2013年9月1日日曜日

2013年9月1日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(139)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(136)
       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(139)

山手線・日暮里(その39)
根岸(上根岸82番地の家(24)「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

三津浜の句碑










都区次(とくじ): 四国の松山から奈良へ行くわけですが、現在では瀬戸大橋があって電車で簡単に行けますが、当時はどうしたのですか?
江戸璃(えどり):汽船で本州へ渡ったのよ。当時の瀬戸内海航路は煙突に「大」の字のファネルマークをつけた大阪商船だったのよ。松山には汽車を一駅乗ったところに三津浜港という港があったけれど海底が浅くて大型船は港に入れないので、沖合に停泊したのよ。
 
浜と船艀(はしけ)がつなぐ秋の暮 吉田ゆり
 
都区次: それでは汽船に乗るのに艀を使ったわけですか?随分と不便で危険だったのですね。
江戸璃: 船は電車と違って時間通りに来ないでしょ。それで艀を扱っていた久保田廻漕店が汽船待ちのための宿も営業していてね、十間十畳位の客室が四、五室ならんでいて、縁先に砂浜をへだてて瀬戸内海が見えていたのよ。子規はその中ほどの室に陣取って作句したり揮毫したりしていたのよ。夕方になって松山の日本派「松風会」の仲間から晩餐の饗応を受けたのよ。船は遅れてなかなか来ない。
「松風会」の仲間の乗る汽車が最終の時刻となり、別れを惜しんで帰って行ったのよ。そのとき子規が詠んだ句が「十一人一人になりて秋の暮」という句を詠み、句碑が三津浜に建っているわよ。
都区次:今日は日暮里からどこへ行きますか?
江戸璃:ちょっと秋らしくなったから趣向を変えてスカイツリーの下あたりから向島の長命寺まで歩いてみない?
 
当時の瀬戸内航路










秋つばめ業平橋の名の消えて  長屋璃子(ながやるりこ)
法師蟬中途半端に鳴き止みぬ  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(136)

清里の森にて 
内山思考

林檎食う太平洋のあたりから  思考

やまねミュージアムの前で








長い長い長い長い恵那山トンネルを抜けるとそこは南信州である。遠い山並みをチラチラ見ながら運転していると、後ろの座席の妻が「あっ、リンゴ畑」と言った。「どこ?ああ本当や」と僕、実は木になっているリンゴを見るのは生まれて初めてなのである。まだたいして赤くはないが、確かにあちらこちらの畑の緑の中に実が付いているのがよくわかる。そしてその風景は忽ち後方に流れ去る。

ああ信州にやってきたのだ。僕は思わず微笑んでしまうのだった。朝早く尾鷲を出て、ついさっき正午になったので次のサービスエリアで蕎麦を食べよう、と話し合っていたところである。で、その通り車を停め満員の食堂で席をやっと見つけて、僕たち夫婦は「冷やしとろろ蕎麦」を水木しげるさん風に表現すれば「ゾーロゾーロ」とすすり込んだのだ。そして僕は「サン津軽」を一個買って洗面所で洗い、それをカリコリかじりながら再び中央道の流れに戻った。

向かっているのは山梨県北杜市の清里の森である。そこにある「やまねミュージアム」を訪れるのが今回の旅の大きな目的なのだ。高校の同級生だった湊秋作館長に以前から「一度お越しください」とお誘いを頂きながら、なかなか機会が見つからずにいたのだが、ちょうど週末が空いているので「行かへん?」と妻に言うと、尾鷲の残暑にグッタリしていた彼女もその気になり、すぐネットでペンションを予約、この日のドライブとなったわけである。

湊博士の著書とやまねのお土産
とにかく見る景色すべてが珍しい。夢中になっているうちに山梨県に入り、ナビゲーションの指示に従って高速道路を降り、林の中の緩やかな坂道をしばらく走る内に、ああ、やっとゴールが近づいて来た。駐車場から少し森を歩くと、写真で見覚えのログハウス風の「やまねミュージアム」があった。童話に出てくるような可愛い建物である。笑顔で迎えてくれたスタッフの女性に僕は「館長さんおられますか?」と声をかけた。