2013年4月14日日曜日

2011年4月14日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(119)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(116)
       内山 思考    読む

尾鷲歳時記(116)

空の上の思考
内山思考


飛機降下春の浮力を押さえつつ  思考

春光を浴びてフライトに備える








「ああ、このままずっと乗っていたい」
沖縄へ向かう飛行機の中で丸い小さな窓に顔を押し付けるようにして、僕はそう思い続けていた。妻の退職祝いを兼ねた五泊六日の旅、二人でずっと楽しみにして来た沖縄への夢の時間が動き始めたのだ。

どれほど楽しみにしていたかというと、午後二時の飛行機なのに神戸空港に着いたのは九時半だったぐらいである。搭乗手続きを済ませたあと、僕たちはソファーに腰掛けて、徐々に増えてゆく旅行客がどの便に乗るか予想したり、カフェで美味しいウィンナコーヒーを飲みながら雑談をしたりして時を過ごした。

それでもまだ一時間以上あるので、離発着の見えるカウンターに移動、満ち満ちる春の光をゆっくり沈んでくる、あるいは力強く舞い上がる機影をウットリと眺めていた。到着したある一機は、乗客を降ろすと同時にタンクローリーが給油を開始し、一時間もたたぬ内に新たな便として飛び立って行った。結構ハードなダイヤが組まれているのである。神戸空港は滑走路が一本なのでまず四、五機が続いて着陸し、その後今度はそれらを順番に出発させるシステムのように思えた。そしてやっと僕たちも機上の人となることができた。

淡路島を越え、四国を横切り九州宮崎を右にしながら、雲の間を滑るようにわが機は南下を続ける。二時間の時空移動の間、一応用意してあった文庫本「生き物ポケット図鑑」を開くこともなく、僕は高空の巨大な雲海と狭間に覗く地上の二次元世界に魅せられていた。
「着いたよ」と
子に連絡する妻













妻はというと早起きの影響がでたと見えて、冊子を広げたまま目を閉じている。つられて僕も生あくび。後ろの方では幼い子が眠いのかさっきからしきりにぐずっている様子だ。

火のついた赤子大阪まで行くか  悟朗

がふと浮かんだ。エンジン音が変わり車が急ブレーキをかけたような制御感が身体に伝わって来た。機体は薄い雲の層を抜けて那覇の街へと降下を始めた。

俳枕 江戸から東京へ(119)

山手線・日暮里(その19)
根岸(上根岸82番地の家④「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

築地海軍病院








都区次(とくじ):子規と俳句革新運動ということでしたが、革新を行うには子規自身に俳句の知識・経験が無いと出来ないと思うのですが、子規はいつどこで俳句を始めたのですか?
江戸璃(えどり):子規の外祖父(子規の母の父)は大原観山という幕府の昌平坂学問所舎長を経て松山藩藩校明教館となった人で、維新後、子規は観山の私塾で漢文を習っていたのよ。だから中学時代の子規は仲間と漢詩を競い合って作っていたのね。
都区次: その漢詩のスーパーマンのような子規にどうして俳句との接点があったのですか?

子規の目に官許俳人夏きざす 冠城喜代子

江戸璃:初めて上京した子規の目には俳句が新しい物として映ったのね。これを説明するには明治新政府の文教施策と俳諧師の関係を述べる必要があるわね。このことは秋尾敏氏も機関誌「現代俳句」のなかで述べておられるので見ておいてちょうだい。新政府は明治5年に教部省を設置して国民教化に力を入れ始めたのね。近代的な国家の国民としての道徳を確立しようとしたのね。そのために全国にわたって、主として神官や僧侶7千余名を教導職に任命したのよ。足らない部分は養成して賄う、ということで教導職養成のための神官主導による大教院を設けたのね。ところが急場しのぎの養成では間に合わず、民間からも人を教化する力のあるものを集めることにしたわけよ。その中には俳諧師も加えられたのよ。明治6年4月には、登用試験が行われ、俳諧師では三森幹雄と鈴木月彦が合格し、さらにそれを追うように、月の本為山・小築庵春湖・佳峰園等栽らが、それまでの実績によって試験を経ずに教導職に任命されたのよ。
都区次:ちょっと待ってくださいよ。俳諧は江戸時代まではごく一般的に漢詩や和歌に比べて一段下の平俗な文芸と考えられ、それにたずさわる俳人は漢詩人や歌人よりも品性においてもやや劣るものと見られていたのは紛れもない事実です。それが新政府によって教導職に任命されたなどということは、急に偉くなっちゃった訳ですね。
江戸璃:子規はわりと格好をつけるタイプだから、この事と子規の俳句への関心とは無関係とは言えないような気がするわね。
都区次:俳諧の地位が元のままだったら子規の目は俳句に向かなかったかもしれませんね。
江戸璃:維新を経て時代が変化してゆくなかで俳諧が新政府に文芸として認知されたと考えた人は相当いたと思うわよ。
都区次:俳諧師の方は、どういう反応を示しましたか?
江戸璃:それは、もちろん喜んでいたでしょう。俳諧師も、これは商売です。当時、屋号や商号にどんな些細な許可でも「官許」と入れるのが流行っていたのよ。
都区次:分り易い例ではどんなものですか?
江戸璃:築地の海軍病院が蕎麦屋に出前を届けさせるのに「構内入場許可票」を発行したら、蕎麦屋は蕎麦屋で看板や暖簾に「官許・築地信州そば」と書く具合よ。何が官許だか分らなくても信用がありそうじゃない?教導職となった俳諧師が「官許」の文字を入れない訳がないじゃない?都区次さんもどこかで見たことがあると思うわよ。
都区次:あります。あります。「官許 ~流俳諧師 山尾かづひろ」なんて具合のものですね。
江戸璃:子規は、その「官許」の俳諧師の看板を東京で見ている筈なのよ。さらに先程申し上げた教導職の試験に合格した三森幹雄、鈴木月彦のどちらかの俳諧師を訪ねていると考えられるのよ。
都区次:「官許俳諧師」の看板を見た、というだけならそういう事があっても想像に難くはありませんが、その俳諧師を訪ねたとなると、それを裏付けるような事実はあるのですか?
江戸璃:子規は明治20年の二十歳の夏休みに故郷松山に帰省し、松山近郊の三津浜に、俳人・大原其戒(おおはらきじゅう)を訪ね、その主宰誌「真砂(まさご)の志良辺(しらべ)」に投句するようになったのね。大原其戒は先の三森幹雄、鈴木月彦が教導職を任命された時、結成した「俳諧明倫講社」の構成員となった人物なのよ。
都区次:なるほど「官許俳諧師」が全く関わっていないとは言い切れない事実ですね。この時代の流行的な新名称「官許俳諧師」とは言っても中身は旧派ですよね。
江戸璃:そうなのよ。子規はやがて旧派、即ち江戸時代以来の卑俗な句を月並として否定して新時代の俳句を作るわけだけど、その辺のプロセスは長くなるから次回に話すわね。
都区次:ところで子規ゆかりの人形町で和菓子でも食べませんか?
江戸璃:いいわね。御所に出入りしていた菓子商人が明治の遷都後、人形町に店を出した例が多いのよ行ってみましょう。桜餅なんかいいわね。

人形町の桜餅













創業の大正と云ふ桜餅 長屋璃子(ながやるりこ)
薄皮に昔が見えて桜餅 山尾かづひろ