2014年12月21日日曜日

2014年12月21日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(207)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(204)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(207)

谷中(その16)
文:山尾かづひろ 


天王寺本堂









都区次(とくじ):早いものですね。明日の22日は冬至ですよ。北国からは早々と大雪の便りが届いていますね。

雪卸し小昼はいつも屋根で餅 小川智子

都区次: 前回は谷中の功徳林寺(くどくりんじ)でしたが、今回はどこですか?

列車の尾過ぎ焼藷売りの声戻る 吉田ゆり

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の天王寺(てんのうじ)へ行くわよ。天王寺は天台宗の寺院なのよ。天王寺は元は感応寺(かんのうじ)という日蓮宗の寺院だったのよ。日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事が縁になって、関小次郎長耀が日蓮に帰依して草庵を結んだのが発端なのよ。日蓮の弟子・日源が法華曼荼羅を勧請して開山したのよ。寛永18年(1641)徳川家光・英勝院・春日局の外護を受け、29690坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となったのよ。像高296センチメートルの銅造釈迦如来坐像があるけれど天王寺の前身、感応寺の住職・日遼が元禄3年(1690)5月に鋳造したものなのよ。
都区次:この天台宗の天王寺は元は日蓮宗の感応寺だったようですが、宗派・寺号が変ったのはどういうわけですか?
江戸璃:感応寺は開創時から日蓮宗で、早くから不受不施派に属していたのね。不受不施派とは、信者以外からの施しは受けず、また他宗の者には施しをしない・・・これはゆるぎない信心としてはともかく、権力者にはなかなか手強い相手だったのよ。つまり、相手がどんなに偉い人であっても、日蓮宗を信じていなければ、一線を画しますよ、というわけなのよ。そんなことで不受不施派は江戸幕府により弾圧を受けたのよ。日遼の時、元禄11年(1698)強制的に改宗となり、日蓮宗14世・日饒と日遼が共に八丈島に遠島となっちゃったのよ。銅造釈迦如来坐像を鋳造した日遼は、感応寺時代の最後の住職となったわけね。これ以後、宗派は日蓮宗から天台宗に、寺号も感応寺から天王寺に変えられちゃったのよ。本尊の日蓮上人像も毘沙門天像に変えられたわけ。天王寺はまだ喋り足らないので次回に続くわよ。
天王寺銅造釈迦如来坐像












亭亭と冬木示せり存在感  長屋璃子
露座仏を囲む冬木の力瘤  山尾かづひろ



尾鷲歳時記(204)

そろそろクリスマス
内山思考 

青空に冬の雲ある安堵かな   思考 

看護師Mさんに貰った
折り紙のサンタ2人













沖縄に行く前に恵子の定期診断の為に名古屋へ行く必要があり、予報ではどうもその日が大雪になりそうだったので、思い切ってスタッドレスタイヤに履き替えることにした。尾鷲の気候は温暖だから大して遠出さえしなければ、普通のタイヤで冬を越せる。来週はもう那覇にいるのだから、新タイヤ購入は勿体ない気がしたが、背に腹は変えられない。

案の定、当日は津、四日市あたりから冬景色が一変して雪景色になった。一時間足らずの走行で同じ三重県とは思えぬ変わりようだ。高速道は交通量が多いから、轍の跡を大きく反れなければ運転にさほど支障は感じない。換えて置いてよかったねと恵子。ウンと僕。暖かいところでゆっくりして来て下さい、沖縄より暖かい医師や看護師さんの言葉に送られ、雪のチラつく中、桑名の姉との夕食もキャンセルして帰宅したのは7時だった。

明くる日は一転して1人で南へ向かう。娘の用事でこちらもタイヤ交換、ピンクの軽乗用車に乗って熊野大橋を渡り和歌山県へ入る。上天気だし、昨日と打って変わって南国気分である。指定されたタイヤショップの予約に一時間ほどあったので、ふと思いついて那智勝浦まで足を延ばした。中学高校時代のギター仲間くにひろ君を訪ねてみようと思ったのだ。確かこのあたりだったがなあ、入り組んだ街中を走って行くとあったあった看板が。「K工芸」と描かれた店のガラス戸を開けると、こちらを向いた顔は四十年前とまったく一緒やないか・・・・。

変わらぬくにひろ君
「くにひろ君か?」「おお」「わかる俺?」「田花(旧姓)か?」と言うような話でまあ2人ともそれから喋る喋る。あの時あーした。この時こーした。あちらは白ヒゲこちらは黒ヒゲ、外見はいい年のオッサン同士でも心は瞬時に十代である。沖縄から帰ったらまた会おうという事で、帰りのハンドルを握りながら、僕は一足早いクリスマスプレゼントを貰ったような愉快な気持ちであった。