ラベル 永田耕衣 × 土方巽 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 永田耕衣 × 土方巽 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年4月3日日曜日

永田耕衣 × 土方巽(9)

大畑  等


耕衣の運動 ―〈茶化し〉

耕衣書 正法眼蔵山水経 ※20

















もう十年と少し前のこと、船橋で「おおいと」という句会に参加していた。そのなかのメンバーの一人、徳永希代子さんは耕衣主宰の「琴座」(リラ座)同人。彼女から句集『櫻麻』(さくらお)をいただいた。

驚いたのは永田耕衣の序文であった。私の付箋がその句集にまだ残っている。「耕衣、必死で書いている 涙無くして読めぬ!」「永田耕衣の必死が造語を生むのだ。」とメモ書き。

今、その付箋を読み返しても、私の思いは変わらない。この序文は白隠禅師の画賛と墨跡のことから始まる。続いて白隠禅師作の「道謡」とくる。道行「お夏清十郎」を擬した法話と思えばよい。白隠の文を、耕衣は長々と引用して(止まらなかったのであろう)自身の俳句観を書く。

―《人生の危機の魅力》は時々刻々の《魅力》でありつつ、常住《生死》に関わる《無常》の《美》である。ソレは創造としての《奇襲》表現の品位、その妖気の不可思議を糧としてコノばあい、《俳句文学》を現成する。(後略)※19

そして徳永さんの句の紹介に移るが、出だしを引用すると、

―徳永希代子コタビの新句集『櫻麻』(さくらお)の句句に瞠目すれば、妙にもカカル《怪笑》寄りの《不可思議》に出遇う《有時》にめぐまれるようだ。(後略)※19

句の紹介は作者に沿いながらも換骨奪胎ありで、縦横無尽の体。ときどき仏教用語を交えながら、テレビの「女性のアナウンスの語調テンポ」にまで話が及ぶ。だが、団扇をくるっと回したように、柳宗悦からシンラン(親鸞)、一休、岸田劉生となだれ込む。また一転して徳永さんの句の紹介になる。 

山姥も人恋しさに真綿引く  希代子

虎が獲物にとびつくように、耕衣の解説が始まる。

―自己《奇襲》的な《茶化し》が目立って面白い。ソレは《自受用三昧》でもあろう。(中略)能楽「山姥」は幾たびも観たが、《人生》の地獄極楽一如の極美地獄ではなかったか、と思い出す。《人恋しさに真綿引く》と「山姥」を見ぬいた希代子は、《俳句》を《人恋しさ(ナツカシサ)》故に作っていると思う。《俳句》は《人生愛》のエロチシズムに於いて存在する、いわば句的哲学であると野老は思い定めている。ソレは《人生》の《危機愛》にアソビ込む志向の好み方をいうに等しいテツガクでもあるからだ。そのアソビ方に《極美》的快感が恵まれるのだ。 ※19 

ほとんどの俳句結社の主宰の序文は、読むほうが恥ずかしくなるほど美辞麗句を並べる。主宰は人生の達人なら、弟子は非の打ちどころのない生活者という具合である。もううんざりして序文などに期待していなかった私であったが、耕衣は違った。一所懸命、汗して書いている、と思ったのだ。一弟子の序文に耕衣の名著『一休存在のエロチシズム』と同質の文体と、そして同じ熱意を感じとるのだ。

この序文にはテーマの運び、強調の《 》、そして、言葉は遅い!とでもいうようなカナの使用など、耕衣の運動があますことなく感じられる。耕衣の汗を感じてしまうのだ。

耕衣の句集『而今』は道元の『正法眼蔵』の「山水経」からとっている。

―而今(にこん)の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して・・・・・・

『正法眼蔵』を、私は語意を深く考えないで読んできた。いわゆる読み散らかし、という読み方である。その道元を耕衣は「道元さんの文章は、威厳があり過ぎて近寄りにくいということがありますが、私は道元さんにはユーモアというものがあると思うんですね。」と言う。

道元にユーモアを見る、とは今まで誰が言ったであろうか。耕衣のこの発言は道元という運動体のことでもあるのだ、と思う次第。私は、道元を周期的に読み散らかしてきたが、実は、道元の運動を楽しんでいたのだ。

道元のユーモアに対して耕衣は〈茶化し〉を掲げ、これを「諧謔二字の深化俗化的代名詞」と言う。春陽堂刊の『永田耕衣』の対談で、村上護の、〈茶化す〉は運動であり、「般若心経」の空に近いものか?との問いに耕衣はこう答える。

―近いというより全く同質の空です。諧謔ということが、本質的に俳諧の世界に一本通っていますね。それを俗にまでぶち破ると〈茶化す〉という言葉になる(後略)。

「般若心経」や「空」のことはここでは立ち入らないでおく。それよりも白隠、盤珪などの近世の禅僧と禅文化との係わりを重視したいのである。また耕衣偏愛の俳人・上島鬼貫も禅の人であり、盤珪ともども耕衣が生まれ育った土地の傑物である。

さて今回の稿は、今後どのように展開するのか?書きながら一向に見当がつかないでいる。されば耕衣の句を一句、

  近山が唇吸い合うや桃の花   冷位

道元『正法眼蔵』の「山水経」にある「青山常運歩」(山は歩く)にエロスが加わった一句である。

そして一枚の禅画。伊藤若冲が描いた達磨図。

ギッター・コレクション展より

















禅宗の開祖の達磨、面壁九年の座禅を行じた達磨は江戸時代中期の京の絵師・若冲によって、このように描かれた。「脚下照顧」なのであろうか?達磨の目の運動に注目。「諧謔とは〈茶化し〉である」、真理はそのことによって「人間の基本的な卑俗の世界」に入っていける、と。耕衣の俳句に通底するものがある。                                     (続く)
※19 徳永希代子句集『櫻麻』 琴座俳句会刊 より
※20 『永田耕衣書画集』 永田耕衣書画刊行委員会 より

2011年3月6日日曜日

永田耕衣 × 土方巽 (8)

大畑 等


世界にとび込まれた肉体


「土方巽と日本人」
(於日本青年館) ※18より


















前回は真鍮板と踊る土方(1968年10月、日本青年館での公演-写真上)を紹介した。そして、この舞踏の構想は、土方と元藤燁子の出会いの頃に出来ていたようだ。青年・土方のエスキスは『土方巽とともに』に紹介されている。その意図を含めて、断片的にここにひき写すと、
  
・楽器体として日本の高校生三十名ずつ計六十名。

・厚さ3mm、巾60cm、長さ1m10cmの真鍮板、アルミニウミ板を男女高校生に持たせる。

・高さ2m、巾1m50cmのアルミニウム板十枚も必要とする。

・十羽程の鳥の足にゆわえられた小さな金属板をライトで追い空間で運搬される音楽を視覚化する。鳥追いの音楽。

意図
・肉体に眺められた状態で発展するこの舞踏展示会は外側から運動として与えられた舞踏性は一切肉体の表面から放逐される。

・この舞踏展示は単なる肉体にまで還元されるもので個体がもち、所属している所番地、姓名をはずすと肉体のなかにその住所を与えるものといってよかろう。なにをするかでなく、なにをされたか、この場合の世界にとび込まれた肉体と解釈してよい。この作品は肉体に命令するのではなく、肉体を作る意図をもっているが、その為にも高校生を採用した。

・日本の小学唱歌と高校生が手にもっている金属板の合唱。

・小さな金属板が突如スクリーンになる。そこに映写される映像はこの切断された金属板によって切断されたり、運ばれたり、重ねられたり、伏せられたり、走ったり、投げられたりする映像として蘇生する。

・巨大なアルミ板十枚は一枚につき二名ずつの持つ人が配置され、二枚一組のかこいを作り、その間に上着をぬいだ高校生一人がその金属板に身体をぶつける。

難解な箇所もいくつかあるにはあるが、この展示会の高校生の肉体は「空っ箱だい」と言って子供の頃に土方が遊んだ、その「空っ箱」と言えば良いようだ。(参照(5)⇒)又は弦のない弦楽器(バイオリンやチェロなど)と言っても良い。周囲のあらゆるものを振動として受容する。真鍮板、アルミニウム板は震え、それを持った手を通して体に伝わる。

また、視覚はどうだろう。金属板に映された外界のものは「切断されたり、運ばれたり、重ねられたり、伏せられたり、走ったり、投げられたりする映像として蘇生する」。運動し生成するものの受容が行われる。山も人も動く。金属板に現れては消え、消えては現れる。

自分の顔、体は他の生徒がもった金属板に映りそして去り、替わって次々他の生徒の顔・体が写る。運動体としての映像は、固定されないから、一つは他を排除しないのだ。六十枚の動く金属板の舞踏展示会、自他の境界は運動のなかで消えていく。

金属板の映像はどうだろうか?真鍮板では暗く、闇のなかに溶けるように映っているだろう。一方アルミニウム板は白い影のように映っているだろう。いずれも「図と地」の境界はあやふやで曖昧になっているだろう。ここが鏡とは違うところだ。

※18

















知覚系は運動を固定画像のように捉えることは前回述べた。言語もしかりで、変化生成する世界を記述するには限界がある。ゼノンのパラドックス「飛んでいる矢はいつまでも的に届かない」は、運動を空間に置き換えて記述したときの矛盾を言い当てている。言葉も又疑わなくてはならないのだ。

たとえば犬の臭覚でもって人を描いたとする。人の匂うところ―口、尻、性器は肥大化して描かれることになるだろう。ピカソの絵どころではない。また鳥の足に付けた小さな金属板のきらめきにより音楽(聴覚)が視覚化される。このように全感覚を動的に働かせたとき、変化生成する世界は動くのだ。五感は脳にあるのではなく対象にくっつくように散らばり、体に戻る―絶え間ない往復運動。

「肉体の拡張」、「人間概念の拡張」は「なにをするかでなく、なにをされたか、この場合の世界にとび込まれた肉体」から始まる、それが土方舞踏の根本であった。

また土方のエスキスは「見る―見られる」「触れる―触れられる」など身体性の問題、「自己―世界」「自己―他者」等の戦後の思想・哲学上の問題を抱え込んでいる。言葉が事象の分析であることに対して、土方の構想は行為を通じて無意識にまで浸透していくものであろう。
(続く)
※18『土方巽を読む』 清水正著 鳥影社刊より

2011年2月27日日曜日

永田耕衣 × 土方巽 (7)

大畑  等


肉体の叛乱・真鍮板の叛乱


※4 より

真鍮板と踊る土方。一九六八年十月、日本青年館での公演『土方巽と日本人・肉体の叛乱』の写真である。
この舞台装置は美術家・中西夏之によるもの(中西は高松次郎・赤瀬川原平の3名により1960年代前半に結成された前衛芸術グループ「ハイレッド・センター」のメンバーでもあった)。中西は、この装置について、次のように書いている。




《吊られた6枚の大真鍮板・解体する六曲屏風》
〈真鍮の板は一本のピアノ線に結ばれているので、その自重によって、静止していることはなかった。だが、いつもせわしく廻転していたわけではない。真鍮の板の重さが細いピアノ線をゆっくり捻り、それに連れて板は身を斜めにし、一本のピアノ線につながった一本の垂直線になり、再び斜めになって裏側をわずかに見せ、逆方向に廻転する。完全な正面を向いたと思うと正面性をよけ、光を強く反射して、わずかに奥行きを見せる。〉6枚の真鍮板は「肉体の叛乱」の舞台に、まるで屏風が1曲ごとに断裁されたかのように並べて、床面から20~30センチ浮かせて吊り下げられていた。真鍮板の大きさはタテが2400ミリ、横が1200ミリ、厚さが1.2ミリ。重さは20キログラムになる。向かって左端の真鍮板には、生きた鶏が逆さに吊されていた。右端の真鍮板には片面だけトレーシング・ペーパーが掛けられていた。土方巽はこれらの真鍮板に静かに寄り添い、ある時は体で激しく打撃し、まだ生きている鶏に手をかけるように踊った。※4


2.4m×1.2m、厚さが1.2mmの真鍮板は、ペラペラである。しかし持つにはたいへん困難である。ペラペラの真鍮板の重心が移動するからである。中西のメモにより舞台装置はおおよそ分かる。また、中西は後年、この真鍮板の舞台装置について「美術手帳」(1986年5月号・美術の土方巽)で書いている。この舞台装置の体験により光琳の「紅白梅図」、宗達の舞楽図や風神雷神図の構造と意味が分かったと。非常に興味深いことだが、今の私には残念ながら分からない、先を急ぐことにする。

さて、真鍮板は会場の光と闇を写し、そして土方を写しながら廻転した(だろう)。土方が触れ、打撃するにつれ写り込むものは次々と変化した(であろう)。また真鍮板の振動と音をも知覚することになる。では、何故真鍮板なのか?

「現代詩手帳」(1977年4月号)での座談会(土方巽・鈴木忠志・扇田昭彦の鼎談)で土方は次のように語る。

―(前略)ガラスの破片は、材料の奴隷になる以前の、ガラスの危機感として猛烈な速度にはまりこんだ物質を捉えているのでしょう。これからはどんな危機感がどういう物質に置き換えられるかわからない。ただ、子供の頃、うまく機会を逃したい、生きていることの中に。こうあって欲しいという嘆願のほうに、機会を失するようなほうに綿々たる恋慕をもって生きてたということがある。それがガラスになったり、そういうものに置き換えられているんであって、ある舞台装置のためにある画家を連れてきて新しい材料で、というようなものじゃないですね。※16

ガラスの危機感については、永田耕衣×土方巽(4)の「今や、断頭台上に立ち手を縛られた罪人は、まだ死んではいない。死ぬには一瞬間が足りないのだ。死を猛烈に意欲するあの生の一瞬が・・・・」を思い出して欲しい。「人間的自然の根源的なヴァイタリティの逆説的なあらわれ」を物質にも見てとるのが土方なのだ。
(参照 ⇒永田耕衣×土方巽(4))

さらに、もう一つ。「うまく機会を逃したい」「機会を失するようなほうに綿々たる恋慕をもって生きてたということ」は、(機会を得ての)存在者の否定である。土方少年は物質の(そうありたかった)夢に恋慕しているのだ。

「歩行者一人一人はそのカラダに死者をかかえ歩いているんだよ」と土方は弟子の芦川に言った。目の前の歩行者、彼らはあらゆる可能性のなかで一つの機会を得たものたちなのだが、逆に言えば他の機会を失したものたちなのだ。それが死者なのだ。これを物質にも見てとるのが土方なのだ。

ベルグソンは意識という生命エネルギーが物質と格闘(有機化)しながら、それぞれの段階の生物(植物・動物・人間)を生み出し、ついに人間に至って意識は本来の自分を取り出したことを語る。しかし、意識は「貴重な財宝」を手放さなければならなかった。

―有機体の総体は、人間そのもの、あるいは精神的に人間に類似する存在が、いずれはそこに芽生えるはずであった腐葉土のごときものになる。
―意識は、人間にあっては、何よりも知性である。思うに、意識は直感でもありえたであろうし、直感でもあるべきであった。直感と知性とは、意識的な働きの相反する二つの方向をあらわす。直感は生命の方向そのものに進み、知性は逆の方向に向かう。(中略)完全無欠な人間性があるとすれば、そこでは意識的活動の二形態がともに十分な発達段階に達していることだろう。
―要するに、意識は何よりも自己を知性として規定しなければならなかった。なるほど、そこには直感がある。しかし漠然としており、とりわけ非連続的である。それはほとんど消えかかったランプである。ときたま燃えあがっても、ほんの束の間しかつづかない。しかし、このランプは、要するに生命的関心が働くときには、燃えあがる。われわれの人格のうえに、われわれの自由のうえに、われわれが自然全体のなかで占める位置のうえに、われわれの起源のうえに、またおそらくはわれわれの運命のうえに、このランプはゆらめく微光を投げかける。微光ではあるけれども、それは、知性がわれわれが置きざりにする夜の闇をつらぬく。※17


ベルグソンの美しい文章、ために引用が長くなってしまった。土方は舞踏家である。ベルグソンのように「知性」「直感」などと言葉を整理するようなことはしない。
しかし「自分の肉体の闇をむしって食ってみろ」と言う舞踏の土方はベルグソンと同じものを見ている。ジジェク風に言えば、ベルグソンは土方の舞踏を観ていた、という冗談も言いたくなるほどだ。


さて、土方の真鍮板との舞踏にもどることにしよう。真鍮板は吊されていて動く、運動する。ここでは真鍮板は装置ではなく、土方とともに一舞踏手となっているのだ。

たとえばトランペット、その素材は真鍮板である。真鍮板は人間の知性により(機会を得て)トランペットになってしまった。では、機会を失した(何ものにもなる可能性のある)真鍮板の音は?震えは?反射する光は?そしてトランペットになる一瞬前の叫びは・・・・土方は遡るのである。このときの舞踏を想像する。動く真鍮板を前にして、土方の視覚、聴覚が生起するその場所は、触覚のとき同じように、真鍮板であったろう、と。土方の脳のなかではなかった。

たえず生成し運動している世界に対して知覚系は引き算をする。運動を静止画像のように固着させるのだ。土方は生成・運動のなかで物質を、人間を、捉える―物質の叛乱、肉体の叛乱。

しかし、この真鍮板の構想は土方が元藤(土方夫人)と出会う青年の頃から抱いていたものであった(それは次回に)。では、今回の土方巽に耕衣の句を贈るとしよう。

 舐めにくる野火舐め返す童かな  闌位
 皆行方不明の春に我は在り    種
 餅は皆にじり居るらし冬の暮   種


    (続く)
※4 『土方巽の舞踏』慶応義塾大学出版会 より
※16「現代詩手帳」(1977年4月号)特集「舞踏」より
※17『ベルグソン全集4』(創造的進化)白水社刊より

2011年2月20日日曜日

永田耕衣 × 土方巽(6)

大畑 等


記憶―耕衣の姉・土方の姉

耕衣はこう回想して語る

―二歳ソコソコのころ、ある日の夕方、私は八つ年上の姉に負んぶされていた。生家のすぐ横手の路次であった。姉は、同じように子守をさせられている隣家の友だちと向い合って話をしていた。私は負われながらも疎外されている感じであった。私は何ということなしに、姉のウシロ髪をもてあそんでいた。その髪を強く引っ張ったのであろう、姉は突然キツイ声で「イタイヤナイカ」と叱って、私の手先を振り払うように頭を振った。私はすぐ髪いじりを止めたが、途端に何ともいえぬ寂しさがこみあげてきた。泣きはしなかったが、或る遠い遠い、何か分からぬ空間を痛感した。やはり「孤独」感というものだったにちがいない。(中略)
 ツイむつがしげになったようだが、二歳ソコソコの童子が、姉に負んぶされながら、手持ちぶたさのあまり、姉のウシロ髪をもてあそんで、「イタイヤナイカ」とキツク叱られた、その髪の根は大人になってから「思考」すると、ソレがパスカルの「葦」の根と同根だったことが分かるのだ。※12


(中略)部では「人間は考える葦である」をダシにしたような耕衣の文章、換骨奪胎の耕衣の世界観である。葦を、地球生成後のドロドロとしたカオスからさきがけて発生した生命と捉え、パスカルの「葦」(理性)は姉の髪の「根」に潜り込んでいく。実に耕衣は身体的だ。一方、土方、

―ふと家のなかに目を向けると調度類がなくなっていることに気づくこともあった。調度類や什器には注意を払っていなければいけない。その頃から、縁側にいつもすわっていた姉がふいにいなくなっていた。姉とは、突然に家のなかからいなくなるものだ、と私は思っていた。黴のなかから幽霊を育ててきたような私のからだには、その黴に抱かれてミイラのように干涸らびて育ってきたようなところがある。※13
土方と姉 ※14より









土方の姉たち。ふと家から消えていく姉を調度類が消えるように土方は語る。そして文脈を交えず黴の身体を語るが、姉たちは黴のように土方の身体に棲みついていたと捉えて良いだろう。この姉たちは土方の実の姉を越えて飢饉のとき花街に売られ「ふいに居なくなっていた」姉たちでもあろう。

―小学校一年生の時に、ちょうどこちらにおりました一番上の姉を訪ねて、鈍行に乗りまして二十二時間ぐらいかかってやって来ました。当時の鈍行というのは石炭ですから顔が真黒になって神戸の駅に降りたわけです。その時に、真っ白い人が近づいて来まして、何か恐ろしいことを知ってしまったと思った。それが私の姉でした。その姉を私は自分の体に住まわせてしまった。※14

土方は「何か恐ろしいことを知ってしまったと思った」と言う。何かは、土方は語らないが、「風だるま」のような者を姉に見たのかも知れない。姉の不在、黴のように土方に棲みついた空白が先に来て、その空白が「これが姉さんだよ」と言ったとしよう。そのような恐怖か?

耕衣と土方の二人の「姉体験」は強烈である。耕衣は姉の背中から人生の「孤独」を言い渡された。一方の土方は「真っ白い人」という姉の存在、いや不在か?幼児耕衣、少年土方にとって、この前言語的体験は一生をかけて書き、踊っていくことになる。

二歳ソコソコの耕衣は姉に負われて一つ身体の心地よさのなかにあったであろう。しかし、その姉の「イタイヤナイカ」との一声で断絶(存在論的差異)を知る。耕衣はその衝撃を一生考えることになる。言葉の耕衣は、それを「或る遠い遠い、何か分からぬ空間」と言い、「カオス」と言い、「存在の根源」と言い、「孤独」と言う。しかしいくら言ったところで、幼児の耕衣が痛感した「クオリア(質)」に迫ることはできない。迫ろうとするところに俳句(詩)が生まれる。

 尾を上げて尾のした暗し春雀     傲霜
 夢の世に葱を作りて寂しさよ     驢鳴集
 道路ほど寂しきは無し羽抜鶏     驢鳴集
 佇ちなやむ人間といひあやめといひ  驢鳴集

ここにあげた4句は、「孤独」感を色濃く表現している。耕衣目前の「春雀」「葱」「羽抜鶏」「あやめ」は、二歳のときの「イタイヤナイカ」の声に遡る。冬であれば耕衣と姉は「ねんねこ」一つのなかにある。一のなかで耕衣は切り離されたのだ。

 冬の雲一箇半箇となりにけり    與奪鈔
 手を容れて冷たくしたり春の空   冷位

元藤(土方巽夫人)は、三番目の姉に土方が会いに行く話をする。この姉は、土方が小学校に入る前から家にいなかった。故郷の姉が土方を探しあて、土方が家族とともに会いに行くことになった。1977年、「竿灯」の祭りの前日、八月の初旬のこと。

―土方は自分で私と子供たちの着て行く服を選んできた。それは真夏なのに冬服だったが、どうしてもこれが似合うので着て行けと命令調で言う。私の分はピンクの中国服だった。私は苦痛だったが汗をかきながら彼のためにこれを着ることにした。子供たちも同じく冬服だった。自分は大島紬と茶色の上布の和服を揃え、さらに背広を新調した。※14

土方は姉と抱き合って泣き、姉の肩を優しく撫でてあげた、と元藤は書いている。心底二人は抱き合って涙した。しかし土方の演出は何故か?土方一家の「真夏の冬服」「ピンクの中国服」「大島紬」。対して出迎えの親類の「まっ黒な顔にギコチない背広姿」。畸形滑稽でもある、しつらえた現実。

そもそも知覚は限定的だ。生の現実を生きるための負荷があまりにも大きいからだ。そこでそぎ落とされたもの。目の前の人のかたちを剥がしたあとの膨大な残余、空白、これが耕衣の「或る遠い遠い、何か分からぬ空間」であり、土方の「何か恐ろしいこと」なのだ。土方が姉に見た「真っ白い人」とはこの膨大な残余なのである。そしてそれが「一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい」と言う「死んだ人」なのだ。このことは後に書くとしよう


※4より

















この白、土方は白塗りの肢体で踊る。このことについて郡司正勝はこう語る。

―暗黒舞踏団の「白塗り」の肢体をみてみると、壁の中に閉じ込められた感じがしてくるのはなんなのであろうか。もしかして、反逆の罪の罰の色なのかとも想ったりもする。いうまでもなく、その白さは、澄明な性質のものではない。その裸形の底には、闇の黒を沈めていて、異様に隠微な匂いが立ち籠めているのである。(後略)※15

郡司は、「白」には、色なき「死の世界」と太陽光の「生の世界」の両儀をもつが、元初には、死者の白骨の連想があると語る。

土方は姉に会うとき「何か恐ろしいこと」、「真っ白い人」を踊らねばならなかった。「一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい」を踊らねばならなかったのだ。現実は舞台空間にしつらえられたのだ。
                                   (続く)
 

※4 『土方巽の舞踏』慶応義塾大学出版会 より
※12 「アスベスト館通信6」(発行所・アスベスト館)より孫引き。
   原典は『田荷軒皮袋』と記されている。
※13 『病める舞姫』土方巽著 白水社刊 より
※14 『土方巽とともに』元藤燁子著 筑摩書房刊より
※15 『土方巽頌』吉岡実著 筑摩書房刊 より

2011年2月6日日曜日

永田耕衣 × 土方巽(5)

大畑  等


「風だるま」
―後から手紙(ことば)が来る



   妄想の足袋百間を歩きけり  耕衣                
                (『與奪鈔』) 

土方の講演「風だるま」は彼の舞踏論だけにとどまるものではない、言語の問題にも及ぶ宝庫である。1960年代は「肉体と言語」をテーマに、いろんな雑誌が企画した。しかし詩人たちは、このテーマを恐る恐る語った。私は、今読み返しても、そういう印象をもっている。言葉と肉体をつなぐ回路を見いだせていないのだ。

土方巽

 










―(前略)ところがその風だるまは自分の体を風葬してる、魂を。風葬と火葬だ、それがいっしょくたになって何とかして叫ぼうと思うけれども、その声は風の哭き声と混ざっちゃうんですね。風だるまが叫んでいるんだか、風が哭いてるのか混ざっちゃって、ムクムクと大きくなっちゃって、やっと私の玄関にたどりついたのです。どんな思いでたどり着いたのか?今喋った坊さんの話と風だるまが合体して、そこに非常に妖しい風だるまの有様がひそんでいるのです。風だるまは座敷にあがって来ても、余り物を喋らない。囲炉裏端にベッと座っている。そうすると家の者が炭を、これもまた何も聞かないで、長いこと継いでいるんですね、私は子供の時にそういう人を見て、何と不思議なんだろう、何となく薄気味悪いけど親しみが持てないわけでもないし、一体何が起こったんだろうかと思いました。するとこういうことがあるでしょう。最初に荷物がチッキで届いて後から手紙が来る、そんなふうに自分の身の上に起こったことを、喋るんですよ、雪だるまは。
おーおーてーはー。
(ああ、「おおっ」てあんたが叫んだんだね。)
ビュービュー。
(ああ、びゅーびゅーって風吹いてたのか。)
 すると「おーおーて」、「びゅーびゅーてー」、「はー」と、そこでそのうちわけがちょっとわかるわけですね、どんなにひどかったのか、そしてその顔は何か、死んだ後の異界をのぞいて来た顔なんですね。お面みたいになってるわけです。生身の身体でもないし、虚構を表現するために、物語を語るために、何かの役に扮しているのでもなくて、身体がその場で再生されて、生きた身体の中に棲んでしまった人なんです。ところが雪ダルマにもいろいろあります。これはまだいい方です。一緒に入って来るのがいるんですね。
おーおーてビュービューってェー
と言って入って来る。(下線は大畑)※3


長い引用となったのは、土方の指先の動きのような語りの細部を、共有したかったからだ。さて私が線を引いた「坊さんの話」とは『日本霊異記』の景戒(きょうかい)が書いた夢のことである。夢の中で景戒は、自分が、死んだ自分の身を焼いた。小枝を折ったり、串刺しにしてひっくり返す。体がみんな焼かれて、回りで焼いている人に、このように焼きなさいと教えるのだが、聞こえない。それで景戒は「死んだ人の魂は声がないから、私の声は聞こえないのだろう」と思うと書いてある。

土方はこの景戒の話をして直ぐに、「ところがちょっと待てよ、それはちょっとおかしいぞ?」、「夢を見ている最中の話じゃなくて、夢から覚めて字にしたもので、こんなにさっさとかけるわけがない」と話す。私たちには決しておかしくないのだが、土方は土方の舞踏で景戒を読むものだから、「おかしいぞ」となる。土方の書き方(舞踏)では、自分が自分の死体を焼きつつ書かねばならないのだ。「風だるま」のように。

自分が自分の死体を焼く景戒、そういう景戒が再生されなければならない。そういう景戒に棲まわれてたしまった生きた身体が舞踏の肉体ということだ。つまり、

私とは私と肉体の私である  ―土方巽

ここで言う「肉体の私」とは「風だるま」のような肉体、あるものに棲みこまれてしまった肉体である。

―私の身体のなかで死んだ身振り、それをもう一回死なせてみたい。死んだ人をまるで死んでいる様にもう一回やらせてみたい、ということなんですね。一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい。それにですね、私が死を知らなくたってあっちが私を知っているからね。※3

「あっちが私を知っているからね」というあっちとは「死」の側は勿論、「肉体の私」も指しているようだ。しかし「肉体の私」は言語を獲得すると、肉体の闇のうちに没せられる。言語はまず他者(主に母親)から授けられる。このコミュニケーションがあって後、言語は自分自身に何かを伝える手段であることが重要になる。永井均はヴィトゲンシュタインに反して「私的言語が可能でなければ言語は不可能」だと言う。ここで「私」が芽生える。しかし私的言語は他者には公的言語で語られる。何が起こるか、

―公的言語の意味の働き方に乗らなければ語れないので、言わんとすることが言えない――言わんとしていることとは別の「正しい」ことが言われてしまう――※10

 
これが景戒の言葉(であり私たちの日常の言葉)である。言葉は生命が抜かれて言葉である、と言われる。「腹が痛い」、この私の直接体験、ありありとした意識にもかかわらず、他人から「どのように痛いのか?」と問われても、言葉で伝える術はない。最後は沈黙することになる。又は、ほどほどのところで切り上げて、まるで問いと答えがなかったかような、事態には全く意味のない行為でその場をとり繕う。まさに意識とは、「言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもある」。※10

「自分の肉体の闇をむしって食ってみろ」という土方は、言葉においても闇に向かい、そしてむしって食っているように思える。吉本隆明は「舞踏論」で、

―わたしはかれの舞踏をみたことはないが、言葉をみれば舞踏をみたとおなじことになる。※11

と書く。上記は、「身体と言葉のあいだで同一の暗喩にしてしまっている」と語ることのできる視座(まさにハイ・イメージ)からのものであろうが、今は土方の言葉に当たることにする。「風だるま」では、

「泥を足の裏で吸い上げる話」、「柔らかなじょならっ(傍点)としたセンベイを食べる話」、「自分の手に物を食わしたりしている幼児の話」、「指物師の手が鉋に見える話」、「自分の脹ら脛に部屋の外の景色を見せようとする話」、「柄杓を可愛そうだと思い、畑の中へ柄杓を置く話」、「空っ箱、ふいごになった柳行李になって内臓を一切合切表へ追い払って遊んだ話」、「馬を鋸で挽く話」、「川を凍らせて持ってくる話」を土方は延々と語る。

土方の語りのなかで「もの」はいつもこの世界とは異なる相をみせる。固いものは湿って柔らかくなり、逆に柔らかいもの、流れるものは凝固してあらわれる。

―空だってそうです。あれだって一枚の皿だと思えば叩き割ることができるんです。あんな一枚の皿、人皿でしょ、あれを叩き割れば何か騒動が起きるかもしれない。そういうふうな妄想ともつかない肉体の拡張が、どんどんどんどん広がってゆく。※3

「人皿」と語る土方の不思議な造語。それでも土方の語りを荒唐無稽と思わないのは、土方の言葉に肉体の意味作用を強く感じるからだろう。土方の言葉も、また舞踏しているということだ。

私はときどき、自分の耳から内臓がぐにゅぐにゅと出てくる感覚を経験する(A)。栄螺を食べるとき、フォークで突き刺し、内臓ごと巻きながら取り出す(B)ことがもととなっているのかも知れない。身体で感覚するAは、Bの直喩、つまりBのように、と言うことができるからだ。しかしAの意味するものを言葉で表すのは難しい。

「肉体の拡張」、それは舞踏するということだ。土方の「内臓を一切合切表へ追い払って」というイメージは土方の肉体が裏返る、表皮が内に潜り込み、内臓が表にめくれあがってくるイメージ、そう反転のイメージである。

土方の眼球や腕がずるずると「もの」に伸びて行き、土方の肉体と「もの」が食い入る。主客一体となった「かたつむり」があらわれる。

 かたつむりつるめば肉の食い入るや 『驢鳴集』

「自分の腕が自分の腕でないように感じ取る、ここに重要な秘密が隠されているんです。舞踏の根幹が秘められている(※ 3  )」。この耕衣の句を読む土方は「かたつむり」になっているに違いない。

「肉体の拡張」・・・・、固い物はぐにゃっとなる、空は一枚の皿に、水は固まって計られるものになる。

 秋の暮杓無くば水長からん  『闌位』

また、この「風だるま」で土方はこう話す。

―この話は後からするけどおそらく時間がなくなるでしょう。いや、なくなりますよ。※3

二度目の「なくなる」では時間が固体になっている、きっとそうに違いない。

 百合剪るや跳ぶ矢の如く静止して 『吹毛集』
 時間から落ちて遊ぶや夏雀    『物質』


耕衣もまた舞踏している。

 (続く)


※ 3  『土方巽全集Ⅱ』・河出書房新社 講演「風だるま」より
※10『なぜ意識は実在しないのか』 永井均 岩波書店刊より
※11『ハイ・イメージ論Ⅲ』「舞踏論」吉本隆明 筑摩書房より 

2011年1月30日日曜日

永田耕衣 × 土方巽(4)

大畑  等




土方巽の衰弱体


一個の肉体の中で、人間は生まれた瞬間からはぐれているんですね。-土方巽 ※1

てのひらというばけものや天の川  耕衣(『闌位』)


耕衣の書画 ※8
















永田耕衣は朽ちていく茄子を前に「衰退のエネルギィ」を凝視する。一方土方は自分の肉体の闇をむしって食べる。そこで見出すものは「衰弱体」であり、憑かれた肉体は「衰弱態」となり踊る。生命と物質の境界で「あらゆる事物はひとりでに踊る」(ニーチェ)のか。衰退と衰弱、耕衣は〈茶化し〉てカラッと言うが、土方は対談・講演・物語で「衰弱体」を饒舌に語る。ここでは土方を通して耕衣を見ることになるだろう。


舞踏とは命がけで突っ立った死体である   ―土方巽 ※1

芦川羊子の回想。
―舞踏論をとうとうと聞かせながら、先生は氷屋ののれんを通して外を歩く人を見て、「彼らはみな死人なんだ」「死んだ形を運んでいるんだ」と一生懸命喋っていました。                             (後略)  『土方巽頌』より

また、土方は芦川にこうも言ったようだ。
―歩行者一人一人はそのカラダに死者をかかえ歩いているんだよ。
                            『舞踏の水際』中村文昭より

土方自身は次のように書く。
―断頭台に向かって歩かされる死刑囚は、最後まで生に固執しつつ、すでに死んでいる人間である。死と生の強烈なアンダコニズム(抗争)が、法律の名の下に不当な状態を強いられた、この一人の人間のうちに局限化され、凝集的に表現される。歩いているのではなく、歩かされている人間、生きているのではなく、生かされている人間、死んでいるのではなく、死なされている人間・・・・・この完全な受動性には、にもかかわらず、人間的自然の根源的なヴァイタリティが逆説的にあらわれているにちがいない。「今や、断頭台上に立ち手を縛られた罪人は、まだ死んではいない。死ぬには一瞬間が足りないのだ。死を猛烈に意欲するあの生の一瞬が・・・・」とサルトルも書いている。かかる状態こそ舞踏の原型であり、かかる状態を舞台の上につくり出すことこそ、僕の仕事でなければならない。 ※2

そしてこうも話す。
―私の身体のなかで死んだ身振り、それをもう一回死なせてみたい。死んだ人をまるで死んでいる様にもう一回やらせてみたい、ということなんですね。一度死んだ人が私の身体の中で何度死んでもいい。それにですね、私が死を知らなくたってあっちが私を知っているからね。 ※3


ここの死体はまったき死体ではない。耕衣の「衰退のエネルギィ」の茄子が朽ちて、物質になる前の「一瞬間」と言えば良いのだろう。『疱瘡譚』で土方は立つことが出来ない病人を踊る。小さな部屋に閉じこめられて、生涯立つことが出来ない病人、その病人が死を前にして、一度でいいから立ちたいと決意して立とうとする。土方は「その瞬間は、最高のバレリーナがトオで立ち上がった瞬間よりも美しい」と語る。歩行しようにも歩行できない、立とうと思っても立てない、立ったと思ったら崩れる。ようやく立っているその状態を土方は「灰柱」と言い、それは土方・暗黒舞踏の原点であった。


「疱瘡譚」 ※4














笠井叡は土方の即興の踊り(「降霊館死學」)を次のように語る。
―完全に自分の体を客体としてモノにまで還元した踊りを、私はそのとき初めて見ました。ダンサーというのはいくらやっても、自分の体をモノにまでするのは、自殺する時くらいでないとできないですよ。それを自殺にやや近いくらいに自分の体を客体化して踊ったのです。手をひとつ動かすにも、普通のダンサーは中から動かすのですが、完全に外から動かしきった、そういうダンスでした。※4 
―ダンサーには、いくらなんでも自分の体を客体化するなんてできないわけです。体の中にいるわけだから。私の知るかぎりでは、あそこまで自分の体を客体として使ったダンスは他にありません。(中略)
それから、思い出すのは、三島さんの『午後の曳航』の台詞を受けて、「三島さんは本当に人間の思想は脳から生まれると思っているのかな、俺はそうは思わない」って私に言ったことです。 ※4 

西洋の哲学は、身心二元論のなかで、心(精神・理性)を重視し体を貶めた。端的にはデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」で、心の側から身体を切り離した。身体の復権はニーチェまで待たなければならなかった。ここで土方は身体の側から心(精神・理性)を切り離した。笠井が語る「あそこまで自分の体を客体として使ったダンス」とは、「死んだ形を運んでいるんだ」と土方が語る人の、「死ぬには一瞬間が足りない」人間のダンスなのだ。

再度、土方のこの言葉はどうだろう。
―一個の肉体の中で、人間は生まれた瞬間からはぐれているんですね。 ※1

土方は幼児のときの記憶を書いている。農繁期には両親は田んぼに出る。子供は飯詰(いづめ)に入れられて田んぼの畦に朝から月の出るまで放っておかれる。飯詰とは御飯を入れる藁の丸い桶である。飯詰にはいろんなものが詰められ、出られないように結わえられる。

―子供ですからたれ流しでしょ、下半身の世界が、むずかゆくなるわけです。それで泣くんです。(中略)ピャーッと泣くけれども、働いている人には届かないんですよ。田んぼだから、空があまりにも広くて、それから風でしょう。だから、空見て「大馬鹿野郎だ」と思いましたよ。
 夕暮れになって中から抜かれると立てないんです。完全に足が折れていて、いざりになっていますよ。子供は絶対に家族の顔を見ない。畳まれた関節がそこに置かれている。それは滑稽で、とても厳粛です。せっぱつまっているわけです。足が躰からスーッと逃げて行く気がする。行ったきり戻らない足はどこに行ったのか。それは子どもの飯詰にいじめ抜かれた躰だけが知っているような気がします。 ※5


※9
















そして土方は、農繁期に柱に繋がれている幼児のことを話す。
―(この幼児というのは)何か得体の知れない動きをやっている。自分の手に物を食わしたりしているのがいるんですね。(中略)それで子供は自分の手を、自分の手じゃない、自分の身体だけど自分の手じゃない物みたいに扱っている。だから自分を他人のように感じているんでしょう。時々耳をはずそうとまわしたり、いろんなことをするんですね。 ※4

飯詰の話は身近なこととして身体によみがえる。正座のときの痺れ、狭い座席で身動きできない満員電車での感覚。ときに叫びたくなるのだが、このとき全ては身体感覚のうちにある。当然、舞踏家は身体で表現する。思考もまた身体から、身体を手引きとして思考する。

精神科医の計見一雄は「精神を病むって本当か?精神は病めるのか?」と問う。この問いは土方の数々のことばのように衝撃的だ。精神医学は精神を肉体と切り離して考える西欧の伝統が生んだものである。計見の患者はこのように言った。

―俺の精神は病んでいない。精神は病まないんだ。こいつら(仲間の患者たち)だって精神の病気じゃないんだ。
計見は、では何が病んでいるんだと反問。
―それを考えるのがお前の仕事だろ。 ※6

この患者は、まさに空に「大馬鹿野郎だ」と思う土方に近いようだ。土方は飯詰の話をそっくり肉体だけで語る。また、「自分の手に物を食わしている」子供の話も身近なものである。ぼやっと自分の手の指を眺めている幼児や自分の指を執拗に嘗めている幼児を見る。指は対象でありつつ自分であろう。ことばの獲得も自他の境界もここから発するのではなかろうか。しかし近代はこのような肉体を掘り下げなかった。土方はこう言う。

―自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか。自分の肉体の闇をむしって食ってみろと思うのです。ところが、みんな外側へ外側へと自分を解消してしまうのですね。 ※7

耕衣に句集『物質』(昭和59年刊)がある。同年、土方が耕衣宅を訪れている。

探されて居る身心や秋の暮
ねじ花の腐れ間長き女体かな

これらの句は耕衣が土方を思っての句であろう。しかしこの句集のほとんどの句は土方来訪前のものだ。

昔日のゆたかさに在り冬の蠅
たらちねを触りに行くや春の道
春風という肉体の行きずりぞ
寂しさをこぼさぬ蝿の頭脳哉
ひる蛭と嬰児に還り行く我は
炎天や十一歩中放屁七つ
炎昼の軒塞ぎたる乳房かな
物質に歳の消入るは寂しけれ
しみじみと牛肉は在り寒すずめ
物質にまで成長せよ雪の人
物質に過ぎざる生や蝿の中
空瓶に写らむ猪よ待てしばし
薄氷の平明のむごたらしさよ
掌で穴(けつ)をぬくめづめなり炎夏翁

俳句にはこなれていない「物質」「頭脳」「牛肉」などの言葉の使用、そのものとしては表情の乏しい「蠅」「蛭」の取り込みなど、言葉をも物質として使用しているようだ。耕衣の句はもともと日本語の抒情に引きずりこまれることを拒否したような句である。したがって、たとえば「孤独感」であるよりも「孤独」そのものに直面(ひためん)する。

また、俳人は俳句を制御できるものではない。日々を貫く身体感覚の流れが俳句を決定付ける。定型であるが故に。物質というテーマがあって句集名『物質』が出来たのではない。『物質』は後から発見され、名づけられるのだ。  
 
(続く)

※1『土方巽全集Ⅱ』・河出書房新社 対談「暗黒の舞台を踊る魔人」より
※2『土方巽全集Ⅰ』・河出書房新社 「刑務所へ」より
※3『土方巽全集Ⅱ』・河出書房新社 講演「風だるま」より
※4『土方巽の舞踏』 慶応義塾大学出版会 より
※5『土方巽全集Ⅰ』・河出書房新社 「犬の静脈に嫉妬することから」より
※6『精神の哲学・肉体の哲学』木田元・計見一雄 講談社刊 より
※7『土方巽全集Ⅰ』・河出書房新社 対談「肉体の闇をむしる」より
※8「虚空に遊ぶ 俳人永田耕衣の世界 図録」・姫路文学館刊より
※9 細江英公写真集『鎌鼬』・現代思潮社刊より         
                                            

2011年1月23日日曜日

永田耕衣 × 土方巽(3)

大畑  等



衰退のエネルギー


 茄子や皆事の終るは寂しけれ  耕衣(『冷位』)

耕衣は生命には成長するばかりのエネルギィだけではなく衰退させるエネルギィもあるのだと言う。耕衣は、実際に茄子を植木鉢に育てた。味噌汁の具になることもあるというユーモアを交えて耕衣は語る。

―それが成長して花を咲かせ、実を成らせるという成長のエネルギィを楽しんで見、それ以後の茄子がミイラに成るまで見届けてやろうと、今もミイラ化しつつある茄子を育てています。(『永田耕衣 俳句文庫』(春陽堂書店刊)

―非常なリアリズムですね。生命がなくなるまで見えて、直面(ひためん)できて、しかも生命がなくなったもの自体が未だ物質として遺っているというのを見届けてゆくのはね。一種の「風狂」と言えるかもしれませんが。(同書)

『永田耕衣 俳句文庫』(春陽堂書店刊)



想像してみよう。耕衣は茄子のときどきを、あるときは笑い、あるときは横目で見、またあるときは「ふむ」とか声を掛けたのではなかろうか?動物ではなく植物であるところが面白い。視線を持たない茄子は昨日とは異ならないが、二三日前とは異なっているはずだ。

朽ちる茄子。へこみ、皺が深くなる。そしてカチンカチンの固体になった茄子―物質を見る。

仏教に九相観がある。美女の死体に虫が湧き、散乱して骨になる、その全過程を実際に見て、観想するものだ。しかし、これは風狂ではない。風狂は市井にある。一休は拾った髑髏を竿に引っかけて正月の町を廻った。「死」は市井のエネルギィと交錯する。ここには諧謔がある。耕衣は、一休の髑髏ならぬ茄子のミイラで一句成す。まるまる諧謔。

元旦や枯死淡淡の茄子三つ 耕衣 (『物質』)

「衰退のエネルギィ」は耕衣米寿の頃に言いだしたようだ(ちなみに耕衣の年齢は西暦の下二桁)。雑誌「太陽」(1988.9)のインタビューでこれを言い、平成元年(1989年)の「琴座」で「衰退のエネルギィ」を特集している。1997年8月25日没の耕衣であるから、この哲学は最晩年の頃に世に唱えられた。しかし、老いを知る五十、六十歳からの哲学であろう。

耕衣の愛蔵本に『孤高の詩人イェイツ』(大浦幸男著)がある。以下は「虚空に遊ぶ 俳人永田耕衣の世界 図録」(姫路文学館刊)による。

―耕衣はアイルランドの詩人イェイツ(1865~1939)の「肉体の老朽は叡智である」「老人の狂気をおれに与えてくれ/おれ自身をおれは作り直さねばならぬ」などの詩句に出会い、〈老いのおもしろさ〉についての思索を深めていった。

ここで私事、二枚の葉書が机の前の壁に貼られている。もう十数年になろうか?故郷の祭からの帰路、伊勢神宮・瀧原並宮で出会った高橋敬一氏からのものだ。



一枚(平成8年の年賀状)に高橋訳のイェイツの詩が書かれている。もう一枚は退職して放浪の旅に出る、との葉書。以下高橋訳のイェイツの詩を掲げる。


いつかぼくは
あの大空の雲の上で死ぬだろう
ぼくが戦わなくてはならない敵を
 ぼくが憎んでいるわけではないし
ぼくが守らなくてはならない人々を 
 ぼくは愛しているわけでもないのだ
ぼくの故郷はキルタータン・クロス
ぼくの故郷の人々は貧しいけれど
ぼくがどんな死に方をしたところで
彼らが損をするわけではないし
ましてや以前より幸せになるわけでもないのだ
法や義務のためにぼくは戦うのではない
政治家や熱狂する群衆のために戦うわけでもない
ただ孤独な歓喜のきらめきが
ぼくをあの雲の中の戦いへといざなうのだ
すべてを計りにかけてぼくは考えてみた
きたるべき未来も
過ぎ去った過去も
すべては無意味だ
この大空の中の
生と死にくらべれば

日本の能に影響されて『鷹の井戸』を書いたというイェイツだが、私が知るイェイツはこの高橋氏のものだけだ。耕衣の「虚空」を大いに感じさせる詩である。高橋氏との出会い、これもまた耕衣が言う「出会いの絶景」と言うべきか。

宙でまた会えばや虻の俯(うつむ)かむ  耕衣
                  (『殺祖』)

(続く)

2011年1月16日日曜日

永田耕衣 × 土方巽(2)

大畑  等


白桃図

1974年、土方の愛弟子・芦川羊子を中心とした「白桃房」が結成され、土方の演出・振付が本格化した。「白桃房」の命名については永田耕衣の「白桃図」が係わっていたようだ。吉岡実は「白桃図」をいつも夏になると居間に懸けていて、「土方巽はそれを見て、たいへん執着を示したものだった。」(『土方巽頌』)と書いている。

「白桃図」 
『私のまえを犬が歩いていた』(書肆山田)より




 










「白桃図」の書は「白桃の霊の白桃・橋は成れり」で句集『悪霊』のなかの一句、画も書もまさに踊っている。このような太い輪郭の白桃も破格ならば、躙り寄ってはぶつかるがごとき書も破格である。そして言わずもがな「清楚混濁」のエロチシズムを漂わせている画である。 
  
耕衣には「白桃」の句が多い。この画に耕衣の「白桃」の句をいくつか置いてみる。

  白桃を今虚無が泣き滴れり   (悪霊) 
  白桃の肌に入口無く死ねり   (蘭位)  
  白桃を触らば道のうごめきぬ  (冷位) 
  大白桃一休をまだ滴れり    (冷位) 
  白桃や或る影を出で難く行く  (殺佛)

 「滴れり」「出で難く行く」は見立てや擬人化ではない。喩による表現でもなければ寓意表現でもない。それは「白桃図」の白桃の通り、白桃そのものの生き死に、白桃そのものの直の景なのだ。ここに揚げた五句はいずれも座五は「用言止め」である。耕衣の白桃の句の多くがそうなのであるが、耕衣は白桃に静物を見たのではない、動物的なる白桃、いや白桃そのままが動物と成っているのだ。この五句に非常に人間臭いものを感じ取ってしまうのだ。

耕衣に『一休存在のエロチシズム』(コーベブックス刊)がある。中篇の一書であるが、全て一休と森侍者(しんじしゃ)の愛欲に対する賛歌となっている。そして掲げた五句の源泉をも読みとることができる。

 抱きこめば女体虚空の匂いのみ  耕衣

この句に耕衣はこう書いている。

-一休といえども、何も虚空の匂いを最終のものと受用して満足したのではなかった。最愛の女体も詮ずるところ骸骨にすぎず、虚空的存在であるがこそ、逆に、当の現実的女体に親愛しきることができたのであった。

白桃は女体と成って踊っている。そして「成る」は土方巽にとって根本的な表現技法であった。土方の演技術は、「なる」演技であって表現する演技ではない、と言われる。「びっこの乞食を演ってみろ」は「びっこの乞食に成ってみろ」である。土方は「キリスト」、「癩者」、「白桃」に成るのだ。そういう土方が永田耕衣の「白桃図」に「たいへん執着を示した」(吉岡実)ことは充分すぎるほど分かる。吉岡のものでなかったら、土方は深夜忍び込んで持ち去っていた、と想像するのである。

(続く)






2011年1月9日日曜日

永田耕衣 × 土方巽(1)

大畑 等


序-芍薬忌  

うどん屋まで何米の憂き我ぞ  耕衣 『殺祖』より

私の愛唱句のひとつ。「うどん屋」から「憂き」まで駆け抜けていく速度、激しさに圧倒されるのだ。ことばが音である以上、言葉のもつ速度は音速を上限とする、こんなふうに考えると、この句にはそれを激しく超えていく迅さがある。

禅では師が弟子に胸ぐらを掴んで、「佛とは何か、云え、云え」と迫る。弟子は「前庭の柏樹子」と云い、「糞かきべら」と云う。そう、この耕衣の句には「うどん屋」と「憂き」を示しておいて、その間の空白を「云え、云え」と迫ってくる激しさをもっているのだ。言葉を越えて「云え、云え」と。

耕衣の迅さ、激しさは彼の書画にも現れる。私たちには、書画に端的に感じられるのだが、耕衣のなかでは句も書画も同じ迅さ、激しさで駆け抜けているのであろう。

「季刊銀花」(71年第7号 文化出版局刊)より















一方、土方巽。1928年3月9日 秋田に生まれ、1986年1月21日に没した前衛舞踏家。大方「土方巽をかんたんに紹介するのはむずかしい」と書かれている。確かに。しかし土方のどの写真、土方のどの文章にも土方その人が強烈に出てくる。また土方について書くことは誰もが強い緊張を強いられるはずだ。

『土方巽の舞踏』(慶応義塾大学出版会)より














舞踏家、演劇評論家、学者、詩人、作家、様々なジャンルの人たちが土方を語る、様々に語る。それらが的を射ているかどうか、そんなことはどうでも良いようだ。それら全部を土方は吸い込んでいくように感じるから不思議だ。ひとり土方が立ち現れる。

例えば、手に取った一冊、『器としての身體』で三上賀代は入門のときのことをこのように書いている。
―土方は私に、「びっこの乞食」をやってみろ、と言った。私は懸命に「びっこの乞食」になろうとした。土方は、ドンドンドンドンと太鼓を叩き、「うそつき、うそつき」と言い続けた。そして、「ことばと、妙なものだけで、うまく生きてきた人生を封じ込めよ」と土方が言った時、私の人生は、「ほんとうのこと」に向けて進み始めた。

不思議な本、『土方巽頌』は詩人の吉岡実による。吉岡は自分の日記と引用によってこの本を編んだ。ある意味、土方に対して寡黙な態度をとったと言えよう。俳句定型がその「言えなさ」をもって言うような、そのような表現を貫いた。その吉岡実が土方巽と永田耕衣を引きあわせたのだが、土方が強く耕衣に会いたかった、という言い方があっているようだ。

『アスベスト館通信第1号』(1986年10月15日刊)は土方の追悼号で、永田耕衣は埴谷雄高に続いて俳句11句と追悼文を寄せている。前書に「這箇舞漢(二字傍点)熱演の<暗黒(二字傍点)舞踏>われ未見なれば其の深淵を夢想しつつ※十一句」とあるから、耕衣は土方の舞踏を観ていない。そしてその11句中の最後の句は

己れ舞い殺しつ活きつ芍薬忌

と土方の命日に「芍薬忌」を与えている。これで終わりかと思ったが、さらに1句とその句が成った経緯を文にしたためている。おそらくは一稿終わってから、後日に入稿したものであろう。その句は

芍薬や難思ゆたかなる舞漢

「難思」は仏教用語からとり、「心も言も及ばざること」と耕衣は解説している。しかし以前、土方を詠んだ句に

ねぢ花の腐れ間長き女体かな   耕衣

があり、「腐れ間」は土方の造語「間腐れ」、間が腐るというところからきている。



                 (続く)