2014年9月28日日曜日

2014年9月28日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(195)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(192)

       内山 思考    読む

尾鷲歳時記(192)

上阪の記 
内山思考 

己には見えぬ横顔柿を剥く  思考 


この二誌のあいだには78年の歴史が









先週末、大阪へ行ったのは北さとり先生に久しぶりに会うため。電話ではちょくちょくご機嫌伺いをするけれども5月に「大樹」が終刊になってからまだ一度もお目にかかっていない。と言うか前回会ったのは確か昨年の11月だったと思う。同人の佐田寿恵女さんが、「大樹」は無くなったけど有志で句会は続けてるよ、思考さんも来てとラブコールをくれたので、行ってみる気になったのである。ちょうど翌日は生駒で「風来」の句会もあることだし、僕はさとり先生のマンションの近くのビジネスホテルを予約した。

尾鷲から大阪市北区扇町まで車で三時間半ほど、実は自分の車(トヨタのヴォクシー)がこの日で車検切れであることに気づいたのが前日、慌ててディーラーに「代車貸して」と頼んで、ヴィッツ(1000cc)で遠路やって来たのだ。新しいナビが親切なのに驚きつつも、地下のパーキングに駐車して徒歩三分で目的地に到着したのは一時前。

「思考です」
「どうぞ」
インターフォンを押すといつもの声が帰ってくるのはとても嬉しい。そのうちみんな来るやろ、と言うさとり先生、少し痩せはったかな、もともと細いのに・・・・部屋を見渡せば書架もかなりのダイエットぶりだ。蔵書の処分を始めたと寿恵女さんに聞いたが本当のようだ。「先生、本貰ってもいいですか?」「ええよ持って行き」のやりとりのあと、沖縄関連の書物を探すことにした。あれは無いかなあ、と隅々まで舐めるように見るうちに・・・・「あった」。
思考文庫に増えた
沖縄本

それは敬愛する屋嘉部奈江さんの句集「藍衣(あいごろも)」で、ご本人の手元にも一冊しかないという貴重品である。それと「沖縄俳句総集・野ざらし延男編」「沖縄の伝説散歩」「ひとことウチナーグチ」(いずれも沖縄文化社)。なにせ数十年分の俳句関連本が積み上がっているのだ。探せばお宝はいくらでもあるだろう、などなど考える間も、さとり先生は流し台でゆっくりゆっくりお茶の用意をしてくれているのだった。

俳枕 江戸から東京へ(195)

谷中(その4)
文:山尾かづひろ 

全生庵









都区次(とくじ): 前回は谷中の西光寺でしたが、今回はどこですか?

色鳥の色こぼすなり鉄舟墓  佐藤照美

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の全生庵へ行くわよ。 全生庵と言えば山岡鉄舟の墓があるので有名よね。
都区次:先日の9月7日には高橋泥舟のある谷中の大雄寺へ行ったので、幕末三舟の二人まで訪ねたことになりますね。
江戸璃
鉄舟は天保7年(1836)に蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として江戸で生れてね、16歳のときに講武所に入って、千葉周作らに剣術を習い、槍術を山岡静山に習ってね、静山急死のあと静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し、山岡家の婿養子になったのよ。安政3年(1856)剣道の技倆抜群により、講武所の世話役となったのね。

この頃、中西派一刀流の浅利又七郎と試合をするが勝てず弟子入りしたのよ。この頃から剣への求道が一段と厳しくなってね。禅にも参じて剣禅一如の追求を始めるようになったのよ。元来仏法嫌いであったらしいけれど、高橋泥舟の勧めもあり、自分でも感ずるところがあり始めたというのね。禅は芝村の名刹である長徳寺の住職である順翁について学んだのよ。

慶応4年(1868))、精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会したのよ。これは2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していたのね。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋泥舟を使者にしようとしたけれど、泥舟は慶喜警護から離れることができなかったよ。

そこで、鉄舟に白羽の矢が立ったわけ。西郷との面会の当日、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口良輔に大小を借りて官軍の陣営に向かったそうよ。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったと言われているわね。3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼んだのよ。

これによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれたわけ。維新後は西郷のたっての依頼により、明治5年(1872)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えたのよ。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873)に皇居仮宮殿が炎上した際、新宿淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られているのよ。宮内大丞、宮内少輔を歴任してね。明治15年(1882)、西郷との約束どおり辞職。明治20年、功績により子爵に叙されたのよ。

明治16年(1883)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため谷中に普門山全生庵を建立したのよ。明治21年(18888)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であったそうね。享年53。全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。禅道の弟子に三遊亭圓朝がいて全生庵に墓があるわよ。書は人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見され、一説には生涯に100万枚書したとも言われているそうよ。

山岡鉄舟の墓









小鳥来る噺家の墓武士の墓  長屋璃子
遺物めく四軒長屋小鳥来る   山尾かづひろ