2015年2月22日日曜日

2015年2月22日の目次

■ 俳枕 江戸から東京へ(216)
       山尾かづひろ  読む

■ 尾鷲歳時記(213)

       内山 思考    読む

俳枕 江戸から東京へ(216)

人形町(その8)
文:山尾かづひろ 

亀島川への水門










都区次(とくじ):寒い寒いと言ってもあと1週間もすると雛祭ですね。江戸璃さん辺りは嬉しいでしょう。
江戸璃(えどり):この雛祭前の早春の景は案外凄まじいのよ。

鎌倉五山春の吹雪となりにけり  小野淳子

江戸璃:また雛祭前の百貨店などは年明け早々から雛人形を並べて、躍動感があって私は好きよ。

雛人形皆白面がおそろしき  光成高志

都区次: 前回は兜神社でした。今回はどこへ案内してくれますか?

安兵衛碑橋又橋の凍て返る  佐藤照美

江戸璃:八丁堀近くの亀島橋よ。今回も大矢白星師に12年ほど前に案内して貰ったコースを同じ説明をして歩こうというわけ。
都区次:わかりました。隅田川の支流の日本橋川と亀島川の辺りへ行こうというわけですね。
江戸璃:兜神社から南へ少し行った永代通りにみずほ銀行茅場町支店があって宝井其角住居跡の碑があるのよ。其角は寛文元年(1661)現在の日本橋小舟町に生まれ、若くして芭蕉門下に入り、その才能を評価された俳人だったのよ。永代通りを東へ進むわよ。間もなく亀島川にかかる霊岸橋を渡ると新川1丁目に入るのよ。新川という地域は江戸時代には霊岸島と呼ばれていたのよ。寛永元年(1624)に中島と呼ばれていた砂洲を埋め立てて霊厳寺が建立されたのね。明暦の大火(1657)のあと霊厳寺は深川へ移転したけれど、島の名はそのまま使われたのよ。「厳」の字が「岸」にはなっちゃったけれどね。現在の新川1丁目と2丁目の境に、新川と呼ばれる運河が通じていて、舟便がよいことから諸国の物産品を商う問屋が軒を連ねていたのよ。霊岸島旦那衆には有名人が多いけれど、その筆頭は河村瑞軒でしょうね。瑞軒は瑞賢とも書かれるけれど、永代通りに面して瑞軒屋敷跡の説明板があるわよ。それによると瑞軒は元和3年(1617)伊勢の農家に生まれ、江戸に出たときに品川海岸に精霊流しの茄子や胡瓜が沢山漂流しているのを見て、それを集めて塩漬けにして売り捌き、築いた富で世の中に貢献、晩年は旗本に取り立てられたのよ。更に亀島川に架かる亀島橋を渡るわよ。橋の西詰に堀部安兵衛の碑があるのよ。安兵衛は吉良邸討入の前にこの辺に住んでいたらしいのよ。

堀部安兵衛武庸の碑











冴返る安兵衛の碑一揖す   長屋璃子
江戸っ子の判官贔屓冴返る  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(213)

絵はがきの話 
内山思考 

あおによし奈良へ文書く那覇の春 思考 


通りの突き当たり(北東)が安里三差路








那覇市内の骨董店で古い絵はがきの束を繰っていると、那覇のメインストリートと書かれた写真の一枚(未使用)があった。それは、国際通りでたぶん一番繁華な「むつみ橋交差点」あたりの風景で、モノクロに着色しているようだ。コダックのカラーが出始めたのが昭和45、6年だからそれ以前に撮られたものだろう、と説明してくれる店主は戦後の首里育ちで、そこは子供の頃から馴染みの場所だと懐かしそうに笑う。僕は、もう一枚守礼の門のも足して買って、喫茶店に待たせていた恵子とヒロコさんに合流、件の一葉を今の景色に照らし合わせながら歩いてみた。

やがて目の前に「神山薬局」の文字が。ちょっとためらったが店内に入って、実は…と絵はがきを見せると、最初は怪訝な顔をしていた奥さんの頬が次第に緩み「どこでこれを」。ご面倒でなければ写真の撮られた年代を知りたいのですが、と言うと、奥さんはご主人に電話をかけてくれ、もう一人の白衣の男性は、写真を見ながら大きなビルの名と、写っている数台の車種を推定してくれた。


現在の風景、中央に大洋堂
僕はそれらの車が右側を走っていることに言われるまで気がつかなかった。結局、中央(※写真参照)に「あゝ江田島」の映画看板が見えることから、本土でそれが上映された1959年(昭34)の少し後であろうというのが結論となった。撮影後半世紀以上の時を経て、神山薬房のあった所には「ドン・キホーテ」が建ち、中央左手の道を少し入ったところに現在の神山薬局(旧薬房)はある。また左側の「大洋堂(白い看板)」は、変わらずその場で営業を続けている。

こちらの奥さんにもお話を伺ったが、同じ二月生まれとわかっていよいよまわりの景色が身近に感じられた。ちなみに、写真右側、神山薬房の手前にはガソリンスタンドがあったそうだ。偶然出会った一枚の写真の空間には、その日、豊潤な時間が流れていたのである。このアングルを決めてシャッターを押した人は誰だったのだろう。