2011年5月29日日曜日

2011年5月29日の目次

俳枕 江戸から東京へ(22)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (19)                          
                   内山  思考    読む
私のジャズ (22)          
                  松澤 龍一     読む
季語の背景(13・朝顔)-超弩級季語探究
                  小林 夏冬    読む

俳枕 江戸から東京へ(22)

赤坂・麹町/豊川稲荷・弁慶堀
文 : 山尾かづひろ

豊川稲荷









豊川稲荷・弁慶堀
都区次(とくじ): それでは山王・日枝神社から豊川稲荷へ行ってみましょう。地下鉄で行きましょう。
江戸璃(えどり): 赤坂見附に行くのでしょう?外堀通を歩いて行こうよ。この豊川稲荷は大岡越前守忠相が愛知県の豊川町を領していた縁で大岡の邸内に勧請し祀っていた社だったのよ。それを明治になってこの地へ移して豊川稲荷東京別院として創建したのね。けっこう有名な芸能・スポーツ関係者の信仰を集めているのよね。よく歩いたから向いの虎屋でお茶を飲んで行きましょう。この店は戦前からあって年配の人にはよく知られているのよ。休憩したら江戸城の外堀の弁慶堀へ行ってみましょう。
都区次: 江戸にあって弁慶堀とは変わった名前ですね。
江戸璃: あの源義経の家臣の武蔵坊弁慶とはまったく関係がないのよね。寛永年間にこの堀を掘った江戸城普請の大工の名棟梁「弁慶小左衛門」から来ているのよ。
弁慶堀









梅雨兆す豊川稲荷の石狐  長屋璃子(ながやるりこ)
澱み切る弁慶堀の灸花     山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (19)

写真家の梅津さん
内山思考 

 仏滅の後は大安白牡丹   思考 

思考が撮った梅津さん












梅津正興(うめづ・まさおき)さんは、京都出身の元プロカメラマンだ。東京での忙しい生活を切り上げて縁もゆかりもない尾鷲に移り住み十四年、会社勤めをしながら写真サークルの指導などをしている。 以前から顔馴染みだったが、一時期、市民文化会館の館長をしていた梅津さんから、文化振興会の運営委員をと誘って頂き、それ以来、親しく話すようになった。

温厚篤実、とはこの人のことだ。いつも笑みを絶やさないところは以前紹介した「星追い人・湯浅祥司さん」に似たタイプとも言える。やはり、豊かな感性を持って人生を楽しんでいる人は、聖人めいた雰囲気を持っている。らしさ、が鼻に付かないから、こういう人を僕は尊敬する。 情景のピックアップという点で、俳句と写真はよく同一視される。僕の憧れの伊丹三樹彦さんの「写俳」は、(あうん)の狛犬の如く写真と俳句が見事に融合していて、ここまで行くと一つの芸術分野だな、と戴いた写真集を見つめてはいつも感嘆する。
一杯機嫌の梅津さんが
撮った思考

話を戻して、丁度、梅津さんが市立中央公民館のロビーで写真展をしているので作品を鑑賞しがてら本人に会いに行った。「あ、思考さん」といつもの笑顔。 東京時代は、あらゆる人や風物を撮りまくって、映画、寅さんシリーズの歴代マドンナもレンズの中に納めたという話をしてくれた。

中に、一人だけ例外、つまり被写体になって貰えなかった女優さんがいた。 吉永小百合さんである。 一社の要望を受けてそれが前例になると困るから、というのが理由だったそうだ。 成る程、そう言うものなのか。でも、これも以前紹介した俳優・榎木兵衛さんの思い出話に、撮影所に誰も居なくなってから、「エノやん、一緒に写真撮ろうよ」とさゆりちゃんが満面の笑顔で手招きしてくれた、というエピソードがあったから、プライベートの吉永小百合さんは、きっと明るくてやさしい人に違いない。

私のジャズ (22)

アーチー・シェップが唄う 
松澤 龍一

 LEFT ALONE REVISITED
 (enja TKCB-72371)












60年代、いわゆる前衛ジャズが勃興した頃、新しいプレーヤーが登場した。テナーではアルバート・アイラー、ファラオ・サンダース、アーチー・シェップなどなどだが、ちょっと胡散臭いアルバート・アイラー、音だけ馬鹿でかいファラオ・サンダースに比べ、アーチー・シェップは本物だと思った。彼にはブルースがある。先々生き残るに違いないと思っていた。アルバート・アイラーはイースト・リバーで謎の溺死を遂げ、ファラオ・サンダースはどうしているのかなと思い調べたら、インターネットに彼のホームページを見つけた。元気にやっているらしい...とそんな程度である。

2002年にパリで録音されたこのCD、アーチー・シェップがピアノのマル・ウォルドロンとデュエットで吹き込んだもの。タイトルの Left Alone はマル・ウォルドロン(ビリー・ホリデイの最後の伴奏者)がビリー・ホリデイを偲び、大分昔に出したレコードのタイトルで、共演したアルトのジャッキー・マックリーンの甘ったるいソロで知られる。(これがジャズ史上に残るもっとも甘い、緩いのでは無く、良い意味で、ソロだと未だに思っているが) 

このCDでも、第一曲目で Left Alone をやっている。これ以外の曲もビリー・ホリデイの持ち歌が多い。演奏はと言うと、気の抜けたコーラである。二人とも好々爺になってしまいスリルが一向に感じられない。あの尖がっていたアーチー・シェップ、エリック・ドルフィーやブッカー・リトルと共演した頃のマルはどこに行ってしまったのだろう。ビリー・ホリデイで又一稼ぎの魂胆も見え見えで、これもいやらしい。その魂胆にまんまと乗せられ、CDを買ってしまった自分も情けない。

中の一曲で、アーチー・シェップがブルースを唄っている。これは良い。枯れたアーチー・シェップはテナーを吹くよりブルースを唄うべきだ。マル・ウォルドロンの伴奏だけでアーチー・シェップがブルースを唄うCDが出たら、これは買いである。

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追加掲載(120104)
 レフト・アロンはやっぱり、ジャッキー・マクリーン。


季語の背景(13・朝顔)-超弩級季語探究

小林 夏冬

朝顔
ある年、谷中の朝顔市のころ、読売新聞夕刊に「江戸期生まれの変化朝顔」という記事があった。変化朝顔のカラー写真四枚を含めて、一頁の半分以上を占める記事だったから、記憶に止めた人も多かったろうと思う。また、同じころテレビの放送大学でも変化朝顔を取り上げていた。この放送大学のほうは朝顔のシーズンになると毎年、変化朝顔について再放送、再々放送するから、興味があれば何度でも見ることができる。それを見るといままで見たことも聞いたこともない、これが朝顔とは到底信じられないようなものが紹介されている。

読売新聞の記事は終わりのほうで、佐倉市の国立歴史民族博物館で変化朝顔の実物展示と、識者による公開討論会があるとしていたので、暑い盛りの一日、変化朝顔を見て公開討論会も聞くことが出来た。この国立歴史民族博物館も、毎年のシーズンに変化朝顔の展示会が開催されるから、夏になったら気をつけていると実物を見ることができる。この変化朝顔は元禄から寛政、享和にかけて始まり、嘉永、安政年間に及んだというから、十七世紀初頭から十九世紀のなかごろまでが最盛期だったことになる。放送大学では変化するメカニズムにまで踏み込み、詳しく解説していたが、それはこの項の目的でないから省き、朝顔について各種の文献を紹介する。

小学館『日本国語大辞典』【朝顔】の項を要約すると、「ヒルガオ科の一年草。アジア原産で、日本では平安時代初期から薬用植物として栽培されていた。江戸時代には園芸植物として発達し、その種類は非常に多く、蔓にならないものもある」とある。蔓にならないものとは矮性朝顔で、見かけは雑草のような形になるから、花だけではなく、葉や全体の姿も鑑賞の対象となる。花言葉は儚い恋、平静、喜悦、結束。「異名はニホンアサガオ、シノノメソウ、牽牛花、カガミグサ、蕣花などがあり、桔梗、木槿の異名でもある」としているが、前段はいまの朝顔のことで、後段の桔梗、木槿などはいまでいう朝顔ではない。

その桔梗、木槿、蕣花などが朝顔の異名であることについては後述するとして、朝顔の原産地は中国西南部からヒマラヤにかけての暖かい山麓地帯だという。しかし、アフリカ、ブラジル、マレー諸島、メキシコなどにも原種と思われる朝顔が自生しているというから、アジア原産と確定するわけにもゆかないだろう。中国最古の植物事典で、宋の陳景沂撰になる『金芳備祖』にも出てくるのを始め、梁の陶弘景『名医別録』『神農本草経集注』には牽牛子の薬効が述べられているというが、そちらは未見である。

謝肇淛著『五雑組』「物部二」木槿の項には「詩有女同車顔如蕣華蕣木槿也」【女と同車した。その顔は蕣花のようだったが、ここでいう蕣花とは木槿のことだ】といっている。木槿は「朝開暮落」【朝咲いて夕方には散ってしまう】から、「婦人容色之易衰若詩之寄与微而婉矣」【女の盛りが短いのは、この詩のようなものだ。しかし、それはなんともいえない美しさではないか】という。続けて「然花之朝開暮落者不独槿花如蜀葵茉莉木芙蓉棗花皆然」【そうはいっても朝に咲き、夕方には散ってしまうのは木槿だけではなく蜀葵、茉莉、芙蓉、棗など、たくさんある】という。そして「而銀杏花一開即落又速於木槿也但木槿色稍艶耳」【銀杏は咲くとすぐ散ってしまい、木槿より早い。ただ、木槿の花は艶っぽくて美しい】として木槿の項を閉じている。つまり中国では木槿が「かほ花」と一括していわれる、「あさがほ」の代表というわけだ。

引用文の冒頭に出てくる「同車」とは、中国で婚礼のとき男が花嫁の家へ行き、一台の車に同乗するもので、バスや電車でたまたま、どこかの美女と同車したというような類いの「同車」ではない。婚礼のとき相手の男と同車するから、若い女がきらびやかな婚礼衣裳に身を包み、美しくお化粧している。だからこそ「顔如蕣華」【あさがほの花のようだった】ということになるわけで、ここに挙げられた各種の花は、いずれも「あさがほ」として括られる花である。花の美しさにはそれぞれの好みがあるから、一概にいえないとしても、美しさという一点に絞ったら、少なくとも蜀葵、茉莉、芙蓉などと比べて、銀杏や棗の花はとても太刀打ちできない。しかし、葵や茉莉、芙蓉などは、木槿と比べても十分に対抗し得るし、人によってはこちらのほうが美しいと思うだろう。それなのに、どうして木槿だけが「あさがほ」の代表なのだ、その他の一日花だって、代表たり得る美しさがあるではないかといういい分もあろう。そうなるともう運、不運がすべてとしかいいようがない。ミス日本は誰が見ても日本最高の美女かという疑問と同じである。

ここに出てくる『詩経』の「顔、蕣の如し」という一節は、『呂氏春秋』にも引用されている。「時令」五月の項で、高誘の注釈には「顔如蕣華是也」【その顔はあさがほの花のようだった、といっているのはこれである】とあるが、『五雑組』は木槿を「あさがほ」の代表としているせいか、牽牛子の項目はない。『三才図会』『和漢三才図会』などに比べると、全体的に簡略化されているため、植物についての項目も、その植物についての記述も非常に少ない。謝肇淛にとって「あさがほ」の代表選手は何か、ということには特別な関心がなかったのか、あるいは「あさがほ」の代表は木槿として定着し、それが常識だったから、改めて言及することもないということかも知れない。ただ、ここでいえることは、中国では朝に咲き、夕べに散る花を総称して「あさがほ」としており、いまでいう朝顔は「あさがほ」のなかの牽牛子として、はっきり立て分けているから、最初から日本のような混乱はない。それに反して源順が『和名抄』で勘違いして書いてから、そこがごちゃごちゃになってしまった日本は、すっかり混乱してしまった。

「あさがほ」の名称に特別な関心はないという点では文震享著、『長物志』も同様のことがいえる。これは当り前のことで、『五雑組』や『長物志』に限らず、中国の文献、あるいは実生活においても、「あさがほ」の解釈は終始一貫していたから、異説など出ようもないわけである。その『長物志』木槿の項で、「花中最賤然古称蕣華其名最遠又名朝菌編籬野岸不妨間植必称林園佳友未之敢許也」【花のなかで一番詰らない。昔から蕣花といってよく知られているが、これは朝菌ともいう。川岸へ垣根を作るには手頃な花だが、庭園には欠かせないといわれても、そうだねとはいい兼ねる】とある。ずいぶん軽蔑されたものだが、江南ではごくありふれた花で、そこらじゅうでこれを生垣にしているところから、面白くもおかしくもないというわけだ。このころは朝鮮、現在の韓国はまだ木槿を国花としていなかったから仕方がないが、いまは国花となっている木槿を指して、「花のなかで最も賤しい」などといわれたら、韓国人は怒るだろう。日本人に「桜は最低の花だ」というのと同じ理屈で、そんなことをいわれたら怒るのは当然である。

文震享も一言多かったわけだが、彼のために一言弁護するならば、後の世で木槿が韓国の国花になるとは、神ならぬ身の知る由もないから、これはこれで仕方ない一面がある。それが分かっていたら彼も「花のなかで最も賤しい」などという言葉は慎んだ筈である。また、それについては文震享自身がその書名を『長物志』とし、無用の長物についての覚え書き、といっているくらいだから洒落もあるし、だいたいが国花はもちろん、国歌や国旗という概念さえなかったころだから、木槿に対する中国文人の一般的な感想を述べただけの話で、後世の人間がそれについて怒っても仕方ないだろうという気はする。

平安時代に日本へ渡ってきたのも薬用植物としてで、そのことは『延喜式』にも記載されている。その『延喜式』が日本の文献に「あさがほ」が出てくる最初のものということになるが、『万葉集』でいっている「あさがほ」は、桔梗または木槿を意味していたし、『和名抄』『名義抄』は牽牛花、蕣、木槿などを「あさがほ」としている。『古今集』では「けにごし」といっており、これは牽牛子、いまでいう朝顔を指しているというふうに、朝顔の文献は多い。それだけ物議を醸した花ということになるが、このようにいろいろな文献、それも互いに違うことをいっている文献が多いと、それに振り回されて手がつけられない状態になる。興味のある人はうしろのほう、『古事類苑』の項で朝顔の文献をざっと挙げておいたから、一通り当ってみるのも面白いだろう。調べているうちに頭がおかしくなってくること請け合いだが、頭の体操としてはそれも一興というものである。  

『延喜式』に挙げられた牽牛子、和名阿左加保は現在の朝顔のことだが、ここでいう「牽牛子、和名阿左加保」については、のちに述べるようにちょっと問題がある。日本では古くから「あさがほ」とは木槿、桔梗、昼顔、牽牛子その他とする説が入り乱れており、当然ながらこれらの「あさがほ」は、牽牛子を除いていまの朝顔のことではない。それをなぜ「あさがほ」というのか、そのわけはそもそもの原点からいえば、「あさがほ」とは「木槿、桔梗、朝顔、昼顔、芙容などのように朝に咲き、夕べには凋んで、同じ花が翌日また咲くことはないもの」であり、一日花という、花の状態を形容する言葉だから固有名詞ではなく、草花であると木花であるとを問わないというところから始まる。

従って中国でも牽牛子は、「あさがほ」の一つであるに過ぎない。それらの「あさがほ」のなかにあって、木槿は艶なるをもって朝に咲く花、「あさがほ」の代表となったものだから、数多い「あさがほ」の中には牽牛子もあるということで、その考え方は日本に牽牛子が渡来したのちも受け継がれていた。それが日本で乱れてしまったのは源順以来で、後述するように源順がその著『和名抄』のなかで「牽牛子、和名阿左加保」と、「あさがほ」を固有名詞にしてしまったからで、本来であればいまの朝顔、牽牛子は、「あさがほ」の一つに過ぎないのだが、牽牛子イコール阿左加保という、固有名詞にしてしまった日本のような混乱は、中国にはそもそも存在しない。

『本草綱目啓蒙』は小野蘭山著で、牽牛子としてアサガホ(和名抄)ケニゴシ(古今集)仮君子(輟耕録)三白草(村家方)など牽牛子の異名を挙げ、牽牛子とは朝顔のことであるが、「古、アサガホト云ハ木槿ナリ。故ニ万葉集、秋七種歌ニアサガホトイフハ牽牛ニアラズ」として、『万葉集』で詠われた「あさがほ」は、現在の朝顔ではないと明記している。しかし、厳密にいえばこの説も「あさがほ」の本意を無視して、木槿に限定してしまっているという意味では、これも誤り以外の何ものでもない。ただ、そうはいってもその誤りと、万葉集でいう「あさがほ」とは木槿か桔梗かいまだに謎である、ということとは次元の違う話だから、そこは立て分けて考える必要がある。

『本草綱目啓蒙』は続けて、「花青碧色ノ者ヲ黒丑ト云、マタ黒牽牛トモ云。又、白色ノモノヲ白丑ト云、又、白牽牛ト云ナリ」といまの朝顔を説明しているが、さらに「花、鼓子ノ形ヲナシテ五尖アル者ハ尋常ノモノナリ。又五弁、筒マデ切レタルモノアリ、又、花頭五尖ナルモノヲ桔梗ザキト云、葉モ亦五尖ナリ。其円弁ナル者ヲ梅ザキト云、尋常ノ花ノ形ニシテ、中ニ小弁アルモノヲ孔雀ト云」と、その説明は花の形や色、種類にも及んでいる。

花の色も白、青、淡紫、灰色、黄、青と白の咲き分け、絞り、形としては一重のもの、八重のもの、紐のようなもの、八重で牡丹のようなもの、茅の葉のように細長く、尖ったものなどがあり、さらに全体の形が矮性や枝垂れのものなど、よくこんなものをこしらえたと思うばかりで、最盛期には愛好家が花合わせをして楽しんだという。あとで『玄同放言』に登場する、黄色い朝顔などは見たこともないが、このように記録に残っているということは、黄色い朝顔は珍種としても実際にあったわけで、テレビの放送大学で変化朝顔を取り上げたとき、いまでは黄色い朝顔は失われてしまったと解説していた。

この変化朝顔の中には雄蘂、雌蘂が花びらに変化してしまったものがあり、そういうものは雄蘂も雌蘂もないから種はできない。種がないのになぜ変化朝顔が出来るのかというと、突然変異したものを何代にも亙って配合してゆくと、次第にその突然変異が固定してゆく。その種を蒔いて蔓が少し伸びたところで、全体の姿や葉の形から変化朝顔になるものは分かるので、たくさん蒔いたもののなかから、そういうものを残して仕立てるのだという。

次に滝沢馬琴の『玄同放言』と、藤井高尚の『松の落葉』を見てゆくことにする。まず『玄同放言』は牽牛、朝貌として書いているので、その部分を敢えて全文紹介する。これはもともと牡丹について論じた続きで、ここだけ文字を小さくして書いてある。いってみれば牡丹論のお負けといえるものだが、そこで朝顔について述べていることは「因にいふ、この両三年来の刻本、牽牛品、及び朝顔通を閲するに、異様雑色、数十種を載たり。しかれども黒牽牛ハさら也、黄花も亦稀也。好むものゝ云、今年真黄処々に出づ、これ未曾有の奇品也といへり」として、『牽牛品』『朝顔通』を見ると、さまざまな朝顔が紹介されており、そのなかに黄色や黒い朝顔も含まれているといっているが、黒といっても真っ黒でないのはいうまでもない。

続けて「按づるに、元禄三年の刻本、俳諧物見車の巻端に、朝顔に黄あり白きありといふ腰句を出して、当時の俳諧師、似船、晩山、言水等数人に、上の五文字をおかせたるに、似船は末の世や云云、常牧ハ僧いかに云々、我黒は時世かな云云、晩山ハ蝕の夜や云々と五文字を冠らせたり。又如泉ハ、当分ハ五もじ置かね申侯と辞し、言水ハ朝皃に黄なるは稀也とのミいひて五文字を置づ。方山ハ返答もせざりしよしを、その名の上に注したり。この事ハ北条団水が犢牛に飽まで弁じたれども、ここに要なけれバ贅せず。よりて思ふに、天和貞享のころ、牽牛花の流行せしことあるなるべし」と、朝顔の題で「ものはづけ」をしたことが書かれている。

そして「もししからづば、黄花ハ今も稀なるに、当初あるべうもあらづ、あらずば、黄あり白ありといふべからづ。元禄の椿、百椿譜今なほあり。宝永の牡丹ハ、牡丹論談に輯録し、寛政の橘ハ、橘品論とかいふもの出たり、只朝皃のミ、当初書おけるものを見ず。今、朝皃をめづる人、ここらに考察ありやしらづ、縦ヒ今にして真黄なるものを得たりとも、元禄以来の二の町なり。彼隋唐の世に、牡丹に黄花浅紅のものなしといへる、と同日の談なるべし。件の物見車ハ、柳淵歩雲といふもの、独吟の歌仙を、当時高名なる俳諧師、二十余人に判を乞ひ、これに自評を加へつゝ、その巧拙を弁論せり。団水が犢牛は、物見車の返報なり」とあり、元禄三年刊、柳淵歩雲の『俳諧物見車』を引き、「朝顔に黄あり白きあり」の上五をつけさせた話を紹介している。

それは当時の俳人と朝顔を絡ませたこぼれ話ともいうべきもので、後段は黄色い朝顔を巡って椿を論じたもの、牡丹を論じたもの、椿を論じたものはあるが、朝顔についての特別な論文はないとして、朝顔の愛好家は椿や牡丹、橘のような、深い考察があるのだろうかといっている。これは江戸期における俳人と朝顔の一挿話だが、「朝顔に黄あり白きあり」という出題に対し、素直に上五をつけるもの、勝手にそんな題を出しても知らないと旋毛を曲げるもの、言水のように付句をしないで文句をつけるもの、頭から無視して知らぬ顔の半兵衛を決め込むものと、各俳人の性格がそのまま出たような反応が面白い。そんなところはいまの模範的な句座と違って、それぞれがそれぞれの個性を押し通し、座としてもそういう個性の違いを許容しているのが分かる。いまの句会で兼題を出され、このように勝手な反応をしたら座が白けてしまうから、そんなことは許されないだろう。

ここで見るように『玄同放言』は、全編に亙って句読点を細かく施しているのが奇異に見える。私から見れば少なからず違和感があるが、句読点の打ち方は人によってそれぞれだから、私の文章のほうがよほどおかしいという人もいるだろう。どこで、いつ読んだか忘れたが、句読点を打つ長さ、短さはその人の肺活量に関係があるのだそうだ。戦後の作家に私から見ても文節が異常に長く、一頁で二つか三つくらいしか句読点を打たない作家がいた。石川淳だったか阿部公房だったかと思うが、うろ覚えだから違うかも知れない。読んでいて息が続かなくなるほどだったから、たしかに肺活量が関係してくるかも知れない。ただ、それとは別に一般的な傾向として、昔のほうが今より文節が長かった。最近は文章をぶつぶつと細かく切り、頻繁に改行するものが多いが、そのように短くなったのは肺活量如何ではなく、いまという気ぜわしい世相と大いに関係があるような気がするし、全体に気が短くなってコセコセしているのかも知れない。

藤井高尚の『松の落葉』は、滝沢馬琴の『玄同放言』とは対照的に句読点がない。江戸時代の文章としては別に珍しくもないが、「弁慶がな、ぎなたを持って」式の読み方になりやすいから、読む場合の便を考えて適当に句読点を補足した。「あさがほとハあしたに咲くかほ花をなべていへるにて、ひとつの草の名にハあらづ。そのよしつぎつぎにときあかすべし。まづ新撰字鏡に桔梗(加良久波)又云(阿左加保)とあるもその證なり。からくはといふが正しき名にて、あしたにさくうつくしき花なれバ、あさがほともいへるなり。今の人、牽牛子をのミあさがほとおもへるハたがへり」として、「あさがほ」とは朝に咲き、夕べには散ってしまう一日花、貌花の総称であって固有名詞ではないから、いまでいう朝顔、牽牛子だけを「あさがほ」だと思ったら、それはとんでもない間違いだとしている。

続けて『万葉集』十の巻にある、「あさがほハ朝露おひてさくといへどゆふかげにこそさきまさりつれ」を引き、「といへるも桔梗なり。牽牛子ハゆふかげに花のさくことなし。桔梗のはなハあささき、ひるしぼミて、ゆふかげに又はなやかにさくものなれば、夕かげにさきまさるやうにはいへるなり。源氏ノ物語あさがほの巻に、かれたる花どもの中に、朝がほのこれかれにはひまつハれて、あるかなきかに咲てとあるハ牽牛子なり」とある。つまり、『万葉集』の短歌として知られている、「あさがほは朝露おひてさくといへどゆふかげにこそさきまさりつれ」でいっている「あさがほ」とは桔梗のことだから、朝に咲いて日中は生気がなくなっても、夕方には元気をとり戻す。それに対して牽牛子は夕方には花が散ってしまうから、元気をとり戻すことなどはない。また、『源氏物語』「あさがほの巻」に出てくる「あさがほ」は、蔓があちこちに巻きつくというのだから牽牛子、いまの朝顔だといっているが、それに対して『和歌布留の山不美』は同じ短歌を引いて、この「あさがほ」は木槿だとしている。万葉集でいう「あさがほ」は、桔梗か木槿かという乱れがあることになるが、これについては『和歌布留の山不美』のところでまた触れることにする。

ということは『源氏物語』でいう「あさがほ」は牽牛子、いまの朝顔に間違いないが、『万葉集』の短歌に出てくる「あさがほ」は桔梗または木槿だから、「あさがほ」を桔梗と木槿に限定してしまっているという、「あさがほ」の本意からすれば間違った論で、そこから『万葉集』の「あさがほ」は桔梗であるとする説、木槿であるとする説が入り乱れて混乱してしまう。「あさがほ」の本意は桔梗と木槿だけでなく、たくさんの花があるからだ。それは草花であるか木花であるかを問わず、美しい一日花はすべて「あさがほ」と呼ぶことが本意であることによる。

少し長くなってしまうが、続けて『松の落葉』を引く。「此草ハ野山におのづから生ることなきハ、から国よりたねのわたり来て、ひろごれるにぞあらん。其わたり来つるハ、今の京のはじめのころなるべし」として「あさがほ」の名称について問題の核心に迫る。「さて朝がほといふこゝろをくはしくいはんとす。いにしへかほ花といひしは、かほのすぐれてうつくしきはなの事なり。かほといふは、今の世にかほかたちといふ意なり、かほかたちのすぐれたる人を、中ころにハかたち人といひき、それと同じこゝろなり」【ここで「あさがほ」について詳しく説明すると、昔、「かほ花」といったのは美しく咲いた一日花のことである。その「かほ」というのは容貌のことだが、中世には容貌のすぐれた人のことを、「かたち人」といった。それは人間と花の違いこそあれ、同じことなのだ】という。

「されば何にまれ、朝さきてかほのすぐれたる花をめでゝ、あさがほといひはやしたるにて、花の名にはあらづ。桔梗もはなのあしたにさきてうつくしきゆゑに、めでゝあさがほといひしにて、此草の正しき名にあらざることハ、新撰字鏡に又云、阿左加保としるせるにても知られたり」【そういうことだから、それが何であれ、朝に美しく咲き、夕べには散ってしまう花を「あさがほ」と賞讃していったもので、その花の固有名詞ではない。桔梗の花もそれと同じ方程式だから、その花を賞して「あさがほ」といったのだ。だからこの草の正しい名でないことは、『新撰字鏡』に桔梗(加良久波)又云(阿左加保)】と書かれていることからも分かる】という。

そして「牽牛子のわたり来てハ、これもあしたにうつくしき花さけバしかいひ、槿花もさやうなればあさがほとはいへるなり」【後から日本へ入ってきた牽牛子も、朝に美しく咲き、夕べには散る花だったので「あさがほ」の仲間入りをした。それは木槿も同様である】とあり、これが「あさがほ」というものの大前提となる。それが木であろうと草であろうとそんなことには関係なく、朝に咲いて夕方には散ってしまう、あるいは凋んでしまって、翌朝にまた同じ花が開くことのない一日花、それが「あさがほ」であって、本意からいえば二日以上咲くものや、一日花であっても美しくないものは、その美しさの基準をどこに置くかは別問題として、それはもはや「あさがほ」ではない。

『松の落葉』はさらに続く。「蕣も和名抄に和名木波知須、朝生夕落也といへるに、毛詩にてハふるくよりあさがほとよめり」【蕣は『和名抄』によると「木波知須」ともいうが、これは朝に咲いて夕方には散ってしまうから、『毛詩』にも古くから「あさがほ」として詠まれている】といい、『和漢朗詠集』『和名抄』『毛詩』などを引用し、「これらを思ひわたしてあさがほとハ、あささく花のかほばなをいへるにて、ひとつの草の名にはあらざる事を、いよいよおもひさだむべし」【だから「あさがほ」とは固有名詞、つまり花の名ではなく、花の美しさを称えた言葉だから形容詞であり、また、讃嘆詞でもあって、その対象となるものは、一種類だけではないことを弁えなければいけない】と述べているが、それにはまだ続きがある。

『拾遺集』を引き、「あさがほ」の名称が乱れた原因である源順に言及する。「拾遺集の物の名にも桔梗、朝顔、牽牛子と三つ出せるハ、あさがほハ桔梗にも牽牛子にもかぎらざれバ、ことにしるしたり。かくさだかにしられたる事なれど、牽牛子ハ中ごろにひとの国よりわたり来つるものゆゑに、和名のなけれバあさがほとのミ世にいひあへれバ、源順朝臣も此草の名なりとのミ心えあやまりて、和名抄に牽牛子(和名阿左加保)とかゝれしより、たれもたれもさなめりとおもひて、さとる人なかりしにやあらん」と、順が勘違いして誤りを犯した経過を説明している。

「あさがほ」とはいまでいう朝顔、牽牛子だけではなく、桔梗、木槿、昼顔その他、数えきれないほど多く存在していた。つまり、一日花のそれらを総称して「あさがほ」といったのだから、固有名詞ではなく讃嘆詞だった。それはよく知られていたことなのに、後から入ってきた牽牛子にはまだ日本名がなかったから、世間ではこれも便宜的に「あさがほ」と呼んでいた。ところが源順は、この牽牛子の日本名が「あさがほ」だと勘違いして、『和名抄』のなかで「牽牛子、和名阿左加保」と断定して書いてしまったから、当時の最高権威、あれだけの人がそういっているのだから、それに間違いないのだと、ごく一部の人を除いてすべて丸呑みにしてしまった。この一文で諸説入り乱れている朝顔論争も、すべての疑問が氷解するのだが、この藤井高尚の文章がもっとも説得力がある。日本の各文献はみな源順の『和名抄』を拠りどころとしたから、一挙に乱れてしまった。

源順の勘違いが原因で乱れてしまったということは、民衆は時代を超えて権威に弱い側面はあるにしても、荒唐無稽な説ではいかに権威に弱いといっても、それでは民衆も納得しない。やはり貌花の代表としてはいまでいう朝顔が、いちばん相応しいという暗黙の諒解があればこそで、だから寺島良安がいうように「真の朝顔は牽牛子が相当している」ということになるし、また、そういうところが源順をして勘違いさせた原因でもあるのだろう。それにしても権威者のいうことは頭から信じて疑わないのもよしあしで、情報を受け取る側にも自主性が要求される所以である。

ということは貌鳥や色鳥も同じ方程式で、「あさがほ」とは木槿だ、桔梗だ、いや昼顔だなどと騒ぐほうがおかしいということになる。ただ、先にも書いたが、そのことと「万葉集でいうあさがほ」とは何かという問題は、次元の違う話だということは弁えておく必要がある。貌鳥も講談社『日本大歳時記』によれば、「八雲御抄などですでに諸説、異説があるといっている程で、正体を決めがたい鳥である。中西悟堂によれば、かっこう説が妥当だという」と山田みづえ氏が解説しているから、これに類した議論は朝顔や鳥だけではなく、ほかにもあって、たとえば平安朝時代の「きりぎりす」はいまの蟋蟀であり、松虫はいまの鈴虫であり、鈴虫はいまの松虫であったものを足利義満が間違え、権力者の間違いを指摘する人がいないまま、一同がそれに盲従した結果、まず関東でそれが定着し、ひいては全国にその誤りが広まってしまったのも、まったく同様である。

大勢の家臣の中には当然、万葉時代でいう「きりぎりす」はいまの蟋蟀であり、松虫と鈴虫が取り違えられている、ということを知っていた人はいたと思うが、そこはやはり「ご同役、御身大切でござるぞ、雉も鳴かずば撃たれまいにと申すでござろう」ということなのだろう。余計なことをいって権力者に逆らったら、なにか事があったとき的にされてあとが恐いわけで、そういうことは鈴木宗男の例を引くまでもなく、いまだに世間ではいくらもあることだ。

どうせここまで外れたのだから、脱線序でに松虫と鈴虫、きりぎりすと蟋蟀について述べられている『松の落葉』の一節を紹介する。「まつむし、すずむしハ秋の虫のおほかる中に、声すぐれたりとてこれをふかくめでて、哥にもあまたよむなれど、むかしより哥にも文にも、その声のやうをかうかうとくはしくいひおかねば」【松虫や鈴虫はよい声で鳴くから、和歌にもたくさん詠まれているし、物語などにも書かれている。しかし、昔からの和歌や文章では、その鳴き声までくわしくいわなかったから】「かれハ松虫、これハ鈴虫と、たしかに声をききわきたまへる人すくなく、ただ名によりて人、まつむしといひ、鈴虫のふりいでて鳴などいふ事にぞありける」、【あの鳴き声は松虫ですよ、こちらで鳴いているのは鈴虫ですよと、その鳴き声を聞き分けたうえで聞いている人は少なく、取り違えていることにも気づかず、ただの思いこみであれは松虫だ、これは鈴虫だといって虫の音に聞きほれている人が多い】という。

本筋から離れたことだから、中略して結論へゆく。そんなわけだから、「りんりんとなくハ松虫、ちんちろりとなくハ鈴虫なり。さるを今の人は松虫をすずむしといひ、鈴虫をまつむしとこころうるもあり」【りんりんと鳴くのは松虫で、ちんちろりと鳴くのは鈴虫である。それなのに今の人は松虫の鳴き声を聞いて鈴虫だといい、鈴虫の声を松虫だと思っている】ような始末だから、「ざれ哥にも〔よるハ松虫ちんちろり〕とうたふなどひがごとなり」【流行り歌にまで「夜は松虫ちんちろり」などと取り違えたままいっているが、そういう人は自分が間違えていることにも気がつかない】としている。虫については稿を改めて書きたいと思っているが、いまの健康状態ではどうなることやら、甚だ心許ない。
まえのほう、『古事類苑』のところで、朝顔の文献を挙げると書いた。そこで『古事類苑』に引用された各種文献の、主なタイトルだけをここに挙げておく。『本草綱目啓蒙』『和名抄』『塵袋』『松の落葉』『大和本草』『和漢三才図会』『草木六部耕種法』『草木育種』『嬉遊笑覧』『玄同放言』『農業全書』『朝顔通』『甲子夜話』『福富草紙』『万葉集』『拾遺和歌集』『源氏物語』『梅花無尽蔵』『駿台雑話』『朝がほ水鏡』『朝顔図譜』『朝顔三十六花撰』ほかということになる。このなかでは『塵袋』『松の落葉』『和漢三才図会』『嬉遊笑覧』『玄同放言』『甲子夜話』などが面白そうなので、国会図書館、古典籍資料室のものを複写してきたが、国会図書館にはまだ面白そうな本がたくさんある。しかし、時間にばかり追われて、まだ見る機会がないのは返す返すも残念である。

『塵袋』もいっていることは『松の落葉』の論調に近い。これも句読点がないので、読みやすいよう適当に補ったうえで当て字も一部直した。「槿花ハアサガホノ花カ、別ノ物カ」というタイトルで、「アサガホニアマタノ名アリ、明花ト名ヅケ、日及ト名ヅケ、赤菫ト名ヅケ、又ハ胡菌ト云フ、又、蕣ト云フ。但シアサガホトムクゲトハ、アシタニサキテ夕ニオツル物也、是故ニ二ツノモノノ名、ミナマギレテカヨヒモテリ。潘岳ガ胡菌ノ賦ト云フニハ、ムクゲヲ思ヒテ云ヘルニヤ。彼ノ賦ニ曰フ胡菌トハ所謂木槿、或ヒハ日及トモ謂フ。郭璞曰ク李樹、棗ニ似、朝ニ生レテ夕ベニ落ツ可シ、日及トモ曰フ云々。スモゝ、ナツメニニタリト云ヘルニテシリヌ、木ノスガタナリトハ、ヨノツネノアサガホノツルニハ非ヅトキコユ。此ノ辺ノムクゲハ、スモゝニニタリトモオボエズ、所ニシタガフニヤ、ヒサゴノ花ヲ夕顔ト云フニ対シテ、牽牛子ノツルヲバ朝顔ト云ヒナラハセリ」とある。

ところが、ここまではよいとして、それに続けて「今ハ又ムクゲニ通用シテ、槿花トモ云フナルベシ」とあるのは本意論からいえば正しいのだが、「今ハ」と断られると、昔はそうではなかったというニュアンスになって、本末転倒したものいいになってしまう。ちょっと紛らわしいものいいだから、現在の観点からすれば、無用の混乱を招くものとしていただけない。共に朝咲いて、夕べに散るところから紛れたのだろうといっているが、これは紛れたのではなく朝に咲き、夕べに凋む貌花の総称が「あさがほ」である。それが次第に婉なるをもって木槿に代表され、さらに時代が下るに従って、また、源順の勘違いもあって代表の座を現在でいう朝顔、牽牛子に譲ったものである。

『甲子夜話』は「あさがほ」の名称を問題にせず、変化朝顔について述べている。これはいまでいう朝顔、牽牛花が「あさがほ」として誤られ、その誤りが定着してしまった後だから、「あさがほ」の名称の乱れには言及していない。「又近クハ牽牛花ノ変甚シフシテ、花色ノミナラズ、葉ノ形状モ変ジテ柿葉、柳葉、楓葉、葵葉ナドゝ唱ヘ、イカニモ其呼所ノ如キ葉ナリ」とし、肥料や植替えの方法、葉を摘んだり、花を大きくするために蕾も一つにするなど、朝顔の栽培に憂身を窶す当時の愛好家について述べ、「只一花ノ輪ノ大キナルヲ互ニ戦ハス」という。当然、花ばかりではなく、変化朝顔の葉や矮性朝顔、枝垂れなどの姿全体も鑑賞の対象となる。それが松浦静山にとっては理解の枠外だったのだろう。

「花ノ品類ヲ賞スルハ聞ヘタリ。葉形ノ変ゼル、何オモシロカルベキヤ。人ノ好尚モカク迄ネヂケタルコトヨト、興醒ムルバカリナリ」と、読んでいるこちらが白けてしまうほど手厳しい。そしてさらにトーンを上げ、「其盆栽ノ形容、蔓生トモ見ヘズ、譬ヘバ鳥ノ翎毛ヲムシリ取シガ如ク、誠ニ見苦シク、見ルニ堪ザル計リナリ」とまでいって怒っている。矮性朝顔などは羽抜鶏同様の醜さというわけで、矮性朝顔を羽抜鶏に例えるのはいい得て妙とはいうものの、「誠ニ見苦シク見ルニ堪ヘザル計リナリ」とまで切り捨てられると、好事家からクレームがつくのではないかと、他人事ながら余計な心配をしてしまう。俳句をやっていると羽抜鶏は絶好の題材だから、俳人のもっとも好むところで、もはや手垢まみれだが、俳句をやらない人にとってはただ醜いだけのものなのだろう。

静山はそこまでいってもまだ腹の虫が納まらないらしく、「牽牛花ノ朝ニ開キ、昼ハ萎ミ果ツル物ナルヲ、頃刻ノ観ニ供スル迚、半年余ノ人力ヲ費スハ、余リトイヘバ了簡モナキ浅ハカナル娯楽ニテ、イカニモ今ノ世ノ、人心相応ノ玩物ヨト思ヘバ、長大息シテ其花モ見ラレヌヤウニ覚ユ。此ノ巧思ト人力トヲ以テ、五穀ノ中何ナリトモ新タニ作リ出サバ、後世民用ノ助ケトナル嘉穀ノ別種モ生ズベキニヤ」といっている。おでこに十文字型の血管が浮いて、切れる寸前の状態が眼に見えてくるような記述である。まあ抑えて、抑えてといいたくなるが、松浦静山のいうことも分からないことはない。分からないことはないが、その伝でゆけば夏炉冬扇に遊ぶ俳人は、総懺悔しなければならないだろうし、その末端に連なる私などは無用の長物どころか、この世に害悪を流す存在として、真っ先に抹殺されても文句一ついえない。

ここで一つお断わりする。ここに引用した『甲子夜話』は孫引である。ただ、孫引といっても現代の本から引いたものではなく、さりとて他の文献のように原典まで遡ったものでもない。国会図書館蔵の『古事類苑』にこの『甲子夜話』が引用されており、私はそれを孫引したという次第である。その経緯を記すと、国会図書館、古典籍資料室の古書目録で『甲子夜話』を見つけ、全巻コピーを依頼したところ、半月後に送られてきたものはなんと「坐敷の契話」「悋気の争」「牀の睦言」「真の仕打」の四話からなるもので、「あさがほ」とはなんの関係もない。その題名からも分かるように世話物で、内容まできちんと確かめずにタイトルだけで記号番号を記入し、そのコピーを依頼したほうが悪いから、国会図書館に文句はいえない。文句はいえないが、これでは「あさがほ」について語る場合、話にならない。

それにしても中味は全然別で、タイトルだけ同じ本があるとは夢にも思わなかったから、送られて来たものを見た時は、ただぽかんとしてしまった。そこで日を改めて国会図書館へゆき、詳しく聞いたところ「ああ、それでしたら『かつしやわ』ですね。あなたが申し込まれた記号番号の本は『きねえねやわ』です」ということで、ちょっと油断するとこういうことになる。ルビが打たれていないから、ごく自然に「きのえね」と読んでしまったが、まさか「かつし」と音読させる本があったとは…、音読と訓読の違いでこういうことになる。コピーを依頼する前にしっかりと確かめるべきだった。

仕方がないから改めて「かつし」のほうのコピーをお願いしますといったら、松浦静山の『甲子夜話』はこちらにはありません、それがあるのは東京近辺では早稲田大学で、あとは広島大学にありますという。広島大学では距離的な面からいってお手上げだし、早稲田大学は東京にあるといっても、そこへいって『甲子夜話』を見せて下さい、コピーも欲しいのですが、などといったところで、図書館でもない大学が、大事な本をどこの馬の骨とも分からないものに見せてくれる筈がない。相手にもされずに門前払いされるのは目に見えたことだから、そこで止むなく『古事類苑』に引用されたものを、孫引せざるを得なかったということである。
そこへゆくと緑園書房、喜多村信節『嬉遊笑覧』は「誠ニ見苦シク見ルニ堪ヘザル計リナリ」などと無粋なことはいわず、いかにも江戸っ子らしく、もっと洒落れた朝顔の楽しみ方をする。「其後、朝がほを多く作り、さまざまの花出来しかば、この度は六枚折の小屏風を、葦簀にて作り、細き青竹、処々節ある処にて、竹の花生のやうに口を切つて、節毎に水を貯へ、朝がほの蔓の先葉、一寸ちぎりたると花一りんを、花生の口ごとに挿み、これを件の屏風にかけならべ」と、聞いただけでも涼しそうで、しかも洒落れた楽しみ方である。

葦簀で六枚折の屏風を作るだけでも大変だが、そういうことをする人は、それを作ること自体が楽しいのだろう。おまけに細い竹筒で花活けを作って、その屏風へ並べて掛けるなど、気の短い人ではそんな気にもならない。そして「是も人に貸して見せたり。この屏風はあまた有りき、文化五、六年の事なり」というから、だいたい西暦一八一〇年ころの、まったくもって手数がかかる割には短時間しか楽しめない方法で、そこがまた江戸っ子の江戸っ子たる所以なのだろう。松浦静山がそんなことを知ったら、またぐんと血圧が上がりそうな話である。変化朝顔もそれはそれでよいが、私のようないい加減派にとっては、こちらの楽しみ方のほうが遥かに魅力がある。

次の文献は『和歌不留の山不美』で、『松の落葉』のところでも触れたが「あさがほは朝露おひて咲くといへど夕かげにこそさきまさりつれ」という同じ短歌を引用し、そこで詠まれている「あさがほ」を『松の落葉』では桔梗とし、ここでは木槿としている乱れである。まず、「朝顔」として「あさがほは槿花をも牽牛子をも、又桔梗をもあさがほとよめる事、たヾかれる物に見えて説く、さだかならず。されど中比より大かた牽牛花をよめると思はしき文おほかれば、詞もさ心得て見るべし」とある。中世以降は牽牛子、あさがほイコール朝顔という誤りが固定してしまい、いまでいう朝顔を詠んだ短歌が多いから、そのつもりで見てゆかなければいけないとしているから、ここまでならばなんの問題もない。

続けて各種の題を挙げているが、これらの題を取り合わせて短歌を詠むのがよろしいのだという。その題というのは季語ばかりではなく、短歌で朝顔を詠むときに付合せる詞といったほうがよいだろう。花の朝がほ、さかりほどなき、花のひもとく、日影をまつ、露の結ぶ、おきてみる、葉がくれ、日影をしらぬ、夕影またぬ、夕影まつま、日影にうつる、しののめ、有明の月、朝露におく、露にあらそふ、雲のまがき、柴の袖がき、竹のまがき、かぞふる花、はかなき影端、こぼれてかゝる、しほれてかゝる、花のすがた、露おひて、しぼむ、まがきをうづむ、竹にまとふ、あだなる、露よかげなる、などという詞があって、「あさがほは朝露おひて咲といへど夕かげにこそ咲まさりつれ」を読み人知らずとして挙げている。

問題になるのはそれに続けていっているところで、「此哥万葉集云、槿花也、牽牛花にあらづ。槿花は朝に咲て夜に成て萎めり。朝ごとに新花のとく咲に、朝皃の名はおひしならんと云り」とあり、万葉集でいう「あさがほ」とは桔梗である、とする『松の落葉』と違って、この『和歌不留の山不美』は木槿だとしている。それが同じ短歌を巡って桔梗と、木槿に分かれているところが問題となるわけである。そして「春日野のゝべの朝がほおもかげに見へつゝ妹はわすれかねつも」という家持の歌を挙げ、「此哥、万葉八に富岡の野べのかほ花とあり。伊勢歌集にも出でたるはいとおぼつかなし」といっている。

その後に続く七首の短歌は省略するが、桔梗の項では「きちかう」として、「きちかうはことごとくこゑなれば影にさしよむべくもあらづ。又、和名抄にありのひふきとあれど、名のことなれば大かた物の名にたち入てよめり。また新撰字鏡にあさがほと有」とあり、その点は前記した通りである。桔梗は「あさがほ」のような表意、訓読ではなく、「きちこう」という表音、つまり音読で、別名を「ありのひふきぐさ」ともいうとしている。さらに「容花」という項目があって、「かほばな」「かほが花」として、「一種の花の名にはあらで、花のかほよきをたゝへていふ。鶴居翁は槿花ならんといはれたり。又一説、今云ひるがほの花也ともいへり」といい、前段は「あさがほ」の本意を踏んでいるが、後半で木槿、昼顔のことだろうとしているのは、まだそこに「あさがほ」というものの本意が、本当に立て分けられているとはいえない部分があり、こちらの短歌は四首しか挙げられていない。この本がいつころのものか、それは判然としないにしても、源順の勘違いがこのへんでも尾を引いて、混乱していたのが読み取れる文章である。

次の『和漢三才図会』へゆくまえに、短いものだからここで『三才図会』を引く。そこでは「桔梗」の項に「夏開花紫碧色頗似牽牛子」【夏に咲く花で色は紫紺、牽牛子に似ている】とあり、薬用植物であるとしている。桔梗の花が朝顔と似ているといわれても、ン?と思ってしまうが、そのころの野生のもの、原種に近い朝顔の花はそのようなものだったのかも知れない。そして牽牛子の項では、「花微紅帯碧色似鼓子花而大八月結実」【花は紺色の中に微かな紅があり、鼓子花に似ているが、もうすこし大きく、八月に実を結ぶ】と述べている。さらに「段成式酉陽雑俎云盆甑草即牽牛子也」【段成式が『酉陽雑俎』で、盆甑草といっているのは牽牛子のことだ】といい、その種について「秋節後断之状盆甑其中子似亀蔓如山芋」【秋節を過ぎたころにこれを割ると、盆甑のような形で亀に似ており、その蔓は山芋のようだ】と説明し、あとはその薬効について述べている。

『和漢三才図会』は「潅木類」で木槿、「毒草類」で牽牛子と分けている。これは江戸時代に書かれたものだから、朝顔とは牽牛子のことである、という誤認識が定着してしまった後で、木槿や桔梗その他を絡めていないから、そのへんは分けて書いている。そういうことからいえば『万葉集』の「あさがほは朝露おひて咲といへど夕かげにこそ咲まさりつれ」について、特別に触れていないのも当然だろう。そのころはもう朝顔、桔梗、木槿その他として豁然としていたからだ。木槿の項では和名無久計として朝開暮落花、花奴玉蒸、椴、藩籬草、櫬、蕣、日及と木槿の異名を挙げている。そして「按木槿花有数品単弁而大者名蕣英以賞之」【木槿には数種類あって、一重で大きいものを蕣英といい、これは鑑賞に値する】という。

そして「総木槿花朝開日中亦萎及暮凋落翌日不再開」【総じて木槿の花は朝に咲き、日中も凋まないが、夕方になると凋んで落ち、同じ花が翌日また咲くということはない】といい、「寔此槿花一日之栄也然其花僅一瞬故名蕣之説者非也」【まことに木槿の花は一日の栄えで、花は一瞬だから蕣というとの説があるが、その説は間違っている】として「詩云有女同車顔如蕣華者称其艶美耳」【『詩経』に女あり、車を同じゅうす。顔は蕣花の如しというのはここから来ており、艶麗の形容なのだ】として、「盛短旋花金銭花壺盧白粉草牽牛花黄蜀葵茉莉木芙蓉扶桑沙羅樹棗花皆然」【盛りの短い花としては昼顔、金銭花、夕顔、白粉草、牽牛花、黄蜀葵、茉莉、芙蓉、扶桑、沙羅双樹、棗の花など皆そうだ】としている。

そして「あさがほ」で括られる各種の花を挙げたあと、「而銀杏花一開即落比此等花即木槿可謂久者矣自古相誤称朝顔矣真朝顔牽牛花相当矣」【銀杏の花は咲くとすぐに散ってしまうが、それに比べると木槿の花は長持ちするほうだ。昔から誤って朝顔といっているが、本当の朝顔には牽牛子が相応しい】とある。ここでいう「本当は牽牛子のほうが『あさがほ』というに相応しい」という認識が、例えそこにはっきりとした目的意識がなかったとしても、当時の日本人に共通するものであったことは疑う余地はない。事実上「本当は牽牛子のほうが『あさがほ』というに相応しい」と認識された瞬間に日本での木槿は、「あさがほ」代表の座から転落したことになる。まさに移ろい易いのは人気というものである。ただ、木槿のことを「古くから誤ってあさがほといっている」という部分の、「誤って」は寺島良安の間違いで、「あさがほ」の代表であった木槿が勘違いと時代の推移によって、代表の座を牽牛子、いまの朝顔に譲ったもので、古くは木槿も「あさがほ」といったのは誤りではないから、それをいうのであれば「木槿も古くは『あさがほ』といっていた」と書くべきだったろう。そして「あさがほ」に含まれるものとして、前記の通り昼顔以下を挙げている。

牽牛子の項は和名阿左加保として、異名の黒丑、白丑、盆甑草、草金鈴、狗耳草を挙げ、『本草綱目』を引いて解説しているが、それぞれに挿絵がついており、毒草類の牽牛子は竹の垣根に絡みつく朝顔の絵があり、「此薬初出田野人牽牛謝薬故名之」【この薬は最初、農夫が薬代として牛を牽いてきたので、牽牛子という名がついた】と、その名の謂れを述べている。あとは牽牛子の薬効について「利大小便除虚腫落胎乃瀉気之薬也不脹満不大便秘者不可軽用」、【大小に拘らず便通をよくするので、腹が張ったとき飲むのはよいが、下し薬だから腹が張っていないのに飲んだり、便秘でないのに手軽に飲んではいけない】といっている。

そして「朝がほは朝な朝なにさき替へて盛り久しきものにぞありける」という短歌を添え、「有朝顔昼顔夕顔之三品朝顔〔牽牛花也〕昼顔〔旋花也〕夕顔〔瓠瓜之花〕皆似其花盛時称之」【朝顔、昼顔、夕顔の三種類があって、朝顔は牽牛花、昼顔は旋花、夕顔は瓠の花で、それぞれの花が一番よく咲く時間帯でこの名がついている】と、この部分は書かれた時代が時代だけに混同していない。この『和漢三才図会』は、朝顔が牽牛子と名付けられた謂れについて述べている。しかし、その出典には触れていないが、『事物紀原』には出典も記載されている。この『事物紀原』は明の胡文煥編『格致叢書』に収められたものと、清の張澍編『惜陰軒叢書』に収められたものと、単独で出ているものの三種類がある。私が複写してもらったのは、胡文煥の編纂になる『格致叢書』に収められたものだが、明、清の時代は古籍校注学がもっとも盛んな時で、その校注レベルは非常に高く、すぐれたものが多いという。

その『事物紀原』「牽牛」の項には、「本草補注曰始田野人牽牛易薬故以名之」【『本草』の補注によれば、農夫がこの薬と牛を交換したので、牽牛子という名がついた】という一行がある。日本でも昔は農家が野菜などを薬代の代わりとする例はあったようだが、牛を牽いていったということは、朝顔を原料とするこの薬はその当時、よほど高い薬だったのか、それまでに溜った薬代、プラス牽牛子の分として牛を渡したのかは分からない。いずれにしてもこれは中国での話だから、時代や国情の違いのようなものはある。医家としても牛で支払いされては困ったろうと思うが、案外、往診のとき、車の代りとしてその牛に乗ったり、牛車としていたのかも知れない。私などはそういう風景のほうが好ましいが、牽牛子は分類としては毒草で、毒と薬は表裏一体のものである見本は、なにも朝顔だけの話ではない。

ここまで「あさがほ」についていろいろな文献を見、それについて私なりの感想を綴ってきたが、いずれにしても中国で花といえば梅だった。その考えは日本にも伝えられていたから、『和漢三才図会』にも「本朝古者称花者梅也中古以来唯称花者桜也」【日本では昔、花といえば梅だった。それが中世以降になると花は桜となった】とあり、好文木という梅の異名を挙げている。昔の日本でも花は梅だったものが、遷都を契機として花は桜に変わってしまったのも、本意が忘れられたという点では「あさがほ」と軌を一にしている。

梅を花の兄というのはもともと、「花といえば梅」だったからだというが、これはなにも花の場合だけではない。何にしても時代とともに万物は揺れ、動き、絶え間なく変化してゆく。形あるものはもちろんのこと、人然り、花然り、言葉然り、すべてのものは変転し、移ろい、興亡し、今日の真理は明日も真理であるとはいい難いものがある。ものみな水の流れのように、止まるところを知らないものだが、かくいう私自身も伝統俳句に近いところで、有期定型遵守派の一人として、守旧派といってもよいのではないかと思っているが、誤解を恐れずに敢えていわせてもらえば季語千年、二千年の歴史も、季語の本意も、成住壊空の法則にあっては究極のところ、空理空論に過ぎないのではないかという感が深く、すべてが空しく響く。そのような立場から考えれば季語、あるいは歳時記というものを絶対視し、金科玉条のものとする神学論争に、何ほどの価値があるというのか、疑いの目を向けざるを得ないこのごろである。