2012年12月30日日曜日

2012年12月30日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(104)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(101)
       内山 思考   読む

俳枕 江戸から東京へ(104)

山手線・日暮里(その3)芋坂
文:山尾かづひろ
 

芋坂跨線橋










都区次(とくじ): 正岡子規は本の数が増え、本郷の常盤宿舎では手狭となり明治24年12月に駒込の下宿に移ったわけですが、たった3ヶ月で駒込からこの根岸へ移ってしまった。それは正岡家の経済的事情だとお聞きしましたが、いったい何があったのか見当もつきませんね。切羽詰まった事情というのは何となく分りますが。

ポインセチア燃えて女は語り出す 吉田ゆり

江戸璃(えどり): それほど単純な話ではないので、「羽二重団子」でゆっくり話を聞かせるわね。この谷中霊園の五重塔跡から芋坂を下って行くわよ。芋坂は彰義隊があらかじめ退路として予定していて、実際に退路として使い、坂下の「羽二重団子」で野良着に着替えて逃走したのよ。鉄道が通って芋坂は分断されたけれど跨線橋で坂の先まで行けるのよ。
都区次:跨線橋とはいっても古レールを組んだだけで、保線の人が通るような足場の様ではありませんか。下を列車がビュンビュンと通っているし、大丈夫ですか?
江戸璃: 昭和初期に出来て、俳人の立派な散策ルートなのよ。黙って付いてきなさい。

芋坂登り口










善き悪しきこの星に佇ち年詰まる 長屋璃子(ながやるりこ)
短日の影も残さず列車過ぐ    山尾かづひろ 



尾鷲歳時記(101)

507分の1の記憶
内山思考

霜の村に朝日転がり込んで来る  思考

確かに似ているかも













朝のニュースが松井秀喜選手の引退を伝えている。ああ、来るべき時が来たのだなと思った。 二十年のプロ野球人生だそうだから、日米通算507本塁打の彼の記念すべき第一号を十津川の実家のテレビで見た時、僕は39歳だったのだ。「行った!」ヤクルトの高津投手の球を彼が打った瞬間、僕は思わず叫んでいた。

長年テレビで野球観戦していると、ホームランはすぐわかる。鳴り物入りで入団した逸材とはいえ、高校を出たばかりの若者である。プレッシャーもあったろうにそのスイングの速さと打球を見上げながらの走り出しの格好良さと言ったら・・・・。僕はたちまち彼のファンになってしまった。

あれから二十年、僕の身の上には色んなことがあったけれど彼の放つホームランの一本一本が、その都度癒やしにも励ましにもなってくれた。たった一度、テレビの画面ではなく球場で生のホームランを見たことがある。ナゴヤドームだった。その日は中日の川上憲伸投手が好調で試合は一方的、尾鷲まで三時間もかかって帰る重苦しいイメージが強くなってきた九回、松井選手に打順が回って来た。しかし、たちまちツーストライク。「もうだめだ」と隣の妻に言った途端に「カキィン」とバットが快音を発したかと思うと、ボールはグングン伸びてライト席に突き刺さった。この表現はよく使われるが、本当にグングン伸びて突き刺さったのだ。あの嬉しさは生涯忘れない。

MVPを報じたスポーツ紙
妻の従兄は松井選手のホームランを何本も見ていて、その中にはやはりナゴヤドームで天井に当たって入ったのや、ヤンキースタジアムで一試合二本放り込んだのを目の当たりにしたという。でも僕にはその一本で十分なのである。2009年のワールドシリーズMVPにも歓喜した。録画してあるからその試合の大活躍はいつでも見られる。これからも僕にとって松井秀喜選手の背番号だった「55」は特別な数字でありつづけるだろう。

2012年12月23日日曜日

2012年12月23日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(103)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(100)
       内山 思考   読む

俳枕 江戸から東京へ(103)

山手線・日暮里(その2)谷中霊園
文:山尾かづひろ 

地蔵堂









江戸璃(えどり):駅の南口を左に出るとすぐに谷中霊園になるわよ。
都区次(とくじ):都立の霊園にしては寺院・地蔵堂があったりして変わってますね。

 手袋の赤が添えられ地蔵堂 畑中あや子

江戸璃:元は天王寺の境内だったのだけれど、明治維新に土地の殆どを新政府に献上して現在の谷中霊園になったのね。そのために元の形状が少し残っているのよ。霊園に入ってすぐに南北に走る広い道が「五重塔さくら通り」で、少し行くと、昭和32年に不倫恋の清算心中の放火で焼失した五重塔の跡地があるわよ。跡地の近くの霊園事務所で「谷中霊園案内図」をもらい著名人の墓めぐりをしてみましょう。徳川慶喜、佐々木信綱、上田敏、さらには長谷川一夫など、それだけで2、3時間はかかっちゃうわよ。

炎上する五重塔













冬ざれや根岸の路地を猫過(よ)ぎる 長屋璃子(ながやるりこ)
塔跡の謂れ読み入る綿虫と 山尾かづひろ 




尾鷲歳時記(100)

冬至は春の前触れ
内山思考 

冬籠どの時代まで戻ろうか 思考

一年で一番遅い夜明け

















今日(21日)は冬至。一年で最も昼が短く、夜が長い日である。僕が毎年この日を待つのは、次の日から少しずつ日照時間が増えるからである。言わばささやかな春の前触れの日と言える。別に夜が嫌いな訳でなく、明けるのが遅く暮れるのが早いから冬は好きになれないのだ。

昼は長い方がいい。とにかく、太陽が北半球に沢山当たる季節がやって来ようとしているのは嬉しい。で今日は何をしたかというと、まず朝の目覚めが、まだ薄暗い6時40分、これは10分の寝坊である。もぞもぞと起きて布団をたたんで、うがい手水に身を浄めたあと台所へ。10分の寝坊は朝刊を読めないというハンディを既にもたらしている。炭焼に行く日なので、弁当をこしらえなければならない。僕は他人に弁当を作って貰うのが苦手だ。

何故なら、永年朝食抜きで昼と夜に「がっつり」食べる生活だから、自分の好みの質と量を楽しみたいのである。並みの弁当は蓋を開けると悲しくなる。タイマーでさっき炊けたばかりの熱々ご飯をタッパーウェアへいっぱい詰める。これで二合。その上に乗せるおかずもほとんど決まっていて、真ん中に梅干し、左手前に漬け物、右手前に佃煮、左奥に尾鷲名物鰹の生節(生と言っても燻製)を包丁で削って醤油をかけたもの。右奥には塩と砂糖少々で味付けした玉子焼きである。時には、沖縄から届いた缶詰のランチョンミートのスパムを炒めることもあり、その日は昼がいつもにも増して待たれる。

炭窯からの冬景色












ポットに熱いお茶を入れている頃、娘が二階から下りて来て、「おはよー」「オハヨー」その後が息子、出勤の遅い妻はまだ寝ている。僕は7時10分に家を出る。あー、新聞読みたかったな。などと思いながら運転すること25分、炭窯に到着して肉体労働の始まり始まり。帰宅4時、新聞配達4時半あたりはもう暮れかかっていて、これが嫌なのだ。でも冬至だから、今夜ゆず風呂へ入ってさあ、明日から春へちょっとずつ前進。

2012年12月16日日曜日

2012年12月16日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(102)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(99)
       内山 思考   読む

俳枕 江戸から東京へ(102)

山手線・日暮里(その1)日暮里駅
文:山尾かづひろ 

日暮里駅南口










都区次(とくじ): 日暮里駅に着きました。これから子規庵へ向うわけですね。
江戸璃(えどり): その通りだけど、「さあ駅に着きました。さあ子規庵へ向います」。それでは「味も素っ気も無い」でしょ。面白い所を通りながら行くのよ。日暮里駅は鴬谷寄りの南口から降りるわよ。南口は駅舎の上に緑の三角帽子があるのですぐに分るわよ。この南口が出来て谷中霊園や天王寺に行くには随分と便利になったのよ。

駅屋根に尖がり帽子冬日濃し 大森久実

都区次: 元々は南口は無かったのですか?
江戸璃: そうなのよ。けっこう出来たのが遅くて平成元年なのよ。それまでは北口改札だけしか無くて、さらに西口(谷中側)から紅葉坂をだらだら歩いて行ったものよ。


悠悠と根岸に遊び日短し 長屋璃子(ながやるりこ)
駅を出てすぐに寺裏冬日向 山尾かづひろ 



尾鷲歳時記(99)

冬休み
内山思考 


雪慣れの姉が電話で笑うなり  思考


冬休みは炬燵で漫画をよく読んだ








年が明ければ還暦を迎えようというのに、今でもそろそろ世間では学校が休みだな、と思うだけで嬉しい気持ちになる。大人の鎧を着てヒゲを生やしていても中身は子供なのである。わが国には春、夏、冬と年に三度の長期休暇があるわけだが、昔から僕は、季節の違いだけではない感覚をそれぞれの休みに持っていた。

ず春休みは、父が中学教師をしていたため、転勤という一大事が突如やって来ることがあり、それを僕はいつも恐れていた。限られた日時の引っ越しだけでも大変なところへ、新学期への不安がのしかかって来るわけである。新しい学校の生徒たち、その数え切れない好奇の目に晒されるのは何ともいたたまれない。大した取り柄のない少年にはそれが恐怖ですらあったのだ。

結局、小学校で三度、中学で一度転校を経験した。しかし、いい思い出の方が圧倒的に多いのは幸せなことである。夏休みは必ず、実家のある十津川村で過ごした。従兄弟たちと山に登り、冷たい谷川で泳ぎ心ゆくまで少年期を満喫した感じがする。

その代わり、父と母は舅姑に気を遣いながら朝から夕暮れまで山仕事、畑仕事に精を出していた。僕たち子供は夏休みが終わって秋が来るのをとてもつまらなく思っていたが、両親は里を離れて日常に戻ることを喜んでいたに違いない。そして冬休み、これが一番ハンディが少なかった。

伯母(百歳)の形見のラジオ、
昭和の音がする
正月の前にまずクリスマスが来る。その当時はプレゼントもなければケーキも無い、ただ赤いソノシートの「ジングルベル」や「きよしこの夜」を聴いて雰囲気に浸るぐらいのものだったが、そういえば、一つだけ記憶にあるのは幼稚園の時、帰ろうとしたら下駄箱に色紙かなにかが入っていたことがあった。僕はサンタクロースの奇跡に胸踊らせながら駆けて帰り、「こんなん入っとった」告げると母は「そうか、良かったの」と微笑んでくれたのだった。五十数年前のクリスマス、僕たち一家はどんな夜を過ごしたのだろう。

2012年12月9日日曜日

2012年12月9日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(101)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(98)
       内山 思考   読む

俳枕 江戸から東京へ(101)

三田線に沿って(その16)正岡子規、常盤会宿舎を出る
文:山尾かづひろ 

日暮里駅









都区次(とくじ): 子規と言えば日暮里・根岸の子規庵と、まるで連想ゲームのように反応したくなるのですが、常盤会宿舎にはいつまでも居たわけではありませんよね。
江戸璃(えどり): 明治24年12月に駒込の下宿に移ったのよ。

 忙(せわ)しくも転居をしたる十二月 小熊秀子

江戸璃: ただし2月には根岸に転居しているのよ。だから駒込に居たのは3ヶ月間よね。
都区次:そもそも費用の安い常盤会宿舎を出たのはどういう訳ですか?
江戸璃:本の数が増えちゃって、常盤会宿舎では手狭になっちゃったのよ。
都区次:それにしても3ヶ月で根岸へ転居するとはどういう訳ですか?
江戸璃:これには正岡家の経済的事情が絡んで来ているのよ。現地の日暮里・根岸に行ってから話をしたくなったわ。山手線で日暮里へ行くわよ。
都区次:小腹が空きましたね。着いたら羽二重団子を食べませんか。
江戸璃:いいわね。

羽二重団子










芋坂の団子を買ひにうつた姫 長屋璃子(ながやるりこ)
煌として芋坂橋の冬灯 山尾かづひろ 



尾鷲歳時記(98)

師走二題
内山思考

結び目のどんどん増える師走かな  思考

旧知の石川日出子さんも
句集「直感」を上梓された












12月1日、大阪のホテルで関西現代俳句協会恒例の「忘年会&句集祭」が行われ、僕は和田悟朗さんの第十句集「風車」上梓をお祝いすべく出席した。しばらく大会にも出ていないので、席上、諸先生や先輩方に久し振りにお会い出来、それも有意義なことであった。

忘年会では和田さんの隣に座らせて貰って会話を楽しみ、数々のご馳走に舌鼓を打ったのだが、次から次へとコース料理が運ばれて来るのに、和田さんの皿の上に肉の塊がいつまでも乗っているのが気になって仕方ない。ああ、少し堅いから敬遠しているのだな、だったら頂こう、と思い「先生、それ食べ難いですか?」と聞くと、「え?そんなことないよ」と和田さんは左手の(左利き)箸を伸ばしてその肉を口に運んだ。そうだ、俳人・和田悟朗は大正12年生まれだが、身体同様に歯は無類の丈夫さを誇っている。ただ食べ方がゆっくりなのだということを思い出し、僕は意地汚い考えを起こしたことを密かに恥じた。

話題は大きく変わって、平成8年12月29日の朝日新聞三重版に次の記事が掲載されている。「日蓮座像から法華経・140年ぶりの修復で姿」、内容を要約するとこうだ。尾鷲市北浦町の妙長寺住職、青木健斉上人が、寺に伝わる日蓮聖人座像の汚れを落とそうと、名古屋の仏具店に修復を依頼したところ、座像の体内から法華経の巻物が見つかった。それには「文政十二(1829)年六月十九日」の日付が記されてあった。寺の記録によると、この座像は安政二年(1855)に三度目の修復がされている。

現代版タイムカプセル
の記事
つまり取材当時140年ぶりの発見だったわけである。このニュースからしばらくたって、僕は青木上人からある提案を頂戴した。あの座像に巻物と現在の檀家の名を入れて再び閉じるのだが、貴方の俳句も一緒に入れないかと言うのだ。僕は驚いたがすぐに了承した。その時、確か五句作ったが、どんな俳句だったのかもう忘れてしまった。

2012年12月2日日曜日

2012年12月2日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(100)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(97)
       内山 思考   読む

■ 私のジャズ(100) 最終回       
       松澤 龍一   読む


※松澤さん、楽しい読み物を有り難うございました。ジャズがグッと近くなりました。またの登場を待ち望んでいます。(IT部)

俳枕 江戸から東京へ(100)

三田線に沿って(その15)正岡子規・高浜虚子
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし

本郷 東京大学














都区次(とくじ): 松山の虚子は本郷・常盤会宿舎の碧梧桐を介して子規と文通するようになったのですが、具体的にはいつからですか?
江戸璃(えどり): 明治24年5月23日付ではじめて子規に手紙を送ってね。「文学界」への情熱の一端を吐露して、子規に「教導訓戒」を願ったのよ。

 黄落の東大構内訪ぬれば 熊谷彰子

江戸璃:子規は28日に「国家の為に有用な人となれ」と、早速返信激励したのよ。虚子はこれに感激。子規の「美しい文字」と「立派な文章」は青年虚子の心をひきつけてね、傾倒の念を深めていくのよ。以後文通による交渉がはじまったわけ。この往復書簡は、正岡家に保存された虚子書簡42通、子規の通信と相応じて、書簡文学の新分野を開拓したものとして評価されているそうよ。

松山 道後温泉










赤門を後方(しりへ)にたたみ時雨傘 長屋璃子(ながやるりこ)
赤門を潜ってよりの大枯木 山尾かづひろ 

尾鷲歳時記(97)

今日は山人
内山思考

寄鍋や箸は過去から未来から   思考

朝日を受ける大銀杏












 今日は久しぶりに南伊勢町の山へ炭の原木を伐りに行ってきた。朝7時に家を出て、駐車場まで少し歩く。丁度その方向が真東になるので、出たばかりの冬の太陽と向き合う形になり、さあ、これから楽しい肉体労働の始まりだ、と胸が躍る。僕の好きなひと時だ。いつもより寒いと思ったら案の定、車のフロントガラスに霜が降りていて、ああ、冬がやってきたんだと改めて実感した。キャッシュカードを出して霜を削ろうとしたら、近所の奥さんが「これ使って」とお湯を入れたペットボトルを持って来てくれ、有り難く頂戴したそれをかけると一瞬にして霜は融けた。

ようやく出発して路地をでると、金剛寺の前の大銀杏が朝日を浴びて見事に輝いている。あまりの美しさに、車を停めて写メールを数枚撮った。再び走り出し、FMでクラシックをききながら20分後に窯に到着、今度はトラックに乗り換えて一路、原木山へと向かう。同行はH君とS君で共に四十代だ。他愛の無い雑談をしながら海沿いに走る走る。

やっと目的地へついたら今度はリュックサックを背負い、チェーンソーを持って急斜面を登らなければならない、僕は重い物を持つのは苦にならないが、登山は不得手ときている。それでも高度を稼がねば仕事にならず、やっとの思いで現場に荷を下ろすと、もうそこで弁当を食べたい気持ちになった。しかしそうもいかない、簡単に段取りを説明して、さあ開始、程なくそれぞれのチェーンソーが唸りをあげ始めた。

この景色をおかずに
弁当を食べた
しばらくは忘我無我の時が流れて、あれもう11時。木を積んで帰る時間から逆算すると今が昼食にベストと判断した僕は「ホゥッ」と声を発して他の二人にその意志を伝え、リュックサックからミカンを取り出して、上にいるS君、下のH君に投げてやる・・・が上手く届かず申し訳なし。それにしても遠く見張るかす岬や入江は絶景である。「あれ何処や?」と聞くとS君が 「浜島の方と違いますか?」と言った。

私のジャズ(100) 最終回

最初に買ったレコード
松澤 龍一

リック・ネルソン












最初に買ったレコードは意外と多くの人が覚えているらしい。この質問をすると、殆どの人から返事が返ってくる。私の最初に買ったレコードはリッキー・ネルソン(後にリック・ネルソンと改名)の「トラヴェリング マン」と言う、当時EPとかドーナツ盤呼ばれていたものである。レコードの真ん中に大きめの穴が開いており、これをプレーヤーにかけるにはプラスティックで出来たアダプターが必要だった。3分程度の曲が1曲づつ裏表に録音されている。「トラヴェリングマン」の裏は「ハローメリールー」と言う曲で、こちらの方がヒットした。
リッキー・ネルソンは当時アメリカで、プレスリーに少し遅れて、続々と登場したティーンエイジャーの歌手たちの一人。ポール・アンカ、ニール・セダカ、デル・シャノン、女性ではコニー・フランシス、アメリカではなくイギリスだが、ヘレン・シャピロなどと人気を競っていた。今の団塊の世代が中学生の頃、最初に耳にした西洋の大衆音楽はこのようなアメリカンポップだった。


このように最初に西洋の大衆音楽に触れた若者が次に向かった先は大きく分けて二つある。一つはビートルズであり、もう一つはフォークソングである。どうも二つとも好きになれなかった。特にビートルズは毛嫌いをした。あの軽薄な音感になじめなかった。そんなときに出会ったのがアート・ブレーキーとジャズメッセンジャーであった。中学の一二年の頃だと思う。パリのサンジェルマンのライブ録音盤は毎日のように聴いていた。最初の曲の「モーニン」のリー・モーガン(トランペット)やベニー・ゴルソン(テナーサックス)やボビー・ティモンズ(ピアノ)やジミー・メリット(ベース)のソロなど一緒に唄えるまでになった。最後はジャケットはボロボロ、音質は針音ばかりになってしまった。恐らく、生涯でもっとも多く聴いたレコードだろう。ここから私のジャズの遍歴が始まった。


2012年11月25日日曜日

2012年11月25日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(99)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(96)
       内山 思考   読む

■ 私のジャズ(99)        
       松澤 龍一   読む

俳枕 江戸から東京へ(99)

三田線に沿って(その14)河東碧梧桐・高浜虚子
文:山尾かづひろ 

虚子 青年時代












都区次(とくじ): 前回、子規と碧梧桐の出会いのことは知りましたが、俳句の子規門の双璧として並び称されるのが碧梧桐と虚子なのですが、虚子はどのように係わってくるのですか?
江戸璃(えどり): 元々、碧梧桐と虚子とは松山中学でクラスが同じだったのね。ただし、碧梧桐は腕白小僧で、虚子は秀才でクラスで一、二番の主席を争う成積だったものだから、ほとんど交流はなかったのね。当時、流行っていた回覧雑誌をクラスの有志で始めてね、虚子がリーダーになったのよ。ところが虚子は秀才だけど線が弱かったのね。それで他の有志が「字が上手い」からと線の強い碧梧桐を煽てて仲間に引っ張り込んだのよ。それが碧梧桐と虚子の交流の始まりなのよ。

大綿や竹馬の友と言へる仲 佐藤照美

都区次: 碧梧桐と虚子が繋がった切っ掛けは分ったのですが、虚子と子規とが繋がった経緯はどのようなものですか?
江戸璃: 碧梧桐が一高の受験準備のために松山から東京に行って常盤会宿舎へ入寮したわね。そうしたら相棒を失って淋しくなった虚子が碧梧桐に手紙で宿舎の子規を自分に紹介し、同封の和歌原稿と句原稿の添削を頼んでみてくれと懇願してきたのよ。


冬灯店に掲げし古川柳 長屋璃子(ながやるりこ)
小春空遠き友より文届く 山尾かづひろ 



尾鷲歳時記(96)

勤労感謝の日
内山思考

水抱いてくしゃみも出来ぬ地球かな  思考

内山夫妻、天安門広場で











11月22日 は「いい夫婦」の日だそうだ。 日本語が語呂合わせしやすいのか、それとも国民性なのか、こういう記念日がよくある。多少、商業的に利用される場合もあるが、そんなアクセントが一年のどこかにあってもいいだろう。案の定というか、夕食の熱いクリームシチューを「ヒイヒイ(いい)フウフウ(夫婦))」吹き冷ましながら食べていたら、義従姉のカヨちゃんから電話がかかって来た。

今日、「古道の湯」へ夫婦のツーショット写真を持って行くと、入浴券を二枚サービスしてくれると言うのだ。そこは海洋深層水を使った温浴施設である。「行かないよ」と僕。 実は風邪気味なのである。二、三日前から炭焼の親方が声を嗄らし水洟を垂らし、昨夜は我が家の娘が寒気がすると言い出しそれを貰ったとは言わないが、あまりいい環境ではなかったところへ、朝から首筋に違和感が。これは僕にとっての赤信号なのだ。

「ええよ、カヨちゃんもヤッちゃん(旦那)風邪引きやって」
あらら…、と言うわけで僕は米倉涼子主演のテレビドラマ「ドクターX」を見ながら寝てしまったのだった。明けて23日。7時のチャイムが遠い濁世で鳴っている。
「どう、行ける?」と妻、
「エッ、どこへ?」
「どこへって、映画へ行くって約束してたのに」
「無理!」
体中の倦怠感を訴えて断ると、そんなら一人で行って来ますと凄い馬力の彼女は、布団の中にいる僕の額に手を当て「まあ、寝てるこっちゃね」と言って出掛けた。


ノブちゃんから届いた画像
こういう場合は、日頃から病弱な妻の方が強い。先月来、大阪と奈良へ二度ずつ、あと神戸、名古屋など車の日帰りを続けたので、ぼちぼち体調に歪みが出て来る気がしてはいたのである。予感が悪寒になったわけだ。まあしかし、まだ食欲が標準並みなので1日休めば復活するだろう。昨日、長野にいる従姉のノブちゃんから林檎の樹の写メールが届いた。それを見ていると、何だか元気が湧いてくるような勤労感謝の日である。

私のジャズ(99)

史上最強のコンボ その三
松澤 龍一

ジョン・コルトレーン












マイルスの元を離れたジョン・コルトレーンは、一時期、セロニアス・モンクのコンボに参加する。「ファイブスポット」(ニューヨークのジャズクラブ)での伝説的なライブで彼のシーツオブサウンズと呼ばれる独特なスタイルを確立したと言われる。アトランチックレコードへの臨時編成のコンボでのリーダーアルバムを数枚吹き込み、その後、恒久的なコンボを編成する。

メンバーはテナーサックス、ソプラノサックスのジョン・コルトレーンにピアノのマッコイ・タイナー、ベースのレジー・ワークマン(その後ジミー・ギャリソン)、そしてドラムスがエルヴィン・ジョーンズのカルテットである。このコンボを史上最強のコンボに挙げたい。主な録音はインパルスレコードに残されているが、変貌するジョン・コルトレーンを余すところ無く捕らえている。

当時新進気鋭のドラマーであったエルヴィン・ジョーンズとのコラボレーションが素晴らしい。エルヴィン・ジョーンズのポリフォニックなドラムスにコルトレーンの細かな音符をどんどんと積み重ねてゆく奏法が実に良くマッチしている。
ソプラノサックスをモダンジャズの楽器として定着させたコルトレーンの功績も忘れてはならない。それまでにスイングジャズ期のシドニー・べシェやモダンジャズになってからもスティーヴ・レイシーなど、ソプラノサックスを吹くプレヤーはいるにはいたが、コルトレーンほどこの楽器で多くの名演をなしえたプレヤーいないはずだ。コルトレーンがあまりに偉大だったためか、コルトレーン亡き後、ソプラノサックスを吹くプレヤーがあまり出ていない。

インパルスに残された「ヴィレッジヴァンガード」(ニューヨークのジャズクラブ)のライブから、「朝日のようにさわやかに」(Softly As In A Morning Sunrise)を聴いてみよう。最初、少し長めのピアノによるテーマの提示とソロが続く。バックのエルヴィン・ジョーンズのブラッシュワークが素晴らしい。元々、エルヴィン・ジョーンズのブラッシュワークは定評があったが、改めて聴いてもそのリズム感、切れに感動する。

コルトレーンのソプラノサックスのソロが始まる。エルヴィン・ジョーンズはブラッシュをスティックに持ち替えコルトレーンをサポートする。実にスリリングだ。元来、この曲はシグマン・ロンバーグが作曲し、オスカー・ハマースタイン2世が作詞したミュージカルの甘い恋歌である。それをこれほどまでに生き生きとしたジャズに作り変えてしまう。やはりこのコンボはモダンジャズ史上最強のコンボに挙げても良いだろう。

 

2012年11月18日日曜日

2012年11月18日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(98)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(95)
       内山 思考   読む

■ 私のジャズ(98)        
       松澤 龍一   読む

俳枕 江戸から東京へ(98)

三田線に沿って(その13)正岡子規・河東碧梧桐
文:山尾かづひろ 

碧梧桐 青年期












都区次(とくじ): 前回、河東碧梧桐が常盤会宿舎に入寮していたと伺いましたが、経緯は何ですか?
江戸璃(えどり): 明治24年3月、18歳のときに松山中学を中退して東京の錦城中学5年に編入したのよ。目的は一高の受験準備のためだったのよ。ところが文部省の方針が一変して来年から受験入学生を募集しないことになっちゃって、8月には故郷の松山中学へ復校したので、常盤会宿舎にいたのは5、6ヶ月よね。
都区次:碧梧桐が初めて子規に会ったのは、このときですか?

  諦めはやすらぎとなる白山茶花 冠城喜代子

江戸璃:もっと前に会っていて、碧梧桐が7、8歳で、子規が13、4歳のときね。もちろん松山時代よ。碧梧桐の父親は松山藩の朱子学の道学者で、晩年は千舟学舎という塾を自分の屋敷で開いていて、子規はその塾へ通っていたのよ。ちょうど、その日は屋敷に薪用の木を業者が持ってくる日で、子規が作業を手伝いに来ていて、碧梧桐は子規に初めて会ったのよ。

夕ぐれの花柊に尽(すが)れ見ず 長屋璃子(ながやるりこ)
裏町の湯島本郷冬日落つ 山尾かづひろ 


尾鷲歳時記(95)

海洋深層水
内山思考

魚にも体温ありぬ陸は枯れ  思考

硬度330の
百%深層水飲料












海洋深層水というのは一般に、光の届かぬ200㍍以深の海水のことをいうのだそうだ。 尾鷲市古江町にある「アクアステーション(みえ尾鷲海洋深層水施設)」は賀田湾三木埼沖12・5㌔水深415㍍の海底からパイプで深層水を汲み上げ、飲料水や製塩、温浴施設などに有効活用している。過日、僕がそこを訪れたのは深層水を使ったサツキマスの養殖がおこなわれていると聞いたからであった。

サツキマスは「幻の魚」と呼ばれ、ときには一匹一万円もの高値がつくという。古江町は市内から車で20分ほど、アクアステーションは小さな港の横にあり、事前に連絡してあったので顔見知りのIさんがいろいろ案内してくれた。サツキマスは、降海型のアマゴが遡上したものをいい、温度の変化に敏感なので養殖は困難とされてきたが、一定の温度(約13~15℃)が保てる深層水を利用することにより、唯一この施設で成功したのだという。

養殖見学のあとでIさんは深層水の取水棟を見せてくれた。45㌧の水槽の下のドアを開けると地下15㍍の所に取水ポンプがある。僕たちはカンカンと靴音を響かせながら、殺風景な鉄の階段をジグザグに降りて行った。底へ着くと思ったより暖かい。

「ここがストレーナー」Iさんのペンライトが30㌢ほどの丸窓を照らした。中は海底から直に届いた海水で満たされていて、何やら赤いものが三つ…。「なにこれ?」驚いて覗き込む僕に、Iさんは沖から吸い寄せられて来た「コツノガニ」だと言った。どれもじっとして動かない。一匹は背中に大きなイソギンチャクを背負っている。

ストレーナー内の小角蟹、
上の一匹の背に磯巾着が
彼らが二度と海底に戻れないことを思うと哀れな気がした。そういえば十年ほど前、和田悟朗さんが深層水に興味を持っているようだったので、ここで淡水化して製造されているペットボトル入りの「尾鷲海洋深層水」を送って差し上げたことがあった。その時の経緯は和田さんのエッセイ集「時空のささやき」に記されている。

私のジャズ(98)

史上最強のコンボ その二
松澤 龍












最強に二つがあってはならないはず。でも、前回のマックス・ローチとクリフォード・ブラウンのクインテットに勝るとも劣らないコンボがあと二つある。あえて最強のコンボその二としよう。それはマイルス・デヴィス(正確にはデイヴィスだが)が最初に持った恒久的なクインテットである。

ピアノにレッド・ガーランド、ベースにポール・チェンバース、ドラムスにフィリー・ジョー・ジョーンズとハード・バップオールスターズのリズムセッション、それに当時新進気鋭のテナーサックス奏者のジョン・コルトレーンを加えたものである。この頃、テナーと言えばソニー・ローリンズ、ソニー・ローリンズ自身でなくとも、その亜流はごろごろしていたはずだが、彼らを起用せず未知数の新人、ジョン・コルトレーンを起用し、その将来性にかけたマイルスの慧眼に感服する。

多くの録音がプレスティッジに残されており、そのどれをとっても名演で、1950年代のモダン・ジャズ史上を綺羅星の如く飾っている。定番の一つがセロニアス・モンクの名曲、ラウンドミッドナイト。マイルスの繊細なトランペットのソロに続く、管楽器のリフ(合奏)、そしてジョン・コルトレーンのソロ、その出だしがたまらなく素晴らしい。おそらく、ジャズ史上最もスリリングな瞬間だろう。



一連のプレスティッジへの吹き込みを終えると、このコンボにはアルトサックスのキャノンボールをが加わり、三管編成となり、ドラムスは若手のジミー・コブに変わった。ピアノのレッド・ガーランドの代わりに迎えられたのは、白人のピアニスト、ビル・エヴァンスであった。黒人のコンボに白人が加わるといったちょっと異様な起用だったが、マイルスはビル・エヴァンスの将来性を鋭く見抜きあえてこれを断行したのだろう。

このセックステットでマイルスはモード奏法と言う新しい試みに挑戦を始める。その後、メンバーを一新して、ドラムスにトニー・ウィリアムスを起用したクインテットで、ジャズプレーヤーとしての頂点を極める。このクインテットがのこした一連のライブ録音はジャズ史上に残る正に、掛け値なしの金字塔と言えよう。