2012年3月11日日曜日

2011年3月11日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(62)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(59)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(62)          
        松澤 龍一  読む

俳枕 江戸から東京へ(62)

渋谷川流域/渋谷駅・西側(その1) 
文:山尾かづひろ 

渋谷駅西口










都区次(とくじ): それでは今日は忠犬ハチ公で有名な渋谷駅の西側へ行ってみましょう。この西側は駅に向かって擂鉢(すりばち)のようにゆるやかな坂に囲まれていますね。
江戸璃(えどり): そうなのよ。渋谷駅の西側にある丘陵の宇田川という支流が、「渋谷川」へ合流していたそうなのよ。川の流れはある筈だけど、現在は暗渠になっていて分らないのよ。宇田川町という町名だけが残っているのよ。坂のさらに上の台地の湧き水が集まって宇田川になったらしいわね。
都区次: 何か目印のようなものは、あるのですか?
江戸璃: 駅より文化村通りの坂を600メートルほど上がると観世能楽堂があるのね。その前の道に「宇田川の跡」という標識があり、ここより宇田川が流れはじめたらしいのよ。この宇田川が文部省唱歌「春の小川」で歌われた小川だそうよ。ところで都区次さんは「春の小川」を覚えてる?
都区次:1番なら覚えていますよ。「春の小川は さらさら行くよ  岸のすみれや れんげの花に すがたやさしく 色うつくしく 咲けよ咲けよと ささやきながら」 ですよね。
江戸璃:ところが私のように昭和5年頃までに生れた世代は「春の小川はさらさら流る 岸のすみれや れんげの花に にほひめでたく 色うつくしく 咲けよ咲けよと ささやく如く」 と覚えているのよ。もちろん違いは、昭和17年に文語文を教えるのは5年生以上という文部省の規則を受けて歌詞が変えられてのものだそうよ。
都区次:「ささやく如く」とは時代を感じさせますね。

ハチ公













ハチ公の後姿や春愁ひ 長屋璃子(ながやるりこ)
卒業の袴姿の立つ渋谷 山尾かづひろ

尾鷲歳時記(59)

野球の記憶
内山思考

少年に大手を広げ春の虹  思考

往年の名選手、
別当薫さんの父は尾鷲の人、
別当さんの本籍も尾鷲だった














小学校に入学したばかりのある日の思い出。僕は運動場で高学年の野球チームの練習を見ていた。先生がしきりにノックを繰り返し、レギュラーがボールを追いかけている。元気一杯だ。 「リーリーリー」 僕の前、三塁線から少し離れたところにいる二人がヤケクソのように叫んでいる。彼らは新入部員らしかった。ふと絶叫コンビの片割れが、もう一人に尋ねた。「おい、リーリーってなんや?」 問われた子は驚いた風に一瞬横を向いたが、すぐ 「知らんけど、言わなアカンのや」と返し、二人はまた、「リーリーリー」と声を張り上げ始めたのだった。

大阪での学生時代の話。下宿の近くの駄菓子屋に入ると先客がいた。ステテコ、ダボシャツ、腹巻き姿のオッサンである。しかも丸刈り。幼児を抱いていなかったら、僕は多分、そのままUターンして帰っていたかも知れない。ナリに似合わず?子煩悩と見え、小さな指が差す菓子を幾つか買ってオッサンが出て行った後、店のオバチャンが僕に言った。「今の人、知ってはる?」「いえ…」 僕はかぶりを振った。「永淵はんやんか、ほら、近鉄の…、ホームラン仰山打たはる」「はあ」その時、僕は知らなかった。彼こそ、水島新司原作の人気マンガ「あぶさん」のモデルとなった酒仙スラッガー、近鉄バファローズの永淵洋三選手だったことを。


ヤンキースタジアムで
買って来て貰った
松井グッズ
妻と一緒に名古屋ドームへ中日・巨人戦を観に行ったことがある。試合は、中日の川上憲伸投手が力投を見せ、巨人は音なしの完封ペース、最終回も大ファンの松井秀喜選手がバッターボックスに立ったが、あっという間にツーストライクになってしまった。僕はガッカリした。せっかく三時間もかけて尾鷲からやってきたのに、溜め息をついた途端に、「カキィン」と快音を残した白球がグングン伸びてライトスタンドへ突き刺さった。弾丸ライナーの見事なホームランである。三塁側の巨人ファンは歓喜し、僕もその渦の中でこぶしを突き上げた。あの時、ダイアモンドを颯爽と回っていた松井選手の姿をいまでも忘れない。 そして今年も野球シーズンがやってくる。エンジョイ・ベースボール。「リーリーリー」。

私のジャズ(62)

大道芸
松澤 龍一

「日本の放浪芸-小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸」
(ビクター VICG-60235)














音楽が音による感情の表現とかメッセージの伝達と定義するのであれば、咽を中心とした人体が楽器であり、それに簡単な打楽器を加えたものが、原初的な音楽の表現形態と言えよう。この音楽を享受する聴衆との距離も極めて近い。多くは道端とか広場、門付といった玄関先であった。上掲のCDでは、小沢昭一が浪花節の源流を辿っている。「浮かれ節」、「五色軍談」、「デロレン祭文」、「江州音頭」、「阿呆陀羅経」、「ほめら」など、どれをとっても、錫杖、小さなほら貝か小さな木魚などで伴奏をとり、大きな声でシャウトする。今年初めにアップした朝鮮半島のパンソリのようでもある。
この表現形態に一大変革期が訪れる。それは、電気と言う近代の魔術である。マイクロフォン、レコード、ラジオなどが発明され、これらの大道芸は大衆演芸として全国的に広まる。これに上手く便乗して一世を風靡したのが二代目の広沢虎造と言う浪曲師であった。特に森の石松の「酒飲みねえ、寿司食いねえ、江戸っ子だってね。神田の生まれよ」は有名な件であるが、今聴いてもとても面白い。


父親から、虎造を劇場に聴きに行ったが、声が小さくて良く聞こえなかったとの話を聞いたことがある。事実、あまり声量のある方では無かったらしい。
永井荷風は『濹東綺談』で主人公の大江匡にこう語らせている。「...此の物音の中でも、殊に甚だしくわたくしを苦しめるものは九州弁の政談、浪花節)、それから学生の演劇に類似した朗読に洋楽を取り交ぜたものである。ラディオばかりでは物足らないと見えて、昼夜時間をかまわず蓄音機で(流行唄を鳴らし立てる家もある...」 浪花節は、その当時ラジオの普及に乗って流行り出した新しい演芸であったことが良く分かる。荷風が嫌うのも宜なるかなである。
さて、今、はまっている大道芸である。ぜひ見てもらいたい。



「サーカスの唄」、亡き母が首に汗ふきのタオルを巻きつけて、内職のミシンを踏みながら良く唄っていた。
もう一つ、