2011年2月27日日曜日

2011年2月27日の目次

永田耕衣 × 土方巽 (7)     
                 大畑   等   読む
俳枕 江戸から東京へ(11)   
                 山尾かづひろ   読む
I  LOVE  俳句 Ⅰ-(8)        
                 水口 圭子    読む
尾鷲歳時記  (8)                          
                   内山  思考    読む
私のジャズ (11)          
                  松澤 龍一     読む
楽屋口から(1)
                  土屋 秀夫    読む
季語の背景(2・踏絵)-超弩級季語探究
                  小林 夏冬     読む

永田耕衣 × 土方巽 (7)

大畑  等


肉体の叛乱・真鍮板の叛乱


※4 より

真鍮板と踊る土方。一九六八年十月、日本青年館での公演『土方巽と日本人・肉体の叛乱』の写真である。
この舞台装置は美術家・中西夏之によるもの(中西は高松次郎・赤瀬川原平の3名により1960年代前半に結成された前衛芸術グループ「ハイレッド・センター」のメンバーでもあった)。中西は、この装置について、次のように書いている。




《吊られた6枚の大真鍮板・解体する六曲屏風》
〈真鍮の板は一本のピアノ線に結ばれているので、その自重によって、静止していることはなかった。だが、いつもせわしく廻転していたわけではない。真鍮の板の重さが細いピアノ線をゆっくり捻り、それに連れて板は身を斜めにし、一本のピアノ線につながった一本の垂直線になり、再び斜めになって裏側をわずかに見せ、逆方向に廻転する。完全な正面を向いたと思うと正面性をよけ、光を強く反射して、わずかに奥行きを見せる。〉6枚の真鍮板は「肉体の叛乱」の舞台に、まるで屏風が1曲ごとに断裁されたかのように並べて、床面から20~30センチ浮かせて吊り下げられていた。真鍮板の大きさはタテが2400ミリ、横が1200ミリ、厚さが1.2ミリ。重さは20キログラムになる。向かって左端の真鍮板には、生きた鶏が逆さに吊されていた。右端の真鍮板には片面だけトレーシング・ペーパーが掛けられていた。土方巽はこれらの真鍮板に静かに寄り添い、ある時は体で激しく打撃し、まだ生きている鶏に手をかけるように踊った。※4


2.4m×1.2m、厚さが1.2mmの真鍮板は、ペラペラである。しかし持つにはたいへん困難である。ペラペラの真鍮板の重心が移動するからである。中西のメモにより舞台装置はおおよそ分かる。また、中西は後年、この真鍮板の舞台装置について「美術手帳」(1986年5月号・美術の土方巽)で書いている。この舞台装置の体験により光琳の「紅白梅図」、宗達の舞楽図や風神雷神図の構造と意味が分かったと。非常に興味深いことだが、今の私には残念ながら分からない、先を急ぐことにする。

さて、真鍮板は会場の光と闇を写し、そして土方を写しながら廻転した(だろう)。土方が触れ、打撃するにつれ写り込むものは次々と変化した(であろう)。また真鍮板の振動と音をも知覚することになる。では、何故真鍮板なのか?

「現代詩手帳」(1977年4月号)での座談会(土方巽・鈴木忠志・扇田昭彦の鼎談)で土方は次のように語る。

―(前略)ガラスの破片は、材料の奴隷になる以前の、ガラスの危機感として猛烈な速度にはまりこんだ物質を捉えているのでしょう。これからはどんな危機感がどういう物質に置き換えられるかわからない。ただ、子供の頃、うまく機会を逃したい、生きていることの中に。こうあって欲しいという嘆願のほうに、機会を失するようなほうに綿々たる恋慕をもって生きてたということがある。それがガラスになったり、そういうものに置き換えられているんであって、ある舞台装置のためにある画家を連れてきて新しい材料で、というようなものじゃないですね。※16

ガラスの危機感については、永田耕衣×土方巽(4)の「今や、断頭台上に立ち手を縛られた罪人は、まだ死んではいない。死ぬには一瞬間が足りないのだ。死を猛烈に意欲するあの生の一瞬が・・・・」を思い出して欲しい。「人間的自然の根源的なヴァイタリティの逆説的なあらわれ」を物質にも見てとるのが土方なのだ。
(参照 永田耕衣×土方巽(4))

さらに、もう一つ。「うまく機会を逃したい」「機会を失するようなほうに綿々たる恋慕をもって生きてたということ」は、(機会を得ての)存在者の否定である。土方少年は物質の(そうありたかった)夢に恋慕しているのだ。

「歩行者一人一人はそのカラダに死者をかかえ歩いているんだよ」と土方は弟子の芦川に言った。目の前の歩行者、彼らはあらゆる可能性のなかで一つの機会を得たものたちなのだが、逆に言えば他の機会を失したものたちなのだ。それが死者なのだ。これを物質にも見てとるのが土方なのだ。

ベルグソンは意識という生命エネルギーが物質と格闘(有機化)しながら、それぞれの段階の生物(植物・動物・人間)を生み出し、ついに人間に至って意識は本来の自分を取り出したことを語る。しかし、意識は「貴重な財宝」を手放さなければならなかった。

―有機体の総体は、人間そのもの、あるいは精神的に人間に類似する存在が、いずれはそこに芽生えるはずであった腐葉土のごときものになる。
―意識は、人間にあっては、何よりも知性である。思うに、意識は直感でもありえたであろうし、直感でもあるべきであった。直感と知性とは、意識的な働きの相反する二つの方向をあらわす。直感は生命の方向そのものに進み、知性は逆の方向に向かう。(中略)完全無欠な人間性があるとすれば、そこでは意識的活動の二形態がともに十分な発達段階に達していることだろう。
―要するに、意識は何よりも自己を知性として規定しなければならなかった。なるほど、そこには直感がある。しかし漠然としており、とりわけ非連続的である。それはほとんど消えかかったランプである。ときたま燃えあがっても、ほんの束の間しかつづかない。しかし、このランプは、要するに生命的関心が働くときには、燃えあがる。われわれの人格のうえに、われわれの自由のうえに、われわれが自然全体のなかで占める位置のうえに、われわれの起源のうえに、またおそらくはわれわれの運命のうえに、このランプはゆらめく微光を投げかける。微光ではあるけれども、それは、知性がわれわれが置きざりにする夜の闇をつらぬく。※17


ベルグソンの美しい文章、ために引用が長くなってしまった。土方は舞踏家である。ベルグソンのように「知性」「直感」などと言葉を整理するようなことはしない。
しかし「自分の肉体の闇をむしって食ってみろ」と言う舞踏の土方はベルグソンと同じものを見ている。ジジェク風に言えば、ベルグソンは土方の舞踏を観ていた、という冗談も言いたくなるほどだ。


さて、土方の真鍮板との舞踏にもどることにしよう。真鍮板は吊されていて動く、運動する。ここでは真鍮板は装置ではなく、土方とともに一舞踏手となっているのだ。

たとえばトランペット、その素材は真鍮板である。真鍮板は人間の知性により(機会を得て)トランペットになってしまった。では、機会を失した(何ものにもなる可能性のある)真鍮板の音は?震えは?反射する光は?そしてトランペットになる一瞬前の叫びは・・・・土方は遡るのである。このときの舞踏を想像する。動く真鍮板を前にして、土方の視覚、聴覚が生起するその場所は、触覚のとき同じように、真鍮板であったろう、と。土方の脳のなかではなかった。

たえず生成し運動している世界に対して知覚系は引き算をする。運動を静止画像のように固着させるのだ。土方は生成・運動のなかで物質を、人間を、捉える―物質の叛乱、肉体の叛乱。

しかし、この真鍮板の構想は土方が元藤(土方夫人)と出会う青年の頃から抱いていたものであった(それは次回に)。では、今回の土方巽に耕衣の句を贈るとしよう。

 舐めにくる野火舐め返す童かな  闌位
 皆行方不明の春に我は在り    種
 餅は皆にじり居るらし冬の暮   種


    (続く)
※4 『土方巽の舞踏』慶応義塾大学出版会 より
※16「現代詩手帳」(1977年4月号)特集「舞踏」より
※17『ベルグソン全集4』(創造的進化)白水社刊より

俳枕 江戸から東京へ (11) 

佃島界隈/隅田川護岸・佃大橋
文:山尾かづひろ 
聖路加タワー












【隅田川護岸・佃大橋】
都区次(とくじ): 佃島の住吉神社は西側の隅田川へ向いています。隅田川を見てみましょう。左手の橋は佃大橋です。
江戸璃(えどり):この橋は1964年(昭和39年)の東京オリンピックに間に合わせるための急ピッチな架橋で、隅田川に架かる橋の中では無個性で無粋な橋と言われているわね。この橋が架けられるまでこの場所に何と、「佃の渡し」があったのよ。「驚き、桃の木、山椒の木(おどろき、もものき、さんしょのき)」ね。
都区次:佃大橋を渡った対岸は中央区明石町ですが、地図で見ただけでも文明開化的な史跡が多いですね。
江戸璃:「築地居留地」があったからよ。東京は横浜と違って開港場ではないけれど、明治初期に東京の築地鉄砲洲(現在の明石町)を開市場として外国人居留地を設けたのよ。ところがギッチョンチョン、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会やミッションスクールが「築地居留地」に入ったのよ。というわけで青山学院や立教学院、明治学院、女子聖学院の発祥の地となっているのよ。
都区次:この辺では「聖路加国際病院」がひときわ目立っていますが?
江戸璃:居留地内の廃院となったイギリス人宣教医師の病院を、聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り今に至っているのよ。

舟岸につけば柳に星一つ 高浜虚子
聖路加の鐘の抑揚鳥雲に 山尾かづひろ 

I LOVE 俳句 Ⅰ-(8)

水口 圭子


 黄泉平坂白桃一個転がれり    杉田 桂


黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)は現世と黄泉の国との境にある坂で、大昔は自由に行き来できたという。

『古事記』に次の話がある。伊邪那岐は、死んだ妻・伊邪那美を恋しく思い黄泉の国へ迎えに行く。そして彼は黄泉の国の神様の許しを得るまでは、決して妻の姿を見ないという約束をするが、待ちきれず覗いてしまう。そこで蛆の湧く醜い死体を見て逃げ出した伊邪那岐は、追いかけて来る伊邪那美を振り切る為、黄泉平坂を巨大な岩で封印してしまった。人間の死の起源説話である。

人の心とは不思議なものである。「見てはいけない」と言われると見たくなり、「してはいけない」と言われるとしたくなる。禁じられると好奇心が増すのは常なのかもしれない。だが禁を破った後には必ず悲劇がやって来る。民話「鶴の恩返し」でも、羽を抜いて布を織る姿を見られた鶴は、空へ飛んで行ってしまった。この民話は、鶴を助けたのが若者だったりおじいさんだったり、覗いたのが若者だったりおばあさんだったりと様々な説があるらしい。いずれにせよこの民話を元にして、木下順二は戯曲『夕鶴』を著した。与ひょうの有様は伊邪那岐と重なって見える。

自分の心に勝てず約束を破ってしまう筋書きの物語は沢山あると思うが、すでに日本最古の神話の中に、神々の姿を通して生々しく描かれているのは興味深いことである。

掲句は、「黄泉平坂」に対して死に関わる言葉を一切用いず、「白桃」を一個置いたのみ。シュールレアリスムの絵画を連想させる。「白桃」は瑞々しくも儚く脆い人間の心の象徴であろう。愛故に禁を犯してしまう愚かさと、「白桃」が転がることがぴったりと合っている。

尾鷲歳時記(8)

黒船あらわる
内山思考

行野浦から見た桃頭島









 
 磯遊び見えて野遊び腰おろし   思考

今から一五〇年前の万延元年(一八六〇年)六月、尾鷲(おわせ)に英国の黒船がやって来た。米国のペリー提督が東インド艦隊を率い、浦賀に来港して七年後のことである。当時の様子を記した「異船漂着模様書上」が市の郷土室に保存されている。

それによると、その黒船は尾鷲湾の南にある桃頭島(とがしま)の沖合に出現し、下ろされたボートに乗った八人の乗組員が、近くの行野浦(ゆくのうら)へ上陸した。彼らの中に中国人がいて、多少の日本語は理解出来たようである。ジェスチャー混じりで鶏、豚、牛などの肉が欲しい、と要求するので、村人は大庄屋の家へ案内したそうだ。

昭和63年に刊行された古文書
の複製より
何しろ鎖国時代の話である。誰も外国人など見たことも無いはずで、庄屋様も大いに困ったに違いない。食料をくれるなら、かわりに真鍮(しんちゅう)を代金として払うといったらしい。当時、真鍮は貴重な品物だったのだろう。


とは言え、牛や豚を食べる習慣がない時代で、しかも田舎である。鶏なら四、五羽いると返事をし、酒はないのか、の問いには無い、と断ったようだ。酔っぱらって暴れでもされたら、と警戒したと見える。

里から出ることもほとんどなかったであろう村人たちは、どれだけ恐怖したことか。女、子供は山の中に逃げ込ませたかも知れないし、もしもの為に、と鍬や鎌を握りしめて物蔭に潜む者もいたと想像する。結局、意思の疎通ははっきりできず、食糧の調達にも手間取る内に日が暮れ、痺れを切らした彼らは帰ってしまった。

堅い候文(そうろうぶん)ながら、二つのエピソードが興味深い。一つは、水を欲しがるので井戸の水を汲んでやると三人で釣瓶一杯を呑み干したという話。もう一つは、庄屋の家の猫を大層かわいがり、抱き上げて遊んだという話だ。

歴史の彼方に消えてしまった男達の顔付きが、おぼろげに見えるような気がする。

私のジャズ(11)

これは演歌だ!ビリー・ホリデイの最後のレコード
松澤 龍一

 LADY IN SATIN(Columbia CS8048)












これはジャズでは無い。ジャズでは無くても優良なボーカルのアルバムかと言うと、そうでも無い。ビリー・ホリデイが世に残した傑作の一つでも無い。LADY IN SATIN  、ビリー・ホリデイの最後のレコードとされているものである。これをレコードとして記録し、世に出す必要があったのか疑う。それほどまでに、このビリー・ホリデイはひどい。Ray Ellis と言う人の編曲で、弦楽器を中心としたバンドをバックにバラードを唄っているが、声はしゃがれ、元々無かった声量もさらに衰え、声が最後まで伸び切らず、彼女独特のビブラートも掠れてしまっている。曲はほとんどが、どこか演歌風だ。最初の曲 I'm a Fool to Want You  など直訳すれば「あなたを求める愚かな私」である。

これは単独で聴いてはいけないレコードだと思う。ベニー・グッドマンの専属歌手としてデビューし、テディ・ウィルソンや彼女自身のバンドで、レスター・ヤングのテナーをバックに唄い、デッカでの数々の名演の録音を経て、コモドアの「奇妙な果実」に到る、この彼女の歩みを聴いたたことのない人は、聴いてはいけないレコードである。彼女が最初に録音したのは1933年にベニー・グッドマン楽団で唄った Your Mother's Son-in-Law  と言う曲。これに溢れる躍動感、若々しさは感動的だ。ビリー・ホリデイ、18歳の時である。この LADY IN SATIN  の録音は1958年。最初の録音からたかだか25年が経ったに過ぎない。最初の録音の Your Mother's Son-in-Law  と聴き比べると、この25年間に彼女の身に起こったことすべてが、この LADY IN SATIN  の歌のひとつひとつに刻み込まれていることが分かる。背筋がぞっとしてくる。LP両面を聴き通すのが辛い。彼女の悲惨な生涯を映画とか他の媒体で演じられることがある。私はそれらの一つも見たり聴いたりしたことは無い。残された彼女の歌が、彼女の声が、彼女の息づかいが彼女の44年の生涯のすべて語ってくれている。(正確に言うと LADY IN SATIN  は彼女の最後のレコードでは無い。その後で、Billy Holiday  とだけ題されたレコードがあった。ただし、これは非売品だったと思う。)

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追加掲載(120104)

ビリー・ホリデイの最後の録音とされているもの。声の衰えが痛々しい。

 

楽屋口から(1)

土屋 秀夫


イッセー尾形さんの一人芝居


アメリカ映画を見ているとタイトルロールにストーリー誰々とあった後、ダイアローグ誰々などと出てくる。映画ではストーリーとそれを台詞に落とし込む脚本家が分業体制で作っている場合が多い。脚本は小説のような内面描写がない代わりに会話が台詞として書かれている。結局映画や演劇は台詞のやり取りを通して人間関係を軸に進んでいく。イッセー尾形さんの一人芝居では当然ながら相手役は見えないが、イッセ―さんの台詞とアクションで相手の姿が浮かび上がってくる。イッセーさんに脚本はあるのか聞いたことは無いが、まずはストーリーを組み立てた上で、少なくとも自分の台詞を書いた脚本はあると思われる。その上でイッセーさんの頭の中には相手役の台詞が明確にイメージできているのだろう。一人で話しているのに観客には会話が聞こえてくるのはそういう訳だ。イッセーさんは最大で原作、脚本、相手役を含む二役をこなしているのだ。これは一種の天分なので、簡単にまねのできることではない。弱さ恥ずかしさ、しぶとさといったペーソスを内に秘めたイッセーさんが描くのはどこか世間から疎外されている愛すべき隣人だ。<異動を内示されたサラリーマンが帰宅し、妻に打ち明ける話>、<施主が言いたいこともいえないで大工の棟梁の言いなりになる話>、<半分ハンガーという商品を売り込むセールス術を指南する男>、<ストリップの幕間に出てくる老芸人>、<文化サロンの胡散臭いベレー帽の理論家>。
テーマは人間関係だ。優越感、劣等感、あるいはその裏返し。組織人たらんとして出来ない人。家族の絆を何とか保とうとして体裁を取り繕う人。他者との関係の中で生きていかざるを得ない現代人。職場、学校、サークル、あらゆるところで生まれる人間関係は絡み合い決裂し、よじれながらも再生していく。そんな姿を典型的に浮き彫りにしていく。それがイッセー尾形の一人芝居の魅力になっている。

季語の背景-超弩級季語探究(2・踏絵)

小林 夏冬


踏絵

踏、あるいは踏絵は春の季語で、寺請証文ともいう。なぜ寺請証文というのかは後述するとして、わが国のキリスト教伝来から弾圧の時代を経て、信教の自由が確立するまでの経過を簡単におさらいすると、天文十二年(一五四三)当時の中国はシナといっていたが、そのシナ人、五峰王直という貿易商の船が、暴風のため種子島に漂着した。この船に三人のポルトガル人が乗船しており、そのポルトガル人によって、初めて二挺の鉄砲が日本に伝来した。日本では鉄砲のことを種子島といったが、その名の由来は日本に鉄砲が伝来した場所、種子島という地名による。

 

ときは室町幕府の末期、その滅亡する三十年前のことである。これがきっかけとなって黄金の国ジパングにポルトガル、スペインなどの船が来るようになる。それから六年後の天文十八年(一五四九)鹿児島へフランシスコ・ザビエルが上陸した。外国貿易による莫大な利益に着目した薩摩藩主島津貴久と、日本での伝道を希望するザビエルの思惑が一致し、ここに日本におけるキリスト教伝道の歴史が始まる。

 

ザビエルはその国の権力者の庇護を得て、その権力者の影響力や圧力によって布教を進めるという、これまでキリスト教会が、各国において実践してきた方針通り、まず時の後奈良天皇に拝謁し、日本布教の許可を得ようとした。天皇を布教のための手段として利用しようと考えたわけだが、それは当時の日本の政情に暗かったためで、そのころの京は日本の首都であったし、詔勅の出る地でもあり、京の都から全国へ文化が発信されることに違いはないとしても、力関係において朝廷は武家政治に牛耳られていたという、当時の政治情勢に疎かったためである。いずれにしても都に到着したザビエルの、天皇への謁見の願いは叶えられなかった。

 

そもそもは薩摩藩主島津家に、天皇に謁見するための仲介を依頼したが、なかなかその望みを叶えてもらえなかったザビエルは、とうとう痺れを切らして一人で京都へ渡る決心をした。そのため船便は使えず、九州から京都まで雪の中を歩いてゆくことになる。しかし、みすぼらしい紅毛碧眼の旅人に当時の日本人は親切である筈がない。こどもたちに石を投げつけられたり、どこにも泊めてもらえなかったりという苦難の末、やっと京都に到着した。そして天皇に拝謁することを願い出たが、みすぼらしい外国人が前以て何の根回しもなく訪れても、そんな願いは叶えられる筈がない。結局、ザビエルは九州から京都へゆくまでの間に、何人かのキリスト教信者を誕生させただけに終わった。
 
天皇の権力が衰えている現実を見据え、その影響力に期待する愚かさを悟ったザビエルは、ここで織田信長を始めとする戦国大名に的を絞った。そして手始めに大友義鎮、大内義隆、松浦隆信、大村純忠ほか各地の大名、豪族の援助によって布教を推進しようとした。この大名、豪族の援助を得ることが出来たのは、これら有力者はその教えの影響を受けたことにもよるが、もっと大きな理由は外国貿易による利益である。

 

さらに重要な因子として、戦国時代の力関係を一挙に変貌するに足る力、大砲や火薬、鉄砲の存在があったことは見逃せない。貿易活動に宣教師たちが関わったことはないとしても、宣教師も貿易商と同じポルトガル人としてコインの裏表の関係にある。戦国大名にとって宣教師たちを受け入れることが、そのまま外国貿易による利益と、最新兵器の獲得に直結することはいうまでもない。ザビエルはそれらの因子を布教活動のため、積極的に利用したといってよいだろう。

 

そして九州だけでなく、京都や堺にも進出する構想を立てた。しかし、京都や堺では九州のような進展は見られなかった。それは九州と異なって畿内では知的水準が高く、仏教の経典や教義についても造詣深かったし、知的、文化的にも洗練されていたからである。キリスト教会は平時、貧民を対象とした慈善活動を行い、育児院や病院を建て、飢饉に際しては積極的な救援活動を行ったとしても、京や堺の特権階級にとってそのようなことは無縁のものでしかない。

 

信徒の拡大を目指したこれら草の根活動が、下層民に対しては信徒獲得の原動力となり得ても、そのような援助を必要としないものにとって、また、鉄砲などの武器を持つことなど考えられない立場にある文化人や商人にとって、そのメリットは何もないことになる。しかし、鹿児島を中心とする九州や西日本各地で、徐々にキリスト教の勢力は強まってゆく。

 

それは同時に各地の大名による、武器獲得合戦という反面を必然的に伴う。彼らは大名、豪族に武器その他の進物を持参して訪問した。それは一挺、二挺という単位であっても、それによって複製品が作られるという、鉄砲鍛冶の発生を促す。ある意味で各大名、豪族による軍拡競争を煽ったという観点から見れば、キリストは平和を説いたとしても、キリスト教団は真の平和を実践したのか、という疑問を払拭することは出来ない。また、それとは別な面で日本の各仏教宗派と、キリスト教宣教師たちとの間に、お互いに相手を悪魔の教えであるとし、邪教と呼び合う宗教論争の激化を招き、直接行動に訴えるものまで出てきて、のちのキリスト教弾圧に発展してゆくことになる。

 

天正十年(一五八二)この年は本能寺の変でも知られているが、この年二月、九州の四人の少年がヨーロッパへ渡る。これは天正の遣欧使節団といわれるもので、この少年使節団員は信長が派遣したものではない。イエズス会のヴァリヤーノ神父が帰国するに際し、信者の中から選んで連れ帰ったもので、『日本キリスト教史』によればその目的は、ヨーロッパにおけるキリスト教の権威を思い知らせるため、「キリストの代理者である教皇の御足に、日本のキリシタン大名の名において口吻けさせ」るというものであった。

 

ヨーロッパ各地で盛大な歓迎を受けた少年使節団員四人は帰国後、秀吉による仕官の勧めを振りきって神父となる。俗にいうキリシタンで、キリシタンとはポルトガル語、英語ではクリスチャンとなる。漢字の国である日本では貴利志端、幾利紫旦、吉利支丹などと書かれ、キリスト教禁止令以後は、悪意を持って鬼利至端、貴利死貪などと表記された。のち五代将軍綱吉となり、将軍の名、吉の字を使うのは憚られるとして、切支丹の呼称が定着する。しかし、それはまた後の話である。

 

キリスト教勢力によって邪教と呼ばれ、仏像、経典などを破棄され、寺社を破壊された仏教界は反撃に転じ、物情騒然として時の権力者に、キリスト教に対する警戒感を誘発させた。その結果は秀吉による伴天連追放令となったが、その伴天連追放令の発端は、秀吉から日本における準管区長、コエリヨに対する詰問状に始まる。その詰問状に秀吉がキリシタン追放を決意する経緯が窺われる。その要旨は、

 

一、なぜこのように熱心に勧め、キリスト教を強制するのか。
一、なぜ神社仏閣を破壊し、僧を迫害して融和しないのか。
一、なぜ道理に外れた肉食をするのか。
一、なぜポルトガル人たちは多数の日本人を買い入れ、奴隷として連れてゆくのか。


 

というものである。この四項目のうち第一項については、キリスト教の宣教師という立場からすれば至極当然なことで、宣教師たちはそのためにのみ、命を賭けて遥々来日したのだから、布教にかける情熱によって、ときにはゆき過ぎもあったろう。それが強制であるかどうかは立場の違い、見解の相違といえないこともない。

 

第二項の神社仏閣を破壊し、僧を迫害した点については「熱心のあまり」と、キリスト教徒側にそのような行為があったことは認めている。しかし、これについては仏教徒、あるいは僧侶の側にも、キリスト教に対して同じ行為があったことは事実だから、どちらが先に仕掛けたか別として、この点に関してはどちらがよくてどちらが悪いと、一概にいい切れない面もあろう。ただ、後から来たものは先のものに敬意を払う、という日本人の感覚からいえば、相手方を許せないという思いがあることは当然である。

 

第三項の肉食については、日本人と欧米人の食習慣の相違とはいうものの、肉食の習慣がなかった当時の日本人から見れば、違和感という以上のものがあったろう。しかし、西洋人にとって肉食は古くからの習慣だから、それだけを以って「道理に外れた」と責めるのは酷かも知れない。しかし、宣教師、僧侶という呼称の違いはあっても、他人に宗教を説く以上、日本人の感覚からすれば宣教師は僧侶と同一線上のものであり、その僧侶の肉食を問題にするのは当然の成り行きといえるから、キリシタンが公然と肉を食べるのを見て、当時の日本人が嫌悪して当然である。それについて宣教師にもいい分はあろう。仏教の僧侶にも酒を飲み、女を抱く破戒僧もいるという事実は否定しようもない。ましてやキリスト教は肉食を禁じてはいない。それなのにどこがいけないのかという、これはもう倫理観、価値観の違いから来るものだから如何ともし難い。

 

肉食のものにとって米を水で煮ただけのもの、つまり米の飯は味も何もないから、「非常に空腹のときだけ、やむを得ずに食べられるような味でした」ルイス・フロイス、柳谷武夫訳、平凡社『日本史』ということになる。肉食のものにとって米の飯のうまさは理解できないとしても止むを得ないことで、逆な立場でパンだけを食えといわれたら、日本人の反応はどうなるだろうか。これは習慣から来る違いだから、宣教師の肉食自体は責められるものではない。しかし、それは現在のわれわれから見た話であって、当時の日本人からすれば生臭坊主と同じ、聖職者として弾劾されるべきことには違いない。

 

その結果として宣教師は人の肉を食うという、陥れるための流言をされる。従って肉食、米食の、食習慣の違いをあげつらっても仕方ないが、郷に入っては郷に従えの喩えからは外れる。そのことに気づいた宣教師たちは、これを教訓として肉食を止め、米や魚、野菜を中心とした食生活をするようになった。

 

最後の項目、人身売買については宣教師、およびキリスト教徒に一言も弁護の余地はない。ルイス・フロイス、柳谷武夫訳、平凡社『日本史』には「パアデレ・コスメ・デ・トルレスが私に命じたこと、すなわち、婦人たちはみな鍵がかかった一室にいること、人望のある男二人がその鍵を持ち、婦人たちの世話をすることを彼等が処理し終わってから、彼ら自身は数日後に出帆しようとしていたからであった。すなわち、彼らは非常に廉価で日本人たちから買い取った婦人たちを、大勢船中に乗せていた」とある。

 

これを書いたフロイスも宣教師だから、人身売買を承知の上でやったことである。この船はポルトガル人の船で、ポルトガル人が人身売買の直接の当事者であっても、宣教師もそれに直接、間接に関与していたことを、当の宣教師自身が書いていることになる。つまり、人身売買であることを承知しながら、船室に監禁した女たちの監視役を引き受け、それを悪として否定する部分はどこにもないから、この件に対する秀吉の詰問はあまりにも当然なものである。

 

この秀吉の詰問状に対し、コエリヨの回答は高圧的で、布教方法の変更拒絶、および布教活動の継続を強く主張したため、初期にあってはキリスト教に対して好意的であった秀吉も、日本人、外国人の別なく宣教師の追放に踏み切った。これはコエリヨの乗っていた船に大砲が備えられていたという事実、武装船であったことが布教を隠れ蓑にした、ポルトガルの植民地政策ではないか、という疑問を秀吉に起こさせたからである。

 

この疑念もそれまでのキリスト教国における、植民地化の推進を見れば至極真っ当なもので、日本はどこの国の植民地にもならなかった、という反論があるとすればそれは単なる結果論に過ぎない。ただ、一ついえることは秀吉の疑念は、秀吉自身が朝鮮出兵を強行したことからも分かるように、自分がそうだから人もそうだと考えるものに共通している、ということはいえるだろう。いずれにしろ、この追放令は外国貿易や外国人の来日そのものまで禁止したものではなく、キリスト教宣教師と布教目的を持つものを追放し、入国を禁じたもので、それ以外の外国人の入国は保障されていた。
 
この秀吉の禁止令の背景には、高山右近が領民や僧に改宗を強制し、あるいは追放し、神社仏閣を破壊し、教会に改め、秀吉の命に逆らってキリスト教を捨てなかったという側面もあるが、秀吉の詰問状に対してコエリヨは自己中心的な返事をしたばかりではなく、「有馬春信にキリシタン領主らを糾合し、迫害者秀吉に敵対行動をとるよう働きかけ、そのために必要な資金と武器、弾薬を提供することを申し出てその調達にあたった」とあるから、これでは信教の自由を主張するものではないことが明らかで、武力による内政干渉以外の何物でもない。

 

政者としては反乱防止の措置をとるのは当然のことで、裏で反乱を使嗾し、そのための武器弾薬、資金を提供しているものが、表で信教の自由を主張しても虫がよすぎて話にならない。事実、コエリヨは当時のマニラ総督に大砲を積んだ船を複数、援軍として派遣するよう要請している。もしそれが実現していたら日本はポルトガルの植民地にならなかった、という保証はどこにもない。非も道理もどちらにもあるが、このキリスト教団側の対応は、平和を説く宗教人として到底是認されるものではない。なお、この件はその後、伴天連追放令撤回を前提として論議され、兵員や武器弾薬等は一切持たないという、宗教人として当然の結論になったことは付記しておく。

 

その流れが徳川幕府へつながる。家康の外国貿易奨励策によって、ポルトガル船による貿易と引き換えに、布教活動が黙認されることになる。それが一転して禁止となったのは、外国との貿易を奨励した家康の方針を、キリシタン解禁と誤認した宣教師たちが、公然と布教活動を再開したことによる。もう一つはキリシタン大名の有馬晴信と本多正純の家臣、岡本大八の間に起きた詐欺事件が発端である。これは本多正純の側近であったキリシタンの岡本大八が、かつて本多家が龍造寺家に奪われた、肥前唐津一帯の旧領回復を願っていることを知って、それを種に詐欺を働いたことにある。

 

岡本大八は、家康がデウス号事件で功績のあった晴信に恩賞を与えるとして偽り、晴信から多額の運動費を詐取し、旧領回復を保証した辞令を発行した。しかし、その旧領回復がいつになっても実現しないので、晴信が本多正純に問い合わせたことから一切が発覚した。ことは幕府の体制を揺るがす大問題である。その加害者、被害者ともにキリシタンであったことから、家康もキリシタン禁止令を敷く腹を決める。これによってキリシタン弾圧の嵐は一挙に吹き荒れた。

 

これが世にいう慶長の禁令で、家康は「吉利支丹国の者はたまたま日本に商船を渡航させ、財貨を齎すためだけではなく、邪法を弘めて正宗を混乱させようとし、これを以って日本の政治を改変するものであって、これは大きな禍の兆しであると警告する。すなわち、キリシタンが侵略征服の尖兵たることを看破したものである」とした。

 

そして慶長十九年、(一六一四)に五千石の直参旗本、小笠原権之亟と、家康の侍女が伊豆大島に流され、その翌年、江戸鳥越において二十二人の一般人が処刑された。禁令施行三年目には徳川幕府の本格的なキリスト教弾圧が始まるが、キリスト教が伝来してからここまで半世紀以上の間、禁止令の陰で宣教師の密入国が相次ぎ、西日本を始め四国、九州はいうに及ばず、北は蝦夷から東北、関東各地ほか、ほぼ全国的にキリスト教が流布された。

 

それにはキリシタン大名が中央から遠ざけられ、国替えによる転封や流刑によって、逆にキリスト教徒を、各地に伝播する結果になった、という皮肉な一面もある。そのために日本各地に信者が増加したが、別な要因として外国との貿易による利益に着目した各地の大名、豪族によるキリシタンへの陰の援助もあった。そして寛永十四年(一六三七)島原の乱がきっかけとなってポルトガルとの貿易は断絶し、寛永十六年(一六三九)鎖国体制に入る。以後の貿易は朱印状を持った御朱印船による長崎港に限られ、長崎港以外での貿易は抜け荷として厳重に処罰されることとなり、キリシタンに対する弾圧もいっそう厳しいものとなり、幕府の威信を賭けてキリシタンを根絶するため踏絵が考案され、人別帳による絵踏を行うに至った。

 

それから二百年を超える鎖国の夢は、ペリーの来航とともに破られる。嘉永七年(一八五四)三月三日、幕府とペリーの間で和親条約が結ばれ、総領事として来日したハリスは通商条約交渉に入った。この条約第八条に信教の自由の保障と絵踏の廃止がある。幕府は既に絵踏を廃止していたことから、この第八条を承認した。慶長の禁令以来、明治六年(一八七三)の外圧により、明治政府が太政官布告を以って、キリシタン禁止の高札を撤去するまで、二百五十九年も経過したが、絵踏はそれ以前に廃止されている。
 
しかし、絵踏を廃止し、キリシタン禁制の高札を撤去したからといって、それで弾圧がなくなったわけではない。ついで明治二十二年(一八八九)大日本帝国憲法によって信教の自由が謳われ、ここにキリシタン禁制と弾圧の歴史は、表向き幕を閉じることになったが、新たに神道を国教とすることにより、明治以後の政府官僚によるキリスト教への干渉は激しく、その余燼は長く燻りつづけたのはいうまでもない。本当の意味で信教の自由が確立するには、第二次大戦の終了を待たなければならなかった。

 

以上が日本におけるキリスト教史の概要で、フロイスの『日本史』は、一五七八年十一月以後の記述はない。従って信長が安土城に入った二年後、キリシタン弾圧が本格化する前に『日本史』は終了している。この踏絵について原生林刊、田井友季子著『江戸女豆事典』は、その起源を寛永八年(一六二八)とする説をとり、「キリスト教信者発見器」といっている。しかし、その出現の意味からいえば「キリスト教信者発見器」であるまえに信徒を改宗させるため、精神的な拷問の道具、あるいはその手段として考案されたものが踏絵ということになる。

 

いかに権力者といえ、故なく民を処罰することは出来ない。そこで禁止令を敷き、その禁止令に違反したキリシタンを拷問し、改宗させるためにキリストやマリアの像を踏むことを強制した。キリシタンの中には、処刑されることを覚悟の上で、絵踏を拒否するものがいたが、のちにはそれがキリシタンであることを証明する方法として、踏絵を踏むことを強制した。その踏絵を踏ませる行為が絵踏で、踏絵とは踏ませるものそれ自体を指す名詞であり、絵踏とは踏絵を踏ませる行為で動詞ということになる。

 

徳川幕府は初期のころ信者を根絶するために処刑したが、処刑されたものが殉教者として崇められたため、殉教者という栄誉を与えることを嫌った幕府は、暴力による改宗に主眼を置くようになった。そのへんはアフガンにおけるビンラーディンに対して、アメリカがとった手段、殉教者とはさせないという方針と同一で、徳川幕府にとって処刑が第一目的ではなくなった。そのために改宗を拒否するものに対して、見せしめとしての処刑があり、そこに多少の混乱はあったとしても、原則として転んだもの、つまり改宗したものは命を助けられた。しかし、命は助かっても、社会的な制裁まで免れるものではなかったのは、人別帳という当時の住民票に仏教徒は「元来」と記され、キリシタンは何の記入もされなかったことでも知れる。この元来とは終始一貫、もともとからの仏教徒という意味で、これによって仏教徒とキリスト教徒を区別した。

 

徳川幕府以前にキリスト教禁止令はあっても、それは国の指針ではなかったが、問題は徳川幕府になってから、なぜ国是としてキリスト教が禁止されたのかということである。それについてNHKブックス、片岡弥吉著『かくれキリシタン』はその理由を、「キリシタンは国を奪う邪教だから、どんなに非道残酷な処刑も当然だという印象を国民に植えつけようとしたのである。幕藩体制を維持するためには政治・思想の統制と自然経済を維持しなければならないし、そのために鎖国を強行することが、必至の勢いになって来た。キリシタン禁制には、思想統制と鎖国の口実をつくるという、一石二鳥の狙いがあったのである。(中略)キリシタンの邪教観を徹底的にたたきこみ、それによって鎖国政策を強化し、終局的には幕藩体制を維持するという、敵本主義によるものだった」とある。

 

その背景には宣教師が日本の仏教を否定し、敵視し、かつ破壊行為をしたことに原因があり、それはとりも直さずキリスト教徒による、信教の自由を否定する行為以外の何ものでもない。「彼らは神道や仏教を悪魔の教えとして激しく攻撃し、その信徒を異教徒と呼んで対決色を鮮明にし、その初期には仏教寺院等の破毀、破壊に関与し」たというから、一方的にどちらが悪いと図式化できるものでもないが、先に述べた秀吉にしても家康に始まる徳川幕府にしても、それに対して禁止令を出したのは当然といえる。

 

さらに『かくれキリシタン』は続ける。「キリシタン宣教師の日本の仏教諸宗派に対する非寛容な態度と姿勢は十六、七世紀ヨーロッパの時代精神を反映して、他宗教の信教の自由を否定するものであり、日本における一般信徒のキリシタンもまた、この精神を共有するところとなった」として、「異宗教に対するこの非寛容の態度は、現在も一般キリスト教信徒層の間に共通してみられるところである」という。キリスト教を布教するときは信教の自由を声高に叫びながら、同時に他宗教に対しては邪教呼ばわりし、信教の自由を冒すのは自己矛盾以外のなにものでもない。異教である仏教に対するキリスト教徒側の具体的な行為として、「パードレたちが寺社から仏像等を集めさせて焼いたり、経典を俵詰めにして焼却した行為が、仏僧らの怒りを招かないはずはなかった」ともあるが、それは当然のことである。

 

ただでさえ誤解され易い新来者、そして紅毛碧眼の人によるキリスト教布教に対しても、当初はこれといった敵視政策をとらなかった仏教界を、一方的に敵視し、邪教呼ばわりし、破壊工作をしたら、その結果は火を見るより明らかである。信教の自由を叫ぶキリスト教徒が、その反面で仏教徒を敵視し、仏教を否定し、その行動によって信教の自由を否定するのは、自己撞着も甚だしいといわざるを得ない。そこには自由と博愛を説くキリストの教えのかけらもない。それがキリスト教徒の一部に、二十一世紀の今なお見られるといってもいい過ぎではなく、イスラエルとパレスチナに、現在も見られる紛争の根幹にはそれがある。

 

このキリシタン禁止令の理由について、『日本キリシタン殉教史』はさらに詳しく述べているが、要するに日本進出で鎬を削りあうポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランス、イタリアなどが、自国の利益のために他国を幕府に中傷しあったことと、罪を犯したキリシタンが処刑されるに当たり、見物人の中にいた信徒が処刑者のため、跪づいてキリストに祈りを捧げたことが、罪人を伏し拝んだと誤解され、主君の命によって処刑されるものを拝ませるとは、悪魔の宗教であるということになった。

 

こうした誤解と中傷、貿易上のトラブルが頻発し、幕府としても体制を守るための禁止令へとつながってゆく。「慶長十八年(一六一三)十二月、徳川家康は放鷹に出た。供をしていた長崎奉行、長谷川左兵衛にいろいろ質問をしたとき、キリシタンに悪意を抱いていた左兵衛はこの時ぞとばかり、京都と有馬の事件につき歪曲して耳に入れた。ペドロ・モレホンはその『日本殉教録』の中でそれについて次のようにのべる。『有馬領だけでもこのように頑迷で、領主にも将軍にも従わせることができないのだから、都の人々がすでにキリシタンになっているように、もし日本の大部分がキリシタンになったら、どんな結果になるであろうか。日本に伴天連がいる限り、それに対抗する手段はないといった』かくて『将軍とその王子』は全宣教師の追放と残酷な全国的キリシタン禁令を下すに至った」と『日本キリシタン殉教史』は述べている。

 

この禁止令の背景にはこれを放置しておいたら、幕藩体制の屋台骨を揺るがすことになる、という判断もあったろう。これは単に対日本の場合だけではなく、世界各地にキリスト教が進出したときの共通項だといえる。その結果としてキリストは地に塩を贈ったのではなく、人類に争いを贈ったといわれても仕方ない一面があることは事実で、すべてがそうであるとはいえないまでも、今に至るまで世界各地で繰り広げられ、いまもくりかえされつつある、宗教的な対立を根底とした戦争の頻発を見ても明らかである。

 

雄山閣、名和弓雄著『拷問刑罰史』は踏絵について、「切支丹宗徒は男女老若の区別なく幼児までがその対象となって、明治十年ころまで迫害せられている。切支丹宗徒摘発の方法として有名な踏絵も、宗徒にとっては一種の残酷な精神的拷問であった。踏絵の初期のものは紙にイエス・キリスト像やサンタ・マリア像を印刷したもので、慶長ごろから寛文ころまで使用された」とあり、板踏絵、真鍮製の踏絵の実物は、国立博物館に現存しているというが、続けて「これらの踏絵は宗門改めと称し、役人立会いの場で踏ませ、切支丹でないことを証明するものである。この精神的拷問の前に潜伏切支丹はもろくも屈伏し、宗徒は相次いで捕縛された。絵踏の期日、方法、場所などは各地各様で一定していなかった。寺に集めて踏ませるところもあり、奉行所、代官所で踏ませる場合もあった。長崎においては正月四日から役人四、五名、踏絵を携えた使丁を連れて全町内各戸について、全家族に踏ませて宗門改を行った。長崎遊郭では毎年正月八日、丸山寄合町の『踏絵式』という年中行事となり、華美な晴着を纏った遊女が踏絵を行うように儀式化されていた」とあり、そんなところから正月行事となったが、最初は信徒に対する拷問の一つとして絵踏を強制したのも、キリストやマリアの像を踏ませることによって、キリスト教徒としての絶望感を持たせることにあった。

 

そしてこの絶望感によって、二度とキリスト教に戻れないように仕向けたものである。それは寛永八年(一六三一)十二月から翌年一月にかけてのことで、のちに絵踏は拷問の方法としてではなく、『江戸女豆事典』でいう「キリスト教信者発見器」として、かくれキリシタン摘発のための手段となった。従って初期のころ、モノとしての踏絵と中、後期の、行事としての絵踏とはその名称の違いばかりではなく、その意義を異にする。名称という意味では絵踏は行事、踏絵は踏まれるものそのものを指し、のち、この違いは次第に混同され、歳時記のうえではとにかく、一般的に踏絵といえば行事を意味する場合が多いが、踏絵のもともとの意味からいえば踏まれるための絵、マリアやキリストの像や十字架などの彫刻を指す。

 

『日本キリシタン殉教史』は寛永六年、(一六二九)長崎奉行竹中重義が、長崎の牢にいたキリシタンを雲仙に連れてゆき、裸にして首に石を縛りつけ、熱湯を注いだとある。それでも改宗を拒否したためその二年後に「石田ピントという日本人神父以下七人が雲仙地獄に送られ」一か月以上に亙る拷問にも耐えて改宗しなかった。そこで肉体的な痛みによる拷問より、精神的に耐え難い方法として考え出されたのが「絵踏の拷問である。役人が神の像を持ってきてカルウァリヨ神父に踏めといった。(中略)日本の絵踏が初めて行われたのは『長崎港草』などによれば寛永五年(一六二八)と考えられるが、実際に行われた時と所、人の名が知られるのは寛永八年(一六三一)雲仙地獄のこれが最初の記録である」とある。しかし、記録に残される以前から各地で行われていたことは想像に難くない。

 

『江戸女豆事典』は前記の通り、最初に行ったのは寛永八年(一六二八)であるとする説をとっている。しかし、それは拷問の方法として絵踏を行った三年前のことだから、そのころであれば「キリスト教信者発見器」というより、拷問のためにしたと解すべきだろう。いずれにしても寛永八年二月二十五日、長崎奉行水野守信が紙に書いたもので行ったのが最初で、翌年に後任の竹中重義が木版に改め、さらにその後任の松平隆見がいまも残る銅板に改めた。

 

この「キリスト教信者発見器」としての絵踏は、リトマス試験紙のように絶大な威力を発揮した。その絵踏に使われる踏絵の発案者は、イエズス会のクリストファン・フェレイラで、のちに日本人となり、日本名を沢野忠庵といった。この沢野忠庵はオランダ人宣教師として慶長十五年(一六一〇)に来日し、イエズス会日本管区代理管区長として最高の地位にあった。しかし、彼は布教の禁止令に触れ、拷問に屈伏した結果の、いわゆる転びバテレンである。のちに日本人と結婚して沢野忠庵と名乗り、キリシタン目明かしとして取り締まりに協力したが、同時に踏絵の保管や管理もした。それが結果的に二百五十年以上続いたことになる。

 

沢野忠庵が拷問された方法は穴吊りで、これは地面に穴を掘り、逆さに吊す。「内臓が下がってすぐ死なないように体を縄でぐるぐる巻きにし、頭に充血するのを防ぐため小さい穴を開けておく。そしてできるだけ苦しみを長引かせる」というもので、死ぬまでに半月以上も苦しんだという。拷問は実際に受けたものでなければその苦しみを理解できるものではなく、この沢野忠庵を転びバテレンと軽蔑し、裏切り者と罵るのはやさしい。だが、それを罵る資格があったのは、あくまで所信を貫き通し、殉教した者や受難者だけである。門外漢にとって明治時代まで絵踏が行われていたことも意外だが、フェレイラの考案になる絵踏は、自身が宣教師であっただけに、宗徒の弱点を知りつくしたものだけが考えつく方法だろう。

 

前出の『拷問刑罰史』に武士階級にあっては「諸大名に命令し、領内住民の信教を調査し、これを切支丹奉行(のち宗門改掛)に報告させた。これによって諸藩の武士は家族や使用人に至るまでキリスト教徒ではない旨の誓紙を出し」たとあり、この宗門改めは万事抜かりなく、「江戸時代の隣保班五人組に達した五人組帳の二条に、『切支丹摘発の申しつけ』がある。

 

一、毎年宗門帳を改め、三月迄の内に差出すべく候。若し御法度の宗門の者これ有れば早速申出づべく候。切支丹宗門の儀、御高札の旨相守るべく、宗門帳の通り人別に入念相改むべく、宗門帳済み候て召抱え候下人等は寺請状別紙取置く可く候事。

 

宗門改めの一方法として、踏絵が行われたことは前述のようであった。さらに幕府は摘発方法の一つとして密告を奨励した。恩賞を与えて知人や同志を売らせようという悲惨な方法であるが、これが案外功を奏して摘発を助けたのである」とあり、『日本キリシタン殉教史』もこれらの記事は共通している。厳密にいえば『拷問刑罰史』は、踏絵と絵踏を同一視しているきらいはあるが、これは本の性質からいって俳句と関係ないから仕方ないだろう。

 

徳川幕府は武士、町人、農民という身分の別なく禁令の網をかぶせ、徹底的に取り締まったが、密告されて売られたほうは、痛めつけられた上で改宗させられることになり、その改宗を拒否したものは処刑された。密告を奨励するため高札に記された懸賞金の額を見れば、その効果の程は成程と頷かざるを得ない。江戸時代の長屋のおきまりである九尺二間に住み、その日暮らしの江戸町民にとって、目の眩むような金額である。高札の文面は「定」として、

 

「切支丹宗門は兼て御禁制たり。自然不審なる者有らば申出づべし。御ほうびとして
ばてれんの訴人      銀六百枚
いるまんの訴人      銀三百枚
立ちかへり者の訴人    同断
同宿並に宗門の訴へ人   銀百枚
右の通り下さるべし。たとひ同宿同門の関はりといふとも申出の品により銀五百枚下さるべし。かくし置き、他所より現はるるにおいては其所の宿主並に五人組迄一類共に罪科行はる可き者也。




このようにしておいて、ほかから発覚したら連座の罪に問うとおどしているところなど、用意周到である。(中略)逮捕された切支丹宗徒は転宗するか死ぬ以外、拷問を逃れる法はない。彼らはあらゆる手段をもって改宗を迫られた」とある。

 

ここでいう「ばてれん」とは神父あるいは司祭、「いるまん」とは法兄弟で、バテレンの次に位する宣教師のこととは広辞苑で調べた結果である。「立ちかへり者」とは拷問その他に屈して棄教したものが、ふたたびキリスト教徒となった場合、「立ちかへり者」ということになる。逮捕されたものは改宗を迫られ、木馬責めなどの拷問にかけられるが、それでも改宗を拒否したものは、処刑という名のもとに惨殺される運命にあった。

 

この絵踏は人別改帳によって行われたが、この人別改帳は江戸時代における戸籍簿ともいうべきもので、檀徒であることを証明する檀那寺の印があり、人別帳に記載されている者は、必ずどこかの寺の檀家でなければならないし、寺は檀家を監視し、キリシタンではないことを保証する責任があった。これを寺請制度といって、寺請証文という絵踏の別称の由来である。

 

役人の手前、踏絵は踏んでも宗旨は変えないという隠れキリシタンは、家族から死者が出た場合、仕方なく僧を呼んで仏式の葬儀をし、僧が帰ってから改めてキリスト教によるお清めをしたという。NHKブックス『かくれキリシタン』には、「潜伏の時代、幕府の厳しい掟によって坊さんの立合いなしに納棺することは許されなかった。自葬は厳しいご法度だったし、(中略)それでやむなく檀那寺の坊さんを呼ぶけれども、それでは死者が救われないという考えから、お経消しのオラショをしたり、坊さんが帰ってから棺をあけて、頭陀袋などの仏教的なものをとりのけ、キリシタン的なものに変えた」とある。
 
それを防ぐため僧侶が帰ったあと、キリスト教によるお清めなどは出来ないよう、キリシタンの疑いがある場合は僧侶が立ち会って納棺し、すぐに火葬することを強制された例もあったという。これは単に葬儀の場だけではなく、墓石や盆、彼岸、年忌、寺参りなど、宗教行事すべてについて仏教様式で規制された。

 

『拷問刑罰史』は全巻、拷問の方法と処刑について述べているが、そのなかから切支丹宗徒拷問の一例を引用すると、「切支丹宗徒の拷問においては女を全裸体にし、後手に縛り、木馬に跨らせて『転べ、転べ』(転宗せよ)と責め立てたと伝えられる。全裸で木馬にかけられた若い女は、苦痛と羞恥を死よりも辛く感じたに違いない。江戸時代にも木馬責めは、切支丹宗徒に対してしばしば行れた拷責法であるが、残念ながら当時使用した木馬の現存資料はない」ということで、その木馬は三角形の木の台に足をつけたもので、全裸で跨がせられただけでも自身の体重で痛いのに、さらに罪人の足に重石の石を括りつける。これは責問といい、拷問ではないから、特別の許可は必要なく行うことができる。ものはいいようということだが、実質的には拷問となんら変わりはない。

 

序でにいえば江戸時代の体制内には、意外な厳しさが存在した。例えば無礼討は武士の特権だが、現実にその特権を行使した場合、奉行所にその旨を届けなければならない。うしょ奉行所は届けを受けるとブラックリストに載せ、後日になって些細なことを盾にとって其方儀、普段の所業よろしからず、よって切腹仰せつけ、あるいは遠島申し付けということになる。町人のほうも武士のおかれたそういう立場を熟知しているから、「二本差が恐くて鰻の蒲焼が食えるか」などと悪態をつくものも現れる。武士のほうはいくら口惜しくても、司法を納得させ得るだけの理由がない限り、単に町人に罵られたくらいで無礼討にするのは二の足を踏まざるを得ない。また、百叩きを行うに当たって数を間違え、一つ余計に叩いたために、担当役人の責任問題にまで発展した例もあったというから、武士や役人としても相当な注意を払ったに違いない。

 

一般犯罪の被疑者に拷問を行うには老中の許可を必要とし、その前提条件として「真犯人に違いないが自白しない、そしてその罪状が死罪以上の科人である場合にかぎり」拷問を許可するとしている。さらに「殺人、放火、盗賊、関所破り、謀書謀判の五つに限り、証拠が確と認められるにもかかわらず自白しないもの、同類が白状しているのに本人が白状しない場合、その時々の評議の上拷問申しつける。もっとも始めからこの規定はなく、はじめは重軽罪の区別なく、取りしらべ中に自白しなければ拷問にかけていたのであるが、元文五年(一七四一)に関所破り、謀書謀判、その他重罪のものを拷問にかけるよう規定され、のち寛保三年(一七四四)に人殺し、火付、盗賊の三種類は拷問にかけるよう追加し、前述のように五種に限定された」とある。

 

老中から拷問の許可が出ると「町奉行所詮議掛の与力同心が、小伝馬町牢屋敷に出張して牢獄の長、石出帯刀にその旨を告げ、牢屋同心に命じて処断させたが、(中略)奉行所の与力同心は立会として拷問の場に臨席するが、傍から口をさしはさむことは許されない」と解説し、それに続けて「近ごろ映画やテレビで拷問の場をたびたび見かけるが、拷責場所の設定がどうもはっきりしない。奉行所か牢屋敷か、侍屋敷かわからぬ場所で行なっている。江戸時代はことに制度、様式のやかましい時代であるから、でたらめな場所で、でたらめなことをやるはずはない」という。ただ、大名や旗本は表沙汰にすることを嫌い、屋敷内でひそかに拷問をする場合もあったろうから、そういう場合まではなんともいえないが、少なくともそういうケースは、役人がその場にいてはおかしなことになる。

 

鞭打ちや石抱きは責問といって拷問とは違うため、こちらは奉行所の白州で、奉行の一存で執行することができる。このように責問と拷問は別物で、その間に法令上は豁然とした境界があり、拷問の方法も海老責め、吊し責めなど何種類かに限定され、医師の立ち会いも条件づけている。立ち会い医師は、被疑者の生命に危険があると判断すれば手当をし、拷問の中止を進言したりする。

 

しかし、「往々、誤って責め殺してしまうこともあったが、責め殺しても報告さえすれば役人になんらとがめはなく、殺され損で落着する。拷責にかけられる者は人殺しや火附や、盗賊などの重罪のものであり、どうせ死刑に処せられる者であり、自白せぬ方が悪いというわけである」とあるから、そこに冤罪によって責め殺される者が出てくる余地があった。

 

そして刑死したものの墓を作ることは許されなかったのは、寛永年間(一六二四ー一六四四)に制定された「御定書百箇条」に準拠したもので、「寛保以後、明治新政府に引きつぐまでの間、法廷罰則の基準としてみだりに改変することは許されなかった」とある。ここだけに限らないが引用した文中に括弧で括り、西暦年をつけたのは、全体として年代の前後が分かるよう夏冬がつけ加えた。

 

しかし、拷責という名にかくれて拷問を行ったとしても、権力による密室の犯罪は口裏を合わせさえすればいともたやすいことで、実質的に拷問と責問の境界はないに等しい。ものもいいようとはそんなところを指すが、「江戸時代の裁判は原則として自白裁判で、認定裁判や証拠裁判は許されなかった。たとえ証拠や証人があっても、本人が『恐れ入りました。私が犯人でございます』といわねば断罪できなかった。(中略)死罪以上の重罪の場合は、絶対に本人の自白が必要であった」から、罪は明白でも白状しない以上、処刑することはできない。現在の法廷における証拠主義とは逆なわけだが、そこに白状させるための残酷な責めが登場する素地が隠されている。極論すれば白状さえ得られれば、真犯人である必要はないということになるからだ。

 

そのため、冤罪も多かったろうということは容易に想像される。逆ないい方をすれば白状さえしなければ処刑されないから、「一年九箇月間に笞打責十五回、石抱き責二十五回、海老責二回、吊し責二回、合計すると四十四回の拷問にかけて責めたくったが、美事に堪えぬいて、ついに白状しなかった男がいたため、例外として改めて老中の裁可を仰ぎ、自白なしで死刑に処した」記録があり、また、女性で一例、これは明治政府高官殺害の嫌疑を掛けられた高官の愛人が、「四年七箇月の間、拷問の全過程を数十回くりかえして責めたてたが、ついに自白せずに終った」とある。こちらは結局、「証拠不十分としてついに釈放され」その後に結婚して、天寿を全うしたというから、容疑者が女であるという配慮もあったろうし、美人は得をする見本のような事件といえる。

 

絵踏からだいぶ横道に逸れたが、キリシタン宗徒に話を戻すと、改宗を拒否したものの刑は火炙り、磔、牛裂き、水磔、生き埋め、餓死させるなど、あらゆる方法が用いられた。水磔とは品川沖の海に十字架を立て、逆さに縛りつけたとある。「潮が満ちてくると首から肩のあたりまで潮水につかり、息もつけない苦しみにあえぎ、潮が引くと顔面は腫れあがり、人相も変わり、この世の人とも思えぬ凄惨さで、八日目にはことごとくもだえ死に絶えたという」これは『武門諸説拾遺』という本にあるというが、ここまでくると、その本にまで遡って確かめようという気にもならない。

 

「潮が満ちてくると首から肩あたりまで潮水につかり」というのは逆さに縛られるからで、縛りつける高さはもちろん、満潮の水位を計算した上である。波の合間に僅かな息ができるよう、やすやすと溺死しないよう考慮してあるのは勿論のことで、拷問にしても処刑の方法にしても、すべて非人間的であることは改めていうまでもないが、火炙りも残酷この上ない。映画や芝居ではずいぶん美化されているが、その実情は生易しいものではない。ただ、同じ火炙りでも放火などによるものと、キリシタン宗徒の場合は少し異なるが、キリシタン宗徒の場合を『拷問刑罰史』から引く。

 

「竹矢来で取囲まれた広い刑場に、転宗しないキリシタン宗徒の男女子供を引出し、全裸にして蓑を着せ笠をかぶせる。ついで頭上から油をたっぷり注ぎかける。藁蓑は油を十分に吸込む。こうしておいて蓑に火をつける。恐ろしい勢でもえさかる紅蓮の炎に包まれて、宗徒たちは狂いまわり、ころがり廻り、たちまちにして阿鼻叫喚の生地獄を現出する。そのありさまが、まるで手をふり足を上げ、狂踏乱舞しているように見えるので、いみじくも『蓑踊り』と名づけたものである。力つきて倒れ伏すと獄吏たちが遠くから熊手、刺又、突棒などで突起し、絶命するまで責め苛み、狂乱の舞踏を続けさせる。あるものは発狂し、やがて全身、頭髪も焼け爛れて呼吸が絶える」というから、これは柱に縛りつけたものではなく、あくまでも改宗を拒否した場合である。

 

これらの執行は当然、公開の場でなされるわけで、見物人が黒山のようであったというから、いくら恐いもの見たさとはいえ、その神経のほどはちょっと理解し難い。もちろん、キリシタン宗徒の火炙りは柱に縛りつけて行われるほうが主流で、蓑踊りは特異な処刑法ではあったが、柱に縛りつけて行うとき、他の罪による火炙りと違う点は、転ぶ意志があればいつでも縄から抜けて逃げ出せるよう、ゆるく縛ってあったという。

 

一方、放火など一般犯罪による火炙りは、その残酷さにおいて変わりないが、執行方法は少し異なる。まず柱を立てる。ただ地中に立てただけではすぐに傾いたり、倒れてしまう。そこで柱の下端に横木を打ちつけ、斜めに支え柱で固定して埋める。そうすると柱に縛られた罪人が、どんなに暴れてもびくともしない。そこまではどの火炙りにも共通しているが、そのようにしてから青竹二本を柱の頂上に近いところで交叉して縛り、両端を下へ曲げ、逆U字型にした竹の四つの下端を、輪にした別な青竹で止める。ちょうど底のない大型の丸い鳥籠のような形で、その中央に罪人の縛りつけられた柱があると考えればよい。柱のまわりの地面には燃えやすいように細い薪の束を敷き、市中引き回しが終わって刑場に到着した罪人を、下働きの六人が馬から下ろし、敷いた薪に乗せて中央の柱へ括りつける。

 

縛る場所は首、腰、太腿、足首の四箇所で、その他に両腕も釣竹に縛るから、囚人は身動き一つできない状態となり、縛った縄は簡単に燃えて切れないよう、泥土をよく塗る。そのようにして縛り上げると周囲に薪を積み、さらに茅をかぶせる。罪人は外からは見えなくなるが、顔のところだけ開けておき、最後に役人が姓名を確かめ、異常がなければ顔の前の開口部も茅で塞ぐ。

 

使用するのは佐野薪二百十把、茅七百把で、これだけあると見たところは茅、薪の山になってしまう。それから火をつけることになる。以上が一般犯罪による火炙りの場合で、よくテレビや映画の市中引き廻しの場面に、役人も含めて十人から十五、六人の行列となっている場合が多いが、実際は先触れ、罪状を書いた札持ち、槍持ちその他、一人の処刑につき五十人から六十人あまりで構成される。これはちゃんとした規定によるものだから、奉行の一存で人数を増やしたり、減らしたりすることは出来ないものである。

 

処刑はあまりに残酷なので『拷問刑罰史』から要旨を引用するに止どめた。なお、著者による聞き書きが残っているのでそれを紹介する。「火あぶりの刑は、すぐ窒息して意識がなくなるものと思っていた。鈴が森刑場での火刑では海からの烈風が横なぐりに吹くので、先ず脚が焼かれて気絶するが、すぐ意識がもどる。気絶と蘇生をくりかえし、そのたびに猛獣の叫びに似た、ものすごい悲鳴をあげる。悲鳴は八キロもはなれた丘の上の人家まで聞こえたといわれる。鈴が森大経寺住職談話」現在の鈴が森刑場跡は海からだいぶ離れているが、そのころは本当の海辺だったから、「海からの烈風が横なぐりに吹く」という表現は誇張でも何でもない。ただ、ここでつけ加えれば犯人が女や、情状酌量の余地あるものはせめてもの慈悲として、火炙りを執行する前に扼殺する場合があったというから、八百屋お七などは、まえもって扼殺してからの火炙りだったのだろう。

 

秀吉、家康と続いた対キリスト教観は、明治政府になってからも神道を国教とするに至って、弾圧の嵐は止むことなく、御前会議でもキリスト教禁止令が決定された。それに対してアメリカ、イギリス、フランスを中心とする外圧の波が高まり、ついにこれに屈してキリシタン弾圧の中止、信教の自由を認めるに至った。しかし、軍国主義の台頭によって日本のキリスト教徒も戦争に協力し、軍部に迎合した事実は消すことのできないものである。

 

戦争に協力したのはキリスト教徒ばかりではなく、仏教、神道もその枠内にあるが、それにしても宗教とはそもそもいかなるものなのだろうか。絶対平和を説く仏教にしても、その発祥の地、インドにおいて、既に血を流しての外道との宗教的な対立がある。神道と仏教という違いはあるとしても、蘇我氏と守屋氏の対立も、神道を奉じるものが、外来宗教である仏教に警戒心を持っていたとしても、そのことの善悪は別として自然な成り行きであり、それが根底にあったのは否定できない。そしてそこでまた血が流されている。同じアジア人が説く仏教と神道にしてそうであったように、紅毛碧眼の人の説く宗教が、日本の時の権力者にとって警戒すべきものと映ったとしても、単なる被害妄想として一笑に付せるものではない。ただ、その視点が一般大衆のものではなく、権力者のものであったところに問題がある。

 

ここまで述べたことと全く別の話で、平成十三年十二月三十一日の読売新聞朝刊に、「◆中国、『地下教会』創始者に死刑」というタイトルで、偶然に恵まれなければ見落としてしまうような、小さな囲み記事があった。その全文は、「香港の人権団体『中国人権民主化運動ニュースセンター』によると、中国湖北省荊門市中級人民法院(地裁)は30日、『地下教会』と称される中国当局未公認のキリスト教団体『華南教会』の創始者二人に対し、『邪教』を利用し違法活動をした罪などで死刑判決を言い渡した。(香港支局)」という記事があり、その続報が平成十四年一月六日、読売新聞朝刊に掲載された。
「◆聖書搬入し邪教罪で起訴」という小見出しで、「香港の人権団体『中国人権民主化運動ニュースセンター』は5日、中国福建省に聖書3万3000冊を持ち込んだ香港の貿易商、黎広強氏(38)と『地下教会』と呼ばれる中国当局未公認のキリスト教派の関係者2人(同省在住)がこのほど、邪教を利用した違法行為の罪で、同省福清市の検察当局から起訴されたと発表した。3人は昨年6月までに中国公安当局に拘束されていた。(香港支局)」とある。


 

またその続報が、平成十四年一月二十九日付読売新聞朝刊に掲載された。「聖書持ち込み香港人に懲役二年」と題した記事は「◆香港の人権団体『中国人権民主化運動ニュースセンター』などによると中国福建省の裁判所は28日、同省に聖書3万3000冊を持ち込み、昨年12月に『邪教を利用した違法行為』の罪で起訴された香港の貿易商、黎広強氏(38)に対し、より刑の軽い『違法経営』の罪で懲役二年の有罪判決を言い渡した。訪中予定のブッシュ大統領が起訴に懸念を表明したのを受け、中国当局が罪名を変更したものと見られる。(香港支局)」というものである。

 

アメリカ大統領の圧力が、こういうかたちで表れているが、さらにその続報が平成十四年二月十日付読売新聞朝刊に掲載されている。その見出しは「◆聖書持ち込み有罪の貿易商釈放」というもので、「中国福建省に新約聖書約3万冊を持ち込んだとして、先月、懲役二年の有罪判決を言い渡された香港の貿易商、黎広強氏が9日、『病気治療のため刑務所外の服役を認める』との名目で事実上釈放された。(香港支局)」外圧に屈したのは何も日本だけではないということだろう。
そして最後に北京でのブッシュ大統領と、江沢民国家主席の首脳会談が報じられている。こちらは平成十四年二月二十二日付、ブッシュ大統領が北朝鮮、イラク、イランを「悪の枢軸」と決めつけた後の訪中だから、これまでの記事とは扱いが違い、二面に大きく報道されている。その記事の冒頭にこの宗教問題でアメリカ人記者が、中国当局の宗教弾圧について質問したところ、江主席はそれに答えないで、次の中国人記者を指名し質問させたとある。

 

都合が悪いからアメリカ人記者の質問を無視して通り過ぎたわけだが、「米国の要請で中国全土に生中継されたテレビ映像は、不快感で半ば膨れっ面をしたブッシュ大統領の姿をとらえた」として、「問題となったのは大統領訪中を控えた二月中旬、中国当局がカトリック教会のメンバーら外国人を含む三十三人を拘束、軟禁又は活動を禁じたとされる一件。米メディアはこれを大きく報じたが、中国では伝えられていなかった(後略)」と解説し、「首脳会談でブッシュ大統領は、カトリック教会の総本山バチカンや、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ十四世との対話を中国に求めた。十一月の中間選挙ではキリスト教右派の支持が不可欠になるという国内事情もこの背景にある」としている。

 

私はこれらの記事を援用して、ここまで述べてきたことを根拠づけようという気はないし、この記事で中国を非難しようとしているわけでもなく、私の個人的な興味から紹介したまでである。この簡単な記事だけでは事件の経緯や背景はもちろん、そこに至るまでの事情も分からないが、少なくとも政治の世界の事情によって、小さなことが思いもかけない部分に飛び火し、とんでもない結果になってしまうということはいえる。過去の日本がキリスト教徒に対して行ったことを、いまは中国がしていると解釈するのも、また、邪教の輩がキリスト教の名を騙り、利用したと解釈するのも、あるいは中国当局が、キリスト教を邪教と断定したと解釈しても、読者としてこの記事をどう読むかは勝手で、一読者が勝手な読みを踏まえ、第三者を批判するのは許されないが、勝手な読みであっても、自由に推理して楽しむぶんには読者としての特権である。

 

だが、事情も分からずに他国や、第三者を非難することはできない。これらの記事で分かるのは黎広強という香港の貿易商が、「邪教を利用して違法活動をし」死刑を宣告されながら、外圧によって事実上無罪になったということであり、これも広義では宗教的な対立が、政治の世界に影響を及ぼした結果であるといえる。さらに過去、現在に至るまで、戦争の背景に宗教が介在する例はそれこそ枚挙に暇なく、中東、中近東諸国を始めとする戦乱はほとんど、その根底には宗教的な対立がある。信教の自由を侵すつもりはないし、宗教は阿片だなどというつもりもない。ましてや私は無神論者ではない。しかし、人々を幸福に導くためであるべき筈の宗教が、大勢の人々に死を齎している現実を見れば、宗教とはいったい何なのか改めて考えさせられる。

 

歳時記では行事としての絵踏を主とし、踏絵を従としてさらりと解説し、ここまでに述べたような陰惨な部分は少しも感じさせない。各種の歳時記は遊女が踏絵を踏もうとしているところや、町人の女や、こどもが踏んでいる絵などを掲載し、艶なるもの、のびやかな風景として華やかに扱っているが、その裏にはいろいろな地獄絵図が隠されていたわけである。

 

講談社『日本大歳時記』絵踏の例句を見ると、「足袋はかぬ天草をとめ絵踏かな 青木月斗」「傾城の蹠白き絵踏かな 芥川竜之介」「うつむいてまなじり長き絵踏かな 三宅清四郎」「遊び女のちひさき足の絵踏かな 細川加賀」などは艶麗な側面を句にしているし、「小さなる小さなる主を踏まさるる 中村汀女」、「絵ぶみして生きのこりたる女かな 高浜虚子」は、その内容が深刻である割にはさらりといってのけている。私のような叙情派はそのほうが好きではあるが、それにしてもここまで述べたような、裏の実態を知っておくのもあながち無駄なことではない。