史上のトピックスを軽妙に分かりやすく語っており、読むと思わずその音楽を聴いて見たくなってしまう。「レスター・ヤングを始めて聴いた時、その音のあまりの女々しさに失望してしまった」とか「ラジオでクラッシックとジャズの対抗番組が組まれ、クラッシック側がマリア・カラスを出したとき、こちらはベッシー・スミスをぶつけて、相手をうならせた」とか、今だに覚えている。後に「ジャズの歴史物語」と名を変えて再版された。

両方とも持っていたが、今は本棚に無い。惜しいことをしたと思ったら、「アマゾン」で売られている。これは嬉しい。早速買わないと。彼の母校の慶応大学三田アートセンターに、「油井正一ジャズアーカイブ」として、彼がその生涯に集めた総数約10,000点におよぶ資料や記録が保存されているらしい。

上掲のレコードで「バグス」とはバイブ奏者、ミルト・ジャクソンの愛称で、「トレーン」とはジョン・コルトレーンの愛称である。ミルト・ジャクソンの主な活躍の場はMJQだったが、MJQのミルト・ジャクソンはあまり良くないと言われていた。型にはまり過ぎて、彼の自由奔放なソウルフルな面が抑制され過ぎていると言うのがもっぱらの評判である。確かにそうだと思う。一度、MJQのコンサートに行ったが、実に退屈なコンサートだった。

この演奏は素晴らしい。日本の野外コンサートでのもののようだ。豪快なバイブ演奏が聴ける。

2011年11月27日日曜日

2011年11月27日の目次

俳枕 江戸から東京へ(47)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (44)                          
                   内山  思考    読む

私のジャズ (47)          
                  松澤 龍一     読む

俳枕 江戸から東京へ(47)

隅田川東岸/柳橋
文:山尾かづひろ  挿絵:矢野さとし

柳  橋














都区次(とくじ):今日は柳橋へ行きましょう。どのように行きますか?
江戸璃(えどり):都営地下鉄・浅草線の浅草橋駅から歩いて行きましょう。浅草駅と似ているけど違うから気をつけてね。浅草橋に出たら渡らないで左に行くわよ。要するに神田川に沿って歩くのよ。神田川は隅田川(大川)に流れ込んでいてね、柳橋は神田川に架かる橋で最も隅田川に近い橋なのよ。その起源は江戸の中頃、当時は下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往来していたけれど不便なため元禄10年(1697)に架橋を願い出て許可され翌11年に完成したのよ。その頃は隅田川の船遊び客のための船宿が多く、その後、花街としても新橋と共に東京を代表する場所になってね。柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと言われたそうよ。
都区次: 神田川に沿って船宿があり、雰囲気がらしくなってきましたね。時代劇で吉原へ舟で行く場面がありますが?
江戸璃: ここから吉原通いの「猪牙(ちょき)」が出ていたのよ。
都区次: 「猪牙」とは何ですか?
江戸璃:「猪牙」は船脚を上げるために先を尖らせた細長く屋根のない舟で、主に吉原通いに使われた舟のことなのよ。吉原へは駕籠でも徒歩でも行けたけど、この柳橋から「猪牙」で隅田川を通って吉原近くの山谷堀まで行くのが粋な「お大臣遊び」だったのよ。
都区次:明治になってからはどう変わりましたか?
江戸璃:交通の発達で舟で吉原へ行くなどというのは無くなったでしょうけど、柳橋の船宿(船遊び)と花街はそのまま盛況で、正岡子規も
「春の夜や女見返る柳橋」
「贅沢な人の涼みや柳橋」
という俳句を残しているわよ。

柳橋の船宿










大川に溢(こぼ)れて揺れて冬灯  
             長屋璃子(ながやるりこ)
船宿に人気なき夜の一重菊  山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (44)

尾鷲の朝日と夕日
内山思考

日本に冬行き亘るポン酢かな 思考 


尾鷲港の朝



















尾鷲の朝は海からやってくる。 「尾鷲よいとこ朝日を受けて浦で五丈の網をひく」と尾鷲節にある。 シンガーソングライターの黒坂黒太郎さんは 「いりえおくのまち…ひがしからあさひのぼり/きょうをはこぶよ/このまちに」(朝日はこぶ町)と歌ってくれた。

三方が山で、一方の海が東に向いている尾鷲へ、朝日はまるでコップに水を注ぐように光を届けてくれる。 夜が明ければ朝が来るのはどこでも同じとわかっていても、早暁まだ薄暗い路地を抜け、あまり人通りのない港へ行く途中で朝日に会うと、1対1の感じがしてとても心地良い。

「お早うさん」 「オウ、今日も頑張れよ、ピカピカー」 という挨拶がそこでなされているかのようだ。その後は、一見昨日と変わらない、しかし新鮮な時間が流れ始める。 日中は何やかやと気ぜわしいので、太陽の存在はまったくといってもいいほど忘れている。たまに空を見上げることはあっても、それは大好きな飛行機がゆっくり高空移動しているのを発見した時ぐらいで、そんな場合はしばらく目で追うこともある。

古道の夕日
この時期は日が短いので二時を過ぎると夕ごころになり、晩ごはんのおかずが気になり始める。 お前には悩みが無いのか、と問うなかれ、楽しい材料だけを憂いと憂いのつなぎにして生活しているだけなのだから。 今日は炭焼のアルバイト(機会があれば触れよう)の日だったのでそれが済んで4時、急ぎ帰って洗濯物の取り込み、これは僕の役目だ。そして紀勢新聞の配達に出る頃、朝日も1日の仕事を終えて夕日に姿を変えて行く。 「もう沈むのかい?」 「ああ、またな、ゴトン」 冬至はまだまだ先だ。

私のジャズ (47)

白いパーカー
松澤 龍一

CHARLIE MARIANO QUINTET BOSTON DAYS
 (Camarillo Music FSR-CD-207)













白いパーカーと呼ばれたボストン生まれの白人アルト・サックス奏者、チャーリー・マリアーノ、彼の初期の録音を集めたのが上掲のCDである。白いパーカーと呼ばれただけあって、その演奏は正にパーカーそのもので、共演しているあまり名の知られていないハーブ・ポメロイと言うトランペッタ―もマイルス・デイビスそのものに聴こえてしまう。

ピアノだけがちょっと違う。左手が強く、いわゆるバップ・ピアニストのタッチでは無い。誰かと思ったら、なんとジャッキー・バイヤードである。彼は始めからこんな弾き方をしていたんだと新しい発見をした。

前々回のJ.R.モンテローズの話に読者からお便りがあった。J.R.モンテローズのリーダー・アルバムに「THE MESSAGE」があると教えてもらった。1959年の録音でトミ―・フラナガン、ジミー・ギャリソン、ピート・ラ・ロッカと共演しているアルバムだとのこと。これは知らなかった。このアルバム、カマリロ・ミュージックと言う会社より発売されている。

「カマリロ」とはあの「カマリロ」かとのご質問があった。有名な「ラバー・マン」セッションの直後、発狂したパーカーを収容した病院が「カマリロ病院」で、その後、退院して「リラクシン・アット・カマリロ」などと言う曲を作っている、あの「カマリロ」のことかとの質問である。「カマリロ」とはカルフォルニアの都市の名前で、そこにあった病院が「カマリロ病院」で、そこにあるレコード会社が「カマリロ・ミュージック」と言った程度のことだろう。

そんなことを考えながら、ふと手にしたこのCD、なんと、カマリロ・ミュージック、偶然の一致とは恐ろしい。 チャーリー・マリアーノは一時日本人と結婚していた。相手は有名なジャズ・ピアニストの秋吉敏子。ボストン生まれの白人アルト奏者と満州生まれの日本人ピアニストが、その蜜月時代に作ったアルバムがこれである。このアルバムに残されているチャーリー・マリアーノが作曲した曲の題名に、彼の秋吉敏子への熱愛ぶりが偲ばれる。

2011年11月20日日曜日

2011年11月20日の目次

俳枕 江戸から東京へ(46)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (43)                          
                   内山  思考    読む

私のジャズ (46)          
                  松澤 龍一     読む

俳枕 江戸から東京へ(46)

柴又界隈/矢切の渡し
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし

矢切の渡し














都区次(とくじ): それでは江戸川河川敷の水原秋桜子の句碑から「矢切の渡し」へ行ってみましょう。ここが東京とは思えない珍しい風景ですが由来は何ですか?
江戸璃(えどり):  「矢切の渡し」は東京都柴又と松戸市矢切を往復する渡しで、その始まりは三百八十余年前江戸時代初期にさかのぼるのよ。元和2年(1616)、幕府は利根川水系河川の街道筋の重要地点15カ所を定船場として指定、それ以外の地点での渡河を禁止したのよ。「矢切の渡し」もその15カ所の一つだったのね。当時、江戸への出入りは非常に強い規則のもとにおかれていてね、関所やぶりは「はりつけ」になろうという世の中だったけれど、江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行き交うことができたのね。これが矢切の渡しの始まりでいわゆる農民渡船といわれたものなのよ。
都区次: この渡しはヒット曲「矢切の渡し」で有名ですが?
江戸璃:明治以降は、地元民の足として残り、現在では東京の唯一の渡しとなっているのね。対岸には伊藤左千夫の名作「野菊の墓」があるので、この「矢切の渡し」で行ってみましょう。舟賃は片道一人百円なのよ。川幅約150メートルを約5分ほどかけて渡るのよ。
都区次: さて、この舟の着いた松戸市側の渡し場から「野菊の墓」まではどのように行くのですか?
江戸璃: この渡し場から歩いて20分程のところに西蓮寺があって、ここには、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の一節を刻んだ文学碑があるわけ。また、隣接している野菊苑展望台からの見晴らしは素晴らしく、矢切耕地、江戸川の流れ、遠方には東京の街並みが見渡せるのよ。 
「野菊の墓」の文学碑










秋気澄む今も手漕ぎの渡し舟 長屋璃子(ながやるりこ)
渡船場へ百の葱畝風おくる  山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (43)

歯のある話
内山思考

米を担ぎ冬の銀河を渡りけり  思考

近所の金剛寺の仁王さん












「カリカリ」「コリコリ」「バリバリ」「ボリボリ」 物を食べる時、歯ごたえもまた「味」のひとつだと言えよう。 食欲を無上の友として人生を過ごして来た割には、歯の管理があまりよくなく、徐々に、噛み締められる範囲が狭くなって、気がつけば利き顎?でない左側でほとんど咀嚼している。 もうその部分が駄目ならいろいろな珍味、ご馳走を思う存分味わえない、という恐怖にかられ、歯磨きの方法を変えることにした。

半世紀以上磨いていた歯を磨かず、歯茎を磨くようにしたのである。最初は痛くてゆっくりブラシを当てていたが、しばらくすると相当強く擦っても耐えられるようになった。今では結構歯の土台もしっかりしている。 しかし、世の中には歯の丈夫な人がいるもので、沖縄の友人S子さんは七十七才にして三十二本すべて揃っているそうだ。若々しい彼女は生まれてこのかた「歯痛」を経験したことがないというから本当に羨ましい。

でも、最初に沖縄に行った時、那覇の街を車で走っていて歯医者がとても多いのに気づいて、その事を運転手さんに言うと、 「それは黒砂糖を食べるから」「エエッ」「というのはウソです」などとやり取りをしたことがある。真相は如何に。 もう一人、八十八才の知人Gさんも驚くなかれすべて自分の歯だ。

尾鷲神社の狛犬
流石に近年、もろくなってヒビが入ったりすると語るが、まさに「歯の天才」と言うべきだろう。 ある時、僕も少しはあやかろう、と「Gさんのように丈夫な歯を保つには一体どうすればいいのですか?」 と聞くと、「磨かないことだね、ハハ」と笑った。これまた真相は如何に。 阿形の仁王様や狛犬の歯は健康そうでいつも見とれてしまう。

私のジャズ (46)

ミスターB
松澤 龍一

BILLY ECKSTINE TOGETHER (Spotlie 100)













ミスターBの愛称で一世を風靡した黒人歌手ビリー・エクスタイン、甘い歌声で、その後、パット・ブーンやアンディー・ウイリアムスなどに通じる美声シンガーのはしりとなった。彼はジャズシンガーでは無い。ジャズには無縁のところに居た人である。

ところがジャズには大変な貢献をしている。それは、偉大なジャズファン、それも、その当時芽生えたばかりのビバップと呼ばれ、いわゆるモダンジャズへと発展する音楽の信奉者であった点である。趣味が昂じて自分でジャズのバンドを作ってしまった。バリバリのビバップをやっていた若手を集めて自分のビックバンドを作った。

彼のバンドのラジオ録音を集めたのが上掲のレコード。一つ一つがすさまじい演奏である。火の出るような演奏である。新しい音楽を創造するとの熱意がラジオのスピーカーから飛んでくる。

夭折のトランペッタ―、ファッツ・ナバロが聴ける、デビュー当時のサラ・ボーンが唄う。やたらと大きな音ではしゃいでいるドラマーがいる。若き日のアート・ブレキーである。御大ビリー・エクスタインもトランペットで参加しているが、これは旦那芸の域を出ない。やはり、ミスターBはメローなバラードを唄うに限る。



どうもジャズプレヤーはこのように甘く唄う歌手が好きなようだ。パーカーはアール・コールマンと言うミスターB系の歌手と一緒にバラードを吹きこんでいる。コルトレーンにはジョニー・ハートマンと共演した有名なアルバムがある。

2011年11月13日日曜日

2011年11月13日の目次

俳枕 江戸から東京へ(45)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (42)                          
                   内山  思考    読む

私のジャズ (45)          
                  松澤 龍一     読む

俳枕 江戸から東京へ(45)

柴又界隈/江戸川河川敷
文 : 山尾かづひろ   
江戸川河川敷











都区次(とくじ): それでは帝釈天より江戸川の河川敷へ行ってみましょう。ここには水原秋桜子の「葛飾や桃の籬(まがき)も水田(みずた)べり」の句碑があります。秋桜子とこの界隈の関係は何ですか?
江戸璃(えどり): 秋桜子は明治25年の東京の神田生れで、子供のころから葛飾界隈に何度も行ったことがあって、この辺りをよく知っていたのね。当時は、東京都葛飾区はまだ水郷の雰囲気が残っている田園地帯だったのよ。この句は秋桜子が昭和5年、38歳のときに第一句集 『葛飾』 を刊行して、その中に納めた一句なのよ。句の伝えるところは、桃が咲くころで、田んぼはまだ田植えの前で、農家の垣根の桃が華やかに満開となり、横にある田植え前の水田の水面にその桃の花が映えている、という意味なのよ。この句集を刊行したときは、一度も葛飾に行かずに昔の景色を思い出しながら俳句を作ったそうよ。
都区次: この江戸川ですが、自然の川というより作ったような川ですね。
江戸璃:そうなのよ。これは徳川家康の利根川東遷事業と関係があってね。元々利根川は江戸川とともに江戸湾に注いでいたのよ。それを千葉県の銚子から太平洋に注ぐように徳川家康が瀬替したのよ。そのとき江戸川に利根川の水の一部を流すために開削したのよ。
都区次:利根川を瀬替した理由は何ですか?
江戸璃:三つあってね。一つ目は、この旧利根川が江戸に洪水をもたらして大変だったからよ。二つ目は新田開発のためね。三つ目は東北と関東の船運を発展させるためね。これが江戸川の開削にも関係あるのよ。
都区次: これは意味が分りませんね。東北の青森、仙台は海で江戸まで続いているではありませんか?
江戸璃:ところが「ギッチョンチョン」房総沖は太平洋の荒波をもろに受けて、水夫(かこ)もそんじょそこらの腕では危険が多くて航行できなかったのよ。瀬替後は東北の米を三百石積の弁才船(べんざいせん)で銚子まで運び、銚子より高瀬舟で新しい利根川を上って千葉県野田市の関宿まで運び、関宿から江戸川を下って江戸まで運んだのよ。関宿には利根川から江戸川への水量を調整する水門が今でもあって、水原秋桜子は句集『葛飾』の中に関宿で作った「利根川のふるきみなとの蓮(はちす)かな」という句を納めているわよ。
都区次:なるほどよく分かりました。江戸璃さん、まだ何か言いたげな御顔ですが?
江戸璃:先ほどの銚子で荷を降ろした弁才船は東北へ帰るときに生活物資を積んで行ったのね。それで江戸川べりには問屋や醸造元が出来たのよ。25歳の小林一茶は馬橋村の油商人で俳人だった大川立砂の下で働き俳句の薫陶も受けたそうよ。また流山の味醂醸造元の主人で俳人だった秋元双樹と親交があったというのも有名な話よね。
関宿城










夕東風や己小さき河川敷 長屋璃子(ながやるりこ)
対岸は千葉と指さす春コート  山尾かづひろ