2013年7月14日日曜日

2013年7月14日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(132)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(129)
       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(132)

山手線・日暮里(その32)
根岸(上根岸82番地の家⑰「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

森鴎外














都区次(とくじ): 子規は本郷の常盤会寄宿舎以来の仲間・五百木瓢亭(いおきひょうてい)が戦場レポート「従軍日記」を新聞「日本」に掲載したことに刺激を受けて、自分も従軍記者として戦地へ行かなければと、中国へ渡ったわけですが、二日後の明治28年4月17日には講和条約が調印されています。子規は従軍の様子を「陣中日記」と題して新聞「日本」へ送っていますが、どういう内容になったのですか?
江戸璃(えどり): 体裁は俳句入りの雑報というものでね、年表を見ても想像はつくけれど、題名「陣中日記」という生々しい戦争の記録ではないわね。掲載句のいくつかを拾ってみると

一村は杏と柳ばかりかな   子規
古寺や戦のあとの朧月    子規
砂浜に足跡ながき春日かな  子規
戦のあとにすくなき燕かな  子規

といった具合で、文学味豊かな紀行文という感じよね。五百木瓢亭の場合は現役兵の看護長の立場のレポートで、この場合の子規が対抗しようとしても無理ね。子規の「陣中日記」は従軍記者としての成果は疑問ね。

鴎外と交友深む夕焼空 吉田ゆり

都区次: 子規個人としての成果はどうでしたか?
江戸璃: 子規の行った遼東半島の金州には森鴎外が近衛師団軍医部長として駐留していてね。鴎外日記によると子規は5月4日に金州の軍医部に初めてやって来て、この日以後、毎日のように姿をみせて5月10日まで俳句を談じたそうよ。子規と鴎外は日本で仕事を通じて会う機会はあったことがあったけれど、この異国での再会は二人の距離を縮めて、日本へ帰ったあとも交友は続いたそうよ。
都区次: ところで今日は日暮里からどこへ行きますか?
江戸璃: 不忍池の夜店に行ってみない?

不忍池の夜店










夜店の灯うつして耳朶に光るもの 長屋璃子(ながやるりこ)
貝細工戸板に売りし夜店かな   山尾かづひろ

尾鷲歳時記(129)

歌は友だち
内山思考

夏木立力余りて歌うなり  思考

お寺の本堂で胡弓を
披露したのは十年以上前










7月某日の夜、市内のスナックを借り切って自治会のカラオケ大会が行われた。これは毎年の恒例で、町内の一斉清掃と並ぶ初夏の二大イベントである。北浦町は4つのグループに分かれていて、僕の住む第2自治会は30軒ほど。港に近いのでもともとは漁師街といってよく、昔からの付き合いが多いため、総じてみんな仲がいい。当夜の出席は約二十名、まず最初に会長の挨拶があり、その後マイクは司会に渡された。

ちなみに司会は僕である。この会の特徴としては、歌いたい人は何十曲(実際には不可能)歌ってもいいこと、そして反対に歌いたくなければ最後まで聞き役もオーケーということである。要は苦手な人に無理強いしないし、もっと歌いたかった、の不満も無くすのが目的で、ある意味その方が平等かも知れないのだ。もちろん各テーブルの上にはお寿司あり軽食あり、ビールにおつまみありの食べ放題飲み放題、これで盛り上がらないわけがない。

かくして、その夜の尾鷲中の賑わいを一カ所に集めたような楽しい時間は過ぎ、カラオケ大会は会長と司会者の「まつり」熱唱で幕を閉じたのだった。司会者は他にも「ラブユー東京」「ウナセラディ東京」「哀愁列車」を歌った。彼は普段カラオケは嫌いだ、と公言しながらいざその場になるとついつい我を忘れる傾向があるようだ。で、また来年の7月にお会いしましょうと拍手喝采で解散したのだが、来年どころか明くる朝になると「オハヨー」と言い合う顔ぶればかりなのが面白いところである。

ウクレレの弾き語りも
確か四十代
しかし、さんざん歌っておいて言うのも気が引けるが、実は僕は、音楽は聞く方が性に合ってるのだ。好きなミュージシャンの演奏や歌声に本当は直に接したいのだが、地方にいると余程エネルギーを消耗しない限り、その望みは叶わない。最後に下田逸郎さんのライブにでかけたのはいつだったろう。長谷川きよしさんのあのギターと歌声も是非一度生演奏で聴いてみたいと思っているのだが。