2011年4月24日日曜日

2011年4月24日の目次

俳枕 江戸から東京へ(17)   
                 山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記  (14)                          
                   内山  思考    読む
私のジャズ (17)          
                  松澤 龍一     読む
季語の背景(8・虹)-超弩級季語探究
                  小林 夏冬    読む

俳枕 江戸から東京へ (17)

日本橋・銀座界隈/日本橋
文 : 山尾かづひろ

日本橋(広重)


都区次(とくじ): それでは人形町より日本橋へ行ってみましょう。年表によると初代の橋は慶長8年(1603)に架けられています。この日本橋は明治維新までに何度となく架けかえられていますが、どういうわけですか?
江戸璃(えどり):何とこれが「驚き桃の木山椒の木(おどろきもものきさんしょのき)」で、江戸には火事が多くて10回も焼け落ちちゃったのよ。
都区次: さて、日本橋の北詰には関東大震災まで魚河岸があったというのはよく知られていますが、南詰には何があったのですか?
現在の日本橋
江戸璃: 何しろ日本橋は慶長9年(1604)に五街道の起点となり江戸の中で最も賑わう場所となったものだから、三越から日本橋を渡った南詰には晒刑場があったのよ。女犯の売僧や情死未遂者が三日間ずつ晒されたのよ。日本橋に晒があるといえば、黒山のような野次馬が思い思いの茣蓙を持ち込んで半日でも一日でも見物していたのよ。ことに情死未遂の人気は大変なものだったそうよ。本当に「恐れ入谷の鬼子母神」よね。


(日本橋にて)
飾りかけし馬車集ひけり日本橋 正岡子規
日本橋に酒樽凛と年用意    山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (14)

海の幸・山の幸
内山思考 


  水温む踵(きびす)を返しても未来  思考 


小鯖の炙り










桜の季節が近づくと、知人に電話する。「また頼むよ」「ああ、わかった。で、五十本?」「そう、五十本」これで通じる。 彼の出身地、尾鷲市梶賀(かじか)町の特産、小鯖の炙りを食べずして花どきを過ごすわけにはいかない。 こさばのあぶり、とは大敷網にかかった鯖の子を二十匹ほど竹串に刺し、ウバメガシを焼いた煙でいぶした燻製である。小アジを使うこともあるそうだが、香り、旨味、歯ごたえのどれをとっても小鯖が一級品で、時期を逃すと成長してしまって骨まで食べられない。

小鯖は大敷網のいわばオマケなので、本来なら餌や飼料にされるそうだが、梶賀の人たちはまとめて燻製にすることで自家消費して来たようだ。素敵な工夫である。 数日後、届いた炙りはまだあたたかい。 これ一串でドンブリ飯二杯はいける。 ああ幸せなことだ。 小鯖といえば、先日、南蛮漬にしたものを食べたが、それもうまかった。 場所は、市内向井(むかい)にある「夢古道おわせ・スカイフードレストラン」で、ここは、地元で採れた食材を活かした「お母ちゃんのランチバイキング」が大人気。 尾鷲湾と天狗倉山(てんぐらさん)が一望できる明るい店内はいつも賑やかで、何といっても賄いのお母ちゃんたちのテキパキとした働きぶりと笑顔がいい。

食欲は爆発だ、南蛮漬に舌鼓










僕が行った日の献立は「鯛の身のカレー」「地魚(小鯖)の南蛮漬」「春の山菜の天ぷら」「わらびの塩こんぶ和え」「おふくろ煮(かぼちゃ・人参)」などなど。このヘルシーさが好評で、客は地元ばかりでなく他県からのリピーターも多いと聞く。 帰宅すると、従兄が虎杖を届けてくれていた。この地方でイタドリは春の山菜の代表格なのだ。さっと湯通しして皮をむき、タケノコと一緒に煮たりする。そう言えば、タケノコもそろそろ掘れる頃だ。

私のジャズ (17)

ベティー・カーター Who? 
松澤 龍一
 Betty Carter (MK 1001)












すさまじいレコードである。ジャケットを飛び出しそうな大きな口の大きな顔の写真、タイトルも書いて無ければ、解説も書いていない。ジャケットの裏に伴奏のピアノトリオのメンバーの顔写真と曲目が載っているだけ。売る気を一切感じさせない、実に殺風景なレコードだ。それもそのはず、これはベティー・カーターと言う黒人の女性歌手が出した私家版のレコードなのである。

ベティー・カーターと言う歌手は全くの無名ではないが、それほど知られてはいない。レコードもレイ・ブライアントのピアノトリオの演奏の裏面にカップリングされたもの以外に数枚がある程度だろう。記憶が正しいとすれば、ソニー・ローリンズの初来日に同行して来ている。サラ・ボーンをさらにアクを強く、濃厚にしたダイナミックな唱法のため、好き嫌いが大きく分かれる歌手である。このレコードのスキャットはすごい。これには誰でもまいる。新宿にあったDIGと言うジャズ喫茶でこのレコードを最初に聴かされた時は、客全員の顔に驚嘆の色が走った。その後、渋谷のヤマハ楽器で数枚入荷するとの裏情報を得て、駆けつけ、買うことのできたレコードで、これは手放せない。

スキャットはサッチモことルイ・アールストロングが始めたとされている。あるスタジオ録音中のこと。歌っている途中で歌詞の書いてある楽譜を偶然落してしまったルイ・アームストロング、やおら、「デュバダバ、デュバダバ、ハッパフミフミ」と歌い出し、これがスキャットの始まりとまことしやかに伝えられている。どうも嘘ぽい。いや、絶対に嘘だと思う。

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追加掲載(120104)

バックのピアノはレイ・ブライアント? 映像は支離滅裂。

季語の背景(8・虹)-超弩級季語探究

小林 夏冬




『呂氏春秋』十二紀の季春に七十二候の「虹始見」【虹始めて見ゆ】があり、孟冬に「虹蔵不見」【虹隠れて見えず】がある。これは『呂氏春秋』だけにあるのではなく、それこそ数えきれないほどの文献に載っているが、もともとからいえば七十二候が系統立ったものとして、ほぼ完全な形で収録されているのは『呂氏春秋』が最初ではないかと思われる。この「虹始見」「虹蔵不見」はどちらも七十二候の一つだから、虹の話は七十二候から始まるわけだが、この七十二候は『呂氏春秋』から『礼記』その他に受け継がれた。だからどの本も小異はあっても、だいたい同じ記述になるのは当然のことで、同じものにならなかったらそのほうがおかしい。

その点は『学海類編』所収『七十二候集解』や、『芸海珠塵』所収『七十二候考』も同様で、そういうものが日本に伝わって寛政三年(一七九一)高井蘭山著『年中時候弁』となった。ただ、発祥の地である黄河中流域とお江戸ではだいぶ気候に違いがある。その緯度の違いや、日本にはいない動物もあるから、そういう点を配慮したのか高井蘭山著『年中時候弁』の七十二候は、お江戸にピントを合わせてアレンジしてあり、ほかに七十二候を挙げている日本の文献も、だいたい同じということになる。この七十二候は上田秋成が文化二年(一八〇五)に著した『七十二候集解』にもあり、この『七十二候集解』は高井蘭山の『年中時候弁』より、十四年後の刊行ということになる。その『七十二候集解』「秋」の冒頭に、「抑七十二候の事、此頃人の視せし七修類藁と云ふ書に、其の始め呂氏春秋に見へたりしを、漢儒偽りて礼記の月令に書加し也。後魏の世に是を暦書に載す」とあり、上田秋成は『礼記』のことを『呂氏春秋』の月令を丸写しにしたといっているが、正徳二年刊(一七一二)の『和漢三才図会』で、寺島良安も同じことをいっている。

その高井蘭山著『年中時候弁』だが、まず序文があり、そこでは「周天三百六十五日あまりの日数を一歳とす。四つに分けて四季とし、二十四に分けて二十四気とす、年中の節と中と也。一気各々十五日二十一刻あまり也。其一気を三ツに分けて一候とす、一気に三候なり。一候各々五日七刻あまり也。二十四気の中に七十二候ありて一歳也。是れ皆日輪、天を行きて、一周回の数にして歳をなすの次第也。されば一歳の気候うつり替る事四季は大なる替りめ、二十四気ハ細かなる替りめ、七十二候は又夫より細かなる変りめ也。この往来一年終れバ又始り、環の端なきがごとし」といっている。それに続く解説文には「陰陽、造化の事を記して七十二候の名あり、候はうかがう也。寒暖おこなはれ風吹き、雨降り、花咲き実り、鳥獣翔け走る。ミな一歳七十二候に替り行くを見候て、時節を知るゆえ候と云ふ。○候の字と侯の字はーの有る無し、わづかの違ひにて紛れ安し。侯の字ハきみと訓ず、諸侯の侯也」という。そういわれて初めて気がついたが、候と侯の違いなど考えても見なかった。しかし、人偏の縦線が一本か二本かで四季を意味する「とき」となるか、あなたを意味する「きみ」となるか、その意味ががらりと違うから、これは安易に見過ごしてしまうわけにはゆかないだろう。

解説はさらに続く。「○和漢地を異にすれば、たとへバ『虎始交』とあらば日本、虎なきごとく、鳥類も七十二候に出て日本になきものあり、此故に日本の七十二候、首書にしるす。下に出るハ異朝にいふ所也。和漢、上下見合せて知るべし。ただし上下同じきものは釈におよばず」として以下にまだ解説は続いているが略す。つまり、上下二段に分けて日本と中国の七十二候を対比しているのだが、虎などは日本にいないから、そこはどうなっているかというと、上段の日本では「熊蟄穴(くまあなにちっす)寒を避けて引籠る也」となっており、下段では「虎始交(とらはじめてつるむ)虎は陽中の陰なるもの故、陰、盛んの時交むは類を以て発する也」とある。和と漢の七十二候の違いは半分以上あるだろうか。

「鷹化して鳩と為る」は日本では「菜虫蝶となる」で、「玄鳥至る」が「雀始めて巣つくる」とあり、「腐草蛍と為る」が「桐始めて花を結ぶ」といった按配で、これらは虎と違って中国と日本のどちらにもあるものだが、緯度の違いが影響して江戸では咲いても、七十二候が発生したところではまだ咲かないものがあるから、どちらも同じにするというわけにはゆかないのだろう。つけられている解説を読み始めると面白いものだから、手のほうがすっかりお留守になって、まったく仕事が進まなくなってしまう。しかし、この稿は虹について書くのだから、七十二候はこのへんで止めておく。古代中国の時令思想は先にも述べたように、『呂氏春秋』『礼記』という流れで収録されているが、中国で年号が始まるのは紀元前百四十年の建元で、それ以前は何帝の何年ということになる。中国で文字が作られたのは三皇最後の黄帝のときとされているが、これらの本が成立した年代を見てゆくと『呂氏春秋』が紀元前二三五年、『淮南子』が同一二二年、『礼記』はさらに遅れて同六五年ということになる。ただ、それは紀元前二三五年に書かれた『呂氏春秋』に七十二候が収録されたということで、七十二候そのものの発生というか、七十二候が制定されたのはそれより遥か昔、周の時代にまで遡る。

その七十二候を、日本の気候風土に合わせたのが高井蘭山ほかで、これらの文献のほか、『学海類編』に収められた『月令七十二候集解』の著者、崇仁呉は、月令よりも七十二候そのものに論点を絞っており、「虹始見」は清明、三月節にある。それを見ると「虹始見〔去声〕虹虹蜺也詩所謂螮蝀」【虹始めて見ゆ〔虹は去声で読む〕虹とは虹蜺で、詩にいうところの螮蝀である】とし、続けて「註疏曰是陰陽交会之気故先儒以為雲薄漏日日照雨滴則虹生焉」【「註疏」に虹は陰と陽の交わる気だから、昔の人は雲が薄いために日が漏れ、日の光が雨の滴を照らして虹が生まれるといっている】といい「朱子曰日与雨交条然成質陰陽不当交而交者天地淫気也」【朱子は日の光と雨が筋となり、陰と陽の質をなして交わらないが、たまたま交わったものは天地淫乱の気だとしている】と続ける。

さらに「虹為雄色赤白蜺為雌色青白然二字皆従虫説」【虹が雄で色は赤と白、蜺は雌で色は青と白、虹も蜺も虫だという説に従っている】といい、虹が谷に入って水を飲む話を紹介しており、「天地淫乱の気」については後でまた述べる。虹を虫の類いとする説は日本にもそのまま取り入れられ、正徳二年刊(一七一二)寺島良安著『和漢三才図会』や、寛政三年刊(一七九一)高井蘭山著『年中事候弁』、文化二年刊(一八〇五)上田秋成著『七十二候集解』などの諸文献にも記載されている。次の「虹蔵不見」は孟冬、「小雪」の項にあり、『礼記』の注を引用して、「虹蔵不見礼記註曰陰陽気交而為虹此時陰陽極乎弁故虹伏虹非有質」【虹隠れて見えず。『礼記』の註には、陰と陽の気が交わって虹となるとある。このとき陰と陽の気が極わまり、そのために虹は隠れてしまう。虹に質があるわけではない】として、「天気上升地気下降閉塞而成冬」【陽の気は上昇し、陰の気は下降するため互いに交わらず、閉塞して冬となる】という。なぜ閉塞するのかといえば、「不交則不通不通則閉塞」【交わらないということは通じないことであり、通じないということは閉じ塞がることだ】と、当たりまえのことをいっている。それに対して『芸海珠塵』所収、曹仁虎著『七十二候考』はその冒頭で「観象授時起於上古自炎帝分八節以始農功」【気象を観測し、暦を作ったのは古代に始まる。それ以後、炎帝神農氏は一年を八節に分けて農事を始めた】といい、続けて「顓頊命南正重司天堯有羲和之命大約由四時分八節由八節二十四気由二十四気分七十二候」【顓頊高陽氏は南正重に命じ、天体観測を司どらせた。帝堯陶唐氏は天文官の羲氏と和氏に命じ、四季を八節に分け、八節を二十四気に分け、二十四気を七十二候に分けた】としている。

これを『歴代帝王年表』に当てはめてみると、三皇五帝のうち、三皇に続く五帝の四番目である帝堯陶唐氏のとき七十二候の原型が制定され、その年代は紀元前二三五九年ころということだから、暦を作ったとされる三皇最後の黄帝、軒轅氏のころにはもう、明文化されなかったとしても四季、二十四節気、七十二候という思想が生まれたと考えてもよさそうで、それが『呂氏春秋』以下に収められたということになる。曹仁虎の『七十二候考』はさらに「立法益漸密也候応之義互見夏小正諸書尚未明分為七十二候」【法を立てて次第に詳しいものになった。しかし、これらの候は夏小正ほかの書物を見ても、七十二候についてはまだ十分に分かっていない】といっており、『呂氏春秋』「時令」や『小戴記』「月令」にも二十四節気が記されている。この『小戴記』は『礼記』ともいい、『小戴記』の名前ではあまり知られていないが、『礼記』というと大方の人に通じる。その『小戴記』とは別に『大戴記』という本もあり、この二冊の本の著者は叔父と甥という関係にある。その甥の書いたものが有名になって、叔父さんの書いた『大戴記』は影が薄い。

私が曹仁虎の『七十二候考』、崇仁呉ほかの『月令七十二候集解』に目を止めたのは偶然のことで、それを複写してもらったのはもともと七十二候に興味があったからだが、それにしてもほんの気紛れでしかない。複写して手元におけばいつか、何かの参考になるかも知れないという程度のことで、それがたまたま役に立ったのだから、時には気紛れも馬鹿にならないということになるが、曹仁虎の『七十二候考』はさらに続く。「易緯通卦験所記気候与夏小正互有同異」【『易緯』『通卦験』でいっている気候は『夏小正』とも違いがある】として、『呂氏春秋』を始め『北魏志』『隋志』『夏小正』『通卦験』『淮南子』などに出てくる七十二候を対比し、各本による語句の違いを丹念に抄出している。その上で七十二候について種々の論を展開しているが、そのなかで「与月令字句雖小異」【月令の字句にも小異がある】し、「毎月候応之多寡仍無一定」【毎月の候にも多い少ないがあって一定していない】というから、このころはまだ五日を以って一候とするという、完成されたものではないことが分かる。

崇仁呉ほかの著『月令七十二候集解』でいう「虹蔵不見」以後の孟冬、十月から、季春の「虹始見」の三月までは虹が出ないわけではない。緯度にも関係してくるが沖縄などは雨が多いせいか一月、二月でも毎日のように虹は出るし、一日に何度も出る。そこに沖縄のように温暖な海に点在する島と、大陸という違いはあるとしても、だいたい同緯度の中国南部はもちろん、北部でも冬期は虹が出ないということはないだろう。七十二候に限ったことではないが、これらの月令などは黄河中流域が発祥の地だから、そこを基準として見たとき、東京より北に位置することになる。一般論としていえば日本でも南西諸島は別として、関東近辺で冬季に虹を見ることはあまりない。しかし、冬に虹を見ることはないと断言できないにしても、『呂氏春秋』が編纂された秦は、緯度から見れば東京より北になるから、十月ころから三月ころまでは、虹が出るのは稀だったろうということはいえる。

だいたい、冬でも虹がいつも見られるような南方地域は、古代中国にあってはもっとも僻地で、『三国志』を見ても分かるように蛮族、あるいは蕃賊がはびこる地の果てのような扱いをされているから、そんな僻地の文物や気候風土は問題にされない。いや、問題にされないということは、知っていてその上で無視することだから、正確にいえばまったく知られていなかったというほうが正しい。さらにいえば七十二候が制定された地方、中国北部で冬季に虹が出ることは、あまりなかったろうと思われるとしても、ここでは冬に虹が出るか、出ないかを追及するのが目的ではなく、虹そのものについて述べるわけだから、冬に虹が出るか出ないかという議論はさておくことにする。ものの序でとして『月令七十二候集解』『七十二候考』『七十二候集解』などを紹介したまでで、それらの本も虹についての記事はそれだけしかない。ここに引用した『月令七十二候集解』は『学海類編』に収められており、崇仁呉ほかの共著になるもので、これと『芸海珠塵』所収の、「月令」と「集解」がつかない『七十二候考』は曹仁虎の著、この二冊は漢籍ということになる。そして「月令」だけがつかない『七十二候集解』は和書で著者は上田秋成である。この、まことに紛らわしい三冊を引用しており、ちょっとどころではなくややこしいからここに改めて注記しておく。

ここでやっと本題の虹に辿りつく。上海古籍出版から出ている『説文解字』は原典ではなく復刻本だが、この本はタイトルでも分かる通り辞書で、私の今回の目的に叶ったというか、まことに便利な本である。その『説文解字』「虹」の項に「螮蝀也」として『釈名』を引用し、「螮蝀虹也」【螮蝀とは虹である】といい、「状仮虫各本作虫虫者它也虹似它故字作虫」【虹を虫の類と見て、各本はその字を虫に作る。虫とは蛇で、虹は蛇に似ているから虫偏になる】といっている。そして「虹始見」の時期は「季、春」であるという。次に「螮」として「電也電者陰陽激燿也虹似之」【稲光りである。稲光りは陰と陽の気が激しく燿い、虹に似ている】といい、最後に「蝀」として「虹也」という。そこで『説文解字』に引用された『釈名』を見ると、「釈天第一」に「虹陽気之動也」【虹は陽の気が動いたものである】とし、『初学記』『芸文類聚』を引用している。そして「虹攻也純陽攻陰気也」音が同じところから【虹は攻】であるといい、【純粋な陽の気が陰の気を攻める】としている。さらに『春秋元命苞』も引用し、「陰陽交為虹蜺」【陰と陽の気が互いに交わって虹蜺となる】という。

さらに「蝃蝀其見毎於日在西而見於東啜飲東方之水気也」【蝃蝀は日が西にある時は東に見える。だから虹が飲むのは東の水気である】といい、以下にも各書を引用し、さらに黄帝の『占軍訣』を引く。そこには「攻城有虹従外南方入飲城中者従虹攻之勝」【城を攻めるには虹に従う。南から入って飲むが、城中のものは虹に従うから攻めるものが勝つ】という。なんだかよく分からない理屈だが、虹は太陽と反対の方向に見えるから、日に従うものと、虹に従うものとは立場が反対になり、虹に従うものが勝つということだろうか。ここだけに限らないが故事を踏んだり、中国では当たり前のことなので改めて説明などしていないことが多いから、注釈がないとなんのことか分からないときがある。そのよい例が「女同車」で、これは中国の結婚式のときのことだ、などという注釈は一々つけないから、われわれにはそこまでは分からない。それは外人に「三々九度」とだけいったのではなんのことか分からないが、日本人にこれは結婚式の杯ごとだなどと改めて念を押したら、分かりきったことをいうな、おれを馬鹿にしているのか、おまえはということになるのと同じである。

それに続けて『異苑』を引用して薛願の、「虹が釜から水を飲んだ」という話を紹介している。この話は『五雑組』にも引用されており、『説文解字』は『説文』を引いて説明している。曰く、「虹能飲之証説文蝃蝀也状似虫似虫則能飲水也」【虹が飲むという証は『説文』に、虹とは蝃蝀で形は虫に似ているとあるのがそれだ。虫に似ているということは水を飲むということだ】という。ここまで来ると強引にわが田へ水を引くの感があるが、この虹イコール虫説と、虹は美女、天帝の娘の化身であるという説を並記する。「又曰美人」として郭璞の『爾雅』を引用し、「俗名為美人虹」【俗に美人虹という】とあり、また『異苑』を引いて、虹が美人といわれるようになった由来を説く。それは「古者有夫妻荒年菜食而死倶化成青虹故呼為美人虹」【昔ある夫婦が飢饉のため木の根をかじり、草の根まで食べたが、とうとう倶に死んで青い虹となった。それで美人虹という】とある。飢饉で餓死した夫婦者がなんで青い虹になったのか分からないし、その青い虹が、なんで美人虹という名になったのかも分からないが、虹イコール虫説や、美人虹の話のご都合主義に国民性が出ているような気がする。

『釈名』はさらに「則此気盛」【すなわちこの気、盛んなり】として、畢元の『毛詩』「蝃蝀伝」を引く。「夫婦過礼則虹気盛」【夫婦の礼が過ぎると虹気が盛んになる】し、『月令章句』の「夫陰陽不和婚姻失序即生此気」【陰陽の気が整わず、夫婦の仲がうまくゆかないと、この気が生じる】というのだが、一度や二度読んだだけではどうしてそうなるのか、とても理解できないから、いかにも中国的な考え方といえる。また、虹が美女に変身したという話は平凡社、聞一多著、中島みどり訳注『中国神話』で、これもいつかは原典に当たりたいと思っているが、まだその機会に恵まれない。冒頭の上田秋成著『七十二候集解』でも触れたが、この『中国神話』では虹は気であり、陰陽の二気が交わるシンボルだというもので、そこから虹は淫乱の象徴になった、という古代中国人の思考回路には驚かされる。考え過ぎではないかという印象もあるが、中国神話の延長線上で把握しながら虹を蝃蝀、隮、気、雲という、それぞれの字によって分析しているから、門外漢にもその考え方はなんとなく分かるような気がする。ものの考え方は人によっていろいろだから、虹は淫乱の象徴であるという古代中国人の考え方を、一方的に否定してしまうのは不当というものだろう。

その、虹は陰陽の気が交わるシンボルだとする考え方だが、『説文解字』によると霓とは、「屈虹青赤或白色」【青や赤い色は隠れ、白い色のもの】であるといい、「色鮮盛者為雄曰虹闇者為雌曰霓拠此似青赤為虹白色為霓」【色が鮮やかで盛んなものを雄として虹、暗いものを雌として霓という。それによれば赤や青のものは虹で、白いものは霓ということになる】という。その霓については「霓為陰気」【霓は陰の気である】とし、『漢書』を引用して「虹霓者陰陽精之也」【虹霓とは陰と陽の気の精だ】といい、『初学記』も引用する。「陰陽交為虹蜺虹蜺者陰陽之精」【陰陽の気が交わって虹蜺となるのだから、虹蜺とは陰と陽の精である】といい、「虹陰陽交気也」【虹とは陰と陽の気が交わったもの】であり、『淮南子』「説山訓」では「天二気則成虹」【天の二気が即ち虹となる】という。この二気とは陰陽の二気であることはいうまでもないが、その二つの気が交わるがゆえに淫乱ということになるのだろう。虹を擬人化して見ているわけだ。

『説文解字』に引用された『漢書』は、「京房易伝曰」【京房の『易伝』がいうには】としているから、『易伝』が『漢書』『説文解字』という順で引用されていることになる。こうなってくると月令と同じで、まだその前に何かあるのではないかと疑いたくなるが、『漢書』「五行志」を見てゆくと「蜺日傍気也」【蜺とは日の周りに現れる気だ】と解説し、その蜺の現れ方によって占うとしており、「后妃有専蜺再重赤而専至衝旱」【后妃が横暴だと日の周りに赤い虹が現れ、旱魃となる】という。「五行志」はさらに妻が夫に従順でないと「黒蜺四背又白蜺雙出日中」【黒い虹が四つ出る。または白い虹が日の中に二つ出る】といい、妻が夫を軽んじるのは「陽擅」【陽の気を恣にする】ものだから、そういうときは「蜺四方日光不陽」【四方に蜺がかかって、日の光が射さない】という。

そして「以尊降妃茲謂薄嗣蜺直而塞六辰乃除夜星見而赤」【降嫁した女が夫を見下し、軽んずると虹が日を塞ぎ、赤い星が現れ】て警告を発する。その結果は「蜺白在日側黒蜺果之」【日の傍らに白い虹が現れ、それが黒くなってしまう】し、妻が正義でないと「謂擅陽蜺中窺貫」【これを恣にするといい、蜺が日を貫く】とする。さらに「夫妻不厳茲謂媟」【夫と妻の間に慎みがないことを媟れるという】というように、その時の事情によって蜺や虹の色、形が違い、その違いによって占も変わってくる。つまり、人間として徳を踏み外すとよくない現象が続き、身を慎むことによって事態を好転させることができるというもので、虹のあとには蒙、霧による占と、その結果が延々と続く。親子、男女、君臣、尊卑などを陽と陰に喩え、それらが礼を失することによって虹、蒙、霧などが、さまざまな形や色となって顕れるとするが、これらは虹、蒙、霧の状態による占だから、虹の応用編ともいうべきもので、虹そのものの解説ではないからあとは省略する。

次に『釈名』を見ると、交わるのはあくまでも陰と陽の気で、それ以上のものでもそれ以下のものでもないとする。物理的な観点から見ても日光という陽と、水という陰が交叉しなければ虹は成り立たないから、『呂氏春秋』『淮南子』までは、虹を純粋に物理的な現象として把握している。しかし、『初学記』にいう「陰陽の精」ということになると、もう一歩踏み込んで現象から受けた人間の感覚、人間の受け止め方で虹を理解していることが見て取れる。虹を見た人間の感情、虹は陰陽の精であるという、その受け止め方の行きつく先が、「虹は淫奔」であるということになるのも、ある意味では当然のことかも知れない。

その方程式が『芸文類聚』でいう「虹螮蝀也陰陽交接為著形色」【虹を螮蝀といい、陰陽の気が交わった結果として形や色となる】という。だが、ここではまだ淫奔の象徴というところまでは踏み込んでいない。それが次第に虹とは陰が陽に淫するものとして、人間的な感覚に重きを置かれた結果、淫乱の象徴という受け止め方をされるようになったが、いずれも陰陽の気が交わったものが虹である、としていることに変わりはない。その陰陽の気の交わりを人間に当てはめ、そこから「邪淫の象徴」としたのではないかと思われるが、そこまでいうのもちょっと考え過ぎではないかという気はする。

『中国神話』は『窮怪録』を引用して、「後魏の明帝、正光二年夏六月、首陽山中に晩虹下りて渓泉に飲む有り。樵人、陽万有りて嶺下に之を見る。良(やや)久しうして化して女子と為る。年十六、七。之を怪しみて問うも言わず。乃ち蒲津の戌将、宇文顕に告ぐるに、之を取りて以て聞こゆ。明帝、召して宮に入れ、未央宮に幸して之を視る。其の容貌を見るに姝美なり。問うにいう『我は天帝の女(むすめ)なり。しばらく人間(じんかん)に降る』と。帝、逼りて幸せんと欲すれども色、甚だ難し。復た左右をして抱擁せんとするに声、鐘盤の如く、化して虹と為りて天に上る」(中島みどり訳注)という。谷間で水を飲んでいた虹が花も恥らう美女と化したので、皇帝に奉ったところ色好みの皇帝が、繊妍にして可憐な美女に迫って抱こうとした途端、割鐘のような声を張り上げられたら、その落差が大きいだけにさぞかしビビるだろう。中国ではこのように天帝や龍王、神仙の娘や子が、過失による贖罪のため人界に落とされる話が多い。そして人界でたとえ幸福に過ごしたとしても、天上の世界から見れば人界に落とされたこと自体、既に罪を償う行為であり、過去の宿縁が満ちれば、またもとの場所に帰ることができるという思想があって、人の出会いや別れにまつわる神秘性を、人それぞれが背負う罪業や宿縁による、という角度から説明しているが、私などはその宗教的な考え方に強い説得力があるような気がする。

寺島良安著『和漢三才図会』は虹蜺として、虹の異名をいろいろ挙げている。曰く「洪鯢、虹霓、蝃蝀、螮蝀、天弓、和名爾之」そして『礼記』や『釈名』を引用しているが、読みは同じ「ゲイ」でも霓と蜺という字の違いがある。さらに後漢の政治家であり科学者、文人、書家でもあった蔡邕の説を引く。「赤白色者為虹青色者為蜺」【赤白のものを虹といい、青いものを蜺という】とあり、続けて『釈名』の「虹攻也純陽攻陰気也」【虹は攻である。純粋な陽の気が陰の気を攻める】といい、良安のコメントとして、「△虹下地干或飲井或飲池或垂首於筵吸飲食雄曰虹雌曰蜺之類甚妄説也」【虹が地上に降りて井戸や池の水を飲むとか、あるいは宴席に首を垂れて飲食するとか、または雄を虹といい、雌を蜺というなどというのは出鱈目もいいところだ】と結論づけている。

さらに天文の書に曰くとして、「虹蜺日気下垂吸動地下之熱気則旋湧而起其処或値井或値池見之人以為虹能吸水也実非吸水」【虹は陽の気が下がって地の熱気を吸い動かし、それが湧きあがって出来るもので、虹の出た場所が井戸や池だったりすると、それを見た人は虹が水を飲むと考えるが、実は水を飲んでいるのではない】と論破し、続けて「有虹始見虹蔵不見之期見方必向干日則非虫属明焉」【虹が見られるようになったり、見られなくなったりするのは時期によるし、見えるのは必ず日に向かうほうだから、虫の類いでないことは分かる】といい、風雅と題して「虹のたつ麓の松は雲消えて峯より晴るる夕立の雨 俊恵」という短歌を載せてこの項は終わっている。

面白いのは『霏雪録』の話を紹介しているところで、この『霏雪録』はまた曰くつきの、煮ても焼いても食えない話ばかりを集めた本だから、眉に唾をつけてからでないと読めない。よい意味での与太話というか、私などはそういうところが好きなのだが、真面目な人は血圧が上ってくるかも知れない。「霏雪録云越中有道士陸国賓者乗舟出見白虹跨水」【『霏雪録』にある話だが、越の国の道士で陸国賓というものがいた。その道士が舟で遊んでいると、白い虹が水上にかかった】ので、「甚近及至其所見蝦蟇如箬笠大白気従口中出」【大急ぎでそこへゆくと箬の笠くらいの蝦蟇がいて、その蝦蟇の口から白い息が出ていた】とある。ちょっと待ってくれといいたくなるが、視点を変えればそこがまた楽しいところでもある。蝦蟇の大きさをいうのに「筍の笠くらい」というのがとぼけていてよいし、筍の古字の「箬」を使っているのもよい。こういうところを当用漢字にしたら、その面白味はなくなってしまう。なお、この『霏雪録』は無名氏の撰になるとも、明の鎦績の著ともいわれているが、無名氏の著になるというのもなんともいえぬロマンがあり、荒唐無稽な話であるのがよい。

虹が宴会に現れて飲食するという話は、古代中国では一般的な話であったようで、沈括の『夢渓筆談』第二十一巻の冒頭に、彼自身の体験談としてこんな話が記録されている。それは「異事、異疾付」の項で、「世伝虹能入渓澗飲水信然熙寧中余使契丹至其極北黒水境永安山下卓帳」【虹は谷へ入って水を飲むと信じられているが、熙寧年間に、わしはお上のご用で契丹まで使いしたことがある。その極北、黒水境永安山の麓に張ったテントにいたとき】「是時新雨霽見虹下帳前澗中余興同職扣澗観之虹両頭皆垂澗中使人過澗隔虹対立相去数丈中間如隔薄絹」【雨が上り、虹がテント前の渓谷にかかった。わしがご同役とそれを見ると、虹の両端が渓谷に垂れている。人をやって谷の虹を隔てて対すると、その間の距離は数丈あり、なかを薄絹で隔てたようにその先がゆらゆら見えた】という。

そこで「自西望東則見〔蓋夕虹也〕立澗之東西望則為日所鑠都無所見久之」【西から東を見るとよく見えるが、〔つまり夕虹だ〕東から見ると、夕日の輝きが黄金を溶かしたようでなにも見えなかった】とあり、続けて「稍々正東踰山而去次日行一程又復見之」【しばらくしてその虹は東の山を越えて行ってしまい、次の日の一駅先でまた見た】とある。この『夢渓筆談』は二十六巻、補筆三巻、計二十九巻から成っており、沈括の博識が窺える幅広い随筆集である。「お上のご用で契丹まで使いしたとき」というのは契丹、つまり遼とのいろいろな懸案について交渉するべく、遥々と派遣された時のことである。

寺島良安に「甚だ出鱈目な説」と、手ひどくこき下ろされた虹イコール虫説は、『五雑組』が虹について三段に分けて書いているなかの最初に出てくる。この『五雑組』はさまざまな時代に、さまざまな場所で虹が飲食した話を七例挙げている。

一、「上官桀時虹下宮中飲井為竭」【上官桀が陰謀を企んだとき、虹が宮中の井戸から水を飲み、そのために井戸が枯れてしまった】
二、「越王無諸宮中断虹飲於宮池漸漸縮小化為男子」【越王、無諸の宮中でちぎれた虹が池の水を飲み、だんだん小さくなって男の子になった】
三、「韋皋在蜀宴将佐有虹垂首於筵吸其飲食」【韋皋が蜀にいたとき、軍人たちと宴会をしていると、その席に虹が首を垂れ、飲んだり食べたりした】
四、「晋陵薛願虹其飲食釜願輦酒潅之吐金以報」【晋陵の薛願は虹が釜から飲んでいるので、酒を注ぎたしてやったところ、黄金を吐いて恩返しした】
五、「劉義慶在広陵方食粥虹飲其粥」【劉義慶が広陵にいたとき粥を食べていると、虹が粥を飲んだ】
六、「張子良在澗州虹飲其甕漿」【張子良が澗州にいたとき、虹が甕の水を飲んだ】
七、「後魏首陽山中虹飲於渓」【後魏のとき、首陽山中で虹が谷川の水を飲んだ】


などという話を挙げ、「史伝所書不一」【史書や伝記に出てくる話はたくさんある】という。現代人にとってこういう話があるといわれても、そのまま素直に信じる人はいないだろう。迷信が人の心に深く根を張っていた当時にあっても、どれだけの人がこのような話を信じたか疑問で、『霏雪録』の蝦蟇と同列ということになる。第一、飲食する虹の話を列挙した謝肇淛にしてからが、自分でこうした例を挙げながら、それを信じていなかったのは、彼自身が奇怪なことだといっていることからも分かる。「夫虹乃陰陽之気条忽生滅雖有形而無質乃能飲食亦可怪矣」【虹は陰と陽の気だから、出たと思うとすぐに消える。形はあるけれども質がない。それなのに飲食するというのは奇怪な話だ】と、至って尤もなご託宣を下している。

そして「今山谷中虹飲渓澗人常遇之亦有飲於池者」【山中の谷で、虹が川の水を飲んでいるのを人はよく見かける。池で水を飲んでいることもある】という。池や川にかかった虹を見て、虹が水を飲んでいると考えるのはそれぞれの自由だから、その説に反論するつもりはないし、独特で夢のある解釈だといえるとしても、虹が水を飲んでいる、料理を食べているといわれても、そう考えるのはあなたの勝手でしょといいたくなる。ここで虹は虫の類だといっていないが、それにしても酒を飲ませたら、そのお礼に黄金を吐いていったという話など、義理堅いというか律儀というか、それとも洒落れているというか、そんな虹さんがいたらぜひお目にかかりたいものだ。虹さんも男の子になったり、類い稀な美女になったり、はたまた蟇の口から出てきたり、粥を啜ったり酒を飲んだりしていろいろ忙しい。ご苦労なことである。

次は発音の話だから、虹そのものについて論じているのではない。虹、霓を平声、去声、入声の三種に読むが、それは土地により、場合によっても違うから、一概にこうだと決められないという。そして「既有雌雄復能飲食故字皆従虫」【雌と雄がいて飲んだり食ったりするから虹は虫偏になっている】と、虹イコール虫説でこの項を閉じているが、平声、去声、入声とは要するにアクセントの問題だから、あまり興味の持てる話題ではない。その三は発音に絡めた用字の問題だから、その二の延長である。別項を立てるほどでもないと思うが「余在浙中見人呼虹作厚音嘗笑之」【私が浙にいたとき、虹を厚の発音でいった人がいてつい笑ってしまった】という。日本流にいえば柿を牡蠣、橋を箸と発音をしたのと同じだから、ちょっと違和感を持たれても仕方ない。厚、鱟、醤、空、貢とも書き、そのように発音する方言もあるといっているが、先に挙げた七つの例はどれも寺島良安ならずとも、事実とは受け止められないだろう。ただ、虹の虫説は虹が持つ味わいを深めているから、私は虹イコール虫説や、虹が美女に変身したという話などは好きだが、虹は淫乱の象徴というところまでゆくと、ちょっと二の足を踏んでしまう。

上田秋成は『七十二候集解』「秋」の項で、「虹のはじめてみゆるは天地の一字合ひてといふ、又陽気下りて陰、是に応ふる。雲と成つて雨をふらす陰気起り、陽、是に応ずれば虹と成ると云ふも共に心ゆかず」といっているが、これはここまでに何度も引用した「陰陽の二気が交わったもの」が虹であるという説で、その説はどうも納得できないという。そして、「只、雲の薄きに日の影の漏れてといふはことはりめきたり。彩雲とてあした、夕の雲の靡きの日辺にあるかもれ、うつれるに似てこの色どりは有よ、夫は雨気を含まざれば紫霞、丹霞など云ひて虹の紅、青白を駁るにはたがへれど、其の色あるは同じかるべし」といっている。

そして虹は虫という説について、「此の字、如何なれば虫に従ふやと問ふに、螮蝀といふ恐ろしきものゝ偃臥すかたちに似たればと云ふ。虹の漂水を飲みしは夫にや有し、頭は騾馬に似たりとぞ」つまり、螮蝀という怪物が横になったような形だから、それで虫の仲間になったのだといい、頭は騾馬に似ているという。続いて「其の始め名づけもしらぬには、此ものによせて字は作りしか。螮蝀、此国に見聞すあるを強ひて云へる可からず。色赤きを虹と云ひて雄なり、青白なるは蜺と云ひて雌也と云ふも彼の螮蝀によせてか。いまみるは赤青白をまじへたれば、虹蜺の孳みて立つといはばいかに。天弓とはかたちの、弓を彎にとて名付けたるか。美人虹と云ふ名、文人の言こそ多けれ。唯、日と雨の気、交じりて質をなすと云ふに従ひて止むべきのみ」とある。

そして四十年あまり前に虹が出、龍巻と遭遇した自身の体験談を記している。それによると「田舎なる庵を出て難波の城市を指す。日、よく晴れたる空に西南の方に虹の立ち上がりしを田草取り老の、あやし、あのみゆるは苫ケ嶋の虹也、我若き時かしこより立ちてのち、風雨はげしくて田稼ぎを害せし事ありき、と云ふを耳過して行きし」ある晴れた日、難波へゆこうとした秋成は空に虹が出て、農作業をしていた老人がそれを見て、独りごとをいっているのを耳にした。それは「おれが若かったころ、あそこへ虹が立ち、それから急に雨や風がひどくなって、野良仕事が出来なくなったことがある。あの時と同じだ」というものである。

果たしてその日「城市のうち風俄かに吹きたち、雨は横ざまにはやちつつ瓦を飛ばし廂をおとし、物を空に巻上げて雷のごとく鳴りはためける、何やらん礫打ちつくるよと聞かさるる、いとすざまじき。時ばかりにてやみぬ」町中にわかに風が出、雨は横殴りに降って瓦は飛ばされ、廂も吹き落とされ、何もかも空へ巻き上げられて、雷が鳴るようだったが、それも一っ時で止んだという。しかし、その被害状況は凄まじいもので、「海潮、虹の立ちしかたより湧上りて津に入り、つどふ船はうちたたかひ、打そこなはれつつ、波に追ひ及ぼされて河々に走り入り、築地、石垣を崩し、長橋の中をふつに截つて凡そ三十余ケ、船は大小の数しらず砕かれ、人の溺死は幾千幾百ならん。又、村戸の斃れたる、我往きかへる二里の行程にも幾ばくならん。大宅はおしゆがめ、小家は打潰してみるめのあさましき。此の風、凡そ三十里を吹きとほりしと云ふ。水無月二十三日といふ日のこと也」つまり、風ばかりではなく、大津波のために大被害を受けたとある。そして「あしたに見し美人虹は褒似、楊妃の類にてや有し」といっているが、秋成は虹を単に美しいだけのものとはしていない。楊貴妃は玄宗皇帝をして国を誤らせた女であり、褒似はその成り立ちからして既におどろおどろしたものである。見るだけなら美しい虹の裏側には、そのような部分も潜んでいることを、上田秋成は敏感に感じ取っていたのだろう。

日本の文献はほかに『訓蒙天地弁』がある。これは寛政四年(一七九三)日本橋千鍾房、須原屋茂兵衛方から刊行されたもので、「天の巻」「地の巻」「人の巻」の三巻からなり、同じ高井蘭山の著書でも『年中時候弁』と異なる点は、こちらは啓蒙書という色合いが強く、その名の通り「訓蒙」【蒙昧なものに諭す】という、問答形式を取り入れた百科事典のようになっているから、いまのわれわれが読んでも面白いものになっている。その「虹」の項は、「問て云く虹は蝦蟇の吹気なりと。又云く色の鮮明なるものを雄とし虹と云ふ、冥闇なるものを雌とし霓と云ふ、詩経には螮蝀と出、ともに虫を以て偏に置く。虹は虫の所物として、大なる気をあらはすこといかん」と、ここまで各種の資料で紹介した論点を挙げ、質問としている。

その質問に対し、「答へて云く虹の字は虫に並び、工に従ふがゆへにいよいよ理をあやまれり」といい、虹という字の、その字づらに囚われているから虹は虫の仲間だなどと、おかしなふうに考えてしまうのだと答えている。「虹の理は雨後の雲と日の光と射映して、形をなすがゆへに日の形を受けて丸し、朝夕に虹ありて、日中に虹なきものは日勢熾んなれば也」虹は雨のあと、水分を含んだ空気に日光が当たって現れるものだから、太陽の形を受けて丸いし、虹が朝夕に出て日中に出ないわけは、日中はしてもどうしても日の勢いが盛んだから、水分と光のバランスが崩れてしまうからだという。そして「雨雲一辺にあり、日一辺となつて日光、雲の為に斜対抵従し、日気下垂し、地下の熱気を吸ひうごかす時は地の熱気旋湧して起り、空中、雨際の雲に接し日光の為に映射せられ、後には黒雲の濃く厚きものあるゆへ日光透らず。射映せらるる雲、微塵の雨気を帯びるものゆへ虹となる。虹の形なくして日勢の弱き光を斜めにうけて質を現ず。この緑なるは水気、紅を帯びるは日の火気也。此のゆえに虹をもつて水火の交りといへり」と、その宣まうところはだんだん専門的になってくる。

そして「又朝の虹は日、東にあるゆへ西に現はれ、夕の虹は日、西より照るゆへ東方に現はる。又雨なくして虹を見るは東国降らずといへり、他所に雨気あるがゆへ也。日中はすべて虹なしといへども、太陽の下にありて一片の濃厚なる雲まとふ時は水気、日光に映じ暈のごとく、虹の色と日輪のめぐりに現じ、暫時して雲、行過ぎる時は何となく消ずるごとき、此の水気は暈をなすものとは別也」とある。つまり、日と虹が常に反対側にあるのは、水分を含む空気が日に照らされて虹となるのだから、日光と水分が同じ方向では虹になるわけがない。また、雨も降らないのに虹が出るのは虹の出た場所に水気があるからで、この水気はお日さまに暈がかかるときの水気とは別なのだという。最後に「又方士、東海にして虹のおこる処を見て、地を掘つて見れば紅の虫行けりと云ふとあるによりて、いよいよ虹を虫に属する事とぞ」と締めている。やはり科学一辺倒では面白くないから、虹にロマンの背景を持たせるため、道士に虹の出た場所の地面を掘らせ、蚯蚓をみつけさせて一件落着、読むものに夢を持たせているのかも知れない。

なお、和書には三つのタイプがあって一つは漢字混じりの片仮名書き、二番目に漢文、三番目に漢字混じりの変体仮名で書かれたものがある。このうち漢字混じりの片仮名書きのものは誰にも読めるが、二番目、三番目のものはちょっと厄介なことになる。だからこれはなにも『訓蒙天地弁』や『年中時候弁』に限ったことではないが、変体仮名で書かれたものは私がよくいう例の「みみずののたくった」ような文章で、その方面の素地がまったくない私が、とてもそのまますらすら読み下せるという代物ではない。読むにも難渋するし、それはそのまま活字として再現できるものでもないから、パソコンで書ける文字でもない。しかし、誰が書いた字であろうと、また変体仮名であろうと字画には一定の法則があるから、たとえ変体仮名といえど何度も見ていると門前の小僧ではないが、なんとなく読めてくる。だが、つかえながら読んでいるうちは、まだ読みながら意味までは汲み取れない。書いてあることの意味が分かるまでには変体仮名に一字ずつルビを振り、何度も読み返さなければならないし、最後まで読めない字が幾つか残る。だが、一頁で一字や二字くらい分からなくても、書いてある意味を取り違えたり、全体の意味が分からないということはない。で、変体仮名で書かれた和書は夏冬がその経過を楽しみながら、活字体に直したことをお断りしておく。変体仮名そのままではパソコンでも出ないし、仮に出したとしても読める人がいなければ意味がないからだ。

次の『塵袋』となると記述はぐんと地味なものになる。二頁に亙る片仮名書で、これも毛筆だから記事としては量も少ない。こちらも同じ筆字といっても誰にも読める片仮名文だから、読む苦労はなくすらすら読んでゆける。ただし、そうはいってもこれにしてからが濁点、半濁点はないし、句読点もあったりなかったりするから、そこは適宜補足したことを付記する。「虹ト云フハ何レノ所変ゾ、蟾蜍ノイキカ」というタイトルで、「虹ハ日輪ノメグリノ半バヨリ上ガ、アマグモニ映ジテミユル也。博聞録ニ虹霓ハ但是レ雨中ノ日影ナリト云ヘリ。虹ハヲニジ、霓ハメニジト云フコトアレドモ、イキ物ニアラネバ実ノ雌雄モアルベカラズ。サレドモ虫偏ヲシタガヘテ、動物ニ思ヒナラハセルユエニ、字対ニモ動物ニ用フ、実義ニハソムケリ」と虹の虫説を紹介しながら、しかし、それは本当のことではないとしている。

続けて「雲ノウスキ所ニハ虹モウスクミユ、又影ウツロヒテ、別ニウスキ虹ノ見ユルコトモアリ、是等ヲワキテメニジ、オニジト云フカ。日、西ニアレバ虹ハ東ニアリ、カゲノウツルニムカヒテ見ユ、ソラノ日ノ勢ヲ見レバ、ワヅカナル日輪トオモヘドモ、カゲニウツス時ハヲビタダシキ也。五十一由旬ノ輪ノ形ヲウツセバ、イカホド大ナリトモ、アヤシムベキニアラズ。日本記ニハ虹ヲバ、ヌジトヨメリ。ソレヲ今ハニジトモ云ヒナラハセリ。和語ノ古今ニオナジカラザル事、コレニカギラザルカ、又、鎮星散ジテ虹ト為ルト云ヘルコトモアリ、オボツカナキ事也」と、これで全文だが、いままで見てきたものに比べても別に新味というほどのものはない。

虹はもともと幻想的な面を多分に持っているせいか、それを見ている分には夢があってよいが、いざその虹を俳句にしようと思うと、どうしても通俗的なものが前面に出てしまいがちである。私のような叙情派にしてそう思うのだから、意味や叙情を排して物に徹しようという作家にとって、虹の句をものにしようなどという気は到底、起きないかも知れない。ましてや硬派、前衛を自認する人にとっては、俳句の題材以前のものでしかないだろう。