2015年12月13日日曜日

2015年12月13日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(258)
       山尾かづひろ  読む

■ 
尾鷲歳時記(255)
       内山 思考    読む

江戸から東京へ(258)

舞岡ふるさと村の冬
文:山尾かづひろ    

竹炭焼き窯











江戸璃(えどり):現代俳句協会特別顧問の宇多喜代子先生の御著書「新版 里山歳時記」の第3章「秋から冬へ」には先生の子供時代、四季を通じて「田んぼのまわり」には用事が山積みしていて、冬季には頬被をして炭を焼くおじさん、萱の炭俵を編むおじいさんの姿があった、という興味深い一節があるのね。という訳で野木桃花師は里山の風景をよく残した横浜市の「舞岡ふるさと村」に冬の景色を拾って、宇多先生の世界を垣間見ようと出掛けた。

枯葉積む堆肥の箱や山の畑     金子きよ
竹炭の炭焼小屋を覗きをり      〃
のぞき見る炭焼の小屋ドラム缶   緑川みどり
七色の冬の紅葉を友好む      〃
北門を入れば残り香炭を焼く    大木典子
被写体に愛犬一匹枯野かな     〃
柊の白き小花や匂ひ立つ      安西道男
炭焼きの小屋無人にて荒れ果つる  〃
新しき獣の足形冬の畑       白石文男
枯木立栗鼠渡る声響きけり       〃
彩りをほどよく重ね冬紅葉     浅治さつき
人見えぬ炭焼小屋に窯二つ       〃
七輪にはじける炭火昭和かな    油井恭子
谷戸深く風を引き連れ落葉道      〃
距離おきて眺めるがよし冬紅葉   浜野 杏
どう使ふ炭の大小出来不出来     〃
園児らの柞紅葉をめぐりをり    砂川ハルエ
里深く竹炭焼きの窯煙          〃
竹炭の仕上りを待つ雨の中     甲斐太惠子
風の橋くぐり来るなり朴落葉       〃
真弓の実爆ぜて華やぐ峡の空    平井伊佐子
竹を積み炭焼小屋の黙深し       〃
中腹に炭焼く小屋の佇まひ     乗松トシ子
おのおのに主張のありて冬紅葉    〃
暗きまで赤を重ねて冬紅葉     金井玲子
あれこれと過ぎし一年初時雨      〃 
登り来て一望の丘冬紅葉      宮崎和子
山の際炭焼小屋のうらぶれて      〃
声あげて冬のもみじの色浴びる   脇本公子(新)
小綬鶏の鳴く古民家に炭を買う     〃
朱のエキス地より吸ひ上げ冬紅葉  山尾かづひろ
古民家の番人兼務炭を焼く        〃
一水を隔て里山枯れ急ぐ      野木桃花
雨もよひ炭焼き小屋の土埃        〃


都区次(とくじ):東京からのアクセスを教えて下さい。
江戸璃:横浜市営地下鉄の舞岡駅で下車するのよ。


啾啾と木乃伊(ミイラ)のごとき枯木逹  長屋璃子
枯蟷螂死してなほ眼の殺気かな      山尾かづひろ

尾鷲歳時記(255)

暖をとる
内山思考

物置の四季の中より出す火鉢  思考

指のゆく釉(くすり)の垂れの支那火鉢
山河













冬に限らず日常生活で直に火を見る機会は格段に減りつつある。幼少時を思い返すと、さすがに実家にもう囲炉裏は無かったものの下流しにはかまど(くど)があり、風呂を薪で沸かし、神棚仏壇にはローソクがあり、たまには焚き火もした。そのためにはマッチが不可欠、つまり赤い黄色い炎はごく身近なものだったのである。

でも二十一世紀は「火を見るより明らか」の比喩も時代遅れと言って良いだろう。今どこにその火があるのか。暮らしの大方がオール電化だし、青く揃ったガスの火は風呂の焚き口や焚き火の炎のように、われわれの原始の遺伝子を暖め癒してはくれない。「暖を取る」の言葉にしても、手中に珠を転がす如く温かさを愛でる感覚こそ本意だと思うのである。

ここに一つの大火鉢がある。こことは正確に言えば尾鷲の妙長寺で、今年七月に本堂に据えられるまでそれは大阪の北さとり元大樹主宰宅のベランダにあった。由来はこうだ。昭和十年の秋、さとりの父で前主宰の北山河(きたさんが)は中国南部への旅行に出かけた。船の名は竜田丸、火鉢はその折、上海、南京を巡る旅程のどこかで山河の目にとまり、はるばると船に揺られて大阪にやって来た。

ストーブの火色にまなこゆるみけり
思考(祖父)の句、山河書
戦時中は箕面牧落(まきおち)に書籍類と共に疎開していたため戦焼を免れたといい、結果この大陸渡来の火鉢は、戦前戦後の長年にわたり北家の人々を、そして多くの来客の浮世の寒さを和らげて来たのである。千客の中には祖父思考の姿もあったろう。だからベランダの使わないものを処分しに業者のトラックが来る、と聞いた時、僕は迷わずさとり主宰にあの火鉢を下さいと申し上げたのだった。「いいわよ」と言う返事を貰った数日後、自家用車で上阪した僕は久しぶりに火鉢を見て驚いた。こんなにデカかったっけ、とても一人では持てそうにない。そこで灰を別にして本体を落とさぬよう必死で積み込み帰鷲、かくして大火鉢は、日本に来て八十回目の新年を妙長寺本堂で迎えることになったのである。