2011年1月23日日曜日

2011年1月23日の目次

永田耕衣 × 土方巽  (3)
          大畑   等  読む
俳枕 江戸から東京へ (6)
          山尾かづひろ  読む
I  LOVE   俳句  Ⅰ-(3) 
          水口 圭子  読む
尾鷲歳時記  (3) 
          内山 思考  読む
私のジャズ  (6)  
          松澤 龍一      読む

永田耕衣 × 土方巽(3)

大畑  等



衰退のエネルギー


 茄子や皆事の終るは寂しけれ  耕衣(『冷位』)

耕衣は生命には成長するばかりのエネルギィだけではなく衰退させるエネルギィもあるのだと言う。耕衣は、実際に茄子を植木鉢に育てた。味噌汁の具になることもあるというユーモアを交えて耕衣は語る。

―それが成長して花を咲かせ、実を成らせるという成長のエネルギィを楽しんで見、それ以後の茄子がミイラに成るまで見届けてやろうと、今もミイラ化しつつある茄子を育てています。(『永田耕衣 俳句文庫』(春陽堂書店刊)

―非常なリアリズムですね。生命がなくなるまで見えて、直面(ひためん)できて、しかも生命がなくなったもの自体が未だ物質として遺っているというのを見届けてゆくのはね。一種の「風狂」と言えるかもしれませんが。(同書)

『永田耕衣 俳句文庫』(春陽堂書店刊)



想像してみよう。耕衣は茄子のときどきを、あるときは笑い、あるときは横目で見、またあるときは「ふむ」とか声を掛けたのではなかろうか?動物ではなく植物であるところが面白い。視線を持たない茄子は昨日とは異ならないが、二三日前とは異なっているはずだ。

朽ちる茄子。へこみ、皺が深くなる。そしてカチンカチンの固体になった茄子―物質を見る。

仏教に九相観がある。美女の死体に虫が湧き、散乱して骨になる、その全過程を実際に見て、観想するものだ。しかし、これは風狂ではない。風狂は市井にある。一休は拾った髑髏を竿に引っかけて正月の町を廻った。「死」は市井のエネルギィと交錯する。ここには諧謔がある。耕衣は、一休の髑髏ならぬ茄子のミイラで一句成す。まるまる諧謔。

元旦や枯死淡淡の茄子三つ 耕衣 (『物質』)

「衰退のエネルギィ」は耕衣米寿の頃に言いだしたようだ(ちなみに耕衣の年齢は西暦の下二桁)。雑誌「太陽」(1988.9)のインタビューでこれを言い、平成元年(1989年)の「琴座」で「衰退のエネルギィ」を特集している。1997825日没の耕衣であるから、この哲学は最晩年の頃に世に唱えられた。しかし、老いを知る五十、六十歳からの哲学であろう。

耕衣の愛蔵本に『孤高の詩人イェイツ』(大浦幸男著)がある。以下は「虚空に遊ぶ 俳人永田耕衣の世界 図録」(姫路文学館刊)による。

―耕衣はアイルランドの詩人イェイツ(1865~1939)の「肉体の老朽は叡智である」「老人の狂気をおれに与えてくれ/おれ自身をおれは作り直さねばならぬ」などの詩句に出会い、〈老いのおもしろさ〉についての思索を深めていった。

ここで私事、二枚の葉書が机の前の壁に貼られている。もう十数年になろうか?故郷の祭からの帰路、伊勢神宮・瀧原並宮で出会った高橋敬一氏からのものだ。



一枚(平成8年の年賀状)に高橋訳のイェイツの詩が書かれている。もう一枚は退職して放浪の旅に出る、との葉書。以下高橋訳のイェイツの詩を掲げる。


いつかぼくは
あの大空の雲の上で死ぬだろう
ぼくが戦わなくてはならない敵を
 ぼくが憎んでいるわけではないし
ぼくが守らなくてはならない人々を 
 ぼくは愛しているわけでもないのだ
ぼくの故郷はキルタータン・クロス
ぼくの故郷の人々は貧しいけれど
ぼくがどんな死に方をしたところで
彼らが損をするわけではないし
ましてや以前より幸せになるわけでもないのだ
法や義務のためにぼくは戦うのではない
政治家や熱狂する群衆のために戦うわけでもない
ただ孤独な歓喜のきらめきが
ぼくをあの雲の中の戦いへといざなうのだ
すべてを計りにかけてぼくは考えてみた
きたるべき未来も
過ぎ去った過去も
すべては無意味だ
この大空の中の
生と死にくらべれば

日本の能に影響されて『鷹の井戸』を書いたというイェイツだが、私が知るイェイツはこの高橋氏のものだけだ。耕衣の「虚空」を大いに感じさせる詩である。高橋氏との出会い、これもまた耕衣が言う「出会いの絶景」と言うべきか。

宙でまた会えばや虻の俯(うつむ)かむ  耕衣
                  (『殺祖』)

(続く)

俳枕 江戸から東京へ(6)

神田界隈/神田古書街
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし














【神田古書街】
都区次(とくじ):それでは九段から神保町へ向います。この辺は世界でも屈指の古書店街で神田古書街と呼ばれる地域ですが、実に130年の歴史があります。どういう経過でこのようになったのですか?
江戸璃(えどり):明治10年代この地域に相次いで創立された法律学校の明治法律学校(明治大学)・英吉利法律学校(中央大学)・日本法律学校(日本大学)・専修学校(専修大学)の学生を当て込んで古書店も含めた法律書の書店が次々出来ていってこうなったのよ。

都区次:古い書店も残っていますが、この辺一帯は太平洋戦争の空襲で焼けなかったのですか?
江戸璃:となりの小川町・錦町界隈は焼け野原になっちゃったけど、神保町の古書店街は焼けなかったのよね。終戦直後に、夏目漱石と親交のあったハーバード大学のセルゲイ・エリセイエフ教授がマッカーサーに「爆撃回避」の進言をしたとか。神保町に救世軍の日本本営があったからB29が爆撃を回避させた。などという噂が飛び交ったのよ。でもね、私はこの二つの噂は“限りなく”信じたいのよネー。

書を求む神田はすでに喜雨の中   角川源義
救世軍本営のビル冬灯              山尾かづひろ

I LOVE 俳句 Ⅰ-(3)

水口 圭子

 凍て星のまわりは陶器的な音楽   鶴巻ちしろ


先ず「陶器的な音楽」という言葉の新鮮さに立ち止まる。かつて音楽に対してのこの様な表現に出会ったことが無いと思う。

「凍て星」は「寒の星」のひとつ。寒の星は正に今一年中で最も寒さの厳しい季節の夜空にまたたく。寒中の夜空は澄み切っていて、どこまでも果てしなく深い。そして星は一段と輝きを増したかに鋭い光を放ち、高い所に登り手を伸ばすと届きそうに思えるくらいである。そのうちの一つをじっと見詰めていると、少しずつ大きくなって自分の方に近づいて来る感じがしたり、問い掛ければ心の中に飛び込んで来るように思える。だが今作者が見ているこの星は、寒空に凍りついたように動かない「凍て星」なのだ。どんなに繰り返し叫んでも、少しも応えてくれない・・・・・。

しかしこの作者は、凍て星そのものではなく、その周りの空間というか、凍て星を包む大気のようなところを捉えている。そこがこの句の重要なところであり、奥行きを深めている要素である。

「陶器的な音楽」とは、決して陶製の器どうしが触れ合ったり、器を叩いて生じて来るような音の響きではない。あくまでも陶器の質感から受ける、イメージとしての響きである。金属的でなく、とろりとなめらかな重量感もあるが、繊細。凛として透明感のある印象。そして何故か、哀しくもほの温かなぬくもりさえ感じらて来る音楽。それぞれが他者を思いやる時に浮かんで来る響きであるから。

そう、「凍て星」は死者の魂であり、「音楽」はレクイエムに他ならない。

尾鷲歳時記(3)

妙長寺の寒行
内山思考


  物置の四季の中より出す火鉢    思考

ターン、ターン、
寒に入ると、尾鷲(おわせ)の町に、うちわ太鼓の音が響いてくる。日蓮宗・妙長寺の住職、青木健斉上人と副住職、青木三明上人の寒行である。尾鷲はもともと漁師町で、海に向かって「冊」という漢字のように路地が抜けている。お二人は、阿吽の呼吸でその路地を重ならぬよう縫って歩く。












ターン、ターン、
うちわ太鼓の乾いた音は、潮風に乗り、上人が町の角を曲がるたびに遠くなり、ふいに近づいて来たりする。町の人は網代笠を目深にかぶった白装束が近づくと、喜捨の小銭を手にしてうやうやしく近づく。そして胸に下げられた木箱(寒修行・妙長寺、と書かれている)にそれを投げ入れ手を合わせる。上人も隻手合掌。幼い頃からこの風景を見て育った町の子は、やがて親になるとわが子の掌に小銭を握らせ、上人のもとへやる。網代笠のかげに笑顔がひろがる。庶民のささやかな歴史がこうして繰り返されてゆくのだ。

青木健斉上人は和歌山県田辺市の人。三十数年前、遠縁の妙長寺を継ぐために、ひろ子夫人と乳飲み児だった三明上人を連れて尾鷲にやって来られた。その後誕生した次男、法明さんは今、つくば住まい。同じ町内ということもあり、お近づきになって早や三十年、冷静沈着、温厚篤実、兄とも思う健斉上人に僕はどれだけ励まされて来たことだろう。

左より思考、健斉上人、ひろ子さん、牧子さん、三明上人









文章の書き方、人前での話し方。内山思考のキャラクターというものがあるとすれば、その基盤を作って下さったのは、まさにこの御方である。

ターン、ターン、
今日もどこかからうちわ太鼓の音が聞こえる。その響きの向こうに春の気配がする。


(モノクロ写真:宇利和也、カラー写真:青木三明)

私のジャズ(6)

サッチモを聴くべし
松澤 龍一

(SATCHMO/WHAT A WONDERFUL WORLD /
VERVE)CDより













ジャズが生まれたのは、19世紀の終わりから20世紀の初め、ニューオリンズ近辺と言われている。現在もこのジャズと言う音楽様式が生きていると仮定しても、ジャズはたかだか100年ほどの歴史しか持たないものと言える。この100年間で、音楽を記録しておく技術は、レコード、テープ、CD、DVDと画期的な進歩を遂げた。従って、我々は、100年にわたるある音楽形態の変遷を濃密に追体験できる幸運に恵まれている。

ルイ・アームストロング、通称サッチモはジャズ史上最初にあらわれたスターであり、ジャズだけでなくショービジネスでも大きな成功を遂げたエンターテイナーである。彼のジャズプレイヤーとしての絶頂期は1920年代の後半で、この頃の録音が数多く残されており、ジャズが音楽として成立した頃の演奏を知ることができる。

The Essence of Louis Armstrong (CBS Sony 30DP5034)には輝かしいまでのサッチモのトランペットが当時としては鮮明な録音のもとで聴くことができる。これには泣かされる。テクニックとか音楽性とかを通り越しその奥のブルースが生で訴えてくる。これぞジャズである。そう言えば、サッチモはジャズの最初のスタイリストであった。皆がサッチモのように演奏した。アール・ハインズはサッチモのように弾き、コールマン・ホーキンスはサッチモのように吹いた。

次のスタイリストは数10年後にカンサスシティに現れる天才、チャーリー・パーカーを待たねばならない。極論を言えばジャズはその100年余りの歴史の中で、サッチモとパーカーと言う二人のスタイリストを輩出したに過ぎないのではないか。でも、これで充分である。

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追加掲載(120104)
若き日のサッチモ、唄もトランペットも冴えている。