2012年9月16日日曜日

2012年9月16日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(89)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(86)
       内山 思考   読む

■ 私のジャズ(89)        
       松澤 龍一   読む

俳枕 江戸から東京へ(89)

三田線に沿って(その4)旧伊勢屋質店前
文:山尾かづひろ

旧伊勢屋質店


 







都区次(とくじ): 前回の小石川植物園は東大の付属施設だったのですね。東大といえば本郷ですが本郷へ行ってみたいですね。
江戸璃(えどり): それでは本郷の樋口一葉のゆかりの場所へ行くわよ。白山から春日まで行くので、また三田線に乗ってちょうだいね。春日駅のA6出口から地上にでるとゆるい上り坂になっているので少し歩くと「菊坂下」という標識が見えるわね。信号のあるT字路を右に行くのが「菊坂」よ。

路地路地に厨音して秋簾 畑中あや子

江戸璃:古い質店が見えるわね。これが「旧伊勢屋質店」よ。樋口一葉は本郷界隈に約10年間暮らしてね。晩年は生活が困窮して、明治29年に24歳で亡くなる間際まで伊勢屋質店に通ったことが日記に記されているのよ。一葉がこの地から転居した後も伊勢屋質店との縁は続いたようね。土蔵の外壁は関東大震災後塗りなおしたけど、内部は当時のままだそうよ。

付近の店屋










好ましき名の坂多し蜻蛉飛ぶ 長屋璃子(ながやるりこ)
質店の往時のままに鰯雲 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(86)

子規の話
内山思考


空白に書き始めたり柿のこと  思考

大小数え切れないほどありぬべし

















9月19日はご存知の子規忌。毎年、ああそろそろだな、と思っている内に「子規の忌と気付きし時は暮れており・思考」どころか、二、三日過ぎていて後を振り返ったりすることになる。身近にそれを話題にする人がいないのも原因で、ついつい失念してしまうのである。

俳句を始めた頃から子規は大好きだった。

 すり鉢に薄紫の蜆かな
 黒きまでに紫深き葡萄かな

の淀みのない色彩感や

 大砲のどろどろと鳴る木の芽かな
 汽車過ぎて烟うづまく若葉かな

の無機質、有機質の立体感が僕には写真を見ているように新鮮で、今でも時折、口ずさんでみたりする。

でも頁の綴じを何ヶ所も紙で繕った岩波文庫の子規句集は昔ほど開かなくなってしまった。子規が近しく感じられる大きな要素として「墨汁一滴」「仰臥漫録」など随筆の庶民性が挙げられる。妙な気取りが感じられないのだ。ことに僕の場合、子規の食べ物への執着心が大いに共鳴できて、好感度をアップしている。

二十年ほど前、子規の故郷、松山へ一人旅をしたことがあった。彼のいた空間へ自分も身を入れてみたかったのである。三泊四日の予定だったが、話し相手の居ない寂しさと、ちょうど近づいて来た台風に追われて、1日早く帰って来てしまった。たまたま入った食堂の「子規うどん」の品書きを見落として食べ損なったのも恨めしい記憶だ。しかし大きな出会いがあった。それは、書店で偶然手にした和田悟朗さんの著書「俳句と自然」である。僕は帰りの電車の中でその本を読んで、この俳人さんに会ってみよう、と思ったのだった。

右端が子規編集の春夏秋冬
子規でもう一つ昔話?、昭和の終わり頃、古本市を冷やかしていたら紐で括った数冊の俳諧関係の文庫本が目に留まった。数百円単位の値段だったはずだ。その中に子規編集の歳時記「春夏秋冬春之部」明治34年発行・があったのは儲けものだった。他の冊子名は次の通り「続春夏秋冬冬之部・碧梧桐選(明治39)」「俳句練習談・寒川鼠骨著(明治38)」「春夏子規俳句評釈・寒川鼠骨著(明治40)」「俳諧史談・山崎庚午太郎著(明治26)」。

私のジャズ(89)

季節外れの第九
松澤 龍一

BEETHOVEN SYMPHONY NO. 9 "CHORAL"
 (EMI CC35-3165)













今回はジャズでは無い。クラッシックである。それも定番のベートーヴェン。交響曲第9番、一般に「合唱付き」と言われるもの。なぜかこの作品、日本では年末に演奏されることが多い。これは日本だけの現象のようである。でも、聴き通すと確かに年の終りに聴くにふさわしい。一年の出来事を振り返り、反省などもし、あるいはその年に亡くなった人を偲び、心穏やかに来年は良い年であるようにと祈る、とそんな気にさせてくれる作品である。これを年末に聴くべき作品と位置付けた日本人の感性は素晴らしい。

多くの指揮者がこの曲を演奏している。でも、この曲だけは、フルトべングラーがバイロイト祝祭管弦楽団及び合唱団を振った1951年の録音に尽きる。最弱音で始まる第一楽章、よっぽど耳を澄ましていないと出だしの音が掴めない。ブラームスの第四番の第一楽章の出だしでもそうだったが、良くこれだけの最弱音が出せると驚く。フルトベングラーのピアニッシモと名付けたい。

この後、第一楽章も、第二楽章のスケルツォも意外と淡々と続く。そして第三楽章。正に天上の音楽である。天国に音楽が流れているとすれば、正にこのような調べであろう。自分の葬儀にどのような音楽を流してほしいかと問われれば、文句無くこの第三楽章かモーツアルトのクラリネット五重奏である。

圧巻は第四楽章。「オー、フロイデ」に始まるソプラノ、アルト、テナー、バリトンのソロ、二重奏、三重奏、四重奏、それにかぶさる合唱の競演が続き、コーダ(終結部)へとなだれ込む。このコーダはすさまじい。強烈な音量とスピードである。オーケストラの各奏者はかろうじてフルトベングラーの棒に付いて行っている。時々、音が乱れる。そんなことはお構いなしにフルトベングラーはさらに早く早くと棒を振る。

バイロイト祝祭管弦楽団は臨時に編成された楽団で、いわば寄せ集め集団である。でもほとんどはベルリンフィルやウイーンフィルの常任奏者で、皆一流の演奏家である。フルトベングラーはそんな彼らが思わず乱れる程のスピードを要求する。完全な演奏とは言い難いかも知れないが、こんな熱気が伝わる録音も珍しい。実況録音であるから、なおさらである。

こんな逸話を聞いたことがる。ある音楽評論家が、たまたまカラヤンの指揮のベルリンフィルの練習を覗かせて貰ったことがある。練習をしている曲がある瞬間から変った。出す音も各演奏家の顔つきも急に変ったそうである。何気なく後ろを振り返ると、ドアの隙間からフルトベングラーが顔を覗かせていたと。嘘のような話だが、このようにカリスマ性と強烈な個性を持った指揮者はフルトベングラー以後、現れていない。