2012年9月16日日曜日

尾鷲歳時記(86)

子規の話
内山思考


空白に書き始めたり柿のこと  思考

大小数え切れないほどありぬべし

















9月19日はご存知の子規忌。毎年、ああそろそろだな、と思っている内に「子規の忌と気付きし時は暮れており・思考」どころか、二、三日過ぎていて後を振り返ったりすることになる。身近にそれを話題にする人がいないのも原因で、ついつい失念してしまうのである。

俳句を始めた頃から子規は大好きだった。

 すり鉢に薄紫の蜆かな
 黒きまでに紫深き葡萄かな

の淀みのない色彩感や

 大砲のどろどろと鳴る木の芽かな
 汽車過ぎて烟うづまく若葉かな

の無機質、有機質の立体感が僕には写真を見ているように新鮮で、今でも時折、口ずさんでみたりする。

でも頁の綴じを何ヶ所も紙で繕った岩波文庫の子規句集は昔ほど開かなくなってしまった。子規が近しく感じられる大きな要素として「墨汁一滴」「仰臥漫録」など随筆の庶民性が挙げられる。妙な気取りが感じられないのだ。ことに僕の場合、子規の食べ物への執着心が大いに共鳴できて、好感度をアップしている。

二十年ほど前、子規の故郷、松山へ一人旅をしたことがあった。彼のいた空間へ自分も身を入れてみたかったのである。三泊四日の予定だったが、話し相手の居ない寂しさと、ちょうど近づいて来た台風に追われて、1日早く帰って来てしまった。たまたま入った食堂の「子規うどん」の品書きを見落として食べ損なったのも恨めしい記憶だ。しかし大きな出会いがあった。それは、書店で偶然手にした和田悟朗さんの著書「俳句と自然」である。僕は帰りの電車の中でその本を読んで、この俳人さんに会ってみよう、と思ったのだった。

右端が子規編集の春夏秋冬
子規でもう一つ昔話?、昭和の終わり頃、古本市を冷やかしていたら紐で括った数冊の俳諧関係の文庫本が目に留まった。数百円単位の値段だったはずだ。その中に子規編集の歳時記「春夏秋冬春之部」明治34年発行・があったのは儲けものだった。他の冊子名は次の通り「続春夏秋冬冬之部・碧梧桐選(明治39)」「俳句練習談・寒川鼠骨著(明治38)」「春夏子規俳句評釈・寒川鼠骨著(明治40)」「俳諧史談・山崎庚午太郎著(明治26)」。