2014年6月8日日曜日

2014年6月8日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(179)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(176)

       内山 思考    読む

尾鷲歳時記(176)

雨期到来
内山思考

一幅の山水破れ夏豪雨   思考

姉の家の孔雀サボテンに癒される









今年も列島に雨の季節がやって来た。7時起床、尾鷲も朝からよく降っている。テレビニュースによると四国方面は6月にしては記録破りの大雨だそうだ。何事も無ければよいが。これから近畿東海に強い影響ありとのこと。子供二人は早々に仕事に出掛け、熱い「和紅茶(最近、好んで愛飲している)」を啜りながら新聞を読む内に洗濯が出来たので、乾きはしないだろうが一応、二階のサンルームに干して置いた。太く雨伝う窓の外に黒々とした路地の甍の波が広がっている。

次に土鍋で三合の飯を炊いた。今日は名古屋(恵子の病院)に行く日である。桑名の姉の家を拠点に二泊三日の心積もりをしている。着替えを用意して家を出たのが9時半。土砂降りだから、駐車場に停めてある車に乗るまでが大変だ。ロックを解除してまず荷物を放り込み、急いで運転席に腰を下ろし、畳んだ傘を助手席の足元に立ててドアを閉めて、の間にそこかしこびしょ濡れである。アーア。この過程が改善される余地は無いのだろうか。頭や両腕を拭いたタオルでドアの内側を拭き、ようやく出発である。昼頃には到着するだろう。

最初に妙長寺に向かったのは借りていた食器をお返しするためだ。主婦が入院していては食事の支度も大変だろう、とたびたび差し入れを頂戴するのである。誠に有り難いことだ。副住職と少し話し、去り際に奥さまが恵子さんにと和菓子を持たせてくれた。境内で車を切り返していると、本堂に袈裟姿のお上人がいてこちらに合掌してくださるのが見え、こちらも目礼を返す。

沖縄のヒロコさんから
スパムが届いた
いよいよ雨足が強くなった。あとでラジオを聴くと、尾鷲地方はこの時間帯が一番よく降っていたようだ。時間雨量50㍉台は大して珍しくはないが、しばらく天気が続いていたから、余計にうっとうしく感じられるのだろう。しかし、せわしないワイパーの向こうに雨煙る野山は、ますます緑が濃くなることを喜んでいるようにも思えた。

俳枕 江戸から東京へ(179)

山手線・田町(その10)
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし

広岳院










都区次(とくじ):前回は三田台地の東禅寺でしたが、今日はどこへ案内してくれますか?

一時はプロシャ公館五月闇   吉田ゆり

江戸璃(えどり):やはり三田台地で、広岳院(こうがくいん)へ行くわよ。  広岳院は曹洞宗の寺院でね。山号は医王山というのよ。寺号は信濃国飯山藩佐久間家初代藩主佐久間安政の嫡男勝宗の法名広岳院殿より名付けられたのよ。勝宗は享年28で父に先立って亡くなってね、そこで勝宗の菩提をともらうために安政が創建したのよ。佐久間安政は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、佐久間氏の一族で、母は柴田勝家の妹であるので、柴田勝家は叔父にあたるのよ。広岳院は赤穂浪士とも関係のあるお寺なのよ。赤穂浪士一行が、泉岳寺に引き上げてきたときに、泉岳寺では丁重に迎え、粥とお酒がふるまわれたと言われているわね。通常は、お寺は禁酒だけれど、特別の日だからということで酒がだされたようなのよ。これらの対応の指揮をとったのが、泉岳寺住職の長恩和尚と、副司(ふうす)の承天則地和尚だったのよ。副司というのは、禅宗のお寺で、食物やお金の調達を担当する職だそうよ。その副司の承天則地和尚がいたお寺が広岳院だったのよ。広岳院の6世住職だったそうよ。承天則地和尚はのちに、泉岳寺の住職となり、さらに曹洞宗の総本山である永平寺の住職(禅師)にまでなっているのよ。 広岳院は、幕末にはプロイセン公使の宿舎ともなっているわね。現存する広岳院の本堂は、弘化年間(1844~1848)の火事の後に再建されたもので、幕末の外国公館として使われていた建物の現存例としては唯一のものなのよ。
都区次:夕方になりましたが、今日はどうしますか?
江戸璃:普連土学園下のイタリアン酒場の「レンテッツア」の炭火焼スペアリブでワインを飲みたくなっちゃった。
都区次:いいですね。行きましょう。

泉岳寺










幕末のプロシア公館梅雨茫茫  長屋璃子
寺町の猫とて蜥蜴容赦せず   山尾かづひろ