2011年12月11日日曜日

2011年12月11日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(49)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(46)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(49)          
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(49)

隅田川東岸/回向院
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし

回向院の力塚














都区次(とくじ):それでは吉良邸跡の本所松坂町公園から西へ200メートルの回向院へ行ってみましょう。
江戸璃(えどり): この回向院は浄土宗の寺で、諸宗山無縁寺(むえんじ)と号するのよ。明暦3年(1657)の「振袖火事」の名で知られる明暦の大火による焼死者を4代将軍徳川家綱の命によりこの場所に葬り、増上寺の第23世上人遵誉(じゅんよ)に回向させて、塚上に一寺を建立したのをはじまりとするのよ。本堂の左には江戸中期の歌人・国学者だった橘千蔭(たちばなちかげ)や戯作者・浮世絵師だった山東京伝(さんとうきょうでん)といった有名人の墓が並んでいるわね。また鼠小僧次郎吉の墓はギャンブラーたちが運がつくようにと、墓石を削って持って行くので削り取り用の墓石も置いてあるわよ。イヌやネコの動物の供養寺としても有名よね。また回向院は江戸勧進相撲の常打ち場ともなり、明治42年に旧国技館がこの地に建てられたのもこの縁によるのよ。国技館が両国駅の北側に移った後も、この辺には相撲部屋が数多くあるのよ。

時津風部屋の看板鳥わたる  小野淳子

都区次:この回向院と吉良邸跡は近いのですが、討入りのとき回向院は何か影響を受けたのですか?
江戸璃:赤穂浪士が吉良上野介の首を打ち取り、吉良邸を出て回向院に来たのよ。門番を叩き起し「寺内に入り休息したい」と伝えたところ、住持がやってきて「寺法により日の入りから日の出まで檀家と亡者(死者)以外は通さないことになっている。どこかへ立ち退いていただきたい」ということで、寺内に入れず泉岳寺へ向かうこととしたのよ。両国橋を渡らずに過ぎ、川下の永代橋を渡って泉岳寺へ行ったのよ。というわけで次回は両国橋へ行くわよ。

回向院山門
 









冬の日の肩より暮れし力塚 長屋璃子(ながやるりこ)
時雨るるや明暦大火の供養塔 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(46)

文字と数字のパラダイス
内山 思考

本はみな四角き島や冬籠 思考

行きつけの書店・川崎尚古堂












子供の頃から勉強が苦手だった。 めんどくさがり屋で、興味の持てること以外に意欲を示さない、先生方からすると甚だ扱いにくい生徒だったに違いない。 特に敬遠したのは算数である。0と、1から9までの数字が無表情にくっついたり離れたりするだけの授業が退屈で、僕の頭はまったく違う空間に遊んでいたような気がする。 あまりに出来が悪いので、中学で理数系の教師をしていた父が心配して、算数を教えてくれようとしたことがあった。

ハードルをずいぶん下げて、数字を動物に見立てたりもしたが、彼の愚かな息子は、父はそうやって僕を騙しながら算数の世界へ引きずり込むつもりだ、と邪推?し、疲れて眠ったふりをした。 その後はテストの度に暗記することで、ある程度の点数を確保し何とか学生生活を全う出来たのは幸いだったと言うべきか。

運動も得意ではなかった。走るのは遅かったし球技も駄目、中学に入った時、撃剣の達人だった祖父に憧れて剣道を始めたのもつかの間、連日「面」だ「胴」だと叩かれるのが「めんどう」になってすぐ退部した。でも無茶苦茶な叩き合いは結構強かったことを付け加えておこう。

何度となく読み返す、
フェルマーの最終定理
それほど努力嫌いの僕が、たった一つ飽きなかったのは「読書」である。本を読むことだけが僕の救いであり生きがいであり、未来への導きだったのだ。基本的には雑読で、しかも早読み(速読術とは無縁)、分野は問わないけれど、最近は書店に入っても興味ある書物に巡り会う機会が少なくなって来たのは寂しい。

もしも、無人島に一冊だけ持って行くとしたら、僕は迷わず新潮文庫「フェルマーの最終定理」サイモン・シン著、青木薫訳をあげる。今、僕は思っているのだ。数学の世界とは何と魅力的でミステリアスなものなのだろうと。

私のジャズ (49)

演歌も良い
松澤 龍一

「美空ひばり 武道館ライブ」
(日本コロンビア COCA-13361~62)













この前、あるところで飲んでいたら、「ジャズも良いけど、演歌も良いよね」との話になった。酔った勢いで、最後は「演歌は良い、本当に良い、演歌の心が分からんヤツとは付き合わん」との暴論にまでなってしまった。前回の油井正一さんのことを書いたブログで、「ラジオでクラッシックとジャズの対抗番組が組まれ、クラッシック側がマリア・カラスを出したとき、ジャズ側はベッシー・スミスをぶつけた」ことを引用したが、さて演歌だったら誰をぶつけるか。答えは決まっている。誰が何と言おうと美空ひばりだ。マリア・カラスに対抗できるのは美空ひばり、ベッシー・スミスにも美空ひばりである。

上掲のCDはひばりの芸能生活35周年を記念して武道館で行ったコンサートを収録したもので、ひばり、44歳、円熟期の快演との評判の高いものである。昔、家の近くの神社に回転木馬が巡回して来たことがあった。木製のガタピシと廻る回転木馬に音割れのするスピーカー、そのスピーカーから流れて来たのが、「越後獅子の唄」だった。昭和生まれの者ならば、きっとその人生のどこかにひばりの唄が流れていたに違いない。

彼女の最後のコンサートは有名な「不死鳥コンサート」。これは音楽史上残る最も壮絶なコンサートである。すでに立つこともやっとだったひばりが前半後半合わせて2時間余りのステージを歌いっぱなしに歌う。一曲目は「悲しき口笛」で始まり、最後は「人生一路」で終わるが、顕かに「人生一路」を唄うひばりの顔には死相が漂う。
このコンサートの約1年後、平成の世が始まると同時に、偉大なる昭和のエンターテイナー、美空ひばりは永遠の眠りにつく。(「不死鳥コンサート」は厳密には最後のコンサートでは無いが、実質的には最後のものと言って良いだろう)


美空ひばりが生前、誉めた歌手が一人だけいた。ちあきなおみである。楽屋で通りすがりに、「あんた、歌、上手いわね」とちらっと言われたそうだ。確かに上手い。今、演歌を歌わせたら天下一品だろう。
私の愛聴曲である。




う~ん、今夜は酒が旨い。