内山思考
日本に冬行き亘(わた)るポン酢かな 思考
今宵もいたすべし |
枕草子の冒頭の「春はあけぼの」を読む(聞く)とついつい「冬は鍋もの」と言いたくなる。つまらぬ戯れ言を・・・、清少納言さんに睨まれるのを覚悟で続けると「夏は化け物(怪談)」「秋は酢の物(柿膾好き)」と言うことになる。正しくは夏は夜、秋は夕暮、冬はつとめて(早朝)。夏虫は居たろうし、釣瓶落としの後は細い灯が頼り、ましてや千年前の都の冬の朝などどれだけ重ね着をしても、寒さは身を刺したに違いない。
その中で季節の趣を味わおうとするポジティブな眼差しは、文学的資質に満ちていて、やっぱり清少納言さんは凄い人なのである。話を鍋ものに戻して、ああ食べたいなぁと思うとき必ず浮かぶのが虚子の「又例の寄鍋にてもいたすべし」である。吟ずれば即ち、高濱家由来の具材があるのか最近虚子が気に入った一菜が加わるのかと想像し、自らの家庭の味に思いを至らせたりもする。
大虚子に勘どころをポンと一つ押さえられた気がして、とても好きな句である。家庭の味と言えば、内山家の鍋ものも歳月とともに変化して来た。(たぶん)一般的な水炊きから、時にホルモン鍋と言う黒船の来襲を許しキムチ鍋に首まではまり、しかし鍋関白の惠子が体質的に薄味を好むことから、結局は昆布だしベースで、かしわ、白菜、糸こんにゃく、長ネギの鍋をポン酢で、のスタイルに戻るのが常であった。すき焼きは別格だからここでは触れない。
もう一度読み直そう |