2011年11月27日日曜日

2011年11月27日の目次

俳枕 江戸から東京へ(47)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (44)                          
                   内山  思考    読む

私のジャズ (47)          
                  松澤 龍一     読む

俳枕 江戸から東京へ(47)

隅田川東岸/柳橋
文:山尾かづひろ  挿絵:矢野さとし

柳  橋














都区次(とくじ):今日は柳橋へ行きましょう。どのように行きますか?
江戸璃(えどり):都営地下鉄・浅草線の浅草橋駅から歩いて行きましょう。浅草駅と似ているけど違うから気をつけてね。浅草橋に出たら渡らないで左に行くわよ。要するに神田川に沿って歩くのよ。神田川は隅田川(大川)に流れ込んでいてね、柳橋は神田川に架かる橋で最も隅田川に近い橋なのよ。その起源は江戸の中頃、当時は下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往来していたけれど不便なため元禄10年(1697)に架橋を願い出て許可され翌11年に完成したのよ。その頃は隅田川の船遊び客のための船宿が多く、その後、花街としても新橋と共に東京を代表する場所になってね。柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと言われたそうよ。
都区次: 神田川に沿って船宿があり、雰囲気がらしくなってきましたね。時代劇で吉原へ舟で行く場面がありますが?
江戸璃: ここから吉原通いの「猪牙(ちょき)」が出ていたのよ。
都区次: 「猪牙」とは何ですか?
江戸璃:「猪牙」は船脚を上げるために先を尖らせた細長く屋根のない舟で、主に吉原通いに使われた舟のことなのよ。吉原へは駕籠でも徒歩でも行けたけど、この柳橋から「猪牙」で隅田川を通って吉原近くの山谷堀まで行くのが粋な「お大臣遊び」だったのよ。
都区次:明治になってからはどう変わりましたか?
江戸璃:交通の発達で舟で吉原へ行くなどというのは無くなったでしょうけど、柳橋の船宿(船遊び)と花街はそのまま盛況で、正岡子規も
「春の夜や女見返る柳橋」
「贅沢な人の涼みや柳橋」
という俳句を残しているわよ。

柳橋の船宿










大川に溢(こぼ)れて揺れて冬灯  
             長屋璃子(ながやるりこ)
船宿に人気なき夜の一重菊  山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (44)

尾鷲の朝日と夕日
内山思考

日本に冬行き亘るポン酢かな 思考 


尾鷲港の朝



















尾鷲の朝は海からやってくる。 「尾鷲よいとこ朝日を受けて浦で五丈の網をひく」と尾鷲節にある。 シンガーソングライターの黒坂黒太郎さんは 「いりえおくのまち…ひがしからあさひのぼり/きょうをはこぶよ/このまちに」(朝日はこぶ町)と歌ってくれた。

三方が山で、一方の海が東に向いている尾鷲へ、朝日はまるでコップに水を注ぐように光を届けてくれる。 夜が明ければ朝が来るのはどこでも同じとわかっていても、早暁まだ薄暗い路地を抜け、あまり人通りのない港へ行く途中で朝日に会うと、1対1の感じがしてとても心地良い。

「お早うさん」 「オウ、今日も頑張れよ、ピカピカー」 という挨拶がそこでなされているかのようだ。その後は、一見昨日と変わらない、しかし新鮮な時間が流れ始める。 日中は何やかやと気ぜわしいので、太陽の存在はまったくといってもいいほど忘れている。たまに空を見上げることはあっても、それは大好きな飛行機がゆっくり高空移動しているのを発見した時ぐらいで、そんな場合はしばらく目で追うこともある。

古道の夕日
この時期は日が短いので二時を過ぎると夕ごころになり、晩ごはんのおかずが気になり始める。 お前には悩みが無いのか、と問うなかれ、楽しい材料だけを憂いと憂いのつなぎにして生活しているだけなのだから。 今日は炭焼のアルバイト(機会があれば触れよう)の日だったのでそれが済んで4時、急ぎ帰って洗濯物の取り込み、これは僕の役目だ。そして紀勢新聞の配達に出る頃、朝日も1日の仕事を終えて夕日に姿を変えて行く。 「もう沈むのかい?」 「ああ、またな、ゴトン」 冬至はまだまだ先だ。

私のジャズ (47)

白いパーカー
松澤 龍一

CHARLIE MARIANO QUINTET BOSTON DAYS
 (Camarillo Music FSR-CD-207)













白いパーカーと呼ばれたボストン生まれの白人アルト・サックス奏者、チャーリー・マリアーノ、彼の初期の録音を集めたのが上掲のCDである。白いパーカーと呼ばれただけあって、その演奏は正にパーカーそのもので、共演しているあまり名の知られていないハーブ・ポメロイと言うトランペッタ―もマイルス・デイビスそのものに聴こえてしまう。

ピアノだけがちょっと違う。左手が強く、いわゆるバップ・ピアニストのタッチでは無い。誰かと思ったら、なんとジャッキー・バイヤードである。彼は始めからこんな弾き方をしていたんだと新しい発見をした。

前々回のJ.R.モンテローズの話に読者からお便りがあった。J.R.モンテローズのリーダー・アルバムに「THE MESSAGE」があると教えてもらった。1959年の録音でトミ―・フラナガン、ジミー・ギャリソン、ピート・ラ・ロッカと共演しているアルバムだとのこと。これは知らなかった。このアルバム、カマリロ・ミュージックと言う会社より発売されている。

「カマリロ」とはあの「カマリロ」かとのご質問があった。有名な「ラバー・マン」セッションの直後、発狂したパーカーを収容した病院が「カマリロ病院」で、その後、退院して「リラクシン・アット・カマリロ」などと言う曲を作っている、あの「カマリロ」のことかとの質問である。「カマリロ」とはカルフォルニアの都市の名前で、そこにあった病院が「カマリロ病院」で、そこにあるレコード会社が「カマリロ・ミュージック」と言った程度のことだろう。

そんなことを考えながら、ふと手にしたこのCD、なんと、カマリロ・ミュージック、偶然の一致とは恐ろしい。 チャーリー・マリアーノは一時日本人と結婚していた。相手は有名なジャズ・ピアニストの秋吉敏子。ボストン生まれの白人アルト奏者と満州生まれの日本人ピアニストが、その蜜月時代に作ったアルバムがこれである。このアルバムに残されているチャーリー・マリアーノが作曲した曲の題名に、彼の秋吉敏子への熱愛ぶりが偲ばれる。