2011年9月11日日曜日

2011年9月11日の目次

俳枕 江戸から東京へ(36)
             山尾かづひろ   読む
尾鷲歳時記 (33)                          
                   内山  思考    読む

私のジャズ (36)          
                  松澤 龍一     読む

俳枕 江戸から東京へ(36)

深川界隈/霊厳寺
文 : 山尾かづひろ 

霊厳寺









都区次(とくじ): 次の場所は閻魔堂から清澄通を北に向かった霊厳寺です。場所的に江戸の中心から離れていますが、最初からこの場所にあったのですか?
江戸璃(えどり): 違うわよ。家康・秀忠・家光に信任のあった雄誉霊厳上人が寛永元年(1624)に開基したときには日本橋近くの霊厳島町にあったのよ。深川に移転したのは明暦4年(1658)の明暦の大火後なのよ。もともと霊厳寺は関東十八檀林の一つで大寺院だったので、そんな寺の移転だから他の寺も近くに建てれば寺格もあがるかも知れないと追随したわけ。これが隅田川の東に寺が栄えるきっかけになったのよ。
都区次:霊厳寺で有名なものは何ですか?
江戸璃: 田沼時代後の寛政の改革で有名な老中・松平定信の墓があるわよ。定信は陸奥白河藩主だったのでこの辺の町名を白河というわけ。また、定信の墓の隣には、江戸六地蔵第五番の銅造地蔵菩薩像があるわよ。江戸六地蔵は深川の地蔵坊正元という人が発願し、江戸市中から浄財を集めて、江戸街道筋の入り口にある寺地に建立したもので、霊厳寺のお地蔵様は享保2年(1717)の建立なのよ。

霊厳寺の六地蔵












定信の墓にも及ぶ冬旱    長屋璃子(ながやるりこ)
六地蔵の笠の穴より梅三分    山尾かづひろ

尾鷲歳時記 (33)

大騒動現世顔型その1
内山思考 

 穴を掘る男を秋の王となす 思考 

書家・浜田香峰さんの書を
青木上人が刻字して下さった










タイトルは「おおさわぎうきよのかおがた」と読んで欲しい。 年号が平成に変わった年、友人二人と特技を生かして発表会をやろうと言うことになった。 一人は女流書道家、もう一人は青木健斉上人で、お上人は得度する前に中学で美術教師をしていたほどだから、絵は玄人はだしだ。

尾鷲百景の内、馬越峠北浦登り口

失せて行く昭和の風景を水彩で描いた「尾鷲百景」などは、今となっては貴重な文化資料である。 そして僕だが、何も取り柄の無いことにそこで初めて気が付いた。「思考さんは何を?」と問われ、「じゃあ、開催中の2日間、即興で俳句を作り続けます」 と苦し紛れに答えたのが、後の「大矢数俳諧」挑戦のきっかけになるのだから、人生わからないものだ。 街の中の空き店舗を借りることにして、三者それぞれのスペースを割り振ったのだが、僕のところだけ、壁に飾るものがなくて淋しい。 そこで考えついたのがデス・マスクならぬ「ライフ・マスク」の製作だった。

学校の音楽教室などにあった石膏製のベートーベンの顔、あれの「内山思考」バージョンを作ろうと思ったのである。 まず、菓子箱の底を顔の輪郭に切り抜き、それを顔に押し当てて仰向けに寝る。 紙箱のプールの底が僕の顔になるわけで、そこへ、水で溶いた石膏を流し込み、乾くのを待って外せばまず凹型が出来る。そこへ油でも塗っておいて、もう一度石膏を流せば今度は凸型の完成品が出来るというわけだ。

石膏が固まる数十分の間、息を止めているわけにいかないので、鼻の穴へストローを突っ込んで呼吸をするようにした。 「目と口を閉じた?いくよ」 妻が面倒くさそうに言ったかと思うと、 ベチョベチョベチョッと泥状の液体が顔面を覆い、僕は一瞬パニックになりかけたが心を鎮めてゆったりと鼻呼吸を始めた。 実は、これから、てんやわんやの大騒動になるのだが、それは次回に。

私のジャズ (36)

ソ連のジャズ その2
松澤 龍一

ANTHOLOGY OF SOVIET JAZZ
 (MOHO M60 46115  001)












今回も、又、ソ連のジャズである。お借りした2枚目のレコード、これには BLUE NIGHT と副題が付いている。録音月日は前のものに比べさらに古く、1930年代前半のものが多い。演奏はバンジョー、弦楽器、アコーデオンが加わり、ジャズ風のロシアン・ポピュラー・ミュージックである。事実、ロシア民謡などジャズ風にアレンジされ演奏されている。これがジャズかと言うとジャズでは無い。では何かと言うと、初めて聴くタイプの音楽で、なんとも名状しがたい。でも、妙に快い。

そう言えば、日本でも、西洋から移入された音楽はすべてジャズと称される時代がかなり長くあったような気がする。石井好子も藤沢嵐子もバッキー白片も山下敬二郎もジャズをやっていた。この伝で、ソ連でも西側資本主義世界の音楽はすべてジャズと呼んでいたのかも知れない。それにしても適性音楽として禁止されなかったのだろうか。



ジャズはニューオリンズの紅燈街で始まったとされるのが通説であるが、本当にこんな騒がしい音楽が演奏されていたのか、常々疑問に思っている。遊郭を取り囲む飲み屋街で演奏されていたのがジャズと言う音楽で、内ではこのようなしっとりしたメローな音楽が流れていたに違いない、と思っている。