2010年12月19日日曜日

2010年12月19日の目次

小野竹喬の「奥の細道句抄絵」
大畑 等   読む
俳枕 江戸から東京へ(1) 
山尾かづひろ 読む
私のジャズ(1)
松澤 龍一   読む

小野竹喬の「奥の細道句抄絵」

大畑 等

「現代俳句」平成22年11月号に菱沼多美子さんが「小野竹喬展を観て」と題するエッセイを書いています。今年の春に東京国立近代美術館で「生誕百二十年小野竹喬展」が開催されましたが、私も出かけました。展示の最後は「奥の細道句抄絵」十点でしたが、そのなかの一点はリーフレットに出ている、

田一枚植ゑて立ち去る柳かな  芭蕉

を絵にしたものでした。


「生誕百二十年小野竹喬展」リーフレットより


西行に「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の歌がありますが、歌枕を訪ねる旅の芭蕉はこの柳のある蘆野の里(栃木県那須町芦野)を訪ねました。西行の歌の柳を芦野の柳に結びつけて伝承させたのは、謡曲「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」で、朽木の精が旅僧に報謝の舞をのこして消えるくだり。

荻原恭男は岩波文庫『芭蕉おくのほそ道』で、西行の和歌を「田一枚植て」に具象したところが俳諧である、と注をつけています。また、芭蕉の句の「立ち去る」は朽木の精が「消える」ことをふまえ、芭蕉は西行を偲びそして対話をしている、この句は概ねこういうことを背景にして鑑賞されています。つまり素直な嘱目の句とはとられてはいません。

しかし小野竹喬のこの絵には芭蕉の心理は描かれていません。芭蕉の句のなにを絵にしたのでしょうか?井本農一の『芭蕉入門』(講談社学術文庫)では以下のように書かれています。

-この句は、農夫や早乙女(さおとめ)たちが田植えをしているのを見るともなく眺めながら、遊行柳の下で西行との対話に耽っていた芭蕉が、田を一枚植えおわった人々の立ち去るのに、はっと我に返ったときの気持ちを読んだもののように、私は思われます。(p129)

井本農一の鑑賞は「柳かな」の「かな」を「ただいま、ここ」に重きをなした句の鑑賞。小野竹喬も同じ、芭蕉の心理的なもの(想起体験)ではなく「はっと我に返ったとき」風景を感覚する、それを絵にしたと私は思います。かたちと色を単純化して構成した象徴的な絵と言えましょう。

小野竹喬(おの ちっきょう:1889~1979)
笠岡市生まれの近現代日本画を代表する日本画家。晩年は日本の伝統的な大和絵(やまとえ)を新たに解釈し象徴的な世界に到達した。「奥の細道句抄絵(おくのほそみちくしょうえ)」は昭和51年の作。

【蛇足】
会場には竹喬筆の芭蕉の句も展示されていましたが、その端正な書に感動しました。俳句は松瀬青々(1869~1937)を師としたそうですが、竹喬の句は展示されていませんでした。師の青々の句は、

 正月にちよろくさいことお言やるな  青々
 元日の庭に真白の椿かな       青々
 水にては水の色なる白魚かな     青々


俳枕 江戸から東京へ(1)

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皇居界隈/東京駅・丸の内
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし
皇居内濠















【東京駅・丸の内】
都区次(とくじ):東京駅は丸の内北口から降りていただきます。大規模なビル群が目に入りますね、この景色こそが東京駅を東京の表玄関という所以ですね。東京駅の赤レンガは象徴的で素晴らしいですが、それに引き換え屋根は味気ないですね。
江戸璃(えどり):私のような大正生れの人は知ってるけれど、味のあるドームだったのよ。それが昭和20年5月の東京大空襲で3階から上と屋根が燃えちゃったのよ。現在のは終戦直後の改修だから付焼刃なのよ。米軍も選別爆撃をしていたのだから外してくれてもよかったのよねエ。いま全面に防災の網を張ってトンカン・トンカンと改修工事をやってるわよ。来年の春には元のちゃんとした姿になるんじゃない?
都区次:江戸時代の繁華街というと日本橋なんですが、この東京駅・丸の内はどうだったのですか?東京駅は東海道本線の起点として大正3年12月の開業ですが、周りの景観に比べて駅の開業が相当に遅いようですが?
江戸璃:江戸時代は東京駅から江戸城辺りまでの大手町・丸の内・霞ヶ関などは大名の藩邸だったのよ。
都区次:維新後はそうした大名の藩邸は新政府のものになりますよねエ?
江戸璃:そのとおり新政府に接収されて陸軍用地、官庁用地になったわね。ところがギッチョンチョン、このときの新政府は財政難で麻布の兵舎の建設資金すら無く、明治23年に丸の内の十万余坪を売りにだしたのよ。
都区次:現在の状況から考えると売れたということですね。
江戸璃:そう簡単でもなかったのよ。財相の松方正義が財閥の幹部を呼び出してお願いしたのだけれど相場の数倍とあっては、そうは問屋は卸さないわよねエ。松方は次男が三菱の副社長の岩崎弥之助の長女と結婚している関係から岩崎弥之助に何度も懇願したのよ。弥之助も困っちゃうわよねエ。仕方なくロンドン出張中で経験豊富な上級番頭の荘田平五郎に電報で相談したわけよ。答えは「スミヤカニカイトラルベシ」だったのよ。
都区次:でも、それは言い値で買ったのでしょう?
江戸璃:その通りだけど荘田の考えは「情け有馬(ありま)の水天宮」というのではなくて、すでにロンドンのビル街を想定していたのね。
都区次:丸の内に三菱一号館が出来たのは明治27年ということですが、まだ東京駅は開業してませんよね。
江戸璃:東海道線も新橋まで、中央線もお茶ノ水までで、アクセスは大手町と日比谷間を走っていた路面のチンチン電車だけだったから相当不便で簡単にビルの借り手なんてなかったと思うわよ。歌人の岡本かの子が子供の頃、丸の内は三菱ヶ原と呼ばれて、草茫々の原野でところどころに武家屋敷の跡らしい変わった形の築山があったと書いていたわね。三菱側も土地の確保と政府への「貸し」をつくっておいて東京駅が出来るまで「塩漬け」にしておいたのじゃない?
都区次:さて、現在の丸の内を東京駅より眺めて、ひときわ目につくのが「丸の内ビルディング」です。このビルは二代目で平成十四年八月竣工の地上三十七階、地下四階の超高層ビルという仕様です。下層には歌謡曲『東京行進曲』などで名を残した先代の「丸の内ビルヂング(先代は表記が少し違う)」の面影を残しています。
江戸璃:私ね、二代目の「丸ビル」には悪いけど、先代の方がはるかに味があって好きだったのよ。
都区次:その先代の「丸ビル」に俳句の「ホトトギス」発行所が大正12年から入っていたそうですね。これは三菱が勧誘したのですか?
江戸璃:違うわよ。高浜虚子の方から入居希望したのよ。当時は欧州大戦が収束するか、しないかの時期で、昭和20年代の朝鮮特需のような状況でテナントの募集宣伝をしなくても入居希望があったのよ。新興成金にとって丸ビルへの入居は垂涎の的だったらしいわよ。当時、三菱地所の不動産部長だった赤星陸治(のちの赤星水竹居)が最初のテナントリストを見て、その中にホトトギスの虚子の名があってビックリ仰天したのよ。
都区次:何でビックリ仰天したのですか?
江戸璃:実業家でもないし、牛込の借家で「ホトトギス」を発行しているような虚子が本当に入るのか?家賃は支払えるのか?という疑問が当然浮かぶでしょ。後々になって家賃不払いとかになったら面倒じゃない?それで赤星は虚子に会いに行ったのよ。そしたら意気投合しちゃってね。赤星は虚子を応援する気になったのよ。応援と言ったって赤星は三菱の人だから家賃を負けてやるなんていうことは出来ないでしょう?まず自分が「ホトトギス」に入って、三菱の人達を「ホトトギス」に入れてやったのよ。
都区次:何か虚子が背伸びして丸ビルに入居したようですが、何でですか?
江戸璃:ライバルの河東碧梧桐を意識したのよ。当時、碧梧桐の方が俳句は隆盛で、おまけに浄土真宗の大谷句仏がスポンサーになって全国行脚をしたり、飛ぶ鳥を落とす勢いだったのよ。虚子も対抗意識を燃やしたのでしょうね。
(丸ビル)
梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け  高浜虚子
丸ビルのあの窓ひとつ冬灯  山尾かづひろ

私のジャズ(1)

レイ・ブラウンはやはりすごい
松澤 龍一



ピアノトリオはベースで決まる。このアルバムを聴いてつくづく思う。このアルバムとは、ジュニア・マンスが遺した数少ないアルバムの一つ「JUNIOR」(Verve V6-8319)のこと。ベースが、レイ・ブラウンである。レイ・ブラウンはやはりすごい。なんと言っても、あの音、ふくよかで深みのある音、ウッドベースの真髄、ここにありである。このアルバムはリーダーのジュニア・マンスより伴奏のレイ・ブラウンを聴くべきものだと言えよう。最初の曲「A Smooth One」でテーマの提示が終わり、アドリブに入るところで絡んでくるベース、この間がまたなんとも言えない。こんなスリリングな箇所が随所にある。ピアノのソロがベースを伴奏しているかのように聞こえてしまうから不思議だ。1959年のニューヨーク録音とあるから、モダンジャズ、いわゆるハードバップ全盛の頃の作品、リーダーのジュニア・マンスは同時代のボビー・ティモンズとかウィントン・ケリーなどと比べると影が薄いが、実に小粋な演奏を聞かせてくれている。ジャケットはジュニア・マンスが赤いセーターで一人ぽつんと写っている写真、これもまた粋である。

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追加掲載(120104)
長く音楽活動を共にしていたオスカー・ピーターソンのトリオでの演奏で、レイ・ブラウンの妙技が聴ける。