2011年9月25日日曜日

2011年9月25日の目次

俳枕 江戸から東京へ(38)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (35)                          
                   内山  思考    読む

私のジャズ (38)          
                  松澤 龍一     読む

俳枕 江戸から東京へ(38)

深川界隈/成等院・清澄庭園
文  : 山尾かづひろ 

清澄庭園















都区次(とくじ): 次は深川江戸資料館の南にある成等院へ行ってみましょう。この寺には紀伊国屋文左衛門の墓があるそうですね。
江戸璃(えどり):その通り、紀伊国屋文左衛門は通称を紀文と言って、故郷の紀伊国で産するミカンを荒天中に命を賭けて江戸に運び、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運んで財をなし、貞享年間(1684~88)江戸の京橋に材木問屋を開業。元禄10年(1697)頃には老中柳沢吉保や勘定頭の荻原重秀と結びついて幕府御用商人として全盛をきわめたのよね。ところがギッチョンチョン、宝永6年(1709)に犬公方の徳川綱吉が死んで側近の柳沢・荻原が引退すると商売がふるわなくなって、その後、材木商も廃業。晩年は深川八幡宮付近に閑居して享保19年(1734)66歳で没したのよ。大きな碑の左奥には小さな墓があるけど、かなり欠け落ちているのね。商売繁盛を願う人々が欠いて持って行ってしまうそうよ。生前は蓄財に執着せず、永代橋の架設とか清澄庭園の創始とか人々のために貢献したそうよ。
都区次: それでは紀伊国屋文左衛門の貢献の一つの清澄庭園へ行ってみましょう。
江戸璃: この場所は紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられているけれど庭園として形をなしたのは享保年間(1716~1736)の下総関宿藩の下屋敷の時代とされていて、現在のような回遊式築山林泉庭園になったのは明治11年に三菱財閥の創始者の岩崎弥太郎が社員の慰安と接待用に買い取り整備してからなのよ。庭園の名石は岩崎家が自社の汽船を使って日本各地の石の産地から集めたものだそうよ。岩崎家が関東大震災後に庭園を東京市に寄付してから清澄庭園として公開されているそうよ。

清澄庭園の涼亭









清澄の奇岩名石片しぐれ  長屋璃子(ながやるりこ)
石蕗の黄や黒の奇岩に映り初む  山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (35)

秋のつれづれに
内山思考

濁流の果ての花野の人となる 思考 

玄関を出たらすぐこの風景


















彼岸花が咲き始めた。 ああ、もうそんな季節になったのだ。このところの長雨が彼らの生長をうながしたのだろう。 「かしこいねぇ、土の中にいても咲く時期がわかるんだね」 と隣りの奥さんは感に耐えぬ表情だ。 そう言えば昨年も、ひょっとしたらその前の年も、同じ会話をしたような気がする。

いろんな草花が暦や時計を持たずに示し合わせたように萌え、咲くが、彼岸花のあの独特の赤い花を最初に見つけた時に一番、自然の働きの正解さに感動するのは何故なのか。確かに 登場の仕方がドラマチックではある。 大合唱していた蝉が徐々にトーンダウンし、やがてツクツクボーシのソロがかすれ始めた頃、夏の残像を打ち消すように、突如、鮮烈に現れる。 「彼岸が近い」 と思い。そして、 「ああ、もうそんな季節に…」 「かしこいねぇ」となるわけだ。

嫌いではないが、あまり親しみの持てる花でもない。彼岸花、曼珠沙華の他に死人花、地獄花、幽霊花、剃刀花、捨子花、とまあ、よくこんな愛らしくない呼び名ばかりつけたものだ、と哀れになってしまう。有毒植物なのも災いしているのだろう。 毒があってかぶれるから、と親に繰り返し注意され僕は一度も触れたことがない、だから「曼珠沙華抱くほどとれど母恋し・汀女」の句を最初に見た時は驚いた。

汀女さんはかぶれなかったのだろうか、それとも教えてくれるお母さんがいなかったから、毒花と知らず摘みためたのだろうか。妖しさを持つ花だからこそ、この句は生きていると言える。

雨に咲く白花曼珠沙華、
妙長寺にて
実は、先の台風12号による豪雨で、僕の実家のある奈良県十津川村や中学高校時代を過ごした和歌山県那智勝浦町が大災害を受けた。 幼なじみのKちゃんが鉄砲水で流され家族と共に行方不明、同級生だったT君は奥さんと娘さんを失った。今年の彼岸花はことに切なく眼に映る。

私のジャズ (38)

ドラムの妙技
松澤 龍一

CD (Nihon Victor VICJ-23547)












友人が退職を機にドラムを習い始めた。彼の話によると、ドラムの先生(若い女性)が最初に教えてくれたのは、ドラムは叩くのでなく落とすことだそうだ。つまり、ドラムのスティックで太鼓を叩こうとしてはいけない。手首を柔らかく重力に逆らわず、スティックを太鼓の上に落とすのだと。なるほどと思った。叩いていたのでは、アート・ブレキーのナイアガラ瀑布と呼ばれたあのスネアドラムへの連打は生まれないだろう。サッチモの初期の録音ではベイビー・ドッズと言うドラマーが参加しているが、ベースドラムは使えなかったそうである。当時は蝋盤に直接針で音を刻み込んでいたため、ベースドラムの音で針が飛んでしまい、使えなかったと云う。

ケニー・クラークから始まったモダンジャズのドラマーの中で、マックス・ローチほど、テクニックに於いても音楽性に於いても群を抜くドラマーはいないと確信する。パーカーのすさまじい速さのパッセ―ジに付いていけたのはいけたのはマックス・ローチだけだった。パーカーの多くの録音に付き合い、パーカー亡きあと、ソニー・ローリンズやクリフォード・ブラウンなどの当時きってのヴァーチュオーゾと多くの名盤を遺している。事実、ソニー・ローリンズやクリフォード・ブラウンの代表作には必ずマックス・ローチがいる。

このCDはソニー・ローリンズをリーダーとして吹き込まれたものだが、マックス・ローチを聴くべきものであろう。勿論、絶頂期のソニー・ローリンズやクリフォード・ブラウンも素晴らしい。


VALSE HOTと題されたこの曲、直訳すると「熱いワルツ」。三拍子のワルツである。ジャズは元々フォービート系で、4分の4拍子の2と4にアクセントを置く、いわゆるアフタービートからスウィングと呼ばれる独特のリズムを生み出すものだが、果たして3拍子でスウィングするのだろうか。大きな挑戦である。さすが、マックス・ローチ、ちゃんとスィングしている。最後の方ではソロも取っている。良く聴くとブンチャッチャ、ブンチャッチャの三拍子をちゃんとキープしている。