2012年1月22日日曜日

2012年1月22日の目次

■ 第48回現代俳句協会全国大会記念講演
 「短歌と俳句」 佐佐木幸綱   読む
■ 俳枕 江戸から東京へ(55)
        山尾かづひろ 読む

■ 尾鷲歳時記(52)                          
        内山  思考  読む

■ 私のジャズ(55)          
        松澤 龍一  読む

第48回現代俳句協会全国大会記念講演

「短歌と俳句」
  佐佐木幸綱

平成二十三年十月二十二日 於・東天紅上野店
(文責 山戸則江)



 











ご紹介いただきました、佐佐木幸綱です。
俳句の方の前でお話するときに、必ず自慢することがあります。私は三人の、偉い先輩の俳人に深いご縁をいただきました。まず、秋櫻子先生の病院で生まれまして、産婦人科医秋櫻子の手で、この世に出していただきました。(笑)

 成蹊中学、高校時代には、中村草田男先生の国語の授業を受けました。その後短歌を作り始めて、中村草田男の項目をいくつか、先生のご指名で書かせていただきました。草田男の解説をご覧の時に、もしかしたら僕の書いたものがあるかもしれません。

 大学に入り、仲間に誘われ高柳重信さんのお宅に一年ぐらい通いました。ですから、新興俳句の先輩たちの作品を学生時代にずいぶん読みました。俳句について重信さんにインプットされたものは、今でも残っているのではないかと思います。そういうことで、僕は短歌を作っている人間にしては、俳句に親しみをもっている。今日はそんなご縁もあって、「短歌と俳句」というタイトルでお話をさせていただこうと思って参りました。


【短歌と俳句】

 昨年、兜太さんと一晩対談をしまして、『語る 俳句 短歌』という本にいたしました。宇多さんと坪内捻典と三人で、やはり「短歌と俳句」という話をさせていただいたこともあります。歌会と句会、口語に対する感覚がずいぶん違う、そんなことをいろいろ話しました。あるいは、死刑囚が短歌を作るが、俳句は滅多に作らないこと。僕は、浅間山荘事件主犯の坂口弘の歌集の解説を書き、短歌をチェックする係をしておりました。短歌を作る死刑囚は彼を含めて、知っているだけで六人か七人います。しかし俳句は滅多に作らないですね。それはなぜなんだろう。そんな話をいろいろいたしました。

 またよく言われるのは、碁と将棋ですね。俳句と短歌と比べると、俳句の方がテレビを視聴する人は一桁多い。短歌人口と俳句人口だと、一千万人単位と百万人単位ぐらい違うんだそうです。碁と将棋も同じで、将棋の方が圧倒的に多くて、碁は一桁少ない。でも、テキストは碁と短歌が売れる。(笑)将棋の人と俳句の人はあんまり勉強しないという、(笑)そんな話をしまして。本当のところはよくわかりませんが。

 みなさん俳句を作られる方は、いろいろな工房の秘密をお持ちになっていて、ひそかな参考書をご覧になることも多いだろうと思います。短歌の本をご覧になる方もおられるのではないかと思いますが、私も俳句のものを手元にいくつか置いて、何かヒントがないかとパラパラ見たりしています。こういうことは普通、秘密ですが、今日は俳句にご恩をいただいたということで、特別に一部を持って参りました。

 まず、現代俳句協会の『現代俳句歳時記』です。普通の歳時記は有名な人の作品ばかりが出ていますが、これはいろいろな方の作品が出ている。おやっとした俳句がいろいろ出ていて、なかなか面白いです。もう一冊、知る人ぞ知るだと思いますが、『昭和俳句選集』という本。一九七七年の出版、重信さんがお亡くなりになる五年ぐらい前に出来た本です。昭和五年から五一年まで、編年体で作品が並び、川名大さんが解説を書いておられます。渡邊白泉、高屋窓秋あたりから始まって、赤尾兜子あたりまで、実験的、挑戦的な俳句が非常に多い。パラパラ単語を見ているだけでも非常に刺激的です。後で動詞の話をしますけれど、やはり短歌も俳句も、どういう名詞に興味をもってこの句が出来ているか、この歌が出来ているかというのは、かなり大事なことになってきます。こういう名詞を核にして句が作れるのかとびっくりしたりしながら、この本をよく見ています。



【動詞の数】

 まず、動詞について私が俳句からいろいろ学んでいることをお話いたします。私の最初の歌集『群黎』は、一九七〇年出版、解説を大岡信さんが書いてくださいました。当時僕は三十歳になるかならないかですけれども、大岡さんが、「こいつは俳句からたくさんのものを盗んでいる」と。現代短歌のなかで、特に俳句から強い影響を受けていると解説を書いてくれています。一つは、「切れ」ですね。俳句の「切れ」の感覚のようなものを短歌にどう持ち込むか。もう一つは動詞の問題と思います。つまり動詞が多いと叙述的、動詞が少ないと提示する。普通は散文が叙述ですが、叙述する詩なのか提示する詩なのか、どちらかというと提示派なんだと、そう言っておられるんだろうと思います。重信さんは「俳句はポインターだ」と言っておられた。猟犬にポインターとセッターといますね。俳句は「ここだ!」とポイントする。短歌はそうではなくて、セットしておいて、そこに獲物を追い込んでいく。そういう違いなんだということを言っておられました。これは同じようなことで、叙述が強いのか、提示が強いのか。一方だけではなく両方あるとは思いますが、どちらが強いかというと、僕は提示派なんだということを大岡さんは言っておられたんだろうなと、今になって思います。お手元の資料、源実朝から中城ふみ子まで、動詞を見てください。

おほうみの磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも 源実朝
 
たたかひを終りたる身を遊ばせて石群れる谷川を越ゆ 宮柊二

母の齢はるかに越えて結う髪や流離に向かう朝のごときか 馬場あき子

きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月 和泉式部
 
「この味がいいね」と君が言ったから七月七日はサラダ記念日 俵万智

春のめだか雛の足あと山椒の実それらのものの一つかわが子 中城ふみ子

 源実朝の有名な歌は、一首のなかに五つ動詞があります。「寄する・われる・くだける・裂ける・散る」、五つもある歌はないことはありませんが、かなり珍しい。それから宮柊二の歌、戦後復員し、戦争のときと全然違うかたちで生活があること、自然と人間との関係があることを詠った象徴的な歌として短歌の世界では有名な歌です。これは四つ動詞があるんですね。最後、これは動詞のない歌です。若いお母さんが自分の子供のことを詠んだ歌で、まったく動詞のない歌です。

 一緒に朝日歌壇をやっている高野公彦の『歌を愉しむ』という本に、「動詞の数を数える」という論文があります。どんな短歌があって、いくつぐらい動詞が使われているのかというのを洗い出した、なかなか面白い論文です。ここでどうやって動詞を数えるか、ルールを作っています。まず「連用形で名詞化した動詞は名詞とみなして数に入れない」。例えば、「枝垂れ柳」。「枝垂れる」は動詞ですけれども、連用形でそれが名詞化し、「枝垂れ柳」は複合名詞になっている、これは動詞に勘定しない。それから、「動詞が二つ続く場合、間に『て』が介在すれば、動詞はそれぞれ独立していると考え、二個と数える」。例えば「来て見れば」は、「来る」と「見る」という二個になる。次に、『「て」がなしで、動詞二個が繋がっている場合は、一つの複合動詞とみなす』。例えば、「萌え出ずる」というのは「萌え」と「出ずる」というのがセットになって一つの動詞だと考えて、二個には考えない、そういう約束です。

 もう一つ、「動詞が三つ続く場合は、一つの複合動詞と一つの単独動詞が結合したものとみなし、動詞数二個と考える」。高野君は、大岡信の『折々のうた』のなかに出てくる歌、短歌からピックアップして、それらの短歌に平均何個動詞が使われているかというのを計算しました。百ぐらいのサンプルをとって、ルールに則って計算した。すると、だいたい2.8個だというんですね。そしてどうも彼の勘としては、もうちょっと少ない方が、佳作の可能性が高いようだと。例えば彼が気に入った歌をいくつか抜粋して、それらの動詞の数を勘定して言っているわけです。高野君は俵万智を買っているわけですが、『サラダ記念日』は非常に動詞が少ない歌集だそうです。彼が選んだ部分を平均すると、一首に動詞が一個か二個が、非常に多いという結論を出していたようです。次に、動詞がまったくない短歌を選んでまいりました。

子爆弾官許製造工場主母堂推薦附避妊薬 塚本邦雄
ただに大きく四角くクレヨンの父の顔、父の顔とは私の顔か 佐佐木幸綱
追憶のもっとも明るきひとつにてま夏弟のドルフィンキック 今野寿美

最初の歌は、漢字ばかりの歌です。短歌でもこうして全部漢字の歌がけっこうありまして、斉藤茂吉も全部漢字の歌を作っています。僕の歌は、幼稚園で先生に言われてクレヨンで画用紙に描いて、持って帰ってきた父の顔。それを詠った歌で動詞がありません。今野さんの歌はなかなか印象的な明るい歌で、これも動詞がない。数えてみると、ないことはない。僕はかなり他の人よりは、動詞がない歌、あるいは一つしか動詞がない歌を作っている気がいたします。さて今日は、短歌の話に来たわけじゃない。俳句の方もいくつか抜粋してきました。

古池やかはづ飛び込む水の音   芭蕉
流れゆく大根の葉の早さかな   虚子
隠岐やいま木の芽を囲む怒涛かな 楸邨

これらは、動詞が一つしかないものです。「古池や」の句、「飛び込む」はさっきのルールで一つに勘定しました。「流れゆく」の句、これも動詞一つ。「隠岐や今」の句、これも一つですね。どうも俳句は、動詞一つというのが一番オーソドックスな形のような気がします。これを抜き出すために、僕と復本一郎さんと一緒に作った『名歌名句辞典』を参考にしました。動詞二つというのが次です。

田一枚植ゑて立ち去る柳かな  芭蕉
柿くへば鐘がなるなり法隆寺  子規
降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男

「田一枚」の句、「立ち去る」は一語です。「柿くへば」、「降る雪や」の句はいずれも動詞二つです。次が動詞のない俳句です。

夏草や兵どもが夢の跡    芭蕉
菜の花や月は東に日は西に  蕪村
これがまあつひの栖か雪五尺 一茶
吊り橋や百歩の宙の秋の風  秋櫻子
朝顔の紺の彼方の月日かな  波郷
一月の川一月の谷の中    龍太

先程言ったように動詞一個が普通ですけれども、動詞がない俳句というのは、俳句らしい俳句ではないかと僕は思います。みんな有名な俳句でしょう?動詞がないといかにも俳句っぽいですよね。全然短歌、川柳っぽくない。俳句らしい感じというのはやはり、動詞がない俳句ではないかと思います。勘定したことないですけれど、川柳は、かなり動詞で勝負してるんじゃないでしょうか。まったく動詞のない川柳というのは、どうなんでしょうか。興味のある方はぜひ、調べてみてください。
 そして、兜太さんの句を見てみました。これが、やっぱり随分違うんです。僕が今回発見したのは、兜太さんは一句の中に三つ動詞がある俳句がかなりある。これは他の人にはないんです。まったくではないですが、ない。

死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む  兜太
 富士を去る日焼けし腕の時計澄み
 生きるなり草薙ぎ走る山楝蛇

見てください。「死にし骨」の句は、「死ぬ」と「捨てる」と「噛む」ですね。「富士を去る」の句は、「去る」と「日焼けし」、「澄む」。他にもまだ兜太さんにはあります。兜太は俳人の中では、提示的よりかなり叙述的な部分を持っている、これが兜太さんの俳句の一種のダイナミズム、逆に言うと、俳句的でないところなのかもしれません。次に、動詞が多い俳句です。

木の葉降りやまずいそぐないそぐなよ 楸邨
泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む   耕衣

「降りやむ」は一語、「いそぐ」が二つ。これで合計三個です。次は永田耕衣の句、「浮く」と「居る」と「いう」と「沈む」、動詞四つは、多分『名歌名句辞典』にこの句だけではないかと思います。すごいですよねえ。提示するのではなく、叙述して、そして俳句的なものを追及している。実験的といいますか、普通の方とは違ったところを狙っておられたのかもしれません。やはり永田耕衣の句は、内容的なことだけでなく文章の構造としても、一般の俳句とは違うところを行っているんじゃないかと思いますけれど、この句は動詞の数を調べて、非常に特殊だと言っていいのではないかと思います。


【オノマトペ】

 次は「オノマトペ」、擬音語・擬態語です。これが問題になったのはそんなに古いことではなくて、七〇年代ぐらいでしょうか。七〇年代の終わり頃、私が『作歌の現場』という本を書きました中に、「オノマトペの先進地〈俳句〉」という章を設けました。当時は、「オノマトペ」と言うのか、「オノマトピア」と言うのかすら定着していない時代です。最近ではわりとこのことが短歌の世界ではいろいろ言われるようになりました。私と、それから去年亡くなった河野裕子さん、この二人が、短歌の世界ではオノマトペが多い人だ、というのが定評になっています。

俳句は口語と親しいからでしょうか、わりあい古くからオノマトペがたくさんあります。その中で僕が見たところ、一茶がまったく独走しているぐらい、素晴らしいオノマトペがある。しかもたくさんあります。先ほどの、「オノマトペの先進地〈俳句〉」と書いた前後に、私は万葉集の『東歌』という本を筑摩書房から出しました。万葉集の中では東歌が、非常にオノマトペが多いんです。万葉集の中で二三〇首ぐらい、日本海から太平洋に縦に、信濃川の最後から富士川の末端まで結んだ線より東の歌が入れられている、そういう特殊な巻です。これも金子兜太さんと、「東歌」のオノマトペと、一茶のオノマトペで、公開対談をしたこともあります。

馬ぽくぽく我を絵に見る夏野哉  芭蕉
 むめが香にのつと日の出る山路かな
 びいとなく尻声悲し夜の鹿    一茶
 白魚のどつと生るゝおぼろ哉
 雪とけてクリクリしたる月よ哉
 雁ごやごやおれが噂をいたす哉
 どんど焼きどんどと雪の降りにけり
 稲妻のうつかりひよんとした顔へ
 蜻蛉やはつたと睨むふじの山
 ざぶりざぶりざぶり雨ふる枯野かな

どれも有名な句ですけれども、「ぽくぽく」とか「のつと」というのがポイントになってますよね。「白魚」の句、これなんかすごいですよね。網から上がってきて、わっと放したような感じ。次の月の句と稲妻の句がすごいと思いますけれど、「雪とけてクリクリしたる月よ哉」。雪が上がったあと、かーっと晴れて出てきた月。空気がきれいになって、特に見えるんでしょう。「ごやごや」もすごいですよねえ。それからこれがすごい、「稲妻のうつかりひよんとした顔へ」。暗闇に、稲妻がパっと差してきて、クローズアップした顔。思いがけない顔が浮かび上がってきて稲妻に驚いている。これはなかなかのものですよね。「ざぶりざぶりざぶり」、思い切ってこれは、一句の半分以上がオノマトペになっている、そういう俳句もあります。

玉芒ぎざぎざの露ながれけり   茅舎
たらたらと日が真つ赤ぞよ大根引
よよよよと月の光は机下に来ぬ

近代では川端茅舎。「ぎざぎざの露」っていうのもすごいですよね。「たらたらと」、「よよよよと」、いずれも非常に自由な感じがします。俳句というのは非常に凝縮した美しさ、一種の緊張感が勝負どころですけれど、もう一つ、短い形式だけれど自由な感じがする。金子兜太の持ち味が一つそうだと思います。茅舎のこういう句はその点ですごいですよね。

次に、新興俳句の人たちは、オノマトペをお互いに影響し合ったのではないかと。この本を見ますと、京大俳句事件前後のかなり緊張した時期に、いい句がわっと出てくるんです。

 しんしんと肺碧きまで海のたび  鳳作
 交る蜥蜴くるりくるりと音もなし 楸邨
 切株のじいんじいんとひびくなり 赤黄男
 雪嶺よ女ひらりと船に乗る    波郷
 水枕がばりと寒い海がある    三鬼
 朧夜のむんずと高む翌檜     龍太

 本当にたくさんあります。今回いろいろ調べて、一句に三つ以上動詞がある俳句は、随分必死になって探したんですけれど、なかなか見つからない。でもオノマトペのいいのは、紹介しきれないぐらいたくさんあります。近代俳句のある部分はこういうオノマトペの見事なものを生み出した功績としてあるのではないかと思います。兜太さんのもいくつか抜いてきました。

 三日月がめそめそといる飯の粒   兜太
 涙なし蝶かんかんと触れ合いて
 きよお!と哭いてこの汽車はゆく新緑の夜中
 樹といれば少女ざわざわ繁茂せり
 ぽしやぽしやと尿瓶を洗う地上かな

 最後の尿瓶はお得意でありますけれど、この「地上かな」が勝負どころと思います。

さて、短歌ではどうか、最後にご紹介したいと思います。
 
下り尽す一夜の霜やこの暁をほろろんちょちょちょと澄む鳥のこゑ 北原白秋
完きは一つとてなき阿羅漢のわらわらと起ちあがる夜無きや    大西民子
べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊   永井陽子

 これは現代短歌で、「オノマトペの傑作」とレッテルを貼って、いろいろなところで宣伝している歌です。すずかけ並木を来る鼓笛隊がこうやっているのが、「べくべかり」というふうに聞こえてくる。そういうふうに言われてみると、うむ、そうかなあという気がしてくる、なかなかいい歌です。

鶏ねむる村の東西南北にぼあーんぼあーんと桃の花見ゆ    小西英之
白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる     俵万智
呼ばれたるわが名やさしもゆわゆわと内耳の奥の暗がりに消ゆ 河野裕子
しんきらり鬼は見たりし菜の花の間に蒼きにんげんの耳
サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず 佐佐木幸綱

 二十歳のころの歌です。これがけっこう有名になりまして、教科書に載ったりしている。女性から手紙が来まして、「この歌が大好きで、娘の『サキ』という名前を付けました」と。(笑)これはもう、自分史に残ることだなと、喜んだりしたことがありました。

満開の桜ずずんと四股を踏み、われは古代の王として立つ 佐佐木幸綱

 こういうふうに、俳句に比べると短歌の世界のオノマトペをご覧になると、大変数も少ないですし、貧弱なものです。近代だけを取り上げても、俳句の方がはるかにオノマトペの先進国であるというふうに私は考えております。
 
 今日は、私が俳句からどういうものを盗んでいるかということで、動詞の数、あるいはオノマトペはどうなっているか、私の作歌の参考にしようと発見をさせていただいております。お互いにいい栄養を取りっこして、いい作品を作っていければと思っております。今日はたくさんの方に聞いていただいて、ありがとうございました。(拍手)

俳枕 江戸から東京へ(55)

隅田川東岸/白鬚神社(しらひげじんじゃ) 
文:山尾かづひろ

白鬚神社




 








都区次(とくじ): 長命寺の次は寿老人の白鬚神社へ行きましょう。それにしても、ここの寿老人は寿老神として「神」の字を使っているのですが、どういう訳ですか?
江戸璃(えどり): 隅田川に七福神を仕立てたときに、近辺に寿老人を祀る寺が見当たらなくて、やむなく白鬚神社をその名称から寿老人に「こじつけ」た経緯があるのね、そこで隅田川七福神では、寿老神として「神」の字をあてているのよ。ちなみに「鬚」の字は「あごひげ」だから覚えといてね。
都区次:この神社の由来は何ですか?
江戸璃:今から千年余の昔の天暦5年(951)、慈恵大師(じえだいし)が関東に下ったときに近江国志賀郡境打颪(滋賀県高島市)琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚神社の分霊をこの地に祀ったことが、白鬚神社の始まりだそうよ。祭神は猿田彦大神他六柱なのよ。
都区次:その慈恵大師とは、どんな方ですか?
江戸璃:慈恵大師は本来の名前を良源(りょうげん)と言って天台宗の僧侶で、比叡山延暦寺の中興の祖と言われていた人なのよ。慈恵大師は朝廷から贈られた名前だそうよ。また慈恵大師は、角大師(つのだいし)と言う名前もあって、慈恵大師が鬼の姿になって疫病神を追い払った時の姿と言われているのね。角が生え、目がグリグリッと丸く、口が耳まで裂け、あばら骨が浮いて見えるのよ。この姿を描いたお札は、門口に貼る魔除のお札として知られ、鬼守りとも呼ばれていて、どこかで見たことがあると思うわよ。
徳川家康のブレーンだった天海僧正(慈眼大師)は、この慈恵大師を最も尊敬していたそうよ。天台宗ではこの二人を両大師と呼ぶそうよ。いま「おみくじ」を引く人が並んでいるわね。

福詣小さき宮居に列なして  大矢雪江

この日本の「おみくじ」の原型をつくったのが慈恵大師だそうよ。
都区次: よく寺や神社に「おみくじ」を置いてゆきますが、あれは何ですか?
江戸璃: 「おみくじ」は持ち帰って差し支えないのよ。寺や神社に置いてゆくのは、凶をとどめ吉に転じるようにお願いする意味があるのよ。「おみくじ」で凶が出たときに「利き腕と反対の手で木の枝などに結ぶ」という方法があるのね。これは困難な行いを達成することによって、吉に転じるように願う一種の修行的な発想なのよ。
都区次:白鬚橋の上から隅田川を見てみませんか。

川の杭余さず都鳥が占む  大矢白星

江戸璃:都鳥が飛んでいないで、ほとんど杭に止っているわ。疲れちゃったのね。アハハ。

都鳥













大寒の白鬚橋を渡り切り  長屋璃子(ながやるりこ)
大寒や白鬚橋の軋み初む  山尾かづひろ

尾鷲歳時記(52)

ミスとスミ
内山思考

 微笑んで僧の水洟光りけり 思考

灼熱の窯出し作業












「あ、しまった!」 紀勢新聞を読んでいて思わず声をあげた。毎年、自分のコラム「内山思考の四季即是句」に、頂いた年賀状の俳句をすべて紹介していて、今回も三十句ほど掲載したのだが、最後の和田悟朗さんの名が「悟郎」になっている。大体、アイウエオ順なのでいつも最初が青木健斉上人、とりが和田悟朗さんなのだ。ゲラを貰って一度、校正したにもかかわらず見落としたのである。

和田さんは自分の名前が誤記されることについて書いておられ(「時空のささやき・名前のこと」)、 僕はそれを読んだ時、世の中には何と無神経な輩がいるのだろうと嘲笑し、自分も「思考」を「思孝」と間違われるなどと文章にした記憶がある。なのに…嗚呼。和田さんも紀勢新聞の購読者である。すぐにお詫びの電話を入れると、「ハハハ、よく間違われるんだ。」と笑って下さった。そう言えば以前、「校正は神様にしか出来ない」と言っておられたっけ。

内山思考の四季即是句
左下が悟郎に
しかし、落ち込んではいられない。今夜はバイトで窯出し、つまり炭がまから備長炭を取り出す作業に行く日なのだ。車で約二十分走って隣の紀北町の山中へ、すでに親方が待っている。窯の入り口から炎が噴き出している。親方ことTさんは脱サラで炭焼を始めて二十年、自然回帰型の考え方には共感する部分が多く、一緒に仕事するのが楽しい。窯の内部温度は千度をゆうに超えるだろう。そこから真っ赤に焼けた炭を長いステンレスのフックで掻き出しては、灰をかけることの繰り返しで、五、六時間の体力勝負だ。辺りに民家は無いので星空がすぐ近くに見えるし、時折、森の中に鹿の目が光ったりもする。日付が変わる頃に帰宅、風呂に入ったら今度はノルマの新聞コラムが待っている。「さて、何書こうか」、睡魔を押し返しながら何とか七百字仕上げて就寝は結局一時だった。

私のジャズ(55)

ブルー・ノート
松澤 龍一

 BASSIE SMITH THE COMPLETE RECORDINGS VOL.1
(SONY SRCS 5505~5506)













「ブルー・ノート」と言うと、ハード・バップ全盛期のレコード会社とか日本にあるジャズ・クラブを思い浮かべるが、元々はブルー・ノート・スケールのことである。ブルー・ノート・スケールとは西洋音楽の音階の長調の三度(ミ)、五度(ソ)と七度(シ)が半音下がる、ドレミ(b)ファソ(b)ラシ(b)ドと言う音階のことである。半音下がる(実際にはきっちりと半音では無いらしいが)ことを音がブルーになるとでも言うのだろうか。

このブルー・ノート・スケールに基づいた音楽がブルースと呼ばれるもので、アフリカより連れられてきた黒人が、その血に流れる彼の地の音調を耳から入った西洋音楽の音階に混ぜながら、口ずさんでいたものだと思う。従って、西洋音楽の長調でもなく短調でもなく、物悲しいようであって、物悲しくは無く、明るそうであって、底抜けに明るくは無く、一種独特の情感の漂う音楽になって来る。

ブルースの皇后と呼ばれたベッシー・スミスのブルースを聴いてみよう



ブルー・ノートに関しては1960年代に、当時新進気鋭のジャズ・ピアニストであった山下洋輔がジャズの専門誌に寄稿した「ブルー・ノート研究」と言う小論文がある。残念ながら現在手元に無いが、そこに書かれていたことで頭に残っているのは、よく子供の頃に「何とかちゃん、遊びましょ」という言葉、その言葉の音程は西洋音楽に無いもので、ブルー・ノートもかくの如く音の一種の訛りのようなものだと言うことである。西洋音階に対するアフリカの訛かと妙に感心した覚えがある。

南部の綿花畑や作業現場や台所などで、黒人たちに口ずさまれてきた歌はやがて、都会に流れ、南北戦争後に流出した西洋の楽器でも演奏されるようになり、いつしかジャズと呼ばれるようになる。まさにジャズとはブルースの都市化、器楽化であった。