2015年11月29日日曜日

2015年11月29日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(256)
       山尾かづひろ  読む

■ 
尾鷲歳時記(253)
       内山 思考    読む

江戸から東京へ(256)

清澄庭園
文:山尾かづひろ  
挿絵:小倉修子  

烏瓜


















江戸璃(えどり):旧制東京府立一中及び都立日比谷高校の同窓会「如蘭会」の美術展「如蘭会展」が先月、中央区京橋の画廊で開かれたわけ。大矢白星師は実妹の小倉修子さんがこの展覧会に出品されているので見に出掛けて、ついでに鉄砲洲稲荷、佃島を散策してきたそうよ。

京橋の美術展辞し走り蕎麦     山尾かづひろ
挽臼を飾る老舗の走り蕎麦     寺田啓子
冠雪のなき鉄砲洲稲荷富士     小倉修子
佃島渡船跡碑や都鳥        小林道子
小庇に覗く冬空佃路地       寺田啓子
地蔵堂の屋根突き抜けて銀杏散る  小林道子
トイレ兼ね復元灯台島小春     大矢白星
佃煮屋軒を並べて菊の鉢      窪田サチ子
かくれんぼしたき小春の佃路地   小倉修子
小春日や肩幅ほどの佃路地     小川智子
佃煮の量り売りして小六月     窪田サチ子
花石蕗やかほどに狭き佃路地    大矢白星
焚き始む佃銭湯秋入日       山尾かづひろ
対岸に小春日溢る佃島       寺田啓子
聖路加のツインタワーや秋の空   小倉修子

都区次(とくじ):前回は東京都下の「奥多摩むかしみち」でしたが、今回はどこですか?

江戸璃:今、鉄砲洲稲荷、佃島の話をしたので、隅田川関連に行きたくなったわけ。私の独断と偏見で「清澄庭園」へ行くわよ。ちなみに今日は三の酉なのよね。

石組の石の明るし石蕗の花      柳沢いわを
芭蕉の句を口ずさみつつ秋惜しむ   福田敏子
テレビより「芝浜」流れ三の酉    戸田喜久子
あるなしの空に溶けゆく雪蛍     竹中 瓔
鴨の水尾四方にのびて水の綺羅    藤本明雲

江戸璃: 私の独断と偏見で、人形町方面から清洲橋を渡って清澄庭園へ行くわよ。渡る川は隅田川だけれど、吾妻橋より下流なので大川と言う異称があるのよ。

磯渡り邪魔する亀の日向ぼこ   石坂晴夫
着水の鴨の仲良き声届く     甲斐太惠子
松手入軍手に残る脂の粘     近藤悦子
冬の鳥羽音響かす池の端     白石文男
行く秋や芭蕉の句碑に心足る   油井恭子
一瞬の振り向きざまや木の葉雨  甲斐太惠子
庭石の程よき配置冬紅葉     白石文男

江戸璃:一般的なアクセスは東京メトロか都営大江戸線の「清澄白川駅」から歩く方法ね。

名園に名石あまた石蕗の金ン   長屋璃子
明け番を思考停止の鴨と居し   山尾かづひろ

尾鷲歳時記(253)

冬の醍醐味
内山思考

日本に冬行き亘(わた)るポン酢かな  思考 

今宵もいたすべし








枕草子の冒頭の「春はあけぼの」を読む(聞く)とついつい「冬は鍋もの」と言いたくなる。つまらぬ戯れ言を・・・、清少納言さんに睨まれるのを覚悟で続けると「夏は化け物(怪談)」「秋は酢の物(柿膾好き)」と言うことになる。正しくは夏は夜、秋は夕暮、冬はつとめて(早朝)。夏虫は居たろうし、釣瓶落としの後は細い灯が頼り、ましてや千年前の都の冬の朝などどれだけ重ね着をしても、寒さは身を刺したに違いない。

その中で季節の趣を味わおうとするポジティブな眼差しは、文学的資質に満ちていて、やっぱり清少納言さんは凄い人なのである。話を鍋ものに戻して、ああ食べたいなぁと思うとき必ず浮かぶのが虚子の「又例の寄鍋にてもいたすべし」である。吟ずれば即ち、高濱家由来の具材があるのか最近虚子が気に入った一菜が加わるのかと想像し、自らの家庭の味に思いを至らせたりもする。

大虚子に勘どころをポンと一つ押さえられた気がして、とても好きな句である。家庭の味と言えば、内山家の鍋ものも歳月とともに変化して来た。(たぶん)一般的な水炊きから、時にホルモン鍋と言う黒船の来襲を許しキムチ鍋に首まではまり、しかし鍋関白の惠子が体質的に薄味を好むことから、結局は昆布だしベースで、かしわ、白菜、糸こんにゃく、長ネギの鍋をポン酢で、のスタイルに戻るのが常であった。すき焼きは別格だからここでは触れない。

もう一度読み直そう
そして今、我が家の鍋もの史に維新が起こった。メニューの名は「キクハリ」つまりキクラゲを使ったハリハリ鍋である。それまで豚バラ肉と水菜のデュエットだったのへ、ある日、道の駅で見つけた生のキクラゲを入れたら、その食感の素晴らしさに一家仰天。しかもポン酢じゃなく千切りの塩昆布を薬味にするともうたまらないのである。シャキシャキと水菜をコリコリとキクラゲを、そして赤身から「やうやう白くなりゆく」薄い豚肉を噛みしめると、清少納言さん一緒にいかが、と言いたいぐらいの口福を覚える。