2015年2月8日日曜日

2015年2月8日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(214)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(211)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(214)

人形町(その6)
文:山尾かづひろ 


水天宮(旧社)













都区次(とくじ):立春が過ぎたのに寒いですね。
江戸璃(えどり):本当よ。店に鶯餅が並ぶ日が待ち遠しいわね。

鶯餅摘まむにほどのよき凹み  梅山勇吉

都区次: 前回は大観音寺でした。今回はどこへ案内してくれますか?

桃の花活けもし水天宮の昼  吉田ゆり

江戸璃:水天宮よ。今回も大矢白星師に12年ほど前に案内して貰ったコースを同じ説明をして歩こうというわけ。
都区次:見えますけれど工事をしてるじゃないですか?
江戸璃:水天宮は耐震建築物にするので工事中で、日本橋浜町の明治座のそばの仮宮に遷座しているのよ。工事をするのは昭和40年代のはじめに「かさ上げ工事」で人工地盤の2階建にして以来50年ぶりで、完成は平成28年だそうよ。
都区次:水天宮は元々ここにあったのですか?
江戸璃:江戸時代には、芝赤羽にあった久留米藩主有馬家の江戸屋敷内に置かれていたのよ。有馬家の領地のほとりにある水天宮尼御前大明神の本宮から勧進した分祀なのね。従って有馬家の私有社であったけれど、毎月5日だけ庶民の参拝を許したのよ。当時から水天宮は安産祈願の神様だったから大勢の参拝者がつめかけたらしいのよ。ところが元々は水天宮の名のとおり水天竜王(天御中主大神アメノミナカヌシノオオミカミ)を祭神とした水難の守護神の筈だったのが、有馬家が将軍家から拝受した犬を、参勤交代の折に連れて歩いたのが有名になって、安産の代表とも言える犬と有馬家が結びついたものなのよ。有馬家の会計記録には「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上項目があり、その金額は安政年間の記録で年間2000両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入だったそうよ。明治に入って芝の藩邸は新政府に接収され、水天宮だけが明治5年(1872)ここに移ってきたのよ。当時は一日、五日、十五日と月三日しか開かれず、その日の界隈は大賑わいで、いわば人形町は水天宮の門前町として発展したのよね。水天宮には江戸っ子の地口(じくち)で

「どうでありま(有馬)の水天宮」
「なさけありま(有馬)の水天宮」 

などと言うのがあるのよ。

工事中水天宮













仮宮に早春の暾やはらかき   長屋璃子
店番の丁々発止干鰈      山尾かづひろ

尾鷲歳時記(211)

誕生日のいろいろ
内山思考 

大陸や建国の日も動きおり  思考 


ヒロコさんから
手作りマフラーのプレゼント













2月11日が僕の誕生日である。今年六十二才になる。子供の頃母に「お前の誕生日は昔、紀元節言うて祝日やったんやよ」と聞かされるたびに、何で今は違うんや、と悔しい思いをしたものである。戦争に負けてそうなった、確か母はそう言った。「僕の生まれた日は(紀州ではヒイワ、と伸ばす)昔、学校休みやったんやで」、他に自慢するものがなかったから、せめて誕生日ぐらいは特別であって欲しいという単純な理由で、誰彼にそう言った記憶も懐かしい、と言うより恥ずかしい。

しかし僕の願いが天に通じたのか、中学時代、紀元節は建国記念日と名を改めて目出度く国民の祝日になった。嬉しかったはずなのに、その時どう喜んだか覚えていないのは、僕もちょっと大人になりかけていたからだろうか。でもまだ、誕生日にはすき焼きかカレーライスか助六寿司のどれか好きなものをリクエストすると、母が作ってくれていたから限りなく子供だったが。

ところで、建国記念日を詠った俳句と言えば 

建国日雄鶏を追ひかけてゐる  多映

が一番好きだ。軽快、重厚、広大、深甚といかようにも捉えられる句姿は魅力満載、さすが「感性の精霊、柿本多映」である。手元(沖縄)に資料が無いので、確認させて貰うために電話をかけることにした。「あらあ思考さん」、明るいいつもの声が耳に心地よい。良かった。声の元気は体の元気である。
「僕、誕生日11日なんですけどね」
「そうそう、私10日私の兄は9日」のやりとりの後、雄鶏の句が好きだと言うと、
「あ、あれね橋閒石(かんせき)さんも好きや言うてくれはった。そう言えば閒石先生も2月生まれよ」と話題は膨らむ。


骨董屋で陶枕発見








「どこが好きかって理由は言いたくないんです、ただ肌に合うというか・・・」
「それでええのよ、まずそれが先やから」
と暖かい俳句談義をしばらく続け「有り難う御座いました」「貴方もお元気で」と那覇、大津のはるかな語らいは幕を閉じたのである。