白桃図
1974年、土方の愛弟子・芦川羊子を中心とした「白桃房」が結成され、土方の演出・振付が本格化した。「白桃房」の命名については永田耕衣の「白桃図」が係わっていたようだ。吉岡実は「白桃図」をいつも夏になると居間に懸けていて、「土方巽はそれを見て、たいへん執着を示したものだった。」(『土方巽頌』)と書いている。
「白桃図」の書は「白桃の霊の白桃・橋は成れり」で句集『悪霊』のなかの一句、画も書もまさに踊っている。このような太い輪郭の白桃も破格ならば、躙り寄ってはぶつかるがごとき書も破格である。そして言わずもがな「清楚混濁」のエロチシズムを漂わせている画である。
耕衣には「白桃」の句が多い。この画に耕衣の「白桃」の句をいくつか置いてみる。
白桃を今虚無が泣き滴れり (悪霊)
白桃の肌に入口無く死ねり (蘭位)
白桃を触らば道のうごめきぬ (冷位)
大白桃一休をまだ滴れり (冷位)
白桃や或る影を出で難く行く (殺佛)
「滴れり」「出で難く行く」は見立てや擬人化ではない。喩による表現でもなければ寓意表現でもない。それは「白桃図」の白桃の通り、白桃そのものの生き死に、白桃そのものの直の景なのだ。ここに揚げた五句はいずれも座五は「用言止め」である。耕衣の白桃の句の多くがそうなのであるが、耕衣は白桃に静物を見たのではない、動物的なる白桃、いや白桃そのままが動物と成っているのだ。この五句に非常に人間臭いものを感じ取ってしまうのだ。
耕衣に『一休存在のエロチシズム』(コーベブックス刊)がある。中篇の一書であるが、全て一休と森侍者(しんじしゃ)の愛欲に対する賛歌となっている。そして掲げた五句の源泉をも読みとることができる。
抱きこめば女体虚空の匂いのみ 耕衣
この句に耕衣はこう書いている。
-一休といえども、何も虚空の匂いを最終のものと受用して満足したのではなかった。最愛の女体も詮ずるところ骸骨にすぎず、虚空的存在であるがこそ、逆に、当の現実的女体に親愛しきることができたのであった。
白桃は女体と成って踊っている。そして「成る」は土方巽にとって根本的な表現技法であった。土方の演技術は、「なる」演技であって表現する演技ではない、と言われる。「びっこの乞食を演ってみろ」は「びっこの乞食に成ってみろ」である。土方は「キリスト」、「癩者」、「白桃」に成るのだ。そういう土方が永田耕衣の「白桃図」に「たいへん執着を示した」(吉岡実)ことは充分すぎるほど分かる。吉岡のものでなかったら、土方は深夜忍び込んで持ち去っていた、と想像するのである。
(続く)