2014年7月13日日曜日

2014年7月13日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(184)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(181)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(184)

山手線・浜松町(その4)
文:山尾かづひろ 


宝珠院









都区次(とくじ):前回は浜松町・増上寺の三解脱門(さんげだつもん)でしたが、今日はどこへ案内してくれますか?

都心とは思へぬ池塘梅雨晴間 大森久実

江戸璃(えどり): やはり大矢白星師に12年前に案内してもらったコースだけれど東京タワーの近くにある浄土宗の宝珠院へ行くわよ。この宝珠院は貞享2年(1685)増上寺三十世・霊玄上人のとき現在の地に増上寺の伽藍群の一つとして開山されたのよ。ここには弁天堂があってね、宝珠院の開山と同時期に建立されたのよ。この弁財天の歴史は清和天皇(858~76)の代にまでさかのぼるのよ。三井寺(大津市)の開山・智証大師が遣唐されて帰朝する際、大荒れだった海が突然凪ぎ、空には弁才天女が現れたそうよ。帰朝後大師は、丹精込めてその弁財天像を彫刻し、「除波尊天」と名づけたそうで、これが現在、宝珠院の厨子の中に安置されている弁財天だそうよ。この弁財天像は、貞純親王から源家、北条家に伝えられ、数人の上人の手を経たのち、西誉(せいよ)上人に授けられたのね。西誉上人は増上寺を建て、以後代々の上人が弁財天像を伝えてきたそうよ。その後、増上寺と縁を結んだ徳川家康も弁財天像を篤く信仰し、江戸幕府の礎がかなったことから、これを『開運出世弁財天』と名づけたのよ。しかし、増上寺の中に安置されていては、一般人は直接参詣できない。そこで貞亨2年(1685)、増上寺の外に弁天堂を建立。同時に宝珠院が開創されたのよ。また宝珠院には貞亨2年(1685)に作られた寄木造、高さニメートル余の大閻魔像があって一見の価値があるわよ。


東京タワー













大寺に塔頭いくつ雲の峰  長屋璃子 
忽然とタワーの下に氷菓売 山尾かづひろ




尾鷲歳時記(181)

河童の声が 
内山思考 

胡瓜揉み少し水掻きらしきもの  思考

工藤克巳句集
東奥日報社














東北から興味深い一冊の本が届いた。「工藤克巳句集」である。青森にお住まいの工藤さんは「白燕」以来のお付き合いで尊敬する大先輩だ。二十年前、僕が和田悟朗さんに憧れて「白燕」に入会し、最初に手にした同誌(333号)に紹介されていたのが工藤さんの第一句集「アダムの林檎」だった。そして鑑賞文を書いた柿本多映さんが冒頭に置いたのが 

 死木もて死木たかぶり台風来  克巳

この一句を見た時、僕は思わず声を発した。何という力強さだろう。まるで自然の猛威の中であの世とこの世が繋がっているような迫力がある。参ったと思った。身の回りのもろもろを机上に一つづつ並べて行く、そんな句作りしか知らなかった僕は、まるで150キロのストレートをいきなり頭上に投げられた草野球のキャッチャーみたいだった。ああ、この世界(俳句)は甘くないなと感じた記憶が懐かしい。

その後、工藤さんは第二句集「十七音のアラベスク」を出され今回の「工藤克巳句集」に至ったわけである。緑を基調とした装丁は目に優しい。青森の野山は海はこんなイメージなのであろうか。表紙を繰って「謹呈 著者」の細い紙とまず対峙、

第一章「河童の声が」から読み始めた。
 帰る鳥海峡なかばにて暮れむ
 顔の長い女と話す蛙の夜 

第二章「芭蕉の女に」
 妻よりの水ながれくる溝浚へ
 籐椅子はあまたの孔でできており

第三章「アダムの如く」
 なかんづく最も遠い虫を聴く
 新米に位をつける係かな


四章「思想と四肢を」
 干菜湯に思想と四肢を伸ばしたり
 白は真にはげしき色や雪しまく

多映さんの句集評、白燕(平5)
ごく一部の抜粋からは、俳人工藤克巳の淡いシルエットしか浮かばないかも知れないが、戦後のバラック街を闊歩していた青春時代に、芸術に触れたことによる「精神的なほてり」が俳句を作り始めるきっかけだったとするあとがきには、衰えぬ想像力と充実感とが窺える気がした。しかし、実はまだ一度も工藤さんに直接お目にかかったことがない。