2015年12月13日日曜日

尾鷲歳時記(255)

暖をとる
内山思考

物置の四季の中より出す火鉢  思考

指のゆく釉(くすり)の垂れの支那火鉢
山河













冬に限らず日常生活で直に火を見る機会は格段に減りつつある。幼少時を思い返すと、さすがに実家にもう囲炉裏は無かったものの下流しにはかまど(くど)があり、風呂を薪で沸かし、神棚仏壇にはローソクがあり、たまには焚き火もした。そのためにはマッチが不可欠、つまり赤い黄色い炎はごく身近なものだったのである。

でも二十一世紀は「火を見るより明らか」の比喩も時代遅れと言って良いだろう。今どこにその火があるのか。暮らしの大方がオール電化だし、青く揃ったガスの火は風呂の焚き口や焚き火の炎のように、われわれの原始の遺伝子を暖め癒してはくれない。「暖を取る」の言葉にしても、手中に珠を転がす如く温かさを愛でる感覚こそ本意だと思うのである。

ここに一つの大火鉢がある。こことは正確に言えば尾鷲の妙長寺で、今年七月に本堂に据えられるまでそれは大阪の北さとり元大樹主宰宅のベランダにあった。由来はこうだ。昭和十年の秋、さとりの父で前主宰の北山河(きたさんが)は中国南部への旅行に出かけた。船の名は竜田丸、火鉢はその折、上海、南京を巡る旅程のどこかで山河の目にとまり、はるばると船に揺られて大阪にやって来た。

ストーブの火色にまなこゆるみけり
思考(祖父)の句、山河書
戦時中は箕面牧落(まきおち)に書籍類と共に疎開していたため戦焼を免れたといい、結果この大陸渡来の火鉢は、戦前戦後の長年にわたり北家の人々を、そして多くの来客の浮世の寒さを和らげて来たのである。千客の中には祖父思考の姿もあったろう。だからベランダの使わないものを処分しに業者のトラックが来る、と聞いた時、僕は迷わずさとり主宰にあの火鉢を下さいと申し上げたのだった。「いいわよ」と言う返事を貰った数日後、自家用車で上阪した僕は久しぶりに火鉢を見て驚いた。こんなにデカかったっけ、とても一人では持てそうにない。そこで灰を別にして本体を落とさぬよう必死で積み込み帰鷲、かくして大火鉢は、日本に来て八十回目の新年を妙長寺本堂で迎えることになったのである。